VALLEYS・・・震撼となるような峡谷からの発案であり、共感しうる心象を抱いての制作である。
圧迫感や閉塞感は孤立した自身の立ち位置を決定づける。臨場感と換言してもいいかもしれない。存在することの恐怖でもある。
生命あるものの存在は不動ではなく、時空を切り抜けるエネルギーを持つものである。それは重力下においては、地を這う動向に限られるので、進むことでしか未来への方向性はない。
つまり不可逆であるが、作家はこのVALLEYS(複数)を二本の道として制作している。
一本ではない。まさか巡回などではあろうはずもなく、自身と他者・・・一人一人、各自道があり、その時空は他者を拒否するものであり、共存ではない。しかし、一本であってもこの意味を含むものとして美術館の庭への設置(残存)を承諾・希望したのではないか。
前へ進むという方向性の示唆しかないVALLEYS、両側は硬質の切り立った鉄の壁である。逃避の手立てを見いだせない。打たれた杭、接合の鉄板は連続を思わせるが不連続であり、歴史や生活の刻印として記号化されている。
鉄という素材は人間的な感情を払拭する。喜怒哀楽は霧消し、単なる形の変異として記録されるのみである。
鉄板で谷を被う・・・谷(自然)を模しているのだろうか、否、谷(自然)を超越した無機的な風景を作ることで、歴史的な時間、人の系譜・・・今であり過去であり未来をも包括するような空間のうねりを潜在させているのではないか。鉄の持つ永遠性、酸化されるが還元される時間を有している素材である。
写真は『若林奮 VALLEYS』展・図録より 横須賀美術館
秋山は煙草を銜えて横になった。右の手で頭を支えて大津の顔を見ながら眼元に微笑を湛えている。
☆終(死)に算(見当をつけた)縁(関わり合い)が総てである。
往(人が死ぬ)幽(死者の世界)の衆(人々)を祷(祈る)詞(言葉)がある。
他意は真(まこと)の願いを兼ねて現れる。
備(あらかじめ用意した)章(文章)が腎(かなめ)である。
Kは、何度もそうたずねたが、なかなか答えが得られなかった。なぜなら亭主夫婦にすれば、Kの罪はあまりにも自明のことで、Kがまじめに質問しているとはとうてい考えられなかったからである。
☆Kは何度も質問したが、長いこと判らなかった。それらの罪は存分に承知していたが、とうてい信じるには至らなかった。