思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

この一週間、Blogを多くの方に見て頂きました。とても感謝です。

2019-10-18 | 学芸


この一週間、Blogに多くの人が訪問してくださいました。とても感謝です。これからもよろしくお願いします。


毎日、289万Blog中の ベスト10でした。

 

10月16日(水)

9位

10725PV |7562UU |2892627ブログ中

 

10月15日(火)

8位

12690PV |9023UU |2892461ブログ中

 

10月14日(月)

6位

15849PV |10443UU |2892275ブログ中

 

10月13日(日)

9位

10902PV |7237UU |2892149ブログ中

 

10月12日(土)

4位

19595PV |12688UU |2892062ブログ中

 

10月11日(金)

4位

18551PV |11665UU |2891903ブログ中

 

10月10日(木)

10位

14479PV |8765UU |2891738ブログ中

 

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「天皇とは奇妙なもの、単に無形の名らしい」ー志賀直哉  必要なのは名誉革命=共和制へのスムースな移行です。

2019-10-15 | 学芸



 鋭利な感覚神経と強い直観力をもつ白樺派の志賀直哉は、「小説の神様」と呼ばれましたが、大学時代のノートに以下のように記しています。1906年(明治39年)、23歳の時です。

  「天皇とは一体なんだろう?どうして何の為に出来たのだろう?誠に妙なものだ。こんな奇妙なものがなければならないのかしら?天皇というのは恐らく人間ではあるまい、単に無形の名らしい。その名がそんなにありがたいとは実に可笑(おか)しい その無形の名の為に死し、その為に税を納めて。その名の主体たる、一つの平凡なる人間を及びその一族(交際する事以上何事も知らぬ。交際せんが為に生まれて来た人間)をゼイタクに遊ばせて加えてそれを尊敬する、何の事か少しも解らぬ、そういう人から爵位をもらって嬉しがる、嬉しがって君のためなら何時でも死す、アア、実に滑稽々々(こっけい こっけい)。・・・・・・・・」

   奇妙なもの  人間ではあるまい、単に無形の名らしい。

 という言い方は、さすがというほかありません。文学者の鋭い直観力で、見事にひとことで近代天皇制の本質を穿(うが)っています。中身・内容のない単なる「名」」であるゆえに「形」も定まらない。だから、人間ではなく、単なる無形の名に過ぎない というわけです。

 天皇とよばれる人は、その人固有の性質をもった一人の人間 (実存)ではなく、明治政府によって作られた近代天皇制というシステムにはめ込まれた人で現人神(あらひとがみ・生きてる神)と規定されました。

 これは、吉田松陰が、後期の水戸学や国学を用いてつくりあげた【天皇教という国家宗教(国家神道)】で、そのイデオロギーに感化された長州藩の若者(下級武士)たちの過激な思想と暴力を支えた「主義」です。

 したがって、天皇というのは、個性をもった一人の人間ではなく、「単に無形の名」なのです。現代の言葉でいえば、「記号」です。記号化された人間ですから、奇妙なもの、であるわけです。気の毒とも言えますが、その名により、数々の戦争や残虐が行われたのですから、評しようもない話です。

 「記号学」という学問は、政治に利用され、人々を特定の方向に導くための研究に使われたりもしています。電通などの大手皇国代理店ではなくて(笑)広告代理店において企業や政党(自民党など)のCMづくりに用いられます。人間は、ある言葉や動作、儀式や空間、音や音楽などを見聞きしたとき、自動的に脳は、さまざまなシンボルをつくります。そのシンボルをもとに思考は進みますので、記号学では、どのような言葉や儀式や空間や音をつくれば、特定のシンボルを脳内に生じさせることができるかを研究します。イメージの世界を支配する方法とも言えます。

 わたしたち日本人は、明治政府が考え決めた「一世一元の元号制度」(明治以前にはなかった新制度)により、日々、自動的に天皇と一体となっている時代名を使います。わたしの生まれは、昭和〇〇年で、今年の5月からは令和元年、平成という時代は云々だった、と言いますが、ほんとうは、時間がブツギレになり、まるで物の存在のように実体化されるのは、おかしな話です。日本だけに固有の時間ー時代がある、というわけですが、そういう意識を生じさせるのは、元号という記号のおかげ!です。そこから、「日本人」という特別の存在がある、という思いも生まれます。

 あまたの記号で、日本最大のものが、「天皇」という言葉でしょう。即位の礼と大嘗祭という儀式を行い、天皇という役を担うことになると、個性をもった一人の人間は天皇という記号へと変わります。この記号は、おそろしいまでの力を放射し、日本人は、この言葉=記号を聞くと完全な思考停止になります。天皇という概念や天皇制について考えることはタブーとされ、マスコミも天皇制の検討は一切しません。人々は、この記号により無意識領域まで管理されてしまい、思考は無となります。

 では、なぜ、天皇という記号が、これほどまでの威力をもつことが可能なのでしょうか。
 それは、天皇教という儀式宗教が、内容をもたないからです。特定の内容はなく、三種の神器という秘密めいた品があり、万世一系という神話(もちろん真っ赤な嘘)があり、さまざまな秘密の儀式があります。天皇は1年間に200以上の儀式を行い、その多くの核心部分は秘密です。このようにたくさんの儀式があり、中身がないのが天皇教の特徴です。

 内容・中身がないのですから、批判のしようがなく、対立もおこりません。「型」=「単なる無形の名」(名だけがあり内容を伴う形はない)があるのです。
 厳かな仰々しい儀式があり、その儀式の型は、代替わり、死去、米の豊穣、安心・安全、及び紀元節の祝いや神武天皇を実在の人物とする儀式などですが、儀式の真の目的は、天皇という記号の神秘性と権威性を示すところにあります。天皇とは吟味・検討を許さない超越的な存在であるという想念を人々に浸透させ、有り難いものと感じるように導くわけです。内容は、その時々の世俗の価値に合わせて変わりますから、戦前は皇軍の顔で戦争のシンボルでしたが、今は平和の象徴です。柔軟!?でなんにでもなれます。

 「どのような言葉を使い、所作をし、儀式を行えば神秘性と権威性を高められるか」その追求に特化して生き延びてきたのが天皇家ですから、ずっと昔から記号学の実践的研究に取り組んできた家系(血のつながりは途切れているが)といえるかもしれません。また、天皇家にしか使われない数々の特別な言葉=敬語をつくることで、世俗を超越した天皇というイメージをつくり出し、無言のうちに人々に頭を下げさせます。さらに、戦後の象徴天皇制においては、親しみをつくる言葉や所作や行為を追求し、その基盤を強める努力もしてきました。

 この方法はとても優れていて、上位者は、上位者であることを示せば、自然に勝てる仕組みとなりますから、日本ではみなが用いています。そのために、中身・内容の追求はおろそかになります。生き方の探求や実存の冒険がなく、わたし固有の意味充実の世界を拓く営為がひどく乏しくなります。個々人から立ち昇る精神の自立がなく、組織の中で決められた役割を果たすのが人生の意味となるのです。これは、人間管理の究極の形態と言えます。内容は乏しくとも形式だけが立派という生き方に誘導されます。

 恋知(フィロソフィー)の営み=実存としての生はありません。 

 明治政府がつくった近代天皇制は、いまもなお象徴天皇制として生き残っています。天皇という役を担う人の人権を奪い、その代わりに超がいくつもつく特別待遇をし、皇族と呼ばれる一族を縛り、一人の人間として生きる道を閉ざしています。思想や発言の自由はなく、参政権もなく、個人の尊重もありません。数々の権利がない分、義務もなく、多額の収入(すべて税金)はありますが、納税の義務は果たしません。それは、天皇は国籍を持たないからです。苗字はなく、住民登録もなく、日本の法律(実定法)は適用されませんので、法的には日本人ではなく、宙に浮いた存在です。

 こういう説明不能の天皇という存在が日本人全員を統合する象徴!? この理不尽なシステムを維持するには、永遠に「単に無形の名」である記号に頭を下げ続けさせる努力=染脳・占脳を続けるしかありません。

 

 天皇を国事行為から解放して一人の人間としての人権を保障し、文化的行事への貢献者とし、いまの数々の国事行為は、近代市民社会にふさわしい形に簡略化し、大統領(元首であり、政治権力はもたないが、首相の国会解散への拒否権はもつ)が行うのです。天皇制から共和制へのスムースな移行です。市民精神にも基づく話し合いで、混乱なく天皇を「単に無形の名」から解放し、明治以前の日本の伝統に戻し、同時に現代にふさわしい自由な生活を保障するのは、日本の名誉革命(市民革命)になります。住まいは、徳川家の城である江戸城ではなく、ほんらいの京都御所となります。それに伴い江戸城(皇居)は、公共の公園として国民みなのオアシスに変わります。首都東京=千代田区の真中に自然がいっぱいの広々とした公園がある国は、世界に誇れる民主主義=市民主権の国です。なんと素敵なことでしょう~~~~~~

 天皇教の呪縛から解放された国民と天皇家は、自由・平等・友愛の精神を現実に自らのものとし、生き生き伸び伸び、型ハメ、束縛、上下意識から自由になり、みながそれぞれの個性を大胆に肯定して生きる国へと変わります。

 ※天皇家にのみ伝わる宗教=儀式をどのようするかは、最終的には天皇家の人々の判断です。簡略化したり、不要と思われるものを廃止したり、あるいは、盛大に行うか、それは、信教の自由で、天皇家の問題です。ただし、税金を用いるのは、日本国憲法に反しますから、不可能です。(憲法第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。2.何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。3.国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない)

 
武田康弘
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ポール・ルイスのベートーヴェン「ディアベッリ」と、コパチンスカヤ&クルレンツィスの「チャイコスキーV協」の衝撃。驚愕の体験が続く。

2019-10-06 | 学芸

 今年2月11に初来日したギリシャ哲学に基づく革命家集団=クルレンツィス指揮・ムジカ・エテルナ(シベリアのベルミが本拠地)と同志の天才ヴァイオリン奏者=コパチンスカヤ(彼女は何度か来日しています)によるチャイコフスキーヴァイオリン協奏曲は、
 墨田トリフォニーホールのすべての聴衆の度肝を抜き、会場は息もできぬほどの緊張感と、終曲での爆発的な解放感は、かつて誰も味わったことのない超絶の演奏で、あまりの内容の豊かさと表現の幅の広さと恐ろしくなるほどの鮮鋭さに、批評する意味を失い狂喜するほかない体験でした。


 今度は、10月1日に銀座王子ホールでのピアノ独奏。ポール・ルイスによるベートーヴェンのというよりピアノ曲の最高峰=ディアベッリの主題による変奏曲。これも、空前の名演奏で、50分が半分ほどの長さにしか感じられない変奏のコントラストの大きさと面白さで悦びでいっぱいになり、恐ろしいほど強靭で完璧なピアニズムに心身の内から熱が出て、言葉を失いました。

 この曲はわたしの最も好きな曲で、各種LPやCDで何百回も聞いてきましたが、ルイス自身による最高の名演奏(10年前のCD)をもはるかに超えて、鳥肌立ちっぱなしで呆然。クラシック音楽の恐ろしいほどの深みと大きさと強靭さ。頭の芯まで震え、全身が痺れ、恍惚となる超絶な音と音楽を前にして、ああ、なんともありがたい。至上の幸福でした。かみさんは興奮で眠れず、わたしも睡眠剤を飲む羽はめに(笑)

両日とも白樺同人をお誘いして、ほんとうによかった~~~!!

   
 2019.2.11  墨田トリフォニーホール。撮影・武田              2019.10.1   銀座王子ホール   撮影・武田

(☆こういう人と音楽を前にすると、改めて生まれによる差別の構造=天皇制の底知れぬ愚かさ、皇族という存在の茶番、即位の礼などの仰々しい儀式(内容なし)には心の底からぬんざりします。ああ、いつまでも愚か。超アナクロニズムを人のお金を使って(呆)。少し脱線、失礼・笑)


武田康弘

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形式―儀式に頭を下げる人生ではなく、中身・内容のよさで生きる意味充実の人生を。天皇教=元号教に従うのは困りもの。

2019-10-05 | 学芸

みなさま

立派な形式=仰々しい儀式があり、中身・内容のないのを特徴とするのが天皇教ですので、その時の状況により何にでもなれます。

戦争をし続けてきた明治から無条件降伏までは、皇軍の神でしたし、戦後民主主義になれば、平和の顔というわけです。

その象徴が一世一元の元号制度ですが、わたしは、そのような宗教的心性をまったく持ちません。

したがって「天皇教=元号教」とは縁のない考え方ー生き方できましたし、今後もそうします。

わたしの知人や友人には、同様の意見の人が大勢います。

みな、天皇教=元号教には少しのシンパシーも持たず、むしろ、嫌な気持ちになります。

ここで大切なのは、「わたしは、天皇教徒ではなく、元号は使わない」というハッキリとした意思です。

その意思を明晰にすることが、わたしの精神の自由を担保することになります。

あなたには、あなたから始まる個性的で豊かな心、水のようにしなやかで強い精神、のびのびとした自由な言動と笑顔で生きてほしいと思います。

形式―儀式に頭を下げ従う人生ではなく、中身・内容のよさで生きる意味充実の生を歩んでください。わたしはもちろんそうして生きてきましたし、これからもずっとそうします。

※先のBlogもぜひご覧下さい。




 武田康弘 (写真は2019年9月)

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ノット・東響によるモーツァルト交響曲41番ーー11月23日(土)超名演間違いなし!ぜひ。

2019-09-29 | 学芸

 

 

 私は、ノットのモーツァルトが大好きです。

 ダ・ポンテの三つのオペラは、みな見事で、存分に楽しみましたが、2年前、「東響の東京オペラシティシリーズ第100回」での交響曲39番の美しさと迫力、強靭なる気品とも呼ぶべき演奏に、心底満足しました。今まで聴いた最高の39番で、ただ感激!

 なので、11月23日(土)の同一会場での41番(モーツァルト最後の交響曲でローマ神話の主神=ジュピターの愛称があり終曲は見事な三重フーガ)は、名演間違いなしと思っています。それに、日本のオケで、モーツァルトに最も適したのが東響ですし。

 また、プログラムも凄い! リゲティの管弦楽のためのメロディーエン。続いて、R.シュトラウスのオーボエ協奏曲。休憩後に、41番・ジュピターです。

 S席(8000円)のみですが、残席がありますので、ぜひ、どうぞ。



武田康弘


 

 

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天皇制的精神風土(元号はその象徴)の中でのナショナリズムはとても危険です。

2019-09-23 | 学芸

 ナショナリズム(愛国主義)の危険性は、どこの国でも同じですが、とくに日本ではナショナリズムの培養に、皇族(天皇)が利用されるために、恐ろしいまでの絶対化になりがちです。「万系一世」(もちろん史実ではなくフィクション)という想念が流布されることで、「特別国」という意識を植え付けられがちです。

 

 天皇家の方も利用されるマイナスは分かりながらも、儀式により政権を聖化する役割を果たすことによって、超がいくつも付く特別待遇が得られ、それは外国でもそのまま通用しますので、この巨大な利権を自ら手放すことなど思いもしません。 代々の『天皇家』(実際には天皇という名は、平安初期の村上天皇を最後に消え、江戸後期の光格が再び天皇を名乗るまで800年間以上、天皇の称号は存在イしませんでしたが)は、権力を聖化する儀式を執り行うことにより生き延びてきたわけです。権力を直接もつこと(持とうとしたこと)は、ごく稀であり、「国家神主」(思想内容はごった煮ですが、さもさもの儀式をつくり行う)の仕事に自らを特化するという基本戦略を持してきたために、権力者(武士の権力)に滅ぼされることがなかったのです。

 

 中身・内容をもたないのが天皇教です。形式(=儀式)だけがあるというのが彼らがが編み出した「天皇教」という宗教です。明示的な内容を持たないで、その時その場の状況に合わせて生きるというのが最大の特徴です。内容がないので、なんにでも化けられるわけですし、論争になれば、内容には踏み込まず、形式上の問題をクリアーすればよいだけですので、上位者にある自分たちがいつでも勝者となれます。そうなので、中身・内容の進展と豊穣化は得られず、ツマラナイ灰色の世界が広がるだけとなります。人間性の豊かさ、面白さ、楽しさはどこにも見当たりません。

 

 唯一の聖典と目される「日本書記」(「古事記」は正史から除外された)は、7世紀末(673年~689年)に壬申の乱で勝利し、最初に天皇を名乗った天武の命令で、自らの権力支配を正当化するためにつくられた書物でしかなく、思想内容は空疎です。

 

 このように内容がなく形式だけを整えるという思想は、今日までずっと日本人の生き方を支配してきました。例えば、受験勉強に漬かり(パターン知と丸暗記による人間のAI化)東大に入れば、その名前の力=形式力は抜群で、現実的にも心理的にもその「利権」はすばらしい(笑)ものです。中身・内容の魅力ではなく、形式が偉いという思想は、深く日本人の心身を犯してきました。それが幸福をつくらない人間と社会をもたらす深因ですが、有名という言葉にウットリして、自分を平気で売り渡す思考停止になり、精神的自立なきままに一生を終えてしまうのでは、根源的な不幸としか言えません。

 

 ネオテニー(幼態成熟・人は「オトナ」にはならない))という人間の特性を自覚し、自分の身体と頭を用い、体験を踏まえて考えるフィロソフィー=恋知の生が始まらないのは、中身・内容よりも形式が先立つ天皇制的な心性を知らずに身に付けてしまい、その結果、「私」から立ち昇る生き方ができないからといえます。精神の自立がなく、集団同調(ハチやアリの属性)で生きるのでは、ひどく哀れです。天皇教という国家宗教に呪縛されたままでは、実存としての生がはじまらず、魅力ある豊かな存在としての個人が花咲きません。

 

 もうそろそろ、天皇教の呪縛(明治維新がつくった「一世一元」の元号制度はその象徴)から解放され、生き生きのびのび自由、意味充実の人生を歩もうではありませんか。日本主義(天皇教=国体思想)からのコペルニクス的転回が必要です。豊かな一人の人間になろう!

 

武田康弘


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縁を自覚しない人生は、平板であり、不幸です。忘恩の人になります。

2019-09-14 | 学芸

 抽象的に「みなさまのおかげで」と言う人は多いが、
では、具体的に、いま自分があるのは? 直接的な縁、大元の縁は誰か、何か、を自覚して生きる人は少ないようだ。
いま自分がしていることは、何をキッカケに、誰の影響で、どのようにしてはじまったのか? なぜ続いているのか、あるいは切れたのか。

 いつもそうした縁を考えて発言し、行動することは、極めて重大だ。よく生きるための基盤と言える。縁をたどれば無限だが、誰のどのような発話や行為により○○が始まったのかを意識することがないと、夜郎自大の人間に堕ちる。
 そうなると、善美とは無縁となり、公平・公正は体裁=形だけとなり、毒々しい自我欲望を湧出する人間となるが、本人はそのことに無自覚なため、処置なしとなる。

 できるだけ金品を自分のものにする、できるだけ権力を自分のものにする、できるだけ自分を偉いものにする、それがその人の生きる意味=価値となる。 本音としては利害損得が一番であり、イデーをつくり育てるとは無縁、善美も公共も言葉だけ、よき意味も価値もない時間をいたづらに生きる存在に堕ちる。

 それは、その人が話し書く言葉ではなく、その人が実際にしていることに現れる。

 縁の自覚化は、何よりも一番必要で大切。無限の縁をすべて自覚することは不可能だが、直接の、大元の「縁」はなにか?の自覚は誰もが持っているので、反省すればすぐに分かる。自分を自分で騙(だま)す自己欺瞞に陥っていない限りは。

 あなたの言う言葉ではなく、あなたの行為、実際の小さな行為の一つひとつにあなたの存在のありのままがあぶり出しになる。
 縁を自覚しない人は、忘恩の人となり、平然と恩を仇で返す人へと堕ちる。恐ろしいことだ。

 

 ブッダ(ゴータマ・シッダールタ)の修行の果ての悟りは、すべては縁により起こるという「縁起の法」ですが、ここでブッダの言う「縁」とは、無限のつながりであり連関であり出会いであり、突然であり慢性であり、偶然であり必然であり・・・言葉による定式化の困難な「縁」により「実体」と思われているものはつくられていて、固定した実体は存在しないと看破したのでした。ずっと後に竜樹はそれを「空」と呼び、色即是空・空即是色として説明しましたが、一言で「縁」と言い切ったブッダの卓越にわたしは感心します。

 その意味での「縁」とわたしの言う「縁」とは同一とは言えませんが、上記の私の思想は、やはり「縁」という言葉がピタリで、他の言葉には置き換え難いものです。



 ※ 以上は、9月11日(水)の「恋知の会」でお話ししたことです。



武田康弘

 

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「私は山本太郎に発掘されたノンポリ」 自民党議員一家で育った25歳女子が「れいわ新選組」を推す理由-----Business insider Japan

2019-08-31 | 学芸

以下は、とても貴重なお話です。
いま、まだ氷山の頭が見えているだけですが、日本社会はメタバシス(地盤偏移)を起こしています。大変革の前夜でしょう。
記事をコピーします。

「私は山本太郎に発掘されたノンポリ」 自民党議員一家で育った25歳女子が「れいわ新選組」を推す理由

参議院議員の山本太郎代表率いる政治団体「れいわ新選組」への寄付が3億円を超えた。街中での街宣活動はまるでフェスのような盛り上がりだ。

その輪の中に、自民党議員の家庭に育った25歳の女性がいた。チラシ100枚のポスティング、ポスター貼り、公選ハガキの送付、SNSでの拡散……。これまで「ノンポリ」だったという彼女が、なぜここまで「れいわ新選組」の選挙活動を支援するのか。

初めての寄付は250円

山本太郎

7月13日、東京・新宿で演説する「れいわ新選組」の山本太郎代表。

 

250円。

東京都内に住むAさん(25)が初めて「れいわ新選組」に寄付した金額だ。政治団体への個人献金も初めて。5月、山本太郎代表が街宣活動をしているところに偶然通りかかったのがきっかけだったという。

山本氏は演説が終わった後、自身との写真撮影の時間を設けている。マスコミでの露出が少ないため、参加者にSNSにアップして拡散してもらう戦略だ。参加者にとっても「日々の困りごと」を訴えたり、ねぎらいの言葉をかける貴重なコミュニケーションの時間になっている。

Aさんも写真撮影の列に並んだ。どうしても言いたいことがあった。

名門海外大学院でも手取り月12万円

山本太郎

「あまりにもひどい政治の中で、自分自身が参加しても何も変わるはずがないと思い込まされてる」と山本氏は参加者に問う。

 

Aさんは慶應義塾大学を卒業し、現在は海外で理系の大学院に留学中だ。専攻している学科は世界でトップ5に入る名門校。4月に帰国し、日本の研究機関で1年間のインターンシップをしている。華やかな経歴に見えるが、生活は厳しい。

インターン先からもらう給与は、手取りで月12万円。パートナーの男性と2人で住む賃貸住宅の家賃は月8万5000円。雇用保険はインターン先で加入しているが、住民税や国民年金は自分で納付しなければならない。年金は支払えないため、免除申請をしている

女性は現在、修士課程。将来の夢は研究者になることだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以下は元の記事を見てください(載せきれないので)。
クリックで飛びます。

元自民党議員の祖父にも公選ハガキを送った。母親には「あまりのめり込まないで」と釘を刺されたそうだが、自民党員の親戚には「シングルマザーの候補者などもいて、すごく共感する」と好感触だ。

異端扱いして得するのは誰ですか

れいわ新選組

「テレビ中継は入っていますが放送されるか分かりません。今見て行ってください」と通行人に声をかけるスタッフたち。

 

山本氏に「熱狂」する支持者を嘲笑するような空気が一部にあるが、Aさんは「太郎さんはカリスマじゃない。常に私たちと同じ目線だから支持してます。そうやって候補者や支持者を“異端”扱いするのは強者の思うツボですよ」と一蹴する。

山本氏がマイクを握るれいわ新選組の街宣活動には、親子連れ、タピオカを手にした若いカップル、ヘルプマークをつけて杖をつく老人、車椅子に乗る障害者など多様な人が参加しているのが印象的だ。

演説中もその後も、寄付の受付には長蛇の列ができる。若い人も多く、Aさんのように100円玉と10円玉数枚を寄付していく人もいる。

3億円という異例の個人献金を支える彼らの姿に、声に、社会は向き合ってきたか。選挙が終わった後も続く彼らの日常を、私たち1人1人が想像してみる番だろう。

 

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皇族が他者の住居(江戸城)に住み続けているのは、不道徳ではないですか? 京都御所に戻す(戻る)べきでしょう。

2019-08-24 | 学芸

 江戸城が無血開城され、江戸の町は戦火から免れましたが、もしも長州と薩摩の軍隊が江戸に突入していたならば、会津の惨劇(長州軍により金目のものは根こそぎ奪われ、若い女性はみな犯された)の再現で、オゾマシイ結果となったのは間違いありません。そうはさせじと、勝海舟は、和戦両方を考え、いざとなれば、薩長軍を江戸に入れた後、一斉に火を放ち(なんと火消したちにその用意をさせていた!)庶民たちを河川に集めた船で避難させる用意までしていました。

 しかし、現実は、江戸幕府から大統領制に移行する案もありましたが、それは消え、天皇現人神による人心支配となったのでした。

 けれども、この天皇なるものは、大化の改新から続いていたのではなく、村上天皇を最後に天皇という呼称は使われなくなり(実権を失い京都周辺のローカル王となった為)平安時代初期から江戸時代後期まで800年間は、日本に天皇と呼ばれる人は存在していませんでした。それが、江戸後期に光格が権力欲により大袈裟な行事を次々と生みだして、再び天皇(光格天皇)を名のるようになったのです(※詳しくは、学習院大学と大学院で教える遠藤美都男著「名前でよむ天皇の歴史」(朝日新書)をご覧下さい)。

 明治維新政府は、この天皇家を用い、天皇現人神という国家宗教(国家神道=靖国思想)をつくることで、全日本人を天皇の前に拝跪させることに成功しました。「一世一元」とし、天皇と元号を結び付けて、時間=時代まで管理することに成功したのです(今に至るも続いている)。一世一元とは、それまでの日本の歴史には一度もなかった制度です。

 このとき、伊藤博文や山県有朋らは、まだ満で15才の睦人(むつひと)を京都御所から連れてきて、江戸城に住まわせ、現人神として教育していったのでしたが、この天皇教による政治体制は、「ポツダム宣言」受諾=無条件降伏によりおわり、主権者を天皇から国民に180度変えて、新憲法がつくられたわけです。

 

 そこで大問題なのは、戦後の新憲法下でも、江戸や江戸城にはまったく縁のない天皇家を江戸城という他人の住居に住まわせていることです。睦人は当時の権力者に連れて来られたのですが、今の皇族たちは、そうではありません。それが、いまなお他者の家に住み続けるのでは、反道徳の誹りを免れません。自分たちの家である京都御所に戻す(戻る)ことは必須です。

 大切なことですので、皇族を含めてみなが、きちんと真面目に考えなければならないことです。


 また、憲法14条には、すべて国民は、「門地(生まれ・家柄)により差別されない」と明記されているのですから、皇族の特権は縮小していくほかないのです。皇族の人権回復とセットである特権の縮小は避けて通れません。


武田康弘



 

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極めて不可解な警察=京アニ放火犯の氏名を公表しないのはなぜ? その意図は。

2019-07-19 | 学芸

 

 京都アニメションへの放火犯は、現行犯逮捕され、免許証から、氏名も住所もすべて分かっているのに、警察は、41歳の男としか発表しないのは、なぜか?

 極めて不可解な警察の態度です。

 警察は、すぐに、情報を公開しなければいけないのです。



武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員調査員)

 

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安倍政権と若者の意識、底知れぬ恐ろしさの正体は? 正鵠を射る東京新聞論説は、必読です。

2019-07-11 | 学芸

ぜひ、じっくりお読みください。正鵠を射る論説です。 「東京新聞」・2019年7月12日朝刊



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フィロソフィーとは主観性の知です。「客観」とは背理。楽しく豊かに。

2019-07-07 | 学芸

 

 客観とは背理であることを踏まえるのが「認識論」の基本なのですが、この純哲学領域の極めて大切な原理を弁えない人が、あまりに多く、そのために、無用の混乱が生じます。

 

 どのような見方もみな「主観」であることを明晰に意識しないと、争いが絶えません。民主制も公正や公平という概念も客観ではなく主観です。

ただ主観にも種類があり、感情を爆発させるような主観もあり、落ち着いた主観もあります。自由で豊かな主観もあれば、固くて意固地な主観もあります。言葉ではとても説明しきれない多様さを持ちます。だから人間は面白く、豊かで、楽しく、生き生きとします。

 

 話をするときに何より大切なのは、自分の感じ方・想像世界のありよう・よいと思う考え方を正直に述べることです。一番困るのは、それを開示しないで、「○○は○○であるはず」と決めるような発言・行為・生き方です。客観的真理(あるいは「もどき」)が存在すると思う心が、人間性の根源=エロース領域を犯してしまうのす。

 

 会社組織であれ国家機関であれ、管理者側の人は、この客観という神話に囚われている人が多く、現状に対する無難な思考や多数派を正しい(=客観)と信じます。調停者である自分の判断(それも主観なのですが)が正しいと思い込みます。役人的気質です。こどもの頃からお受験で、生き生きとエロース豊かに生きてこなかった人は、客観的真理があると思い込む「客観宗教」に囚われてしまう不幸に陥りがちです。日本人ものびのび楽しく、人間性豊かに生きたいものです。


武田康弘


 

 

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ベンジャミン・フリスのベートーヴェンの世界に感動! 墨田トリフォニー小ホールでのピアノ独奏会=ディアベッリの主題による変奏曲など。

2019-06-19 | 学芸

 

 

  人類の生み出した最高のピアノ曲・ベートーヴェンの「ディアベッリの主題による変奏曲」、これを自家薬籠中のものとしているフリスの名演に感動しました。派手さや見栄とは無縁の内的充実の極みで、50分を超える大曲があっという間でした。

  前半の二曲、とりわけ6つのパガテル(作品126・最後のピアノ曲)も聴きごたえ十分の名演、ディアベッリを含めすべて暗譜でした。

  フリスは曲に没入し、実に楽しそうにピアノを弾き、音楽の表情が豊かです。62歳の充実期の来日なのに聴衆が少なかったのは残念でしたが、NHKが5台のテレビカメラで完全収録していましたので、後日に、見、聴くことができます(放映日は未定)。


  それにしても「ディアベッリ変奏曲」の独白と対話、
リアルとロマンが一体の恐るべき曲のもつ面白さを自在に演奏したフリスの実力は素晴らしいの一言。この曲は、あるゆる既成観念を超えて自由そのもの、強烈なまでのファンタジーを持ちます。それが目の前で現実の音になって鳴り響いたのですから、ただ感動あるのみ!  ディアベッリの知名度が上がったのは、まださほど昔ではありません。ベートーヴェンはとんでもない曲を創ったもの、と改めて感じ入りました。


 10月1日には、同じイギリスのピアニストで、現代最高のベートーヴェン弾き(少なくともその一人)のポール・ルイスによるディアベッリの演奏会もあり、とても楽しみです。銀座王子ホールです。



武田康弘

 


 

 

 

 

 

 

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西暦=世界暦について。ご存知でしょうか? ユリウス暦をグレゴリオ暦という名称に変えたのはカトリック教会の詐術です。

2019-05-14 | 学芸

 

 ADとは、ラテン語で、アンノドミニ(Anno Domini)の略です。「主(イエス・キリスト)の年に」というキリスト紀元と言う意味ですが、このキリスト紀元という暦は、10世紀ころから欧州で使われはじめ、15世紀以降に一般化したものです。なお、キリストの誕生は紀元前4年ないし5年ころと推定されますから、生誕年とは一致しません。 

 19世紀以降は、キリスト紀元ではなく、世界暦にするために、CE(
Common Era「共通紀元」)に変える動きが広まっています。紀元前は、Before Common Era(BCE)

 もともと、西暦と呼ばれる現在使用されている暦の基本はユリウス暦で、これは、BCE(紀元前)45年にローマ共和国のユリウス・カエサルが制定した「4年に一度閏年(うるうどし)を置く太陽暦」ですから、キリスト教とはまったく関係ありません。

 ただし、1年を365、25日(365日と四分の一日)としていますので、より正確な1年=約365.2422日とはわすかなズレが出ます(1年間で11分強)。それをユリウスによる制定から1600年ほど経った1582年に修正し、400年間に100回の閏年を97回に減らしましたが、この「修正ユリウス暦」を「グレゴリオ暦」とまったく別の名前に変えました。


 
グレゴリオというローマ教皇の名によって誤差修正を行い、ユリウス暦をキリスト教会の暦であるかのよう見せるために名称を変えたのです。ユリウス暦はキリスト教とは無関係(キリスト生誕前)でしたが、ユリウス暦の修正とは言わずに、グレゴリオ暦という異なる名称にしたのは、ローマカトリック教会の詐術なのです。そういう事情で、現在の暦はグレゴリオ暦と呼ばれているのです。


 
なお、1年を12カ月に分けて365日とする太陽暦(一カ月を30日として最後の5日間は特別の祝日とした)は、BCE(紀元前)4000年以上の昔からエジプトで用いられていたもので、エジプト暦と呼ばれています。



 火星2018年1月28日
 白樺教育館21㎝反射望遠鏡で武田撮影


武田康弘

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どこへも行かずに天下を知る ・ 為さずして成す。  老子47章

2019-05-06 | 学芸

どこにも行かずに、世のありようを知る。

窓の外をうかがわずに、天道を知る。

遠くへ行けば行くほど、知ることは少なくなる。

だから、聖人は、どこにも行かないで知り、見ずして明らかであり、為さずして成す。

(老子47章)



武田康弘

 

 

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