半円形のガラス板の中の偽空間、描かれている図版はあたかも正確に見えるが微妙に歪んでおり、水車の心棒も宙に浮いている。心棒は水平なのに水車の方は斜めであるし、囲んでいるように見える柵も意味を成していない。
水車の回転のイメージと半円形のガラス板の回転はあたかもリンクしているように感じるが、関連はなく、半円形のガラス板が回転すれば、描かれた景色は鉛線の不透明により見えなくなってしまう。つまり存在を失うということである。
そしてこの全体が《器具》であるという。
静止状態では不完全な水車らしきものの図版、作動状態(回転)では内在を消し球体を想起させる。この作品の本質はどこにあるのだろう。
《不完全さの隠蔽》だろうか。
生産と消費、需要と供給の関係で生活は成り立っている。この作品の形成にそれらに触れる条項はあるか…無用の長物。換言すれば《意味の剥奪》である。
存在価値を問えないもの・・・あらゆる方向から見分しても価値を問えない対象を現前させるという徒労。
生きることの徒労、虚無・・・自嘲の表明である。
写真は『DUCHAMP』より www.taschen.com
絶えず甲板の上に出て将来の夢を描てはこの世に於ける人のみの上のことなどを思いつづけていたことだけは記憶している。
☆舌(言葉)の講(話)は反(元に戻る)。
照(あまねく光が当たる=平等)を推しはかることが衝(重要な)記である。
謀(計画)は平(平等)の精(心)で和(調合する)図りごとである。
新しい章(文章)の試みは、奇(珍しい)憶(思い/考え)である。
もしそれができるものなら、これは信じてくださってよいことですが、お役人がたは、はかりしれないほど思いやりのふかい人たちですからね。
☆もしそれができるなら確実にそうなるでしょう。
そして、その場合、何とかしてそうなったことでしょう。
大勢の人たちは途方もなく優しいのですから。