絶えず甲板の上に出て将来の夢を描てはこの世に於ける人のみの上のことなどを思いつづけていたことだけは記憶している。
☆舌(言葉)の講(話)は反(元に戻る)。
照(あまねく光が当たる=平等)を推しはかることが衝(重要な)記である。
謀(計画)は平(平等)の精(心)で和(調合する)図りごとである。
新しい章(文章)の試みは、奇(珍しい)憶(思い/考え)である。
もしそれができるものなら、これは信じてくださってよいことですが、お役人がたは、はかりしれないほど思いやりのふかい人たちですからね。
☆もしそれができるなら確実にそうなるでしょう。
そして、その場合、何とかしてそうなったことでしょう。
大勢の人たちは途方もなく優しいのですから。
『近接する金属の中に水車のある独身者の器具』
ほとんど意味不明のタイトルである。
金属(金・銀・銅・鉄・アルミニュウムなどの金属元素、およびその合金の総称)は何に近接されるのか、金属が何かに近接するのかが不明である。
金属(固体)の中に水車があるとして・・・見えるだろうか。(見えているかの作品である)
しかもそれらは、独身者の器具だという、独身者の器具などというものとは何だろう。独身者とはカップル(男女)でなくそれぞれであるとしても、男・女であれば並べてみんなに共通する。
器具に至ってはますます対象物が定まらない。
作品は透明ガラスを鉛線で囲い、中に水車らしき図を油彩で描いている。しかし、水車に安定はなく、水(川の流れ)もない。
鉛線は半円形であり、回転の仕掛けがあるので、球体の想起が可能であるが、この作品を回転させた時に見えるものは、水車らしきものの消失である。
この作品に見える対象物は、回転を誘導する装置によって、対象を失うという仕掛けである。
タイトルと作品は確かに存在するが、その世界に一歩でも踏み込もうとした途端《霧消》を余儀なくされる。
『存在するが、非存在である』そういう実態のない不思議な時空を持つ驚くべき作品である。
写真は『DUCHAMP』より www.taschen.com
「ただその時は健康が思わしくないから余り浮き浮きしないで物思いに沈んでいたに違いない。
時はジと読んで、二(弐)。
健康はケン・コウと読んで、兼、講。
思わしくはシと読んで、詞。
余りはヨと読んで、予。
浮き浮きはフ・フと読んで、普、二。
物思いはブツ・シと読んで、打つ、詞。
沈んではチンと読んで、陳。
違いないはイと読んで、委。
☆弐(二つ)を兼ねている講(話)である。
詞(言葉)は予(あらかじめ)普く二つを打つ(語る/述べる)。
詞(言葉)を陳(並べ)委(成り行きに任せる)。
ところが、あなたの振舞いときたら、せっかくの予防策を頭からばかにしたようなものじゃありませんか。幽霊だって、朝になったら消えていきますよ。だのに、あなたは、両手をポケットにつっこんだままいつまでも残っていらっしゃる。まるで自分は退散しないで、あの廊下が部屋とお役人もろとも退散してくれるのを待っているかのようにね。
☆Kの考えを取り下げることはすべての予防措置を嘲笑されたも同じです。幽霊さえ朝には見えなくなります。しかしながらKは共同体の判断は誤りであり、あそこ(来世)に死のテーマ(問題)が除去されることがないので、大勢の人たちは(その問題が)除去されるのを待っているのです。
数多(152個)の角砂糖型の大理石が、サイコロと違うのは数字(差異)がないことでどこに転がしても同じ面が出ることである。球体でもよかったかもしれないが、積み重ねられる光景にはならない。ランダムに見えながらも上部に重ねられていく形であり、一種の社会形成に似るかもしれない。小さな鳥かごの中の社会にも生(体温計)と死(イカの甲)が密着している。
全体、何かの役に立つ、有用とは認めがたいものである。卑下、謙遜だろうか。
虚しさに満ちている。
しかし、破壊しがたい硬度をもつ大理石、空、風、水、火にも強く、地にも混ざることはない石であることは要である。
小さな鳥かご(狭い社会)数多の角砂糖型大理石(実は少数派)であるという自嘲に、大理石であるという自尊心をこめ、わたくし(DUCHAMP)を表示したのではないか。
「何故くしゃみをしない?」は禁忌の胸の内である。
写真は『DUCHAMP』より www.taschen.com
多分僕に茶を注いでくれた客もあったろうし、甲板の上で色々と話しかけた人もあったろうが、何にも記憶に止まっていない。
☆他の文は目(ねらい)を査(明らかにし)、注(書き記す)規約の講(話)である。
判(可否を定めること)が、常に続く私記を和(調合する)。
腎(かなめ)は、化(教え導くこと)が基(土台)である。
臆(胸の内)を試みている。
夜の尋問はねーと、Kは、ここでまた夜間尋問の意義について新しい説明を聞かされることになったーお役人がたは陳情者を昼間見ることに耐えられないので、夜間に人工の光のもとでてっとり早く片づけてしまおう、そうすれば、尋問のすんだあとすぐ眠って不愉快なことをみな忘れてしまえるだろうと、まあこんな目的があるのです。
☆小舟の審問はーと、Kはここで先祖の新しい解釈の感覚、新しい目的を抱いた。
関係者は大勢の人たちの光景を完全に理解することができないので、可能性として死を無理に作り出した光で審問してしまい、そうして、すべての不快な眠りを忘れてしまうのです。
断定はない、断定する必要がないからである。
鳥かご(世界)は上部が開いている、解放されている。自由であるが、ここ地球という重力下では飛翔は難しく、地上の人であるのみである。
角砂糖型の大理石は純白であり画一的である、つまり擬人化されたそれは、等しく同じ(平等)な存在である。イカの甲(死)は等しくすべてを被っているが体温計(測る温もり)があるうちは生命が保証されている。
小さな鳥かごの中、換言すれば地球全体が鳥かごなのだ。
一人は世界であり、世界は一人である。世界の中心はこの鳥かごにあるとさえ言える。
哀しいか?いいえ、愉快であるが、並べてイカの甲(死にゆく)存在である。この前提は崩し難い。生きて在ることの混沌、これがわたし達の世界である。
大義は狭義、教義は大義に通じる。
《わたし達はすべからく等しい人間である》これが絶対条件である。
しかし、あえて言うならば、隔てられた意識を有する少数派の人間かも知れない。
わたし(デュシャン)の中のローズ・セラヴィよ、何故くしゃみ(生きて在る表明)をしない?
ずっと、問い続けている・・・。
写真は『DUCHAMP』より www.taschen.com
大阪から例の瀬戸内通いの汽船に乗って春海波平らかな内海を航するのであるが殆んど一昔も前のことであるから、僕もその時の乗合の客がそんな人であったやら、船長がどんな男であったやら、茶菓を運ぶ船奴の顔がどんなであったやら、そんなことは少しも憶えていない。
☆他意の判(区別をする)。
霊(死者の魂)の世を図る。
題(テーマ)h¥が二つあり、記は遷(移りかわる)。
常に駿(すばやく)解(部分部分に分け)破(これまでの状態・形を崩す)。
蔽(見えないようにした)題(テーマ)は回(もとに換える)講(話)である。
他意が逸(隠れていること)の釈(意味を解き明かす)。
全ては二つを目(目当て)の字を常に合わせて書く図りごとである。
千(たくさん)調べ談(話)を査(明らかにする)。
化(形、性質を変えて別のものになる)薀(奥義)には千(たくさん)の努(力を尽くす)。
眼(かなめ)の衝(重要なところ)は臆(胸の内)にある。