思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「冒険する頭」

2006-10-13 | 書評

以下は、世界に先駆ける厳しい排ガス規制=51年(1976年)規制を自動車メーカーとの凄まじい闘いによって実現させた科学者が書いた本(「ちくま少年図書館」74:絶版)から一部を抜粋したものです。

非・専門家として日本で始めて自然環境改善の実践的研究に取り組んでいた著者の西村肇さんは、東京都の美濃部知事の依頼で集められた自動車の専門家ではない「七人の侍」のひとりとして、排ガス規制を実現させましたが、その渦中で、大学と政府(環境庁)と自動車メーカーから激しい非難を浴びました。かれら「七人の侍」は悪評とバッシングに屈せず、メーカーに低排ガス・省エネのエンジンをつくらせることに成功し、その結果1970年代半ば以降、日本の自動車メーカーは、貿易摩擦を引き起こすほどにまでに(笑)業績を伸ばしたのです。


以下、書き出しの部分=「なぜこの本を書いたのか?」からの抜粋(編集して)です。


『 私は研究する人に必要なのは、モノに対するセンスと知的好奇心だと思う。
これは学校教育で育つものではなく、家庭環境・友人環境に負う。

モノに対するセンスは、小さいときからモノをいじっているかどうかで決まるので、ものをいじる父親かどうかが大きく影響する。

知的好奇心は、自分の中にふたりの自分がいて、とめどもない対話を展開していくことが必要で、そのためには、現実に誰かとそういうおしゃべりをすることがよい手がかりとなる。
考えるということ自体が、自分との対話であり、対話の嫌いな人は考えることも嫌いなようだ。そういう人にとって結論は明らかで、議論する必要はないのだが、受験秀才は、だいたいこういうタイプだ。
科学は対話だ。したがって、科学者の仕事の大事な部分は、しゃべること、しゃべる中で考えることなのだ。

対話の習慣は、私の場合、父親の影響が大きかった。比較的仕事がひまだった父親は、レコードを聞いたりしながらしゃべるのが好きだった。有名人に対する批評、歴史の話、時事問題、戦争の状況に関する解説で、これらはどれもこれも学校で聞く話と逆さまだった。
父親たちは今よりだいぶ余裕があり、忙しいなどというのは、紳士として恥ずかしいことだった。戦後、みながきそって働きまくるようになると、こういう対話が難しくなった。

いまの学生を見ていると、そういう話をしてあげる人が必要だと思う。父親のことばで話してあげる必要がある。父親のことばというのは、学校の先生から聞く模範解答のようなおもしろくもおかしくもない話ではなく、少しくらい独断と偏見に満ちていてもいいから、ひとりの人間の体験に根ざしたホントウの話、ホンネの話という意味なのだ。 』


 少し難しいですが、☆武田の書いた「主観性の知」(クリック)についてもぜひ再読願います。

(写真は、アインシュタインの少年時代ー妹のマヤと)





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『哲学者の誕生』―ソクラテスをめぐる人々(納富信留著・ちくま新書)

2006-09-01 | 書評
[推薦図書]

『哲学者の誕生』―ソクラテスをめぐる人々
ちくま新書・ (2005年8月刊・945円)

一年前に本書が出たときに簡単に紹介しましたが、改めて推薦図書としてご紹介します。

哲学の単なる研究論文―大学で職業としての必要から書かれる論文ではなく、哲学することを自らに課して書かれた書物は、極めてわずかしかありませんが、本書は、その極めてわずかな部類に属する良書です。

この書は、日本におけるソクラテスについてのはじめての本格的な研究書と言えましょう。従来、ソクラテスについては、おもにプラトンの対話篇を通してさまざまに語られてきましたし、また、一部にマニアックな閉じた叙述による研究書はありましたが、その思索の実像に迫る有意味な書物は、わたしの知るところ皆無でした。

生きた言葉に満ち、ソクラテスの思索の本質に迫る本書は、間違いなくソクラテス研究の新たな基準=始発点になることでしょう。事実学の次元ではなく、本質論―意味論としてソクラテス恋知(哲学)の全体像に迫る本書は、一般にひろく読まれる価値を持ちます。
ここで論証されている「『無知の知』は誤読である」とは、ソクラテス思想の真髄を知るための鍵です。

「哲学はいつ始まったのか? 最初の哲学者は、ソクラテス――あるいは、タレスやピュタゴラス――というよりも、彼と対話し、その記憶から今、哲学を始める私たち自身でなければならない。
哲学は、つねに、今、始まる。」(本書末尾―305ページ)

まったく同感、その通りですね。国や時代や立場を超えた普遍的了解性を生み出すための営みと、個人の実存的真実を掘り進める営みとはひとつメダルの表裏で、それを恋知(哲学)すると呼ぶのですから。私は、すべてを「永遠の相の下」に見、「響きあう実存=響存」として生きたいと思っています。「ナショナリズムと天皇制こそ国の根幹」などという想念しか持てない人間(たとえば安倍晋三)では、哀れです。

(ただひとつ、本論には直接関係しませんが、哲学館(現・東洋大学)創設者の井上円了を国粋主義者と規定しているのは間違いです。訂正されることを望みます。)

武田康弘



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深く感動的な名社説ー今朝の東京新聞ー破れる前に目覚めよ。

2006-02-05 | 書評

戦艦「大和」に散った人たちの悲痛な叫び声が聞こえます。

「負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。敗れて目覚める、それ以外に日本はどうして救われるか。今目覚めずしていつ救われるのか・・」(臼淵磐大尉)

という書き出しで始まる今日の東京新聞の社説は、頭脳を感動させることで、涙さえさそう見事な社説です。

昭和初期、革新官僚と呼ばれた人たちが日本を次第に泥沼に引きずりこんでいった歴史の真実を思い起こし、改憲・改革の集団催眠からさめ、「今度こそ破れる前に目覚めよ」の声を聴こなければ、とい結語に至る「論説」をぜひご覧下さい。

ココをクリックすれば出ます。


武田康弘


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問題提起としての書評ー「公共哲学とはなんだろう」桂木隆夫著

2005-11-09 | 書評

以下は、「公共的良識人」紙12月号掲載予定の書評(4600字)です。公共哲学を、単なる「公共学」という社会学ではなく、哲学(恋知)にまで鍛えるために、「問題提起としての書評」を書きました。シリーズ「公共哲学」(東大出版会)の編者ー金泰昌(キムテチャン)さんからの依頼によるものです。日本社会に最も欠けている「差異」の尊重に基づく忌憚のない「対話」、そこからしかほんものの思想は生まれないと確信するがゆえの生産的な批判です。

==問題提起としての書評==
「公共哲学とはなんだろう」桂木隆一著けいそう書房・2005年9月刊) 

 著者の桂木隆夫さんが「公共哲学とはなんだろう?」と自問自答することで生み出された本書は、平易で丁寧な叙述を特徴とします。

 法哲学や公共哲学を論じるに必要なさまざまな思潮が取り上げられていますが、哲学的にはヒュームを中心とするイギリス経験論を基盤にしていることは一読すぐに分かります。大陸の合理論―ルソーやカントにも言及され、現代言語論の成果も背後には見えますが、それもまた経験論の視点から解釈されたものです。そこに本書の魅力もまた若干の物足りなさもある、と私には思えます。
 
 私は、著者と同世代(私が一才年少)ですが、著者とは全く異なる人生を歩んできました。「私塾の精神」による教育を仕事とし、現実の只中で哲学する者としての生を貫いてきた私と、大学の中で法哲学や公共哲学を教授してきた桂木さんとは、好対照です。

 さて本題ですが、桂木さんの結論は、おおむね妥当だと思われる部分が多いのですが、残念なことに、その思想の提示が弱々しく魅力的とは言い難いのです。それは何故なのか?実はそこに、一般の「言語的整理」の次元を超えた問題が潜んでいるのではないか、と私は見ます。したがってこの書評は、そこに照準を合わせて一つの「問題提起」を行おうとするものです。著者も言うように、「公共」の精神には、ぶつかり合うことへの信頼が含まれているはずだからです。以下に、失礼を承知で出来るだけ明瞭に私の考えを書いて見ます。桂木さんからの応答を期待しつつ。

 まず、最初に取り上げられているハーバマスの思想の成果と問題点についてですが、ハーバマスの公共哲学という社会理論は、その根を言語論に持っているのですから、そこに着眼しなくてはなりません。ハーバマスの提唱する「超越論的言用論」は、イギリスで展開されてきた言語分析哲学をドイツの超越論的哲学の伝統の中に生かす試みと言ってもよいでしょう。そこでは「理想的発話状況」が理念として設定されていますが、この理念は、もちろん現実的・経験的次元での話ではなく、超越論的な次元での想定に過ぎません。したがって彼の思想を桂木さんのように「あまりに理想主義的だ」とか「普遍主義的だ」と言っても批判にはならないでしょう。

 私は、彼らの問題点は、言語を全て「議論・討論」というレベルで捉えてしまう平面的な理論構成(ハーバマスは、コッミュニケーションとしての言語行為と討論としての言語行為の二つを並列して提示、説明するのみ)にあると見ます。同一の言語でもその機能のさせ方に着目すれば、日常言語と理論言語(または詩と物語の言葉)とは階層を異にしていることが分かります。次元が違うのですが、その点に無自覚な言語論は、言語を同一平面で捉えるために、立体的な人間の生における言語使用を、二次元化してしまうのです。言語の階層の違いを意識せずに、「発話場」の相違に無頓着になれば「言語至上主義」に陥ります。言語とは、ある特定の発話場の中ではじめてその「適否」と次に「意味」が確定するものであることが無視されると、言語の意味が浮遊してしまいます。ハーバマスは、言語の立体視ができずに「言語至上主義」に陥ったとみるべきでしょう。

 私の見るところ、どうしても言語、とりわけ活字のもつ世界は、立体としての現実を平面化して捉えるために、一見明瞭になるのですが、「現実」とはズレてしまいます。実感、イメージ、直観=体験として掴んでいる全体的な見方からは離れていきます。

 理念型の言説はその問題が見よい、というより本来は、意識的に理念次元を想定することでそれを超えようという工夫なので、それを経験論的次元に立って、「間違えだ」と指摘しても意味がないわけです。むしろ、理論的整理として当然のことを語っても、現実の変革においてそれが強い意味や力を持たないのが「経験論的」な思考―言説の弱点だと言えましょう。出方は逆ですが、やはり同じく言語使用の次元の相違に無自覚で、立体視ができない問題なのだと言えます。

 また、桂木さんは、ルソーやカントの「理念型」の思想も批判的に紹介していますが、その捉え方は、「経験」主義的-平面的です。プラトンの「国家」に倣いわざと現実にはあり得ない紙の上の理念を提示したルソーの思想―強固な教会・王による支配を脱して、あらたな「市民」社会を生むための激烈な文明批評と新社会創造のための苦難の作業は、経験的現実を超えた「理念」の構築を不可欠なものとして要請するのですが、そこで理念として提示された哲学を、著者のように「ルソーの一般意志は、愛国心の純粋性を強調することによって偏狭なナショナリズムを生み出すことになりました。」と言うのは、次元の相違に無自覚な見解でしかないでしょう。また、その後に「カントの人権の理念は、そのあまりの理想主義によって、いわゆる啓蒙的専制主義を招くことになりました。」という言説が続きますが、これは、共に「理念的次元」の話を「経験的・現実的次元」に引き下ろしてしまうために起こる混乱ではないでしょうか。立体交差なのに、平面として捉えて「危険だ」と言っているようなもの、私にはそう思われます。

 次に関連することですが、著者は、前記の経験論的な見方から、重要な発想転換を提示します。それは、従来の「正しい」法や社会という見方を捨て、替わりに「利益」をキーワードにすべきという主張です。原理的にはありえない「正しい」社会像の追求をやめようと言うのは当然で、私も賛同します。しかし、その代わりのキーワードとして「利益」を持ち出してもダメです。「利益」の追求はよいことですが、「正しい」の代わりにはなりません。観念動物である我々人間は、「利益」に代表される現実次元の価値だけでは生きられません。今まで人間を支えてきた理念的・ロマン的次元での価値=「正しい」に変わる価値にはなり得ないのです。私は、「正しい」社会ではなく、より「魅力的」な社会とは?を追求すべきだと思います。知識・履歴・財産の所有ではなく、存在そのものの魅力を!というのが私の哲学(恋知)の理論と実践ですが、人間の生とその社会のキーワードは「魅力」でしょう。魅力価値という「主観性」の追求は、主観性を深め広げることで普遍的な了解を生み出そうとする本来の哲学(恋知)の営みにピタリと重なる概念です。豊かで深い魅力を生み育てる思索と行為を目掛けたいもの。

 次に、6章の「民主主義」ですが、この章が最大の問題です。「エリート」と「大衆の中のエリート」と「一般大衆」という三区分に基づく結語―「エリートの育成と知的大衆の熟議の活性化が代表民主制のあるべき姿である」。これは、とうてい受け入れがたい結語です。広く社会全体の問題に対しては、専門家としての「エリート」など存在しようがないのです。法律の専門家や統計経済学の専門家や学際的な社会学の学者ならいますが、社会・政治問題を解決する専門家!?とは言語矛盾でしかありません。全体知と専門知の相違については10月号の本紙巻頭に書いた通りです。ご参照下さい。

 絶対者やエリートがいない社会制度である「民主制政治」を機能させるには、幼いころからの順を踏んだ教育が必須です。もしも、ただ親に従順に「受験塾」に通って東大法学部に入った受験秀才の青年が「エリート」の卵と思うのならば、笑止でしかありません。「知」とは何か?の基本をとらえ損なっているだけの話ですから。

 民主制社会においては何よりも大切な能力=「自治」を子どもたちが身につけるためには、自分の頭で考え、議論し、決定する能力を育成する大胆な教育改革が必要です。偏狭な国家主義のエリート教育ではなく、精神的自立を生む市民教育が絶対的な要件です。もう一度言いましょう。全体的エリートなど存在しないのが民主制社会なのですから、自治への関心と能力を育て、それを高く評価する教育制度をつくること、それがキーポイントになるのです。したがって官僚を含む公務員の仕事とは、「一般的なよさ」を考え、実行することであり、それ以上でも以下でもありません。彼らは、主権者である市民が税金で雇っているサービスマンなのですから。

 もう紙面がつきますので、手短に書きますが、最後の9章―「公共精神」には、傾聴すべき考えが幾つも出てきますが、日本的な心性―「多神教」の積極的評価はよいとしても、実はそれは人類文化としては「ふつう」のことであり、むしろ「一神教」の方が特殊な想念だということを忘れてはならないと思います。

 西洋の強い文化・文明を生んだ一神教に憧れ、近代天皇制=天皇教という「擬似一神教」をつくり出した明治政府。そのイデオロギーによる洗脳教育を行うことで生み出された近代日本社会の現実を真正面から見据えなければ、わが国における「公共性」は語れないと思いますが、残念なことに、本書はその点の掘り下げが極めて不十分です。

 強権と文字言語による支配が生み出した「文明社会」の問題点をていねいに解決していくためには、一人ひとりの実存から出発する深く哲学する「公共思想」が求められます。言い換えれば、平面の緻密化としての専門知に支えられたから社会から、立体的な全体知(民知―恋知)に支えら、ダイナミックな人間力によってつくられる社会への転換です。「公共」という思想とは、実存の力を解放することで、開かれた魅力ある社会を生み出すもの、私はそう考えています。

 あえて、問題点を列挙しましたが、誠実で丁寧な叙述の本書からは、学ぶべきものが多いと思います。私の思想との対比という変わった書評になりましたが、お許し下さい。
最後におまけ。私もヒュームを高く評価しています。「経験論」を超えていると思うからです。 

武田康弘



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本紹介ー「多神教と一神教」本村凌二著(岩波新書)

2005-10-11 | 書評

「多神教と一神教」本村凌二著(岩波新書) 2005年9月21日刊(税抜き740円)

人類最古の文明=メソポタミアの宗教は、人生肯定の快楽主義であった。そこで生まれたさまざまな豊穣と多産の地母神は、やがてイシュタル(原義は、女性器・天)という女神信仰へと収斂されていった。イシュタルは、豊穣と愛(愛欲)と戦争をつかさどる大いなる女神であった。

イシュタル信仰は、フェニキア人のアシュタルテ女神、ギリシャのアフロディテ女神、ローマのウェヌス(ヴィーナス)女神信仰に連なるもの。

この女神像に代表される「多神教」が人類文明の「ふつう」の姿であったのだが、
?ソクラテスが「パイドロス」の中で指摘した文字=書き言葉の発明・普及と、?社会的抑圧が「一神教」へのとびらを開いた。

一神教の成立は、単一神への個人崇拝が、集団崇拝になり、さらに他の神々に対して排他的になるときに誕生する。一神教とは、人類の歴史にとって極めて特殊で例外的な現象であるのだが、現在キリスト教とイスラム教は、世界宗教として地球人口の大半を覆っている。例外が通例になったといえる。このことは、今日の地球世界に最大級の緊張を強いている。

以上が本書のおおざっぱな輪郭線です。古代史研究家による巨視的な人類の「心性史」は、閉塞感に支配された時代にはとても有益だと思います。ご一読をお勧めします。

武田康弘



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竹田青嗣著 『言語的思考へ』ー世界的名著の解題的書評

2005-06-12 | 書評

本書が出てから3年以上経ちますが、この書は、「言語論」に新たな地平を開いた世界的名著です。じっくりと時間をかけて読まれることをお勧めします。難解な言語の原理論ですが、推理小説のように面白い!この書評は、2002年5月「白樺教育館ホーム」の民知の図書館に載せたのですが、脚注のカタチで出したので、ほとんど読まれていないと思い、ブログに発表します。


解題的紹介 竹田青嗣著「言語的思考へ」
径書房(2001年12月)刊・定価2200円+税

 現代思想は、その主張の論拠を<言語理論>に置いています。したがって、現代の哲学思想問題は、言語理論の検討を必須のものとして要請します。

 しかし、単なる言語学(言語を分析する科学)の対象となる言語(これを竹田さんは「一般言語表象」と呼ぶ)をいくらがんばって追いかけてみても、生きた現実の言語について知ることはできません。

 言語問題の中心にある言葉の意味とはなにか?を明らかにするためには、現象学の方法を徹底させることが必要です。なぜなら、現実の生活世界から立ち上る意識―言語を問題としなければ、言葉の意味を確定することはできないからです。

 同一の語や文も異なる状況の中で多様な意味を持ちますが、生きた実際の発話の場(文学や理論の言語もそれぞれ独自の発話場をもつ)を踏まえれば、意味を決定することができます。

 言葉を人間のそのつどの関心、・欲望から切り離して科学的な分析の対象としてしまうと、意味は多様となり決定不可能性に陥ります。言語学の祖・ソシュール、ヴィトゲンシュタイン、現代思想のデリダまで従来の言語理論は、形式論理によって言語を分析してきた為に、言葉の意味が確定できないという「言語の謎」に逢着(ほうちゃく)してしまいました。

 現象学による現実言語の解明ではなく、形式論理の言語学による言語分析(一般言語表象)では、この「謎」を解くことができません。そのために言語理論に依拠する現代思想は、「何事もすべて決定不可能」という結論に導かれてしまったのです。こうして現代思想は、従来の思想を批判するだけで、新たな思想の原理を提示することが出来ない事態となり、終焉する運命になったのです。 

 人間や社会問題の原理的な解明のためには、実存論(現象学的存在論)の立場による分析が必須ですが、当然のことながら言語論もその例外ではないことを証明したのが、竹田青嗣著の「言語的思考へ」です。

 明治以来、日本ではじめて誕生した世界水準を抜く哲学思想の書に、乾杯!
私は、本書は歴史的名著となると確信しています。

武田康弘



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日本の伝統とは子どもを可愛がることー「11の約束」

2005-05-05 | 書評

「11の約束」えほん教育基本法(ほるぷ出版・税込み840円)の対談は、とてもいいです。
いろいろご紹介したいのですが、まずは、伝統について。対談は、この本の著者―伊藤美好さんと池田香代子さんです。

近代化とつくられた『伝統』

江戸時代後期から明治初期に日本を訪れた外国人は、日本人がいかに子どもをかわいがるか、その中で子どもたちがいかによく育っているか、驚きをこめて書いています。大人が子どもと一緒に凧揚げしたり、おもちゃを作ってやったり、子どもの遊びを楽しげに見ているって。(伊藤)。

そういえば、江戸期の名所図会などの群集を見ると、男が子どもの手をひいたり、肩車したりして歩いている。乳離れした子どもの世話は男の役目だった。男は仕事が終わると
子守りをしたのね(池田)。

子育て日記をつけていた武士も(伊藤)。

今、女は家庭で子育てに専念するという伝統にもどれ、勤勉や規律性といったこの国の伝統的美点をとりもどせ、という人がいるけど、そこでいわれている伝統って、明治以降にそれまでの伝統をご破算にしてつくられた、あたらし伝統だと思うの。江戸時代は、男も育児の主体だったし、人々は遊んでいなければ生きた心地がしなかったのだから(池田)。

各地に残っている土地の歌舞伎やお祭り、庶民が見世物で楽しんだかル来方やらくり人形などを見ても、江戸時代の人たちがどんなに遊ぶことを大切にしたか、伝わってきますね。規律性に関しては、日露戦争前後で変わったという人もいます。軍隊にたくさんの人が入るようになって、歩き方や時間の観念などを西洋式に改造されたって(伊藤)。

その人がその人であることをそっくり受け入れ、しあわせを感じるには、生活に根ざし、からだにしみこんだ伝統を誇りに思えることが欠かせない。その意味では、伝統は大事だと思う。でも、そういう伝統はちいさな生活圏に由来するもので、当然、地域によって千差万別なはず。全国一律に伝統ということがいわれたら、それは「近代国家の新しい伝統」だと思って間違いない。


「水の国=日本、よき伝統を破壊したのは誰ですか?」もぜひご覧下さい。


2005.5.5(子どもの日) 武田康弘





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日本の政治家の皆さんへ。エマニュエル・トッドをお読み下さい。

2005-04-21 | 書評

日本の政治家の皆さんへ。エマニュエル・トッドをお読み下さい。

明治政府がつくった新宗教=「国家神道」の総本山の靖国「神社」(本来は神社ではありませんが)のとっくに終わっているイデオロギーを日本の伝統!!??などと思っている保守政治家の皆さん、少しは思想について勉強してください。あなたたちは、税金を毎月もらって生活しているのですからね。大臣たちの日々の発言、そのあまりの見識のなさと無知には言葉もありません。「平和な国」です。よくこれで国がつぶれないものだと感心します。

そこで、読書のお勧めです。世界の政治家が読んでいるベストセラーですが、日本の政治家は読んでいない、エマニュエル・トッドの本です。

2年前に邦訳が出た「帝国以後」(藤原書店)
フランスのシラク大統領が、アメリカ外交の歴史的な大転換を自信をもって行ったのは、トッドの情熱的でかつ冷静な学的分析、巨視的な人類学による新たな世界像の提示によるといわれます。単純なアメリカ追随外交では、日本は計り知れない損失を受けることを認識してもらわなければ、「国益」を損ないます。

2001年7月に邦訳がでた「世界像革命」(藤原書店)
副題が「家族人類学の挑戦」となっていますが、伝統だの、家族制度だのを論じるならば、こういう新しい研究成果を踏まえなければバカバカしい先祖帰りにしかなりません。

書籍代はちゃんと別に支給されている政治家の皆さん、まじめに勉強してから発言してくださいね。

小泉首相にいたっては、明治政府が作った国家宗教の「靖国」と伊勢神宮の違いも知らないで、「なんで伊勢神宮に参拝しても批判されないのだろう?」と以前テレビで発言していましたが、絶句するしかありません。それとも「おふざけ」なのですかね~?

「日本主義」のイデオロギーではなく、世界的な普遍性をもつ頭脳が求められているのです。明治天皇讃歌の「君が代」を強制するのが仕事ではあまりに悲しいですね。

ロシア革命の中心人物、トロッキーは、1933年にこう書いています。
「日本の政治家たちの力は、一般的思想の驚くべき貧困と結びついたシニカルな現実主義にある。だがこれは彼らの弱みでもある。近代国家の発展を支配する法則に対する理解は、彼らにはまったく無縁である。・・・このような知的構造をもった人々は、ある一定の条件のもとでは、例外的な成功をおさめることができるかもしれないが、それと同様に、国を未曾有の大災厄に投げ込みかねない。」(「破局に向かって突進する日本」)
予言は的中してしまったわけです。


2005.4.21 武田康弘




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?書評 『新・サルトル講義』 澤田 直著(平凡社新書)

2005-01-05 | 書評
すばらしい新書が出ました。いや迂闊にも2年以上前に出ていたのですが、知らなかったのです。暮に、神保町の三省堂で見つけた平凡社新書141の『新サルトル講義』です。

 50年前に書かれた竹内芳郎31歳の処女作―『サルトル哲学序説』(ちくま叢書193)この魅力溢れる「青春の書」と本書では、叙述の方法も文体も内容も全く異なりますが、豊かな肉体をもった思想の面白さ、華や艶のある「能動的思考」がもたらすエロースを伝える点においては、共通しています。20世紀最大の思想家―サルトルという類まれな一人の男が放つオーラは、ポストモダニズムの「秀才」=青二才たちとはレベルが違います。新書版の小著でありながら、実に魅力的なのは、著者の力量もありますが、やはりサルトルという「人間の力」でしょう。

 サルトル死後に公開された膨大な著述の紹介も兼ねた本書は、思想、文学、哲学に多少とでも興味がある方にはもちろん、大学の哲学科の教師たちにとっても必読の書です。21世紀になってサルトルの時代が新たに始まろうとしている!ようやく時代が彼に追いついてきたと言えるかも知れません。あっ!そうです。今年・2005年はサルトル生誕100年です。何かが始まりそうな予感がします。

 狭く単純な論理でサルトルを断罪した気になっている貧しい心と頭の学者や批評家の言説は、害あって益なしです。現代社会は、灰色の人間が灰色の制度をつくり、「まじめ」な面白みのない人間が世界から深みのあるエロースを奪っています。政治の世界でも、心にふくらみ・余裕がなく、頭に論理力のない狭小で幼い男たち=小泉首相や石原都知事等が幅を利かせています。現代日本の政治を含む「文化」は、「学芸会」レベルでしかありません。成金が尊敬?を集め、受験オタクが頭がよい?と評される始末です。人間本来のよき「子ども」性を消去してしまった結果、残ったものは、愚劣な「大人」性=幼児性だけ。金もうけと外見だけの低次元の人間が生き恥をさらし、真善美=本物のエロースを追求する手強く「自由」な大人はいなくなってしまいました。 おっと失礼。脱線です。どうも「サルトル」という存在は饒舌なまでのパトスを与えるものらしいですね。

本書の一部をご紹介します。

『サルトルはまず、自由を否定性として捉える。だが、人間の自由は否定性に依拠してはいても、単なる否定ではなく、それ以上に意味付与、つまり真理の創造であり、投企である。と展開する。神もなく、予め与えられたいかなる真理もないと考えるサルトルは、価値あるいは意味は人間的現実が投企することによって生まれるものだと主張する。その限りにおいて自由という否定性は、同時に生産的であり、肯定的でなければならない。のみならず、倫理的なレベルにおいては、各人の自由は、他者の自由と相互に依存するがゆえに、自由は目指されるべき唯一絶対の価値とまで見なされることになる。このような奥行きを込めて「我々は自由の刑に処せられている」と宣言されるのだ。
 だが、このレトリカルない一文を、額面どおりに大真面目に捉えてしまうときに誤解が生じる。このフレーズは論理的帰結として引き出される命題ではないのに、命題であるかのように批判が行われるのだ。だがそれは、「雄弁な沈黙」を形容矛盾だと批判するようなものだ。サルトルは「自らに抗して思考する」とも言われるが、それは対義結合をたんなるレトリックを超えて、思考のあり方の根底にすえたその哲学的アプローチを意味するのだ。』(著者―澤田直)
 
 全体は、平易で読みにくさはありません。ぜひお買い求め下さい。760円(税別)です。 
2005・1・5 武田康弘


著者ー澤田直さんからのメール クリック(二つ目です)



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? 書評「現象学は思考の原理である」.付・竹田青嗣さんからのメール

2005-01-04 | 書評

以下は、「民知の図書館」に載せた竹田青嗣さんの『現象学とは思想の原理である』(ちくま新書)820円の書評ですが、「まとめ」の文書を追加して再発表します。


 これは、2004年初頭に出された「現象学宣言」とでもいうべき本です。大変密度の濃い、しかも精緻で明晰の極みとも言える叙述は、読む者に快感と興奮をもたらします。本書は竹田さんの長年にわたる執拗なまでの哲学=現象学追求の到達点であり、現象学の意味と価値を、その祖であるフッサールを超えて現代に甦らせた名著です。この新刊に象徴される「竹田現象学」は、現代に生きる人間に必要不可欠な前提―原理的思想であり、歴史的にも不朽の業績と言わざるを得ないでしょう。

 実は18年前、まったく未知であった竹田さんの処女作『意味とエロス』をその発売年―86年9月に神保町の書店で購入し、それ以降、「間違いなく竹田青嗣は、哲学・思想界に新次元を切り開く希望の星になる」と周囲の人々に話し、90年からは、彼との討論会や講演会・シンポジュウムなども催してきた私にとっては、この見事な「現象学宣言」は、とりわけうれしい書です。もったいない?ありがたい?ことに820円の「新書」ですので、ぜひお買い求めの上、精読をお勧めします。

 この本の主題は、「事実学」をやめ、「本質学」を開始せよ、ということです。
 いわゆる「正しい考え方」とは、専門知によって生活の知を圧倒するような知であって、常にうさんくさい。思考の本質=思考の原理とは、専門知による事実学ではなく、ふつうの多くの人々が生活の経験からつかんでいる「優れた考え方」に基づくものだ。考えるということの意味と理由を常に知っているこのような「すぐれた知」の原理を示すこと、それが本書のテーマです。

 その内容については、じっくり読んでいただくしかありませんが、読むにあたって一つだけ、注意すべき点について記しておきたいと思います。

 この書は、あくまで「考える」ことを始めるための前提=「思考の原理」についての考察です。これを読んで、「終わり」ではなく、ここから「始まる」書なのです。哲学の原理であり、具体的―現実的な問題への解答ではないということです。

 何を、どう考え、どう対処するか? 何が問題で、どのように解決していったらよいか? という、人が生きる上で一番大切な「能動的―現実的」な考えが示されているわけではありません。当然のことですが、それは各人がその生きる現場で、自分で考えることであり、著者が答える問題ではありません。

 そのことをよく自覚しないと、「そうか、よく分かった、右も左もイデオロギー的思考に縛られているのだな、すっきりした」で終わってしまいます。「観想」的な態度にはまって能動性が消去されてしまう危険があります。思想をその原理だけで「終わり」にしてしまうと、自分が生きている現場では何もやらず、本を解読することが一番のエロスだという「思想オタク」に陥ります。ご用心!

 ともあれ、現象学という認識論-前提を洗い、分析・解剖をする知と、具体的な建築―創造のための知とはベクトルの向きが逆なのだ、ということは、十分に知っておく必要があります。現象学的な視線変更による見方を示す事例―素材として「現実問題」を扱えば、それは「観想」にとどまります。真の課題は、よく見た上で、やってみよう・変えていこう・よくしていこうという言動-能動性への態度変更です。これはよく生きるための原理です。

 本書は、生きた能動的な知―建築する知のために必要な前提についての分明な記述なのです。くれぐれも、お間違えのないように。

2004年7月8日 武田康弘


竹田青嗣さんからのメール
以下は、この書評への竹田青嗣さんからのメールです。

武田さん
書評拝読。いつもながら感謝。
注意すべき点も、とても納得で、違和感ありません。
実践の部分は、まさしくさまざまな具体的プランが必要なので、
そこは原理の思考とはおのずと別の領域で、多様な競い合いで鍛えあっていくしかありま せん。
観想に終わったら何にもならない、というのはそのとおりと思います。
ますます暑くなりそうですが、いっそうご活躍ください。

とりいそぎ、お礼まで。 2004年7月11日


まとめ

最良の現象学解釈が「竹田哲学」です。この認識の原理論=現象学は、意識を透明にする方法であり、「行き詰った」時に役立つ思想です。ただし、破壊し、建築し、創造するエネルギーをもつ思想ではありません。「原理」をしっかりと血肉化することは、よく考え、よく生きるための必須の営みですが、真の課題はその次にあります。そこから反転して、能動的な「自分性」(個性的にして普遍的な、状況を状況たらしめる意識)をどうしたら創りだせるかです。「原理」に留まれば、色あせたエロースのない世界に転落してしまいます。自分―家族―組織に自閉する「出口なし」の意識を変えるためには、出会いーアンガジュマンー呼びかけの思想が必要です。
(武田康弘) 2005.1.4




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