自転車の車輪。パーツであり、この物だけでは役に立たず、無意味な代物にすぎない。製品というものは需要と供給の関係で成立するが、いずれにも抵触せず、孤立の状態である。
真であり善であり美であるという条件にも該当することなく、ただ存在するだけの既製品のパーツである。
この車輪の特質と言えば、《回転する輪》であるくらいで、その回転も生産性のない空転にすぎない。
この空虚や空漠に対峙する精神、この車輪との距離にある空間の親さ、有無を言わせぬ哀しみや滑稽が存在の本質に酷似するのではないか。
ただ在るだけの静謐な空気。
円環(自転車の車輪)は遥かな宇宙の始まりさえ想起させる幻想の引き金を内包する。膨大な時間軸の一刹那であり、核ともなりうる。
白い丸椅子は必須の台座であり、この車輪を捧げ持っている。存在の解放(膨張)と拘束(収縮)、始まりと終わりを秘めた幻想の世界。
自転車の車輪に存在論を重ねたデュシャンの解答である。
写真は『DUCHAMP』(ジャニス・ミンク) www.taschen.com
麓は直きそこに見えていても容易には村へ出ないので、日は暮れかかるし僕らは大急ぎに急いで終いには走って下りた。
☆録(文字に書き記した)自記が現れる。
要は委(なりゆきにまかせ)、存(考え)を推しはかる。
化(教え導く)簿(ノート)の目(ねらい)には他意がある。
求め、究(つきつめ)、修(整えると)、総て解(わかる)。
この点でいくらか経験をつめば、これに似たようなことは二度と起こらないでしょう。もしかしたら、わたしは、尋問というものをまじめに考えすぎているのかもしれませんが、このこと自体は、けっして短所とは言えないでしょう。
☆そこで似たような経験をつめば、再び起こらないでしょう。ひょっとしたら尋問を重要に捉えているかもしれません。
しかしながら、小舟は不利益なのです。