このボトル・ラックの形、何とも均整がとれ円光のようである。並べて均等に配置された瓶の差し入れ口は斜め上方を向きエネルギーを感じさせ、上に延びていく様は風が吹いてもビクともしない頑強な塔である。
祈り、あるいは祀りを彷彿とさせるこのボトル・ラックにデュシャンは魅せられたのではないか。
この物の用途はボトル・ラック、名前が示す通りの生活雑貨であり、生産者(制作者)の意図は明確である。もちろん生活は人生の要であり美的要素は望むところである。そしてボトル・ラックという命名がある以上、その範囲でボトル・ラックを感受、受け入れるに違いない。
しかし、デュシャンは、その用途を度外視した観点で心を動かされたに違いない。
第三者的立場、誰もがそう感じるであろうという想定内の感想は言葉によって促される場合が多いし、順当である。
デュシャンが私的感想(感動)を抱くときの通常(観念的見識)との差異。
《主観と客観》の間の時空を計る、その差異ある空間こそが『ボトル・ラック』の真の提示である。
写真は『DUCHAMP』(ジャニス・ミンク) www.taschen.comより
振り向いて西の空を仰ぐと阿蘇の分派の一峰の右に新月がこの窪地一帯の村落を我物顔に澄んで蒼味がかった水のような光を放ている。
☆新しい講(話)の済(救い)は句(言葉)で行う。
吾(わたくし)の素(もとになる)文を把(手につかむ)。
逸(隠れた)法(神仏の教え)である。
幽(死者の世界)を審(正しいかどうかを明らかにし)合わせる話である。
字に逸(隠れている)他意が存る。
我(わたくし)の打つ(述べる)願いは徴(過ちを繰り返さないようにこらしめる)である。
総ての魅(死者の魂)を推しはかる講(話)は、法(神仏の教え)である。
(だから、わたしのような者が尋問を受けて参ってしまうのは、当然でしょう)、眠りこんでしまって、書類分配のときもずっと眠ったきりでおられました。
☆いかに欠点をなくしていくかは当然でしょう。眠りこみ、追いだされるときでさえも眠っていたのですから。