『ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?』
見たとおりの不用品である。
善でも美でもないが、たしかに真(実在)ではある。不要の長物、拒否を前提に創ったのかもしれない。
負の要因、負の領域・・・可視でありながら不可視な世界を誘引している。
有効性の欠如、日常は有効性を求めている。不要なものは日常から除外する、それがまっとうな生活者の在り方だとさえ言える。
何故?当然わきおこる疑問。何故くしゃみをしない?
生理的な反応・・・常識、概念を外したありのままの素の反応を求めている。
鑑賞者は正当と思われる概念の集積、少なくとも常識人であるという自覚を持っている。従ってこの作品を《不要物》と認めざるを得ないのである。
逆に、何故この作品だったのかを問いたい。なぜだと・・・。
存在価値の無いものに対する反応、温かい眼でかばうなど考えられないことに対する静かなる抵抗であり、消去すべきものという判別に対する反逆である。
ローズ・セラヴィは、デュシャンに内在するものの呼称である。そのローズ・セラヴィに問いかけている、つまり自分自身への問いである。
「ローズ・セラヴィよ、何故自身を現さないのか」『わたしはここにいる!』という表明・叫びではないか。
『ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?』はデュシャンの言明、存在証明である。
写真は『DUCHAMP』より www.taschen.com
忘れて叶うまじき人といわなければならない。そこで此処に恩愛の契りもなければ義理もない、ほんの赤の他人であって、本来をいうと忘れて了ったところで人情をも義理も欠かないで、しかも終に忘れて了うことのできない人がある。
☆亡(死)の教(神仏のおしえ)が腎(かなめ)故に、諸(もろもろ)を隠して相(互い)を継(つないでいる)。
疑うと、裏(反対側)の釈(意味を明らかにする)他の腎(かなめ)がある。
翻(形を変えてうつす)記には、亡(死)の霊(死者の魂)が認められる。
常に疑い、裏を決(立ちあげ)修(ととのえる)。
亡(死)の霊(死者の魂)の奇(風変わりな)図りごとである。
もしお役人に呼ばれたのであれば、指定された場所に出頭しなければならないのは当然です。しかし、あなただって十人なみの常識ぐらいはお持ちでしょうから、
☆先祖の大勢の人たちの召喚は、自然な場所への召喚でなければならない。しかしながら常に知られたとおりである。しかし彼らにも、少なくとも普通の人間の知性はあるでしょう。