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思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

[キャリアシステム」を支えている歪んだ想念

2008-10-02 | 日記
「キャリアシステム」を支えている歪んだ想念 

 
キャリアシステムとは、明治憲法下において行われていた高等文官試験制度(1887年に制定された「文官試験試補及見習規則」がその原型)の残滓ですが、その実態は、悪しき官のエリート主義=東大法学部支配です。これを真に廃止するためには、何よりも先ずそれを支えている想念の明晰化が必要ですので、以下に記します。

わたしは、わが国のひどく歪んだ知のありようを「東大病」と名づけていますが、これは、哲学的に言えば客観学への知の陥穽といえます。日々の具体的経験に根ざした主観性の知の追求がないのです。日本の教育では、私の体験に根をもつ知を生むための前提条件である「直観=体験から意味をくみ出す能力」の育成がおろそかなために、自分の生とは切れた言語や数字の記号操作が先行しがちです。そのようにして育てられた人間は、既成の言語規則とカテゴリーの中に事象を閉じ込める自身の性癖を知的だと錯覚しますが、その種の頭脳を優秀だとしているのは、ほんとうに困った問題です。

また、これと符合する、クイズの知・記憶にしか過ぎぬ知・権威者の言に従うだけの知は、現実の人間や社会にとっての有用性を持ちませんが、今の日本は、勉強と受験勉強の違いすら分からぬまでに知的退廃が進んでいます。それは、受験優秀校や東大を「崇拝」するマスメディアを見れば一目です。

人間の生についての思索をパスし、主観性の知を中心に据える努力を放棄すれば、後は客観学の集積を自己目的とするほかなくなりますが、それでは知は生のよろこびとは無縁となり、かえって人間支配の道具になり下がります。生々しい人間の生と現実までが、既成の知と固い概念主義の言語の枠内で管理される対象に貶められてしまうわけです。そのような管理を公(おおやけ)として人々の上に立って行うのが東大法学部卒の官僚である、というのが明治半ば以来100年以上に亘ってキャリアシステムを支えてきた暗黙の想念でしょう。この非人間的な想念は、わたしが「東大病」と呼ぶ客観学への知の陥穽と表裏一体をなし、堅固な序列主義とステレオタイプの優秀者を生みました。

 明治の国権派であった山県有朋らは、自由民権運動を徹底的に弾圧し、天皇神格化による政治を進めましたが、「主権者=天皇」の官吏として東大法学部の出身者を中心につくられた官僚制度は、客観学の集積によってふつうの人々の「主観性の知」を無価値なものにする歪んだエリート意識に依拠しています。その意味で、天皇教による近代天皇制と、キャリアシステムに象徴される官僚主義と、受験知がつくる東大病は三者一体のものですが、人間の生のよろこびを奪うこの序列・様式主義は、明治の国権派が生んだ鬼子と言えます。

現代の市民社会に生きるわたしたちに与えられた課題は、民主主義の原理に基づいて国を再構築するために、いまだに清算が済んでいないこのシステムを支える想念を廃棄していく具体的努力です。客観学の知による支配を打ち破ることは、そのための最深の営みなのです。

読み・書き・計算に始まる客観学は確かに重要ですが、それは知の手段であり目的ではありません。問題を見つけ、分析し、解決の方途を探ること。イメージを膨らませ、企画発案し、豊かな世界を拓くこと。創意工夫し、既成の世界に新たな命を与えること。臨機応変、当意即妙の才により現実に即した具体的対応をとること。自問自答と真の自由対話の実践で生産性に富む思想を育てること・・・これらの「主観性の知」の開発は、それとして取り組まねばならぬもので、客観学を緻密化、拡大する能力とは異なる別種の知性なのです。客観学の肥大化はかえって知の目的である主観性を鍛え豊かにしていくことを阻んでしまいます。過度な情報の記憶は、頭を不活性化させるのです。

従来の日本の教育においては等閑視されてきた「主観性の知」こそがほんらいの知の目的なのですが、この手段と目的の逆転に気づいている人はとても少ないのが現実です。そのために知的優秀の意味がひどく偏ってしまいます。このことは、わたしの32年間の教育実践(小学1年生より大学生・成人者まで)と哲学的探求から確実に言えます。では、なぜ、この不幸な逆転に長いことわが日本人は気付かないできたのでしょうか。それについては、わたしが『主観を消去する日本というシステム』(ブログ「思索の日記」2006年1月10日))に簡明に記しましたので、以下に写しましょう。

封建制の武家社会と符号した「型の文化」は、明治に輸入された近代ヨーロッパ出自の「客観学」と織り合わされて日本的な様式主義・権威主義・序列主義を生みました。
山県有朋らが明治半ば(1880年代後半)に固めた天皇神格化による政治は、主観の対立が起こる前に主観そのものを消去する様式道徳を植えつけることによって可能になったのです。近代天皇制とそれを支える東大法学部卒の官僚支配の社会は、型の文化と客観学の融合がつくり出した「個人を幸福にしない世界に冠たるシステム」だと言えるでしょう。
豊かな主観性を鍛え育てる古代ギリシャ出自の恋知(哲学)や古代インド出自の討論は無視され、主観性とは悪であるかのような想念が広まったのです。曰く「君の意見は主観である」(笑止です-主観でない意見とは意見ではありませんから)。したがって日本の勉強や学問とは、パターンを身につけ、権威者(出題者)に従い、人の言ったことを整理して覚えることでしかありません。決められている「正解」に早く到達する技術を磨くこと、エロースのない苦行に耐えることが勉強だ、というわけです。
これで主観性-主体性が育ったら奇跡です。自分の意見を言ってはならない、これはわが国の基本道徳です。主観とは悪だ、という恐ろしい国で自説を主張する人は、数えられるくらいしかいません。日々の具体的経験から自分(主観)の考えをつくり、情報知や東西の古典に寄りかからないで話すことのできる学者が日本に何人いるでしょうか。自分から始まる考えと生=主観性のエロースを育成することが抑圧され、集団同調の圧力が日本ほどひどい国は、一部の独裁国家を除いてはありません。個人の思いは「考え」として表出されること自体が悪とみなされるのです。和を乱すな!です。客観学に支配され、まっとうな知(官知ではなく民知)が育つ土壌がないのですから、型はまりの紋切り人、先輩の言を守るイエスマン、古典を引用するだけの暗記マンしか出ないのは当然です。
このように同じ土俵で右派と左派が対立しているだけという不毛性から脱却するための基本条件は、客観とは背理であることの明晰な自覚に基づいて、主観を鍛え、深め、豊かにしていくことです。皆が納得する普遍了解的な言説は、魅力的な主観からしか生まれないはずです。のびのびと楽しく主観性を表出することができる環境をつくること、それが日本社会をよく変えていくための第一条件です。エロース豊かな魅力ある個人の育成なくしては何事も始まりませんから。
おぞましい主観主義やヒステリックな自己絶対化は、「自由の行き過ぎ」が原因ではなく、それとは逆に、あらかじめの正解を強要する客観主義の想念に個人を閉じ込めておいた上で自分の意見を求めるという矛盾した要求―虐めのような主観消去の詐術が生み出すものです。個人の輝きを発揮させずに元から消してしまう「人間を幸福にしない日本というシステム」(ウォルフレン)は、主観をその深部で殺す仕掛けによってつくられています。その中で弱い一人の私が入手できるのは、ただの「わがまま」だけということになります。
客観神話が支配する精神風土の中では、わがまま(自己絶対化)の領域拡張に精を出す以外に個人の生きる術がありません。制度によって自己実現が保証された一部のエリートを除いては。私(主観)の感じ方、心、思い、考えが尊重されずに、制度知の示す正解・権威的な人や組織が与える正解を日々暗黙のうちに強要される環境のもとでは、ひとつメダルの裏表=主観主義(自己絶対化)と客観主義(官知・制度知・権威知)が交互に提示されるだけという不幸で愚かな不毛性の世界からの脱却は困難です。
客観神話に呪縛された社会の中では、はっきりと堂々と主観を述べる個人が出ないのは当然の話です。主観が主観として存在しないこと-それが日本社会の最大の問題なのです。いま一番必要なのは、上下意識やありもしない正解(客観)に脅迫される観念を払拭する思想的、実際的努力です。恐ろしいことに、私たちの社会では、主観は主観になる前に消去されているのですから。

以上ですが、
このような「客観学」の集積に依拠したエリート意識がまかり通る知的環境においては、個々人の豊かなエロースが花咲く文化は生まれようがありません。そのステレオタイプの知が生む象徴の一つがキャリアシステムであり、それは客観神話の精神風土がつくる悪しき「文化」なのです。いま皆でこれを支えてきた歪んだ想念を廃棄する仕事に本気で取り組まなければ、わが国の未来は開けない、わたしはそう確信しています。貴重な一人ひとりの主観性の領野を大胆に拓き、それに依拠する自前の民主主義社会をつくり出していきたいものです。

武田康弘
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思想次元と現実次元の区別もつけられない?中山大臣の発言は明白な憲法違反です。

2008-09-30 | 日記

人間は、さまざまな想念を抱きますが、それはどのような反社会的なものでも、反道徳的なものでも全く自由です。
しかし、
それが現実次元(とりわけ政治家の言動)においては、「互いの自由の承認」の枠内でしか認められないのです。

これは言うも愚かな話ですが、「「日本の教育の『がん』である日教組をぶっ壊すために私が先頭になる決意だ」(28日)という発言は、市民社会が成立している民主制国家であれば、どこの国においても憲法違反です。合法的な活動をしている団体(この場合は日教組)を、最高の行政権力者である大臣が「ぶっ壊す」ことを宣言することはできません。

思想・想念の次元と、現実次元における言動とは次元を異にするのであり、これは論を待たないことですが、どうも次元を混同している人がいるようですので、ひとことしました。

日本国憲法の人権規定に反するとは、民主主義の理念・原理に反するということであり、民主制国家(近代市民社会)において政治家を続けることはできないはずです。


武田康弘

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官僚政府による一元的な教育管理の思想は、戦前の国家主義と同じ(中山大臣ら文教族の本音)

2008-09-28 | 日記
文部科学省の官僚(いわゆる霞が関官僚と呼ばれる行政官僚であり、立法と司法に関する官僚とは異なる)と文教族と呼ばれる保守派の議員とが一体化したわが国の教育行政は、北欧などとは大きく異なり、一人ひとりの子供の側(主観性)に立つのではなく、保守主義者の思想(客観主義)に合わせて学校を管理するというものです。

「天皇陛下を中心とする単一民族国家である日本」にふさわしい子供を育成するのが国家の役割であり、従ってその国家意思(国体)に反対する日教組は、諸悪の根源であり、これは政治権力をもって潰すべき、というのが中山国土交通大臣の思想です。

わたしは日教組の思想には共鳴しませんが、中山大臣をはじめとする文教族の国家主義思想(哲学的には明治の山県有朋ら国権派の思想と同じ)にはさらに共鳴しません。

「日教組は何とか解体しなきゃいかんと思っている」(27日)「日本の教育の『がん』である日教組をぶっ壊すために私が先頭になる決意だ」(28日)(共に中山国土交通大臣)と言う発言は、保守派の実力者といわれる政治家からいままでも繰り返し聞かされてきましたが、こうした戦前の哲学(国体イデオロギー)による教育の国家管理という発想は、民主主義の原理とは二律背反であり、断じて許せません。

近代市民社会の原理(対等な個人による「自由の相互承認」に基づくルール社会)から逸脱した思想をもち、官府の決定に反対する者は排除する、というような人は、民主制社会における市民の代行者にはふさわしくありません。

≪反対する自由≫がなければ、社会(流動的で活力に富む生きた人間の集合)は死んでしまい、固い固形物のような国家(あらかじめの「真理」=「客観」の強要である国体)だけが残ります。
個人の悦び・可能性を広げる生きた社会は、絶対者がいない社会・異論が歓迎され、それに依拠する社会=民主主義の原理につく社会以外にはありえません。

【自問自答と自由対話】こそが、教育と個人のよき生と社会運営の普遍的原理なのです。


武田康弘

----------------------------
以下は、コメント欄です。

[ 通りすがり ] [2008/09/28 20:34]

あなたが、「断じて許せない」と言っていることと
絶対者がいない社会・異論が歓迎され、それに依拠する社会=民主主義の原理につく社会とは矛盾しませんか?
アホな大臣の発言も異論の一つではありませんか?
貴方がこのブログで発言できることもまた、絶対者がいない社会・異論が歓迎され、それに依拠する社会=民主主義の原理につく社会を我々が持っていることの証左だと思いますが・・・

ーーーーーーーーーーーーーーー
[ タケセン ] [2008/09/28 21:28] [ Myblog ]

通りすがり さん

詭弁を弄されては困りますね。
民主主義社会では、自由と人権を否定する自由はないのです。この原理を受け入れなければ、近代市民社会は成立しません。
古代国家でも封建国家でも独裁国家でもなく、民主主義国家の原理は、「自由の相互承認」なのです。政治権力を使って合法活動をしている団体をぶっ壊す自由は認められない、これが民主主義社会の簡明な原理です。

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麻生太郎政権ー国権派のお友達内閣はもうたくさんです。

2008-09-26 | 日記
16日のブログの続き

麻生太郎さんが自民党総裁になりましたが、内閣の顔ぶれは、一年前の安部内閣と同じく「お友達」&「国権派」ですね。「親の七光」と世間で言われている人たちが世襲でつくる内閣では「生活者が第一」の政治は無理でしょう。主権者であるふつうの市民がつくる公共政府ではなく、選民(エリート)がつくる公=国家主義政府はほんとうにもうたくさん、というのが正直なわたしの感想です。

東大出版会のシリーズ『公共哲学』(全20巻)の基本方針である「公」(おおやけ)と「公共」を分けるという思想は、民主制の原理に反するものです。現状は公(官僚政府)と公共(市民)が分かれていますが、それでは市民社会の原理である民主主義とは言えません。
われわれ主権者の「代行者」が政治家であり、官僚とは市民的公共を実現するためにのみ働く市民「サービスマン」である、という原理=当り前の思想に徹底して立つ政府(内閣)を市民の力でつくらなければ、と強く思います。エリート思想を排することで日本を北欧なみの民主主義社会にしたいものですね。
夢かな~?
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「被差別部落出身者を総理にするわけにはいかない」-麻生太郎

2008-09-16 | 日記
昨日(9月15日)の東京新聞朝刊の「本音のコラム」で、山口二郎さんは、次のように書いています。

「魚住昭氏が書いた「野中広務 差別と権力」(講談社刊)という本の中で、麻生太郎氏が野中氏について、被差別出身者を総理にするわけにはいかないと自民党河野派の会合で発言したこと、その後引退直前の最後の自民党総務会で野中氏自身が麻生氏の面前でこのことを暴露し、厳しく糾弾したことが書かれている。先月末、野中氏がTBSの番組に出演し、麻生氏を批判したことには、こうした背景があると思われる」

これが事実であれば、麻生太郎さんは、総理大臣はもちろん自民党総裁という地位につくことも不可能です。

日本には、石原慎太郎氏のように差別発言を繰り返し、世界的に非難され、裁判まで起こされる都知事がいますが、総理大臣もまた同じ穴の狢であるとなれば、もはや救いようがありません。


武田康弘
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ベルリオーズの世界ー「幻想交響曲」 クリュイタンスの東京公演

2008-09-16 | 日記
以下は、わたしの主宰するコミュニティー【ベルリオーズの世界】のトピックです。

幻想交響曲についてもう一度。実は、わたしの「幻想」のベストは、
クリュイタンス指揮パリ音楽院管弦楽団の東京公演なのです(クリック)。
1964年の東京文化会館でのライブですが、これは初出時に感動し、多くの友人に
勧めました。
古いライブですが、テープヒスさえ気にしなければ、自然で聞きやすい音です。
シャレた明るい音色、線の細い上品な味わい、しかも4楽章5楽章は、
エスプリ豊かな音楽はそのままに、弦も管も打も限界まで音量を上げた怒涛の迫力。
ベルリオーズが生きていたら泣いて悦びそうな演奏です。
もし、まだお聴きでない方は、ぜひどうぞ。リマスターされたCDは
よい音ですので、自信をもってお勧めします。
わたしは買い直して確かめましたので、保証付き(笑)。
この演奏の解釈は極めて普遍性が強いのですが、しかし解釈とか音楽の
つくりが・・・を言う前に、とにかく各楽器の音の鮮度が恐ろしく高く、
生命力が横溢してはち切れんばかりなのです。しかもその怒涛の音の洪水は、
フランスの香りをふんだんに匂わせながら、粘らず、パリッとしているのですから
たまりません。ドキドキして、震えが来て、涙まで出てきます。
こんな演奏がかつてはあったのです。これを聴いていると、生命のエネルギーが
横溢し、私自身の内部から沸々と「力」が湧き上がってくるのが分かります。
全身に鳥肌が立つのです。なお、HMVにレヴューを書きましたので、
コピーします。

最高!魅惑の「間」、洒落た音と絶妙のバランス、これは「管理主義」のような
音楽しかない今の時代はもちろん、当時でもなかったもの。線の細い上品さを
保ったままオーケストラの限界に挑んだ迫力と熱気。高い品位と燃える情熱が
同居した前代未聞のライブです。
わたしは40年間に100種類を超える幻想を聴いてきましたが、これは別格で、
霊感に満ちた奇跡的名演です。"タケセン
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山脇直司、竹田青嗣、武田康弘の「市民アカデミア2008」のご案内

2008-09-12 | 日記
山脇直司、竹田青嗣、武田康弘の【市民アカデミア2008】のご案内

【『公務員を哲学する-市民社会と公共性を考える』と題するものですが、

9月26日(金)山脇直司
10月24日(金)竹田青嗣
11月21日(金)武田康弘

の3回シリーズです。

わたし武田は、100年以上にわたって日本人と日本社会を支配してきた官僚制度の芯である「キャリアシステム」を支えている暗黙の想念を、哲学次元にまで下って解剖する講座(立体的自由対話を含む)を行いますので、このブログの読者の方はぜひご参加ください。よろしくお願いします。

参加費用は、
3回通しの場合は、4500円
1回のみ参加の場合は、2000円です。

詳しくは、アジア太平洋文化センターまでお問い合わせ下さい。http://www.keiho-u.ac.jp/academia08/renzoku1.html


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理念次元って何ですか?ーーリズ

2008-09-08 | 日記

以下は、「永遠を生きる と 瞬間を楽しむ」対するコメントです(「思索の日記」への)。



[ リズ ] [2008/09/07 20:12]

こんにちは。初めまして。

ひとつ質問させてください。

理念次元って何ですか?

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

[ タケセン ] [2008/09/07 21:24] [ Myblog ]

リズさん、

スーパーマンは理念・ロマン次元の存在で、
オリンピックの体操選手は現実次元の存在です。

人間の現実は、理念・ロマンの世界がないと輝かず、意味付きません。象徴・想像力動物である人間の現実は、理念・ロマン次元によって支えられていると言えましょう。

------------------------------

[ リズ ] [2008/09/08 14:06]

御返信ありがとうございます。

理念・ロマンはつまり将来の夢や目標とも言えるのでしょうか?

それが現実を支えているからこそ輝いている、意味があると言えるのでしょうか?

------------------------------

[ タケセン ] [2008/09/08 18:36] [ Myblog ]

いいえ、違います。
理念やロマンは現実にはなりません。理念やロマンと現実は次元は違うのです。
どんなに頑張っても「スーパーマン」にはなれませんが、「スーパーマン」は理念・ロマン次元では成立します。
イルカのように泳ぎたい、と思いそれを理念として水泳選手が練習することはありますが、イルカと同じ泳ぎにはなれません。
理念・ロマン世界は、現実を指導し・支え・意味づけますが、それは現実的な目標とは違います。「オリンピックで金メダルを取る」というのは現実において達成可能な目標であり、理念・ロマン次元の話ではありません。
【次元の違い】に注意してください。話が混乱してしまいますので。
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孫正義さんの主権在民のブログは、民主主義の原理そのもの

2008-09-05 | 日記
ソフトバンク代表の孫正義さんの2年前のブログが友人より送られてきましたが、これは【主権在民】と直接民主制の先行性を記したもので、【自問自答と自由対話】に基づく民主的=哲学的人間の育成を生涯の仕事とするわたしの考えに完全に符合するものですので、以下に全文をご紹介します。



赤じゅうたん vs インターネットテクノロジーで取り戻そう 主権在民の精神

 孫 正義(2006-08-30 11:52)


 先日、所用があり参議院を訪れた時のことだ。入り口中央には赤じゅうたんが敷いてあり私はなんら躊躇することなくそこから中へ入ろうとした。その瞬間、守衛から怒鳴られ制止された。

 「こら、そこを歩くな。横の通用口から入りなさい。そこは議員さんが通る場所だ」

 私は怒鳴り返した。

 「ちょっと待て。そんなことどこに書いてある。書いてもいないのになぜ、いきなり怒鳴られるんだ。そもそもどうして議員が赤じゅうたんの真ん中の入り口で、国民は通用口なんだ。俺は帰りも堂々と真ん中から出る。そして次に来るときも堂々と真ん中から入る。どうしても通したくなければ警察を呼んで逮捕してみろ」

 結局私は、真ん中から入り、真ん中から出たが、この出来事ほど今の議会制民主主義の歪みを表した象徴的な出来事はないだろう。まさに主権在民の精神を忘れた代議制度だと言えるのではないだろうか。

 議員、代議士というのはその名の通り、主権を持っている我々国民の代理として国会で議論をする人たちだ。憲法で主権在民が謳われているように、一番えらいのは国民であり議員は国民の下僕であるはずだ。それなのになぜ議員が真ん中の赤じゅうたんの入り口で国民が脇の通用口なのだ。

 もちろん守衛が悪いわけではない。彼らは職務として決められたとおりにやっているだけだ。しかし、彼らも長年この仕事をしてきて疑問に思ったことは無かったのだろうか。私と同じ主張をした人はいなかったのだろうか。なぜ主権を持っている国民が通用口で国民の代理人である議員が赤じゅうたんなのかと。もしかして我々国民もいつの間にか「一番えらいのは議員で、国民はその下」などと卑屈な考えを持ってしまっているのではないだろうか。

 ちなみに私はいろいろな国の国家元首を訪問した経験があるが、一度たりとも通用口など通されたことはない。いつも堂々と正面から入っている。何故自分の国の国会に正面から入れないのだ。

 代議制民主主義は、物理的な制約や、情報の偏在、テクノロジーの稚拙さなどで直接民主主義が不可能であった時代での民主主義の実現のため作られたシステムだ。そのシステムの根底にある精神は、主権在民であり、議員は国民の代理であるという考え方のはずだ。

 ところが日本においては、戦後の議会制度60年の歴史の中で、いつしか議員が権力を持っているかのごとく扱われ、主権在民の精神は薄らいでしまった。それは国民の政治への関心の低さにもひとつの原因はあると思う。

 このような状態は国家50年100年の大計でみると決して好ましい状態ではない。今まさに大きな枠組みを変える時がきたのではないだろうか。

 たとえば内閣総理大臣の選挙など何か国家にとって重要な決め事をする場合、国民投票など直接民主主義の制度を導入するというのはいかがだろう。直接民主主義というとすぐにポピュリズムだ、とか衆愚政治だとかいう反論が聞こえてくる。まさに、政治家や官が賢く民は愚かだ、という思想だ。

 確かに、教育水準にばらつきがありまた情報が偏在していた時代には、官が民をひっぱっていくというような政治、行政もあったであろう。しかし今は状況がまったく異なることは明らかだ。その証拠に官の仕事の代表格である全国の第三セクターの惨状を見てほしい。何一つ成功せず、その処理にさらに多額の我々の税金が投入されている有様だ。民間企業が血を流すような努力をしながら事業を行っていることを考えると、民は愚か、などということがどうして言えようか。

 国民と議員の関係は、株主と経営者の関係と似ている。株式会社で一番えらいのは株主である。社長や取締役は株主の委託を受けて会社を経営している。そして年一回だが必ず株主からの直接投票を得ているし、上場企業なら毎日株価という形で審判を得ているのだ。

 自民党総裁選が連日話題になっている。そのニュースを見ていると何か違和感を感ぜざるを得ない。

 自民党総裁は自民党議員、自民党員の投票で決まる。そして現在は自民党が与党であるから、総裁イコール日本の内閣総理大臣となる。確かに議員は我々が選挙で選んだ人たちだ。我々は選挙のたびに、候補者の政策、主義主張を比較しながら投票している。しかし議員が総裁選で誰を総裁に選ぶかまで考えて投票しているわけではない。また議員も総裁選の投票には必ずしも自分の意思で投票できていない可能性がある。派閥の論理に左右されるからだ。

 ということは自民党総裁選には、民意は正確には反映されていないということになる。また各省庁の大臣の人選についても同じだ。大臣については選挙もなく、総裁が指名する。では何を基準に選んでいるのか。財務大臣には財務のエキスパートが、経産大臣には経済政策のエキスパートが選ばれているのか。答えはノーだ。当選回数や党内のパワーバランスで決まっているのが実情なのである。しかし国家の難しい舵取りを任せる人たちがこのような選ばれ方で本当にいいのだろうか。せめて総理や大臣は国民投票で選んでもいいのではないか。インターネットというテクノロジーの進歩により国民は様々な情報に平等にアクセスできる時代だ。その情報を元に国民一人一人が投票を行う。最新のインターネット・テクノロジーを使えば簡単にできることだ。

 日本国憲法の制定によって確立した日本における議会制民主主義は今年で60年を迎える。憲法で保障されている主権在民の精神をもう一度取り戻す――。今まさに目指すべき方向ではないだろうか。

孫正義
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永遠を生きる と 瞬間を楽しむ

2008-09-03 | 日記
(Aさんへの返信メール)


理念次元ではなく、現実次元において絶対(ゆるぎない安定)を求めれば、必ず挫折し、よろこびは得られません。それは人間存在の原事実と異なる架空の世界を「現実」にしようとする不可能な欲望だからです。本質的に欺瞞=ウソ・騙しでしかないのです。

けれども、Aさんのメールにあるただ「瞬間を楽しむ」というのとも違います。

理念・ロマンを育みながら生きる(ロマンを主義として固定=「ロマン主義」化するのではなく、現実の中で段々と豊かにしていく)ことが、瞬間を大いに楽しみながら、瞬間の快をつなぐだけという刹那主義に陥ることなく、人生に大いなる実りをもたらすーそんな感じです。

「永遠の相に下に生きる」ことと「瞬間を楽しみ充実させる」ことは一つです。永遠を生きる人であってはじめて瞬間を楽しみ深いものにすることもできるのだと思います。


武田康弘
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清瀬保二の音楽は、西洋音楽の後塵を拝するものでは全くない独自の宇宙だ

2008-08-31 | 日記
花岡千春さんの弾く「清瀬保二ピアノ独奏曲全集」http://www.hmv.co.jp/product/detail/2731334を何十回も繰り返し聴き、いまわたしは断言できる。

清瀬保二の音楽は、西洋音楽の後塵を拝するものではなく、天才ドビュッシーやバルトークに完全に匹敵し、その透明な抒情は彼らにはない独創的な宇宙であることを。

これほどの作曲家が我が国にはいたのだ!

清瀬保二の音楽の明瞭で強い主張は、しかし、まったく濁らない。どこまでも澄み切ったままだ。自我主義とは完全に無縁な純粋意識が音になっている。西欧とは異なる日本的な個人、透明なままあらゆる悲惨を乗り越える最良の日本人がここにいる。

哀しみや苦難や悲惨も精神の健全さを削ぐことがない。明るく透明なままだ。この澄み切った強靭さは、西欧の個人主義にはない深い普遍性を持つように思う。自我ではなく純粋意識の力だ。

音楽の教科書でも清瀬保二の音楽を大きく取り上げてほしいものだ。『白樺教育館』では休み時間や時には勉強中にも清瀬保二の音楽を流すことがあるが、この透明な抒情はほんとうに貴重であり、我が国最高の文化遺産であることは間違いない。

武田康弘

☆写真は、1977年。亡くなる3年前の清瀬保二さん。柳兼子さんと楽屋で。写真は提供は、松橋桂子さん。
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タケセンは「宇宙人」なのですか?

2008-08-26 | 日記
以下に、ブログ「思索の日記」http://www.doblog.com/weblog/myblog/29972の「コメント欄」をコピーします。
「タケセンは宇宙人なのですか?」に対するものですが、
昨日「思索の日記」へのアクセス数が521件もありました。感謝です。



[ ねこ姫 ] [2008/08/27 21:40] [ 削除 ]
初カキコです。初めまして、ねこ姫と申します。

幼い頃からすでに色々な物事を深く強く考えていたのですね。
その感受性は素晴らしいですね。

質問です。
「純粋意識」とは「この奇跡の星・地球の上で人を愛し、すべての
生物と自然を愛し生きる」意識のことでしょうか?
もし違っていれば、例を上げてご説明お願いします。

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[ タケセン ] [2008/08/28 12:26] [ Myblog ] [ 削除 ]
ねこ姫さん、
コメント(質問)ありがとう。
①純粋意識と②エゴの区別は、①ある対象に向かう意識と②それをしていることを意識している自意識の違いです。
人間の意識ないし自我と呼ばれるものは、二重化していて、純粋意識だけがあるということはまずあり得ません(完全にわれを忘れているという瞬間くらい)。
②の方強いか①の方が強いかの違いですが、自意識過剰、などというのは②が強いわけです。それは自他にとってよい状態とは言えないですね。
哲学は、②の自我の拡大や理論による武装のことではなく、逆に、先入見や知識や理論によって曇っている自我意識を絶えず純粋意識の働きで透明にする努力である、わたしはそのように考えています。

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[ ねこ姫 ] [2008/08/29 02:01] [ 削除 ]
返信ありがとうございます。

人間誰しも自我を持っている、と言われていますが
自我よりも純粋意識の方が強い人というのはわかりやすい形で
どのような人のことを言うのでしょうか?(実際活躍されてる方や
歴史上の人物でも構いませんので例をお願いします)
そして、純粋意識を高めるにはどうすればいいのでしょうか?

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[ タケセン ] [2008/08/29 10:11] [ Myblog ] [ 削除 ]
そうですね~
ソクラテスや釈迦では歴史的過ぎますね(笑)。

ツァイス財団の創立者のエルンスト・アッベ、物理学者のアインシュタイン、江戸幕府の御用学者・教師を辞し、郷里に私塾を開いた中江藤樹(近江聖人)、小学校の教科書で長く取り上げられてる田中正造、・・・・・・(きりがないですね)

もっと分かりやすい最近の事例では、自衛艦あたごの事故時の自衛官たちの言動と漁民たちの言動です。テレビで連日報道されていましたので、誰でもが感じたと思いますが、自衛隊員(特に幹部)の自我主義と漁民たちの透明な意識(純粋意識)の違いは鮮明でした。

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[ ねこ姫 ] [2008/08/29 22:20] [ 削除 ]
ご説明ありがとうございます。よくわかりました。
純粋意識っていい言葉ですね~。

この意識を高める方法は何でしょうか?

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[ タケセン ] [2008/08/30 13:01] [ Myblog ] [ 削除 ]

ねこ姫さん、
「純粋意識を高めるためには?」について書き忘れました、失礼。

見る・聴く・触れる→思う→考える対象にまっすぐに向かう意識を透明な意識=純粋意識と呼ぶわけですから、邪心のない心とも言えます。いわゆる「政治的発言」とは逆です。朝起きて暫くの間の「透明な私の意識」が持続すればいいのですが・・・

純粋意識の働きを深め・強めるには、人為を超えた自然に心身をゆだねる受動性の心・思想が必要ですー【自然 内人間】という意識の明晰化です。換言すれば、外なる価値に縛られずに虚心に内面の声を聴く練習、とも言えます。誤解を恐れずに言えば、よい意味での「わがまま」が大事ーそこが出発点。
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言語を「後立てる」ことーほんとうの知のために

2008-08-19 | 日記
「学」にたずさわる人は、いつも活字中心、というより活字ばかりの生活をしているためなのでしょうか、異なる次元の話を同一次元で語ってしまうことが多いようです。
ふつうの人が十分承知していることが却ってなかなか分からない、ということがよくあります。

物事が「分かる」ためには、言葉による整理以前に全身でよく感じ知ることが必要ですが、活字中心の生活をしていると、【言語観念の現実】が優先するために、「現実」が平面的な活字世界と同列になり、理屈だけの空疎な世界に陥ったり、まったく無用な難問が生みだされることになります。また、言葉によってそれなりの整理が出来ると、「分かった」と思い込むことにもなります。
活字理論=書物が先にあり、それに合わせて現実を見るという「逆立ち」に気付かないので、ふつうの生活者とうまくコミュニュケートできないのですが、それを、一般人より優れているからだと思い込んだのでは救いがありません。それでは「学・オタク」としか言えませんが、ここからの脱出は極めて困難です。周りの人も高学歴者や「学」にたずさわる人を偉い・頭がいいと思いこんでいるために、自己誤認の「ああ勘違い」から容易には抜けられないのです。

わたしは、「民知」という立体的で実践的な知=「ふつうの知」が何よりも大切だと考えています。全身でつかみ、実際・現実を掬い取るように知るためには、活字が「先立つ」のではなく「後立つ」必要があるのです。
例えば、深く豊かな音楽体験を持っていなくても、言葉で音楽を上手に語ることができます。
絵や写真や彫刻などの美術体験や創作体験が希薄でも、言葉で分かったようなことは言えます。
昨日今日なにかしらの社会活動に携わった人でも、理論・知識をため込んでいれば、人の上に立つことができます。
子育てや教育の豊富な経験に裏打ちされた思想がなくても、書物の知識で教育哲学を語ることはできます。
活字が特権を与えるのですが、【言語を先立てる】このような手法は、もちろん詐欺でしかありません。この生々しい人間・現実とは無縁の観念遊戯でほんとうのことが分かると思っているのなら、ただオメデタイとしか言いようがありませんが、こういう現代の知は、私たちの社会の現実に計り知れない害を与えているのです。問題を解決せずに、逆に煩雑にし、混乱をもたらすからです。

生活世界に根を張ったほんとうの知、人間の心や社会の「現実」に意味のある有用な知が必要で、それこそがほんとうの知ですが、そのためには、言語観念を先立てるのではなく、心身の全体を使って体験する能力と、日々の体験から多層な意味を汲みだす力を育むことが必要です。ほんとうに言語を大事にし、言語に生きた意味と価値をもたらし、言語に優れた有用性を発揮させるためには、言語を後立てる「民知」という発想が求められるのです。よく見る・よく聴く・よく触れる・よく味わうー五感・全身を使って豊かに感じ、イマジネーションを広げることが何より【先立つ】のです。これは認識と生の原理です。


武田康弘
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ふつうの個人が輝く社会のためには、戦前思想=天皇主義の廃棄が不可欠。

2008-08-14 | 日記
いわゆる「世間」という自分たち【庶民の公共世界】と、
【国=お上という公(おおやけ)の世界】を分けるのは、多くの人の自然な考え方です。
年配者ほどそう考えます。

それは当然のことで、戦前の教育は、小学生の子どもたちに天皇陛下を崇めさせました。生きている神であり、大日本帝国の主権者であり、軍隊の統帥者である天皇陛下とその一族である皇室は絶対の存在で、日本臣民はみな天皇の赤子である、と教えられ、天皇陛下のために戦争に行き戦死すれば、『靖国神社』に国家の神として祀って頂ける、と教え込まれたのです。

「近代国家」でこれほど徹底した洗脳教育を行った例はどこにもありません。【国家の主権者であり、政治的・軍事的支配者であると同時に「神」である】!?これは狂気としか言いようのない思想ですが、それを学校教育で徹底させたわけです。明治の自由民権運動を根絶させた山県有朋や伊藤博文らの超保守主義たちの思想は、人類の歴史上まれにみるおぞましい結果を招来しましたが、その実態はいま、NHKのテレビなどで詳しく報じられています。体験者たちの生々しい証言は、聞くに堪えません。

民主主義社会では、主権者はわたしたち一人ひとりである。わたしたちのお金と意思で政治を行っているのであり、政府や官僚組織は主権者の意思を代行する機関に過ぎず、ふつうの市民に共通する利益(市民的な公共)を確保するためにのみ存在するーという原則は、戦後60年以上経ったいまもなお、残念ながら、明瞭に意識されることがありませんが、それは、上記の近代天皇制の思想教育の徹底が、いまだに「お上=公」と「世間=市民の公共」という分裂した意識を生んでしまうからでしょう。いまなお続く、東大法学部→キャリア官僚支配は、彼らが天皇の官吏として国=公(おおやけ)の特権者だったからなのです。民主主義の思想の徹底と、それに沿った意識・制度改革が急務です。

東大出版会のシリーズ「公共哲学」(全20巻)の編集方針は、この分裂の事実をそのまま理論化したものですが、それではこの現実を掘り、変えることはできません。

「政府にやって頂いてありがたい」!?とか、逆に、「お上の世話にはならない」!?という言い方がよくされますが、これは民主主義の本質を全く理解していない(理解できないように教育されてきた)ことの証左です。この悲しくおぞましい現実を動かさない限り、日本社会に【ふつうの個人が輝く】時代がやってくることは、けっしてないでしょう。

明日は、敗戦記念日。
国家の頂点に立つ者の戦争責任すら問えない無責任体制が戦前の「天皇主権国家」だったわけですが、ここから脱却しない限り、わが日本人は永遠に不幸です。
民主主義は形だけ、民主主義の内実である「自由対話」はなし、これでは人間は人間になれませんからね。


武田康弘
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ふつうの個人が輝く社会のためには、民主主義原理が必須です。

2008-08-13 | 日記
いわゆる「世間」という自分たち【庶民の公共世界】と、
【国=お上という公(おおやけ)の世界】分けるのは、
多くの人の自然な考え方です。年配者ほどそう考えます。
それは当然のことで、戦前の教育は、小学生の子どもたちに天皇陛下を崇めさせました。
生きている神であり、大日本帝国の主権者であり、軍隊の統帥者である天皇陛下と
その一族である皇室は絶対の存在で、日本臣民はみな天皇の赤子である、と
教えられ、天皇陛下のために戦争に行き戦死すれば、『靖国神社』に
国家の神として祀って頂ける、と教え込まれたのです。
「近代国家」でこれほど徹底した洗脳教育を行った例はどこにもありません。
【国家の主権者であり、政治的・軍事的支配者であると同時に「神」である】!?
これは狂気としか言いようのない思想ですが、それを学校教育で徹底させたわけです。
明治の自由民権運動を根絶させた山県有朋や伊藤博文らの超保守主義たちの
思想は、人類の歴史上まれにみるおぞましい結果を招来しましたが、その実態は
いま、NHKのテレビなどで詳しく報じられています。
体験者たちの生々しい証言は、聞くに堪えません。
民主主義社会では、主権者はわたしたち一人ひとりである。
わたしたちのお金と意思で政治を行っているのであり、政府や官僚組織は主権者の
意思を代行する機関に過ぎず、ふつうの市民に共通する利益(市民的な公共)を確保
するためにのみ存在するーという原則は、戦後60年以上経ったいまもなお、
残念ながら、明瞭に意識されることがありませんが、それは、上記の近代天皇制の
思想教育の徹底が、いまだに「お上=公」と「世間=市民の公共」という分裂した
意識を生んでしまうからでしょう。いまなお続く、
東大法学部→キャリア官僚支配は、彼らが天皇の官吏として国=公(おおやけ)の
特権者だったからなのです。
民主主義の思想の徹底と、それに沿った意識・制度改革が急務です。
東大出版会のシリーズ「公共哲学」(全20巻)の編集方針は、この分裂の事実を
そのまま理論化したものですが、それではこの現実を掘り、変えることはできません。
「政府にやって頂いてありがたい」!?とか、逆に、「お上の世話にはならない」!?
という言い方がよくされますが、これは民主主義の本質を全く理解していない
(理解できないように教育されてきた)ことの証左です。
この悲しくおぞましい現実を動かさない限り、日本社会に【ふつうの個人が輝く】
時代がやってくることは、けっしてないでしょう。
武田康弘
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