『雰囲気』
「雰囲気」とは形象を伴わない気分や感じのことである。その目に見えない物を目に見える形態に置換するという観念的には受け入れがたい実験/試作に鑑賞者は戸惑いを隠せない。
誰も見たことのない風景を提示してみせる作品を前に、疑惑は消しがたく肯定は不本意でる。
しかし、確かに対象との距離(空間)において何らかのざわついた障害を感じることがある。もちろん目に見えることはないが、対象との間には、妨げになる些細な突起、あくまで感覚的な印象に過ぎないものを感じている。
それは問われることも答える義務も生じないので無に帰す曖昧な情感として処理されてしまう。換言すれば、時間の圧力ともいうべきものの作用が視界を浄化させ、不穏な重さを払拭してしまうのかもしれない。
極めて厳密に時間を停止させ、視界を超スローモーションにし、感覚作用を併合させて見れば、見えなかった景色が物量を伴って《自分と対象物との空間》に現前としてくるのかもしれない。
作品は、個人的な感想(雰囲気)であり、千差万別である答えの一端、可能性としての提示である。
(写真は横須賀美術館『若林奮VALLEYS』より)
まちなみのなつかしい灯とおもつて
いそいでわたくしは雪と蛇紋岩との
山峡をでてきましたのに
これはカーバイト倉庫の軒
すきとほつてとめたい電燈です。
☆陽(太陽)の説(話)である。
邪(疑問)を問う。
眼(かなめ)の太陽は、経(常に)総ての教(神仏のおしえ)である。
確かめて伝えるのは、等(平等)である。
そうでなければ、なぜフリーダのところへとっとと行ってしまわんかったのかね。どうだい、フリーダに惚れているのかね」
「惚れているかですって」と、イェレミーアスは言った。
「あれは、気だてのいい、利口な娘です。クラムの昔の愛人だった。だから、どのみち尊敬にあたいする娘です。
☆なぜ、きみはフリーダ(平和)のところへいかなかったのか。
「フリーダ(平和)を愛しているのか」「愛しているかですって?」イェレミーアスは言った。
「あれはよくできた寓話です。クラム(氏族)の愛するものであり、昔から尊敬すべきものなのです。
『自分のほうへ向かう犬』
自分と犬との距離を測る・・・自分のほうへ向かって来る犬との時空は、取るに足らない瞬時だという感想を持ち、その空間を質量に変換しようなどとはあまり考えない。
それは常に人間が主体で、犬は従うものという観念から来ているのかもしれない。
自分に対峙する犬の存在を同等に考えれば、厳密に測れる時空の重さというものがあるはずで、それは犬との距離(空間)にも同じことが言える。
自分の視界、見通せるものとの距離を見えないものであるゆえに(無)という感覚を抱いているが確実に(有る)ものとして物量に置換するという実験的な作品。
作品は角柱の上に頭部を見せているが、身体は角柱のなかに在り、角柱には傷や凹みなどが付随している。要するに平板ではない複合的な抵抗が自分と犬との間に存在しているということである。
見えないもの(空気)に抵抗を感じていないが、逆に言えば、生物(とりわけ動物)は、それだけのエネルギーを有しているということである。
作品における空気抵抗(距離)の物量化(質的変換)は、衝撃であり、生命の基本を問い直すものである。
(写真は横須賀美術館『若林奮VALLEYS』より)
野はらのはてはシベリアの天末
土耳古玉製玲瓏のつぎ目も光り
(お日さまは
そらの遠くで白い火を
どしどしお焚きまさいます)
笹の雪が
燃え落ちる 燃え落ちる
☆野は(相当する /野はらのはては)→総て套(被われている)也。
天罰の図りごとは、字により、個(一つ一つ)の玉(美しい、優れている)精(こころ)が、霊(死者の魂)の糧(物事を養い育て支えるのに必要なもの)を黙って考え、化(教え導く)のと同じであると吐く。
過(あやまち)を憤(いきどおる)些々(ほんの小さな)説(ものがたり)である。
捻(ひねって)絡(つなぎ)念(考え)を絡(むすびつけている)。
「いったい、あなたは」と、イェレミーアスは言った。わたしがそんんことをちょっとでもこわがっているとおもっているんですか」
「おもっているだろうね。たしかい、きみは、いくらかはこわがっている。そして、きみが利口であれば、ひどくこわがっているにちがいないさ。
☆「本当ですか」イェレミーアスは言った。
「わたしがそれを少しでも恐怖に感じているとでも?」「わたしはそう思う」と、Kは言った。「きみは確かに少しばかり恐怖に感じているが、死は恐怖(畏敬)である。
『新100線 No.70』
蓋付き缶ケースの底に固定された帯状の線(金属)。
蓋を閉めればその線条は見えず、無いに等しい。
動かし難く存在しているが、蓋さえ開けなければ人の眼に触れることもない。何の変哲もない100(数多)の線条の一端、見えてる景色ですらその時点で過去になり、胸の内に封じ込められてしまう。
時空の決定は変換不能であり、常に揺れ動く内実を持っている。それを質量に置換する時、与えられた自由と観念の束縛がせめぎ合うことは必至であるが、若林奮は一つの尺を決め、それに基づいた答えを追及、あるいは探求している。
決定の核への近似を試作追究しており、個人的な感想(作品)は常に普遍を意識している。
作品は、凝縮した形態としての一つの選択である。
(写真は横須賀美術館『若林奮VALLEYS』より)