ボトル・ラックである。使途は明確であり、その範疇で製造・選択されるべき製品である。
しかし、その概念を外してこれを見ると、中心から放射状に延びた手、ゆるぎなく安定した台座の形は美しく、塔のようにさえ見える。和的に考えると五重塔(地・水・火・風・空)である。
しかし、これはあくまでも『ボトル・ラック』であり、それ以外の何物でもない。
否定しても肯定せざるを得ない命名がある。
『ボトル・ラック』への逡巡は個人的感想に過ぎないかもしれない。
客観的事実から主観的観察、そして客観的事実の重さ、それを否定する主観的感動・・・客観と主観には距離がある。背中合わせという単純さはなく、対象における観察には大いなる時空が存在するということである。視覚における感知には誤作動が生じる。そこで修正という作用が働くが、強い認識(主観)は概念(客観)を揺さぶり、正しい判断を妨げてしまう。
正しい判断とは何かという混迷はデータの集積による客観的事実に押し任されてしまう。故に『ボトル・ラック』はボトル・ラックであり続ける。
主観は客観に隠れ、客観は主観を内包している。
写真は『DUCHAMP』(ジャニス・ミンク) www.taschen.comより
二人は気がついて直ぐ頭の上を仰ぐと、昼間は真白に立ちのぼる噴煙が月の光を受けて灰色に染って碧瑠璃の大空を衝ているさまが、いかにも凄じく又た美しかった。
☆字で認(見分ける)奇(風変わりな)自記を問う。
常に講(話)は、衷(こころのなか)で換(入れ替わる)。
新しい魄(たましい)を留め、分(見分けること)と掩(隠すこと)を合わせた講(話)である。
寿(命)を解(さとる)私記は、選(えらんだもの)を闢(ひらき)留める理(道理)である。
他意の句(言葉)の章(文章)を省(注意して見ると)、幽(死者の世界)を備(あらかじめ用意してある)。
わたしだって、ああして眠ってしまうチャンスがあれば、よろこんでそれを利用したでしょうし、見てはならないものを見るような真似はしなかったでしょう。わたしは、実際はほとんどもう眼も見えないくらいだったのですから、見ないですますことぐらい容易なことだったのです。ですから、感じやすいお役人たちだって、平気で姿をお見せになることができたんですよ。
☆先祖に可能性があれば、喜んでそうしたでしょう。でも、すべては考えられない諦めの一瞥、この認めることの出来ない軽い埋葬を認めることができません。だから、敏感な大勢の人たちも恐れることなく姿を現したんです。