思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

見田宗介・竹田青嗣らの東大公開シンポの感想ー古林治

2008-11-17 | 日記
以下は、見田宗介さんの主催した公開シンポ(東大本郷)に出席した古林治さん(白樺教育館・副館長)の「白樺ML」メールです。


古林です。

昨日、竹田青嗣さんがパネリストの一人として参加する公開シンポジウム『軸の時代 l/軸の時代 ll ‐いかに未来を構想しうるか?‐』に参加してきました。
見田宗介さんが、未来を構想するために人間の歴史の中に現代をどのように位置づけるか、を提示し、各パネリストがその提示された考えに触発されて持論を展開するというものです。(ちなみに、見田さんの言う軸の時代llとは現代のことで、思想の課題
としては世界の「有限性」という真理を引受ける思想の枠組みと、社会のシステムを
構築することにある、ということです。)

今日は、そのご報告です。少し長くなるかもしれません。
(興味のある方は以下をお読みください。詳しくは次回の民知の会で。
 参考までに竹田青嗣さんのレジュメのみ添付します。パネリスト全員のレジュメが
 欲しい方は別途請求ください。直接PDFをお送りします。)


この公開シンポジウムは東大大学院の多分野交流演習の一環として行われるもので、当然ながら場所は東大でその関係者が参加者となります。多分、私のような一般人はほとんどいなかったろうと思います。30分前に本郷キャンパス法文2号館文学部1番大教室(200人程度?)に到着。でも半分はもう埋まってました。始まったときには立ち見もいて、この教室とは別にビデオカメラで別教室にも映し出されていました。別室も満杯!!

プログラムは以下の通り.
15:00 . 開会挨拶 立花政夫(東京大学文学部長)
15:05-16:05 基調報告 見田宗介(社会学/東京大学名誉教授)
16:15-18:30 全体討議
 (パネリスト) 加藤典洋(文芸評論家/早稲田大学)
 田口ランディ(作家)
 竹田青嗣(哲学/早稲田大学)
島薗進(宗教学/東京大学)
 (司会) 竹内整一(倫理学/東京大学)
18:30 閉会挨拶熊野純彦(「死生学」サブ・リーダー)


参加者の多くが(多分)専門家であったからかもしれません。さまざまな分野の人たちが
ざっくばらんに自身の意見を表明したゆえに、シンポジウム自体は大変好評だったよう
です。終了後、面白かったねぇ、という声がアチコチから聞こえました。
ただし、私には今一に思えました。

理由の一つは、基調報告の見田さんの講演が長引き、内容としては中途半端になり、その結果、各パネリストの講演時間も15‐20分と短くなってしまったことによります。
三田さんは3時間程度の講義が必要な内容を延々最初からはじめるものですから、1時間で半分も終らず、肝腎の部分は端折ることに。
話としては面白いんですけどねえ・・・・(高圧的な雰囲気はまったくなく、おそろしく博学で具体例を次から次へと出しながら早口で説明するのです。時に鋭さを伴いながら。
これなら学生たちから人気があるのも頷けます。)

もう一つの理由、こっちはかなり本質的な問題です。竹田青嗣さんを除くと各パネリストの思考の基盤が脆弱な故に、論自体に魅力、深さがありません。
特に加藤さんと島薗さんの思考の基盤はグラグラ。だから論が濁ってくるのです。
たとえば、『私利私欲と公共性の二元対立』(どっかで聞いたなあ、笑)などと言ってしまう加藤さん。【私】=【私利私欲】ではありません。意味と価値の上に生きる人間存在
(欲望存在)をどっかに置き忘れてしまってるように思います。(加藤さんは竹田青嗣さんに近い人のはずなのに・・・・)

島薗さんも同様です。基盤がない故に、『公共哲学や応用倫理、あるいは死生学の具体的な諸問題に即してこつこつと作業を積み重ねていく必要があるだろう。』(レジュメ参照)ということになるのでしょう。

それに比べると見田さんはずーっとまともです。ときどきちょいグラという程度で、え?というところもあるけれど、ところどころ鋭い論点が出てきたりします。
たとえば、こんな指摘もしていました。
『多くの人から批判されるだろうけれど、私は自由と平等と言ったとき、自由という理念を上位におかないとまずいと思ってます。平等を最初に持ってくると社会そのものの魅力が失せてしまうからです。』

田口さんは作家だけあって変な思想に染まっていない分、感覚的に鋭い指摘もしていました。

最後に竹田青嗣さんの話。
『近代社会の原理については、極めて有効なものと考えているが、軸の時代llでは資本主義の正当性を極めることが大事になる。2050年には(哲学的に言えば)世界は崩壊する。
今のままで行けば、財の奪い合いが始まり、最終的には核戦争が起こる。でもこれを避けることはできる。あなた方若い人たちが資本主義の正当性について明らかにすることだ。頑張って欲しい。欧米のものを追いかけるのではなく、自分で考えて欲しい。』
短い時間の説明なので、消化不良状態。実のところ、もっと話を聞きたいと思いました。

参加者は満足していたようですが、私としてはようやく対話的討論が始まる糸口が見えたところで終っているように感じました。
でも、これ以上突っ込むと困っちゃう人が出るかもね。それが【学】の限界かも、という気もしなくはありません。

以上でした。

古林治
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「government」が「政治」!?いつまで続く「意図的」?な誤訳

2008-11-09 | 日記
オバマ氏は、
リンカーンの演説(・・・and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.)から「government of the people, by the people, for the people」を引用しましたが、これをNHKでは、あいかわらず「人民の人民による人民のための【政治】」と訳していました。

従来、日本の教科者も官府もみな、governmentを「政治」と訳してきましたが、これは明らかな誤訳です。「政治」は、言うまでもなくpoliticsで、governmentは、政府(行政府)を指します。

どうしてこのような初歩的な誤訳がいつまでも続くのか?

リンカーンは、大統領として演説したのです。大統領とは、立法府ではなく行政府のトップです。民主主義の下では「政府」とは、主権者である人民のものであり、人民のために人民によってつくられるのだ、そういう「政府」を地上からなくしてはならないー彼は、人民主権による民主主義国の行政府トップとしてそのように「政府」を規定したのです。

that government of the people(人々の政府)、それは、, by the people, for the people(人々により、人々のために)、という読みが文脈上一番ふつうで「正しい」読みでしょう。(なお、文章全体を「人々を統治する政府」と読むこともできますが、たとえそう読んだとしても、主権者が人民である限り、人民が人民自身を統治するというのは、民主主義の原則であり、意味内容は同じです。)

少し細かい話になりましたが、

上記のような内容をもつリンカーンの言葉を、【政治】と訳してしまうと、彼の思想は焦点を結ばず、意味が拡散してしまうのです。これは酷い誤訳だと言わざるをえません。
【政治】という「広い言葉」を用いると、「主権者の意思に従い民主主義の政治を実現するために働くのが政府なのだ」という意味(=政府というものの存在規定)があいまいになってしまいますが、これは文部省官僚や文教族の思惑による意図的な誤訳なのでしょうか?

もしそうならば、「犯罪」ですよ。


武田康弘
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優れた「理念」が「現実」を動かした!嬉しいニュース=オバマ大統領誕生。

2008-11-05 | 日記
オバマ氏当選 初の黒人大統領
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=657728&media_id=2



とても嬉しいニュースです。

つい最近まで、黒人のオバマ氏がアメリカの大統領になるなんて、誰も予想した人はいませんでした。
でも、今日、それは現実になりました。

アメリカ民主主義の【現実】ではなく、
民主主義の【理念】が、
この誰も予想できなかった【現実】を生んだのです。

ほんとうに優れた理念(民主主義の原理に基づく理念)は、現実を変えることができるという証明です。何よりも必要なのは、原理の明晰化ですね。

もちろん、現実の具体的変革には大きな困難が伴いますから、これからが大変ですが。


ps.小浜市民からのオバマコールも、彼の演説・姿勢・顔からあふれる民主主義の匂いにひきつけれられてのことでしょう。わが国からも「主権在民」の民主主義を貫く政権を誕生させたいものです。)


武田康弘


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航空自衛隊トップの主張は、『靖国神社』の思想なのですが・・・・

2008-11-04 | 日記
田母神氏の更迭で幹部を処分
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=657093&media_id=2


航空自衛隊トップの主張は、『靖国神社』の思想なのですが・・・・


航空自衛隊のトップ
=田母神俊雄・航空幕僚長が日本の過去の戦争を正当化する論文を発表し、政府は、あわてて同氏を更迭しましたが、
この制服組の頂点であった人物が彼の論文の中で主張した内容は、『靖国神社』の主張と同じです。靖国神社発行の書籍や、展示物の説明や、靖国神社製作の映画の主張そのままです。

政府は、田母神俊雄・航空幕僚長の論文を批判したのであれば、
『靖国神社』の主張も受け入れるわけにはいかないはずですが、
政府・自民党の多数派や民主党の一部は、靖国神社に極めて親和的です。

日本の巨大な戦争行為への反省=なぜあのような戦争に到ったのか?
明治憲法下では主権者であった【天皇】とそれを支えた【官僚政府】(キャリアと政府エリート族)をどう評価し、なにを反省し、どのように変えるのか?

今日まで、自民党政府と霞ヶ関官僚がこういう極めて重大な課題から逃げてきたのは、天皇中心の神国日本を謳い、皇軍が行った日本の戦争はすべて聖戦であったとする「靖国思想」を容認してきたこととピタリと重なる大問題です。田母神俊雄・航空幕僚長を批判する根拠は薄弱と言わざるを得ません。

これからも政府と官僚は、天皇中心を主張する『靖国神社』に軍人・兵士の慰霊を独占させておくのでしょうか?もし、わが国が「主権在民」の民主主義を進めるのであれば、それは到底許されることではないでしょう。もう一度、天皇陛下の権威に従う文化と政治=国体思想を復活させるのがよい、というのなら話は別ですが・・・・。

武田康弘
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プライドある精神 vs エリート意識-- 新しい倫理の基盤

2008-11-01 | 日記
プライドを育て、エリート意識を廃す。
わたしは、これが、
よき公共・豊かな社会を生むための基本条件だと確信しています。
近代民主制社会における新しい倫理の基盤です。

しかし、全くの別物である「プライドある精神」と「エリート意識」を混同している人がいるようです。

以前に出したブログを再録します。



2008/01/30のBlog
プライドを肯定しエリート意識を否定するー民主制社会における倫理
[ 16:46 ] [ 恋知(哲学) ]

幼い子供たちを見ていると、「プライド」の塊です。
彼らは、【命の自負心】とでも呼んだらいいようなプライドを持っています。
だから、わたしは子供たちが大好きです。
自負心・矜持・プライドがあるから命が燃え、生き生きと輝いて、個人の自由がぐるぐると渦巻くのです。日々、人間として向上するのは、このプライドの力です。
大人でも精神の健全な発達をやめない人は、みな豊かなプライドを持っています。

ところが、個人を成長させるこのプライドを潰し、外的価値による序列意識に変質させてしまう教育がおこなわれると、プライドは歪んで病的になり、上下意識―序列主義へと変化してしまいます。いわゆるエリート意識です。

エリート意識は、民主主義の思想と社会を土台から破壊してしまう愚かな想念ですが、このことに気付いている人は、少ないように思えます。「エリート」という言葉をプラス価値だと思い込んでいる人が多いようです。驚くべきことに、「公共哲学」運動を進める代表的な学者の一人である桂木隆夫さん(学習院大学法学部教授・法哲学と公共哲学を教授)は、自著(「公共哲学とはなんだろう」)で、これからのあるべき民主主義の姿として、「大衆の中のエリート」とそれとは区別された「エリート」の双方の育成が不可欠だ、と論じていますが、こういう思想が生まれるのは、日本社会が、学歴を信仰する東大病とも呼ぶべき病にかかっているからでしょう。明治の超保守主義(天皇主義)の政治家である山県有朋らがつくった官僚制度(キャリアシステム)もまた、この信仰=病の中で生き延びてきたのです。

もし、公共と民主主義とが背反することになるならば、「公共哲学」とは、詐欺の名称に過ぎないと言わざるをえません(注)。なぜならば、個々人の自由に考える営みに依拠するのが哲学であり、哲学成立のためには、民主主義が必要であり、また逆に民主主義は哲学に支えられなければ形骸化するほかないからです。単なる理論の体系や思想ならば、独裁国家にもありますが、個々人の深い納得に支えられる哲学するという営みは、民主主義社会でなければ成立しないのです。史上はじめて民主制を敷いた古代アテネで哲学が誕生し、キリスト教が国教となった古代ローマで哲学が禁止された{ミラノ勅令により900年以上続いた『アカデメイア』(プラトンが創設した私塾の延長のような自由な学園)が閉鎖―「以後、何人も哲学を教えてはならぬ」}という歴史的経緯を見てもそれは明らかでしょう。

プライドなくして哲学する営みは成立しませんが、エリート意識に支配されれば、哲学は消え、単なる理論や知の体系による支配が生じてしまいます。健全で豊かなプライドの肯定・育成は個々人を輝かせ、民主的な公共社会を生みますが、病的に歪んだプライド=エリート意識の支配する社会は、序列主義・様式主義・管理主義しか生みません。

(注)もし、民主主義(対等な個々人の「自由の相互承認」に基づくルール社会)ではない公共性や公共社会について語るのであれば、「公共哲学」とは呼ばずに、「公共学」ないし「公共社会学」または「公共理論」とでも言うべきでしょう。

Ps.猫はプライド高き動物として有名ですが、彼らは序列社会をつくりませんし、飼い主とも対等です。犬との大きな違いです。

2008/01/31のBlog
プライドとエリート意識ー2
[ 12:22 ] [ 社会思想 ]

矜持(きょうじ)・プライドとは、自分の存在の肯定・誇りであり、一人ひとりの比較することのできない存在の独自の輝きを生む意識です。内側から湧き上がるものであり、特定能力の比較によって生じる上下意識ではありません。

個々人が異なる色・形・力を持ち、それぞれのユニークさを肯定し合うことで成立する社会を民主制と呼ぶわけですので、特定の能力を基準にしてその優劣で人間を評価する思想から生じる「エリート」という意識は、民主主義とは背反します。

具体的な個々の能力に優劣があるのは当然で、その優秀者が評価されるのはよいことですが、エリートという人間が存在するという意識・思想は、最悪の想念だと言わざるを得ません。「私」の努力は、内側から湧き上がる力=存在していることが価値であるという思いから開始されるのであり、他者の上に立とうとする思想・態度は、人間的なよきもの・美しきものを根こそぎにしてしまいます。自他を存在の深部で殺すのが、序列主義―エリートという意識です。

誰でもが自然にもっている矜持=プライドを肯定し健全に育てることが、民主制社会の教育・倫理の土台であり、それが互いの個性を伸ばし合うことで全体を支え・強くするのです。それとは別次元に国家意思や国家利益があるという想念は、エリートという上下意識が生みだす妄想に過ぎません。

みなの【内側から湧き上がる力】を伸ばすことがどれだけできるか?それが鍵ですが、そのためには、オープンであること・情報の共有が基本条件です。絶対者や特権者がいないからこそ大きく豊かになれる社会、それが民主制という社会であり、そのような基本思想を踏まえて生きるのが民主的人間です。深い納得を得るための自問自答と上下関係を廃した自由対話が、哲学と民主主義を成立させる基盤なのです。

武田康弘
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学者がえらい、と思っている学者ではダメです。

2008-10-31 | 日記
追求したいことがある、好きなことを研究したい、
という己の欲望に従って学者の道を選ぶのは分かりますが、
なかには、学者と言う職業は偉い!?と思って学者になる人もいるようです。
そういう人は、「学者は偉い」→「自分はその一員である」→「したがって自分は偉い」、と思い込むわけです。

そうなると、
現実の仕事に現実的に取り組んでいる人は、自分よりも一段下の存在である、という心を暗黙のうちに持ちます。

それが人間・社会・思想関係の学者だと、酷い話になります。
日々の具体的経験を生きている生身の人間を「言語で整理」すれば理解できるという逆立ちした観念に囚われた人は、生きている人間・現実の人間を「具体的経験の中で掬いとるように見る」能力をどんどん減らし、既成言語の意味の牢獄に人間の生を閉じ込めてしまいます。

言語が先立ち、現実の人間存在を「理論」で説明し、その観念で生身の人間を縛ろうとする愚かな「概念主義」から抜けられない自分を、かえって他者に優越するものと思うまでになれば、もはや救いがありません。

ほんらい、生きた人間存在のありようを言葉で規定することは不可能です。それは、ただ感じ知ることができるだけなのです。言葉は、それをブキッチョにようやく分節化するのみです。だから、感受する能力を豊かにし、言語に先立つ広大なイマジネーションの世界を拓くことが何よりも必要なのですが、脅迫観念を植え付けられた不安神経症の人は、固い概念=言葉の中に自他の赤裸々な存在を封印してしまうのです。

閉じた絶対を求める心は、不幸しか生みません。「きめの粗い大地に戻れ」!


武田康弘
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哲学・思想の「大学化」は、不健全。

2008-10-28 | 日記
以下は、「白樺ML」です。

・・・・・・・・・・
なお、哲学・思想の探求を「大学」という閉鎖的な環境(特権意識を育む場所)で行う近代以降の「常識」は、真剣に考え直す必要があると思います。

大学知の特権化、まるで具体的現実の上に「知」があるかのような思い込み(「知の支配」という暗黙の想念)に知的作業に携わる人間が呪縛されている非喜劇は、現実問題を現実的に解決していくことを阻害し、言語遊戯者が偉い!?という酷い観念をまき散らします。

そういう観念につかまると、自分の生活や仕事を踏まえて哲学するのではなく、過去の哲学者(説)についてあれこれ論評することが哲学だという「哲学書趣味」に陥りますが、これでは、現実逃避にしかなりません。あるいは、人が読めない哲学書を読める自分を他に優越するものという歪んだ想念にとりつかれてしまう哲学では、百害あって一利なし、です。

自分の現実を踏まえて自分の頭で考える「健全な精神」を自他の中に育てること、それが核心のはず。

また、「本質言いあてゲーム」に留まることのない能動性=「現実を変えるパワーという『質』をもった思想」を生みだすことは現代の必須の課題でしょう。ほんとうの哲学は、単なる理論・言葉ではなく、結局は生き方の問題に行きつきます。哲学は只の言葉や技術ではないはずです。

武田康弘
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イラク派兵の竹内行夫氏が最高裁判事にー久松重光さんからのメール

2008-10-27 | 日記
以下は、「白樺ML」です。

・・・・・・・・・・
なお、哲学・思想の探求を「大学」という閉鎖的な環境(特権意識を育む場所)で行う近代以降の「常識」は、真剣に考え直す必要があると思います。

大学知の特権化、まるで具体的現実の上に「知」があるかのような思い込み(「知の支配」という暗黙の想念)に知的作業に携わる人間が呪縛されている非喜劇は、現実問題を現実的に解決していくことを阻害し、言語遊戯者が偉い!?という酷い観念をまき散らします。

そういう観念につかまると、自分の生活や仕事を踏まえて哲学するのではなく、過去の哲学者(説)についてあれこれ論評することが哲学だという「哲学書趣味」に陥りますが、これでは、現実逃避にしかなりません。あるいは、人が読めない哲学書を読める自分を他に優越するものという歪んだ想念にとりつかれてしまう哲学では、百害あって一利なし、です。

自分の現実を踏まえて自分の頭で考える「健全な精神」を自他の中に育てること、それが核心のはず。

また、「本質言いあてゲーム」に留まることのない能動性=「現実を変えるパワーという『質』をもった思想」を生みだすことは現代の必須の課題でしょう。ほんとうの哲学は、単なる理論・言葉ではなく、結局は生き方の問題に行きつきます。哲学は只の言葉や技術ではないはずです。

武田康弘
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痺れるスッペの序曲集・ショルティ、ウィーンフィル

2008-10-25 | 日記
ショルティの指揮したスッぺの序曲http://www.hmv.co.jp/Product/detail.asp?sku=1286879を聴き、仰天しました。

HMVの輸入盤は、3タイトル買うと値引きになるので、軽い気持ちで購入した廉価版に、ショルティの指揮したスッペの序曲が4曲収録されていたのです。

1959年にウィーンフィルと録音したものですが、凄まじいパワー、怒涛の迫力、恐るべきスピードに唖然!です。30分間が一瞬のよう。

断固として、何のためらいもなく、一気呵成に進むこのような演奏は、残念なことに今はなくなりましたが、
もう一度、理屈ぬきの快感で全身が痺れるような音楽が奏でられるような時代をつくりたいもの(笑)、そんなことを思いながら、繰り返し聴いています。

何度聴いても、充填された恐るべきパワーの炸裂に血肉が踊ります。
それにしても、とんでもないスピードで突っ走りながら、艶やかさと優美さを失わないウィーンフィルには脱帽するのみ。


武田康弘
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理論をつくれば現実が変えられる?

2008-10-24 | 日記
理論が現実をつくる、
新しい理論をつくれば現実を変えられる、

社会思想関係の学者で、そう思っている人が少なからずいるようです。
それでは、どんどん観念的な思い込みの世界に入り、抜けられなくなります。

不可視の構造を解明し、
知らずに囚われている観念の元を明らかにし、
近代社会の原理を自覚し、・・・という作業が現実をよく変える条件であり、
理論が現実をつくったり、変えたりするのではありません。

それは、音楽の理論が曲をつくるのでないのと同じです。
作曲のためには、音楽の基礎理論は必要ですが、理論をつくっても曲ができるわけではありません。
言うまでもなく、作曲は、「主観性の知」の領域であり、「客観学」ではないのです。

よい社会のしくみを生むことや現実変革も、「客観学」ではなく「主観性の知」によります。
こういう基本的な認識に欠けると、理論信仰になって、言語遊戯が偉い!というバカげた話に陥ってしまうのです。


武田康弘
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自由と平等はセットです

2008-10-18 | 日記
がんばったら、人よりも高収入が得られる、それはいいです。

がんばっても同じ、では働きがいがないでしょう。

しかし、際限なく金儲けができる、というのは、弱肉強食の愚劣な文化でしかありません。

最高給与は、一般給与者の十倍くらいに抑える制度をつくらないと、社会問題は解決しません。

自由とは、経済的な覇者となり、金で何でも買えることを指すのではありません。

それは、間違った自由、レベルの低い自由でしかないのです。

機会均等という意味だけでなく、結果としてもある程度の経済的平等をつくる社会としなければ、心・精神の自由は現実化しません。

理論として「自由の相互承認」を力説しても、それは絵にかいた餅にしかなりません。

経済的な格差が大きすぎる社会では、自由は現実化せず、不幸が蔓延する他ないのです。

自由と平等はセットであり、自由だけ、平等だけではどちらも人間を幸福にしません。これは原理なのです。

経済を手段とせず、目的化すれば、人間の真・善・美は、消えて、内的な意味充実の生は得られません。

自由がもっとも輝くのは、精神の自由であり、表現の自由です。心と頭と体が内側から輝くところに自由の意味と価値はあるのです。

金の力で好き勝手なことをするのが自由の価値ではありません。

現代文明は、大きな曲がり角にきています。わたしたちの考え方・生き方そのものが問われているのです。

テレビでは「セレブ」を称賛しますが、これは根源悪であり、よき社会秩序を大元から壊すおぞましい想念の流布としか言えないのです。
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亡き父の写真

2008-10-16 | 日記
10月1日に死去した亡き父の写真です。

1999年にブローニー版のコンタックス645が出とき、すぐに購入して玄関前でスナップしたものです。

ツァイスの新設計のレンズがついたブローニー版のカメラに親父も興奮して、玄関前で撮ったものです。葬儀にも使いました。

父は、写真好きで、わたしの幼い頃の写真は、コンテストで何度も入選していました。

74歳のときの写真です。

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価値ある人生を

2008-10-14 | 日記
システムが与える役割をこなすだけの人生、

出来合いの商品を買うだけの消費生活、

既成の価値観に従うだけの底の浅い生、

自分の生よりの「国家」が偉い!?と思うような愚かで哀れな思想、

そういう価値の低い人生だけは歩みたくないですね。


創意工夫、臨機応変、当意即妙の精神と行動で生きる。

ただの消費や享受ではなく、日々を創造する生、人や物や状況を産み育てる生を生きるのがほんとうの人間の生です。

感動や悦びの生は、創造からしか生じません。「お上手」に生きる人にはつまらないエロースしか与えられない、これは生の原理です

いたずらに生死を繰り返すのみ、ではやりきれないですよね。


武田康弘
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葬式仏教?

2008-10-12 | 日記
(以下は、ミクシイブログのコメントへの返信です。)

ヨッシーさん 2008年10月12日 13:41

亡父(10月1日死去)にも私にも浄土真宗の仏教的世界はずっと親しいものでした。それは、慣習と重なる自然な感情です。「死」は、人を覚醒させ、深い想いを生み、生を強くします。日本の仏教は、「葬式仏教」と悪口を言われますが、わたしは、宗教としては、それが一番よいと思っています。
生(現世)を縛る強い宗教は、世俗の日々の具体的経験に善美を見、そこに至上の価値を感じる「恋知(哲学)の生」を歪めるからです。余計な解釈抜きに「死」を想うことで日常の生に自覚と輝きをもたらす、そういう感情を宗教的と呼ぶなら、わたしは幼少のころからずっと宗教的人間ですが、それは戒律等によって生に方向性を与える宗教とは異なる宗教ならざる宗教です。あらゆる権威から自由になり、人生を謳歌できるようにしたのが親鸞思想だとわたしは思いますが、以前そのことをブログに書きましたので、よろしければ見てください。クリック『親鸞思想の核心』

タケセン
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父の死

2008-10-09 | 日記
以下は、10月1日と10月5日の「白樺ML」の写しです(固有名詞は一部○○に換えました)。


From: 武田 康弘
To: 白樺教育館メーリングリスト
Sent: Wednesday, October 01, 2008 11:03 PM
Subject: [shira_philosophy:3305] 父のことーご報告


武田です。

今日(10月1日)は、父の退院日なので、朝9時30分、文京区の○○病院に行きました。
特定の病気ではなく、全身衰弱(老衰)でもう長くはないので、自宅で最期を看取るための退院です。
病室に入ると、
父は目もうつろでようやく息をしていましたが、わたしの顔を見るや一生懸命話しかけてきます。しかし声にはなりません。「迎えに来たよ、家に帰るからね。」と言うと、分かったという目をして静かに口を閉じました。
とてもタクシーで連れ帰れる状態ではないので、病院側で、寝台車と人の手配をしてくれることになりましたが、午後1時30分になるというので、荷物を持っていったん家(文京区の実家)に帰り、母に様子を話していましたが、
12時に医師から電話があり、どうも1時30分まで持ちそうにないので・・・というので、
急いで病院に行きました。
10分ほど前に呼吸が止まった、ということでしたが、まだ心臓は動いていて、身体は暖かかったです。それから2分後の12時27分に心臓も止りました。最期の命の炎が静かに消えたのですが、いつ消えたのかは分かりませんでした。

その後、葬儀社に電話をし、自宅まで遺体を運んでもらい(午後2時ころ)、葬儀の方法と日どりを決めました。
生前の希望通り、家族葬とし、4日(土)の通夜・5日(日)の葬儀を自宅で行うことにしました。

隣りが武田家の寺である○○寺ですので、4時過ぎに坊さんに来てもらい、枕経をあげてもらいました。

幼いころ、毎日のように、昔話や創作話を聞かせてくれ、スポーツやゲームなどをして遊んでくれ、分からない勉強は意味が分かるように教えてくれた父は、いわゆる父権とはまったく無縁の人で、子供に対して何かを望むということはありませんでした。無類の動物好きで、とても優しく、年を取ってからも知的好奇心を失わない父でした。

以上、ご報告です。

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From: "武田 康弘" <shirakaba2002@k.email.ne.jp>
To: <白樺教育館メーリングリスト>
Sent: Sunday, October 05, 2008 11:06 PM
Subject: [shira_philosophy:3324] 父の通夜と葬儀のご報告


武田です。

みなさんのメール、棺に入れて亡き父と共に浄土に送りました。どうもありがとうございました。

昨晩の通夜では、○○寺のお坊さん二人と親鸞と蓮如のこと、宗教思想と哲学思想の違い、歎異抄のこと、浄土真宗東本願寺(大谷派)のこと・・・を食事をしながら父の棺の前で語り合いました。

火葬場では、驚かされました。痩せて細かった父の骨が大変しっかりしていたことです。ふつうは崩れてしまう弱い部分も形がそのまま残り、係の人が「こういうことは、あまりないことです。」と話していました。また、骨の量が多く、大きな骨壺でも入りきれず、詰めて入れました。「ふつうの人の倍近くあります。」と係の人が驚いていましたが、わたしも予想外のことでビックリしました。

金テミョンさんの本-『欲望としての他者救済』ではありませんが、父は、誰に対しても親切で、親戚の人の面倒のみならず、他人の面倒もよく見ていました(母の実家である神田の家には地方から上京してきた若い人がよく泊っていました)。父は動物の世話と同じように人間の世話も好きだったのです。「他者救済」という気はなく、ただ自然の心のままにそうしていました。

南無阿弥陀仏
コメント
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