思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

憲法改定を先導する首相は、完全に憲法違反です。原理・原則も弁えない日本の知的退廃は底なし。

2017-05-12 | 社会思想

以下は、Atsushi Nishjima さんのfbです。


「第九十九条
 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」

安倍、完全にアウツ! 違憲です。

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武田 康弘主権者が為政者に課す約束事の理念を、為政者が守らずに、とりわけ最大の順守義務を負う首相が改憲を先導することは、明白な憲法違反と言えます。

 

Utida 憲法は主権者の意向を受けて国会が発議するものでしょう。行政府(のトップが安倍総理大臣)は、国会で決まった決まったことを実行する機関でしょう。唯一の立法機関は国会です。デタラメ国家ですね三権分立という原理さえ知らないのは、おそろしいこと。


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Atsushi Nishjima安倍は憲法が何たるかを理解していない。
国会は改憲云々を議論する前にその確認を先ずしっかりするべき。
犯してはいけないものを犯そうとしているという事を全国民は周知すべき。




上記の当然の見解も分からない首相及び政治家、マスコミ関係者は、見事なほどの知的退廃で、なんということか、日本はおわっていると言いたくなります。
なぜ、これほどまでに愚かなのでしょうか?

基本をしっかり勉強しないといけません。


 

武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室 客員調査員「日本国憲法の哲学的土台」を国会職員に講義)

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藤田嗣治 渾身の大作 『サイパン島 同胞臣節 全うす』 (近代美術館)ー死ぬこと 「教育勅語」の最高の成果

2017-04-05 | 社会思想

 対米戦争を実際上決定したのは、東条英機ではなく昭和天皇であることは、長く封印されていた第一級資料に基づく実証的歴史学が教える事実です。裕仁天皇は、戦争回避の「軟弱」な近衛文麿を辞めさせ、お気入りの東条英機を首相にし対米戦争に踏み切りました。天皇を生き神として崇拝していた東条が、天皇裕仁の意思と異なる決定をすることは不可能でした。

 アメリカは、東京裁判による戦後処理で、裕仁の戦争責任を免責し、戦争の最高責任者を首相であった東条英機一人に負わせることにしましたが、それは、日本をアメリカの同盟国(実際は属国)としてつくり直す戦略によります。東条が処刑された七日後に、皇居からの勅使が東条家を訪れ、勝子夫人に「東条は本物だった」と天皇の言葉を伝えたのは、東条が何もしゃべらずに一人で罪を背負い死んでいったことへの謝意でした。

 天皇裕仁は、マッカーサーと握手することで、皇室を無傷で残し、アメリカ駐留軍と自らの意思により、日本人と日本全土のコントロール(支配)に成功したわけです。

 昭和天皇は、幼いころから「天皇絶対の帝王学」を学び身に付けていましたから、日本の国体(皇室の存立と日本国とはイコールである)を守ることは、全てに優先しました。原爆投下の時も、まず最初に心配したのは、アメリカ軍の上陸によって「三種の神器」を奪われないか、ということでした。

 一人ひとりの「個人」の意思で日本という国をつくるという欧米の社会契約の考えほど日本に合わないものはありません。神話から続く連綿たる天皇中心は、日本の国体そのものですので(もちろん史実ではありませんが)主権者を個人としての国民とする民主主義は、日本の国体を破壊するものであり、決して許されません。日本人は「個人」ではなく、あくまでも日本国民という集団の一部であり、それは古代からの神話を受け入れて、天皇中心の国を守る「」でなければなりません。自民党の新憲法案が「個人」という言葉を消し「人」にしたのには、そういう背景があるのです。《自由と責任をもつ個人の育成》を柱とするわたし(ソクラテス教室・白樺教育館)の教育理念+実践とは正反対です。

 日本人という塊があるのであり、個人の意思が日本をつくるのではない。これは明治維新政府がつくったイデオロギ-(近代天皇制=靖国思想=国体思想)なのですが、いまなお絶大な力で、政治と人々の心を縛っています。現在「神社本庁」が喧伝しているのは、この明治維新政府の思想です。

 明治維新政府は、平等思想と平和主義の仏教を廃し、神道(明治政府が新設した国家神道の総本山が靖国神社)による新たな国づくりをしました。いわゆる「廃仏毀釈」です。日本に律令政治を起こした聖徳太子(厩戸皇子)が「十七条の憲法」で、神道を排して仏教による国づくりを宣言したのとはアベコベです。明治維新政府とは、このように日本の文化と伝統の破壊者でしたので、いまの天皇夫妻や皇太子夫妻は、この国体思想=靖国思想を忌避しているわけです。

 こういう歴史的背景を知れば、臣民であり、天皇の赤子であった戦前の日本人の精神状態が分かります。『教育勅語』は、日本独自の「」(上位者への恭順)という絶対道徳を現実のものとするための方途として個々の道徳律を掲げ、それを韻を踏んだ文章にしたものです。政府は、文章の添削を文豪・島崎藤村に依頼しました。

 この天皇現人神思想による『教育勅語』の威力は絶大で、日本人は、白旗を掲げて負けを認めることは恥であり、玉砕し、女も子供も死ぬのをためらわない人になるように躾られたのです。「武士道とは死ぬことと見つけたり」。まさしく「忠」の精神の発露です。今なお忠臣蔵や忠犬ハチ公はアイドルですし、部活では先輩の命令は絶対ですし、過労で死ぬまで働くのも日本人です。上位者に忠誠を誓うことは、日本人の根本道徳であり、個人の自由と責任意識を基底とする古代アテネ出自のフィロソフィー道徳とも、みなが唯我独尊だとするブッダ(釈迦)の徹底した実存的=民主的倫理とも全く異なります。正反対の思想です。

 維新という革命で、日本を新たに支配するシンボルとされた天皇家は、江戸城に住むことになった(維新の志士により暗殺されたと言われるオサヒトの子は16歳で京都から連れて来られ、伊藤や山県らに明治天皇になるべく教育された)わけですが、その皇居の目の前にある「近代美術館」に、藤田嗣治の渾身の大作『サイパン島 同胞臣節 全うす』があります。わが日本人同胞は、臣民道徳をまっとうし、捕虜とならず、全員が死を選ぶのです。まさに『教育勅語』の最高の成果です。

 

写真は4月4日 武田撮影。近代美術館で。ソニーRX-1R(ゾナー35mm)

下は、「アッツ島玉砕」 データは同じ

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安倍政権の「戦前思想」への回帰ーウヨク化の手法は、「痴漢行為」と似ている=実にいやらしい。

2017-04-01 | 社会思想
 
 以下は、中野 晃一さんのfbからです。正鵠を射る指摘です。
わたしの泥 憲和さんのfbへのコメントと一緒に載せます。
 
中野 晃一 
これまでも時折指摘してきましたが、日本の右傾化の進め方って「痴漢」に似てるんですよ。

教育勅語を教育の唯一の根本としなければ学校で教えていいという閣議決定にしても、銃剣道を学校で教える武道として選択してもいいという学習指導要領にしても、コソコソっと逃げ道を作っておいて、次第に拡大していくやり方。バレそうになったら、いつでも手を引っ込められる、と。籠池のシッポ切りみたいに。で、またやる。

「限定的」な集団的自衛権も、「テロ等」準備罪という名の共謀罪も同じ。次第に「痴漢行為」が蔓延化すると「痴漢現象」の責任や問題についてこちらの感覚さえ麻痺してくるというわけです。

...

女性器を手で掴んで押し倒せばいい、というトランプは、ハードなファシズムの進め方なわけですが、安倍政権はソフトなファシズムで、行き着く先は同じ。

これがエイプリルフールでもなんでないという2017年4月1日のヘル日本。それでも「上手な嘘なら騙されたい」人が多いのですかね。

(色字は武田による)

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泥憲和さんは「銃剣道」というバカらしさについて明晰に説明したfbをだされましたが、そこからわたしは、ニッポン主義の愚かさを、「イヤミ」として書きました。


 
武田 康弘
日本の歴史と伝統は、戦(いくさ)です。禅の修行で、人殺しも平然と行えるよう心を鍛え、心臓一突き(銃剣道)で、相手を殺める。
根絶やし(皆殺し)の織田信長は合理思想の英雄と言われますし、神社は軍人を崇めます。
勝つか負けるか、人生は、勝つことと見つけたり
。負け犬はおとなしく勝者に従えばよいのです。勝てば官軍
わが国に固有の道徳は「忠」です。忠臣、主君に仕える、己のつまらぬ命を差し出すのが、道徳です。天皇ー皇室こそ公であり、国体そのもの。忠犬ハチ公はみんなのアイドルですし、アメリカの忠犬〇〇公は、高支持率です。
この国に生まれたからには、犬のように、昆虫のように生きかつ死ぬのです。人間性の豊かさだの個人の精神世界だのと生意気なことを言う輩は、非国民。日本にはいらない。
明治維新の精神=靖国思想の政府に従うお行儀のよい子=愛国少年と愛国少女を育てよう。ニッポン万歳!!
世界の真ん中で輝く国、シナなど蹴散らし、アジアのトップに、それが我が臣民の心。
上位者に従え!当たり前のことだ。
あれれ、脱線しました。失礼。
 
 
Michiyo Okamuro
日頃思っていることを明確に言っていただいてありがとうございます。
 
武田 康弘
いつも「ほんとうにおもうこと」を言ってしまいます。ごめんなさい(笑)。国体主義の頭と心のイカレタ輩には、これからもずっと超イヤミを言いまする。賛同ありがとうございます。
 
大林 慈空
おっしゃる通りだと思いました。
日本人の伝統的精神は皮肉にも忠。やるかどうかは別にして、みんな大好き滅私奉公。
江戸から明治にまったく体制が変わって、将軍様が天皇様に変わっても、相変わらず忠義が美徳
大日本帝国憲法も教育勅語も内容なんて、明治の庶民は意味がわからないけど、文明開化の匂いがして、大賛同した。ただそれだけ。
 
武田 康弘
だから、受験勉強と同じ「事実学」(意味論・本質論なし)と、技術的知性&能力ばかリです。
精神の深みや広がりや人間性の面白さがなく、面白いということは、バラエティー次元に限定されたものになる~~(笑えない笑話)。
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丸山眞男による「戦後民主主義」の終焉ーマンガ『まさかの福沢諭吉』 雁屋 哲 原作。

2017-01-26 | 社会思想

確かにマンガですが、これは論文、否、ただの論文ではない絵巻物のような大作です。

戦後民主主義の不毛性の元がよく分かります。東大教授・丸山眞男は、今もなお東京大学関係者には「絶対」の存在で、政治学者の山口二郎さんも「戦後の民主主義は丸山眞男がいなければ無かった」とまで言います(偉い学者がいないと民主主義が始まらない?)。その丸山による福沢諭吉礼賛があって、諭吉は民主主義の旗頭のように思われてきましたが、それがどれほどの嘘かは、長年にわたり安川寿之輔さん(名古屋大学教授)が詳細に論じ、各地の講演会で明らかにしてきたことです。

それが分かりやすくマンガになったのを見て、わたしは、「ああ、これで戦後民主主義はおわったな」と思いました。

東京大学の有名な政治学者の丸山眞男の権威に依拠した民主主義では、あまりに脆弱です。demos(人々)+cracy(支配する)=デモクラシーになるはずがありません。明治政府(天皇制国家主義)の思想的牽引者であった諭吉を民主主義の先駆者=市民的自由の旗頭に仕立てての「戦後民主主義」は、虚構の上につくられたものでしかなく、終焉するのは当然です。

もちろん、安倍首相のように敬愛する祖父の岸信介が領導した戦前の靖国思想に戻れ=明治維新の偉業を再びというものではありません。権威に頼る思想や行動ではなく、ほんものの民主政治=自治政治へのチェンジというわけです。そのためには、明治の天皇制国家主義を「複眼的」というより「実利的」に支えた福沢諭吉の思想を検証し直す作業が不可欠です。このマンガの原作者である雁屋 哲さんは、福沢諭吉全集を読破し、核心的な部分を現代語訳して示していますので、とても分明です。

今後、政治学者も歴史学者もこのマンガを無視することはできないと思います。丸山眞男や福沢諭吉の思想(丸山諭吉)を是とする学者たちは、ここに書かれている内容に応えなければ存在理由がなくなります。ぜひ反論を書いてください。それでこそ学問です。『学問のすすめ』


武田康弘



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戦前思想=「神道政治連盟」「神社本庁」「日本会議」の安倍政権を支持するのは、自分で自分の首を絞めること。

2017-01-18 | 社会思想

聖徳太子が神道を排し、仏教による国づくりをしたのが、日本律令政治の始まりですが、
それとはアベコベに仏教を排して神道、しかも従来の神道(町にある神社)ではなく、天皇を現人神にして全国民を支配するという思想が、明治政府(伊藤博文ら)の政府神道=国家神道です(現天皇夫妻や皇太子夫妻も忌み嫌う思想)。その総本山が「靖国神社」(明治政府が東京招魂社としてつくり10年後の明治12年に靖国神社と改名)です。

それは現代の言葉では「カルト宗教」ですが、その「明治政府作成の国家神道」をそのまま受け継ぐのが、安倍首相のもつ思想で、深い関係をもつ「神道政治連盟」「神社本庁」「日本会議」の恐ろしいほどの封建主義です。徹底した上下倫理、個人主義を毛嫌いする家族主義天皇制=皇室絶対の明治主義です。

個々人を主権者とし、個人を活かすことを大元に据えた民主政=民主制=民主性とは、二律背反です。一人ひとりの心、想い→考えにつき、そこから立ち上げるのではなく、マスコミに政府批判を禁じ、政府支持のムードを醸すための戦略を練り、手強い批判者をテレビから消すことで、国家主義を当然とします。

北朝鮮のソフト版(記号学を駆使したはるかに上手な国民洗脳)のような政権。民主政=民主制=民主性を深部で消す政府(安倍首相の親友で思想的バックボーンの八木秀和麗澤大学教授の「反人権宣言」(ちくま新書)「明治憲法の思想」(PHP新書)を見れば、ストレートに戦前回帰を目指していることがわかります)支持する人は、自分で自分の首を絞めているわけです。戦前思想への回帰がなぜよいのでしょうか?エニグマ。


武田康弘

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わたしにとって、最も憎むべき社会体制とは、戦前の日本です。 あなたはどうですか?

2016-11-15 | 社会思想

天皇を生きている神(現人神)として、学校で生徒たちに拝ませ、天皇の前に拝跪することをもとめた国家とは、わたしにとって、言語に絶する憤りの対象でしかなく、唾棄すべき社会体制というほかありません。嘔吐をもよおすします。

近代の国家でこれ以上に狂った思想はないでしょう。ヒトラーの国家社会主義(ナチズム)とて、思想としては、〈人間を神とする国家カルト〉などではありません。ヒトラーは一独裁者に過ぎませんでした。政府が皇族を神の系譜と定め、その下に全国民を置くという凄まじい国家宗教は、それに反対する者を社会的に、また肉体的に抹殺しました。

これは、忌むべき国家思想と社会体制であり、民主的倫理、個々人の自由と対等性に基づく「普遍的な人間性」とは最も遠い思想、おぞましいイデオロギーですが、これを仏陀の根本思想=みなが唯我独尊であるという仏教国で断行したのですから、ただただ驚き呆れ返るほかありません。

わたしは、この種の思想=皇室崇拝や天皇主義というイデオロギーをもしも学校教育の中に復活させるような政府が出現すれば、全実存をかけ、あらゆる手段を用いて闘います。

明治維新政府のつくった【国体思想=靖国思想=天皇現人神思想】と親和性をもつ思想は、民主政(民主的倫理に基づく)とは二律背反です。

その戦前思想に基づく国家を大戦時に支えたのが、東条英機であり、岸信介安倍晋三が敬愛する祖父)です。わたしは、戦前思想による政府がつくった社会体制は、不倶戴天の仇敵と思っています。戦前のふつうの多くの人々にとっても、敗戦は息苦しい国家主義からの解放だったのでしょう。英・中・米による「ポツダム宣言」受諾で無条件降伏し、連合国(実際はアメリカ一国)に統治されても、「戦勝国に恨みを抱く」ことがなかったのは当然です。


敗戦は、「国家カルト教」による軍国主義の狂気からの解放でした。
明仁さんはそれをよく弁えているので、いまの安倍政権の復古思想に反対しているわけです。民主政は世界的に普遍的なもので、国体思想は恐ろしい悪夢でした。亡霊を復活させてはなりません。


※よい・優れた人間の生き方を、わたしは、「恋知の生」と呼びます。


武田康弘

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「皇族も特別扱いはしない、対等な個人として遇する」 白樺派・民藝館の柳宗悦・兼子

2016-11-05 | 社会思想

1947年(昭和22年)10月に、昭和天皇と皇后、12月に皇太后が『日本民芸館』を訪問しました。
柳宗悦は、皇族訪問に先立ち、宮内庁から宮中で説明するように求められましたが、「民芸館の説明ならこちらに来られた時にすればよい」と断りました。

また、近所の人たちが並んで出迎えることも嫌がりました。 「特別扱いはしない」と。

宗悦の権力や権威に媚びない態度は、日本最高のリート歌手であり民芸運動を支えた夫人の兼子さんもそっくり同じで、たとえ皇族であろうとも、「対等な個人」である客として遇するのが当然だとする考えの持ち主でした。



※楷書の絶唱『柳 兼子伝』(松橋桂子著・1999年水曜社刊 )より。

柳宗悦と兼子さんのような考えと態度が、健全=健康な人間としての日本人になるには求められるのだと思います。

誰もがみな、ただ われひとり とうとい(「天上天下唯我独尊」=ブッダの根本思想)という堂々とした人生=品位の高い人間としての意味と価値をもった人生を歩むこと、一度きりの人生を存分に生きること、それが何よりも大切です。

何時までも、生まれながらして不平等=差別のある国ではいけませんよね。
求められるのは「恋知」の生です。

 

武田康弘(「白樺文学館」初代館長)

 

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皇族の特別扱いをやめないと、日本は嘘と建前の国から抜けられません。三笠宮の言う通り「紀元節の大ウソ」。

2016-11-04 | 社会思想

同じ人間として生まれ、
女として、男として生まれ、
でも、
皇族と呼ばれる家に生まれると、赤ちゃんから老人となり死ぬまで特別の敬語で遇され、多額の生活費が税金で賄われる。

これほどおかしな話は他にないでしょう。

これでは、こどもたちに、倫理も道徳も教えられません。
人間性の豊かさは、一人ひとりの自由と平等に立たなければ、正しく伸びることがありません。

はじめから不平等で、それが「正しい」と言えば、自由も平等もウソであり、欺瞞であり、建前にすぎないことを、こどもの頭に刷り込むことにしかなりません。
「あなたもわたしも同じ人間」というのが、ただのお話に過ぎないというのでは、倫理・道徳の大元が消えます。健全な教育は、元から成立しません。

差別は当然、という道徳では、民主的倫理は死んでしまいます。どうやっても精神の健康な国にらず、「嘘と建前で生きることが正しい」という人間をこしらえてしまいます。

「皇族とは昔からあるので、すぐなくせないけれど、だんだんと市民社会に溶け込ませる必要があるので、まだ時間がかかるのだよ。というように教えることができるような状況をつくらないと、わが日本には、永遠に民主的倫理は成立せず、永遠に非民主国に留まるほかありません。

ほんとうに「自由・平等・博愛」をめがけることのできる国=こころの底から「公共性」を尊ぶ国になるには、差別を当然とする国柄(明治維新政府がつくった国体)をチェンジする必要があるはずです。

現天皇の明仁さんも明治維新政府がつくった天皇主義(靖国思想=国体思想)を、「国民主権の民主政=近代市民社会」へ適合するように穏やかに変えること=皇室を特別扱いしない=を望んでいるのは明白です。

ウソで固めた(神話上の神武天皇からはじまる!) 「紀元節」という狂気については、亡くなった昭和天皇の弟の三笠宮崇仁さんが明言していた通りです。ニッポンウヨク思想は、もう、いい加減にしないといけません。思想という名にすら値しないのですから。

 

武田康弘

 

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いまだに勘違いの女と男ーー両性の本質的平等とは、互いが主体者であり、責任を持ち合うこと.。

2016-10-07 | 社会思想

女であれ男であれ、結婚してもしなくても、「働くこと」で生活は成り立ちます。

生活は、経済生活を物質的基盤にして
日々の家事ーーー料理・片づけ・掃除・洗濯・買い物などに、育児と広義の教育があり、
精神的、身体的、趣味的な活動があり、
こころとからだの交流があります。

物質的基盤をつくり提供するのは男の仕事!?ではありません。女も男も互いに協力し合うのは当然です。両性は本質的に平等ですから、片一方の性だけが経済に責任を持つのではありません。

これは、結婚していない人にはあまりに当然のことですが、
結婚したら仕事をしない!?はずはありませんね。出産や子育ての初期においては女性は「仕事」はしません(できません)が、それ以外は、男女平等です。

いまさら「当然の話」を書かなければならないのは、男女ともに意味不明の勘違いをしている人が結構の割合でいるからです。

男も育児を含む家事は、当然ですし、それをしないなら人間として歪(いびつ)な存在になります。
女も仕事をしないなら、主体者になれず、偏った存在になります。
共に人間としての全体性とは異なる存在にしかなれません。

ただし、特定の目的があり、分業を意図的に行っている場合はあるでしょうが、それは一時的・例外的な話です。

近代以降の社会がつくる男女平等は、人間を真に「主体性をもった存在」にする考え方=理念です。
ああ勘違い!では困ります。それでは不幸ですし、不健全です。


武田康弘

 

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警察や自衛隊は、主権者=市民の僕です。彼らを雇っている我々の下に置くことは絶対です。

2016-10-02 | 社会思想

 以下の山口さんの言は、まことにその通りで、市民の上に警察や自衛隊が来れば、民主政の大元が崩され、戦前の「政府に国民が抑圧される国家」に戻ってしまいます。

 暴力を行使できる組織は、彼らの雇い主である市民=主権者の厳密な管理下に置かなければなりません。われわれ市民がお金を出して雇っている者が、主権者の上に立つような雰囲気が自民党安倍政権により醸し出されていますが、言語道断であり、ハレンチというほかありません。

 雇われている者、もちろん首相以下の政治家や全ての公務員も同じで、彼らが主権者の上に立ち、自分たちの思想で政治を行ったり、警察や自衛隊を含む公務員が市民的自由を抑圧するような行為をし、あるいはそのようなムードをつくることは、主権在民の民主政を大元から壊す根源的な悪行であり、あ り 得 な い 思想→行為なのです。

 【戦前回帰は、公共悪そのもの】です。これはわたしの個人的意見ではなく、民主政の原理なので、誰も覆すことはできません。ポツダム宣言を反故にして(不可能ですが)、戦前日本にもどる以外は。


  武田康弘
(元「参議院行政監視委員会調査室」客員ー国会職員に「日本国憲法の哲学的土台」を講義)


 (東京新聞)

 

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日本人から《公共性》を奪った元凶は、明治政府の思想と行為にあるのです。

2016-08-29 | 社会思想

 日本人は、学校や会社や役所などの「団体」の慣習・上位者の意思には極めて従順ですが、なぜ、みなでつくる公共性がないのでしょうか?

 互いに対等な立場で、自由に意見を出し合い・言い合いして合意や妥当を導きだすことは日本社会ではほとんど行われていません。慣例に従い、上位者の意向に従うことが暗黙のうちに前提されていて、みなでつくり上げていく公共性の世界がないのです。

 市民の公共性が社会-国をつくるというのは、欧米では当然の話ですが、日本ではそれがありません。組織や団体の慣例=惰性に黙って従うのが当たり前になっています。

 近代の市民社会を成立させる基盤がこの公共性ですが、なぜ、日本ではそれが育たなかったのでしょうか?

 その原因は明らかです。
明治維新による近代化は、伊藤博文らが中心となってつくった天皇の神格化=欧米のキリスト教のような絶対的な宗教(一神教)をつくるために、伊藤ら明治維新の立役者(過激派の人々)は、皇室の伝統を用いて天皇現人神という《政府神道》をつくり、天皇を生き神として全国民に崇拝ー敬愛させることにしたからです。『大日本帝憲法』の制定で、「天皇は神聖にして犯すべからず」と規定しましたが、これは現代の言葉で言えば、カルトです。国家が権力を用いてカルト宗教を国民に浸透させていったわけです。

 憲法で主権者(国の最高の力をもつ者)とされた天皇は、陸軍と海軍の統帥権をもち、同時に宗教上の絶対者=現人神とされたのですから、日本臣民(国民ではなく君主に従う臣民とされた)は、自分たち皆の自由と責任で国をつくるという「公共性」を元から奪われてしまったわけです。

 国民=臣民に求められたのは、「天皇のために=お国ために」という思想と行為であり、 「滅私奉公」(私を滅して公=天皇に奉仕する)という道徳であり、日本独自の優れた思想とされた「忠」の精神(最上位者を天皇陛下とする上位者の言動に忠実であること)でした。

 ですから、「天皇を中心とする神の国」(現代においても森元首相が言明)では、一人ひとの対等な市民が話し合って物事を決め、その結果に責任を負うという思想は育ちませんし、国をつくり、守り、発展させるのは、市民の共同意志であり、市民の自由と責任によるのだという想念ー思想は生まれないのです。

 市民みなの共同意思と行為の上に、いつもその上にたつ「公」(おおやけ)という世界があるということになりますから、市民の共同意思=公共性は、「公」に従うもの、奉仕するものとなり、公共性は自立できないわけです。一人ひとりの国民は、公共性に従うのではなく、公(おおやけ)と呼ばれる天皇の意思=官僚政府の意思に従うことになりますが、これでは近代社会市民社会による国家(対等な市民がつくる社会契約による国)ではなく、予め決められている社会観や国家観に従う臣民としての存在にしかならないーなれないわけです。

 天皇に従う時にだけ人として国民として認められるという国は、民主性・民主制・民主政ではなく、神聖国家です。

 明治の近代化が、このような世界に例を見ない国家宗教(現代の言葉ではカルト教)により超スピードで進められた結果、日本人は、極端なまでに効率第一主義・技術主義(技術偏愛)・形式主義=儀式主義に染め上げられてしまい、一人ひとりの心の内側から内的・内発的に考えを生み・行為するのではなく、外なる価値を追いかけることが人生だと思い込むようになったのです。

 生きている人間を神として崇めるという「禁じ手」を用いて、有無を言わせずに全国民を一つにまとめ上げ、強制的なスピードで近代化を成し遂げたわが日本は、その深い負の遺産(心の内からではなく外なる価値に従い生きる)を清算できません。清算できないどころか、現安倍政権は、過去の天皇主義をよしとする「日本会議」のメンバーであり、再び戦前思想への回帰を求めているありさまです。

 明治政府がつくった天皇ないし皇室中心主義という思想を続ける限り、わが日本という国には、みなの自由意志と責任でつくる「公共性」は赤子のまま成長できず、いつまでも公(おおやけ)という官僚政府が市民の上にたつ「主権在民」ならぬ「主権在官」の世界から抜けだせません。余談ですが、いまの天皇の明仁さんもこうした現状を批判的に見ているのはまちがいありません。

  みなで公共性をつくり、公共世界を拓きたいものですね。これは、たぶん、皆の本心だと思います。

 
 最後に、欧米のキリスト教は強い一神教ですから、イギリスのロックの思想のように、宗教の原理主義により民主制を基礎づける思想は、現代においては成立しません。宗教ではなく、フィロソフィーにより基礎付けなくてはいけません。
  ただし、英米においてはキリスト教原理主義である清教徒思想により民主主義がはじまったのでは事実ですし、そういう強い宗教=イデオロギーが必要だったのも確かです。それを見た伊藤博文が、日本の近代化にはそれと類似の宗教が必要だと思ったわけですが、あらゆる人間と人間の営みを超えた「超越者としての神」という思想と、現実に存在する天皇家という家と天皇を神格化するのでは、根本的に思想が異なります。超越者として置くのを人間であり一家族であるとしてしまうと、その現人神という極限的な権威主義は、一人ひとりを「個人」(自由と責任をもった主体者)として自立させず、豊かな内面宇宙をつくらせず、集団主義の価値観=外なる世界に合わせるだけの存在に人間を貶めてしまいます。

 それでは、根源的な人権侵害となりなり、幸福をつくらないシステムをつくることになります。
フィロソフィー(恋知)の生をはじめたいものです。




武田康弘

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ご存知ですか?「靖国神社」の恐ろしい思想を。ここでは兵士は眠れません。ーーぜひ拡散を!

2016-08-14 | 社会思想

  靖国神社は、明治政府が明治2年につくった「東京招魂社」という【政府神道】の施設で、従来の神道思想(各地にある神社)を否定し、1853年のペリー来航以来の〈維新革命側の兵士のみを祀る施設〉です。10年後に名称を神社と変えましたが、その思想は、実に恐ろしいものです。兵士たちは、このような天皇現人神という国体思想の施設に祀られていたのでは、永遠に浮かばれません。もちろん彼らの御霊は、それぞれの家族の元にあり、天皇現人神というカルト宗教の場にはありません。こういう異様な戦前思想の反省がないならば、日本の政治的社会的営みは、すべて砂上の楼閣です。あまりに当然の話です。

 

 以下は、靖国神社の理論的重鎮である小堀圭一郎 東京大学名誉教授の談で、靖国神社の売店で平積みで売られている宣伝用パンフレットからの抜粋です。

 靖国神社の本殿はあくまで、当時の官軍、つまり政府側(天皇)のために命を落とした人たちをおまつりするお社である、という考えで出発したのでして、それは非常に意味のあることだと思うのです。 そこには「忠義」という徳が国家経営の大本として捉えられているという日本特有の事情があるのです。 「私」というものを「公」のために捧げて、ついには命までも捧げて「公」を守るという精神、これが「忠」の意味です。

この「忠」という精神こそが、・・日本を立派に近代国家たらしめた精神的エネルギー、その原動力に当たるものだろうと思います。ですから・・命までも捧げて「公」を守る、この精神を大切にするということは少しも見当違いではない。その意味で、靖国神社の御祭神は、国家的な立場から考えますと、やはり天皇のために忠義を尽くして斃(たお)れた人々の霊であるということでよいと思います。

靖国神社の場合は、・・王政復古、「神武創業の昔に還る」という明治維新の精神に基づいて、お社を建立しようと考えた点に特徴があるといってよいかと思います。

あの社は天皇陛下も御親拝になるきわめて尊いお社である。微々たる庶民的な存在にすぎない自分が命を捨てて国の為に戦ったということだけで天皇陛下までお参りに来て下さる。つまり、非常な励みになったわけです。
国の為に一命を捧げるということが道徳的意味をもつのは万国共通です。言ってみれば、人間にとっての普遍的な道徳の一項目なのです。

実は総理大臣が何に遠慮して、参拝に二の足を踏んでいるのか不思議でならないんです。
中共が総理大臣の参拝に文句を言ってくるのは、何も彼の国民感情が傷つけられたなどという話ではまったくない。あの国の民衆の大部分は靖国神社の存在すら知りません。・・外に問題を設けて反対勢力の目をそちらに向けさせようという国内政治の力学が働いている程度のことであって、まともに相手にすべきことではないんですね。

だから私はこの問題でも総理が断固として参拝されるのがよいと思うんです。そうすると直ちに北京から文句を言ってくるでしょうが、適当にあしらうなり、知らぬ顔を決め込むなり、いくらでも対処の仕方がある。
総理が北京からの苦情を無視して何度でも繰り返し参拝すれば、そのうち向こうも諦めて黙るに決まっている。
総理の参拝が実現し、やがて天皇陛下の行幸もできたということになると、私は国民のモラルに非常によい影響を与えることができると思うのです。
(1999年8月 小堀圭一郎・東京大学名誉教授)

 また、靖国神社の遊就館では、明治以降の日本の戦争はすべて聖戦である、との映画をエンドレスで流しています。

(※もちろん、現天皇の明仁さんや皇后の美智子さん、皇太子夫妻は、このような思想を認めていません。)



武田康弘(元参議院「行政監視委員会調査室」客員ー日本国憲法の哲学的土台を講義)

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天皇も明仁さんという「個人」です。

2016-08-09 | 社会思想

以下の記事、昨日と同じで、FBコメントを加えたものですが、表題を変えました。

安倍首相の自民党憲法案からは、すべて「個人」という言葉が消され、ただの「人」に変えられていますが、これは、常軌を逸した異常な思想と言えます。

 

 

主権の存する日本国民の総意に基づく---時代に合わせ変えていくのは、わたしたちの責任。

2016-08-08 | 社会批評

 いうまでもなく、天皇という名で呼ばれる人も、誰ともかわらぬ一人の人間であるわけです。
 一人の人間にあまりに重たい仕事(日本国民全体を統合する象徴!?というのは、まったく不可能なこと)を負わせるのはおかしいと思います。時代名まで、一人の人間の死で変わってしまう。
 近代市民社会の成立とともに、そのありようを改革するのは当然でしょう。
天皇制」のありようを考え変えていくのは、われわれ主権者の意思=自由と責任です。憲法第一条に、象徴という天皇の地位は、【主権の存する日本国民の総意に基づく】とある通りです。
 みなで議論すべきことです。

 武田康弘

 

 

保田 猛 ブログで使用させていただきます。
 
 
鈴木 英男
 
鈴木 英男 まだ、本日のTVを見ていませんが。人を人として扱わないないのは、人の道に逸れていますし、何の権限もない職を持って天皇の職責だけを押し付けるのは、拷問に等しく感じます。
 
 
武田 康弘
 
武田 康弘 人の道に反することをやったり、やらせたり、というのがこのシステムのつくる困った作用。
 
 
鈴木 英男
 
鈴木 英男 美しい日本のシステム。美しい多数決。我が世に従いなさい。小さき者個人なり。
 
 
武田 康弘
 
武田 康弘 無限とも思える心の宇宙、個人なり。ニッポンの伝統??にっぽんのシステム、日本固有の美、ふ~~~ん、日本や世界という概念よりはるかに広い個人の心。
 
 
Toshirou Maruyama
 
Toshirou Maruyama 天皇は基本的人権を剥奪されており、職業選択の自由も、表現の自由もありません。人道に反する天皇制は廃止すべきです。
 
 
武田 康弘
 
武田 康弘 皇室は、日本最大の旧家として文化的存在として存続すべきであり、
公務を行ういまの天皇制は、主権在民の原理とは矛盾していますので、人権を認められない天皇という存在を許してしまいます。

天皇となる人間の個人的幸福をつくらないシステムは、時代錯誤であり、そういう存在を国民統合の象徴とするのは、異様な思想というほかないです。

皇族も皇族外の国民も共に、豊かな人「個人」になれません。
今回、明仁さんは、「個人」としてと明言していますが、それは、「個人がない天皇という存在」への違和感を表しています。

『個人』という人類が到達した最高度の意識=存在を肯定し前提としない極右(安倍首相ら閣僚の所属する「日本会議」)の思想は、人類的レベルでの犯罪であり、独裁国以外では認められていません。ドイツをはじめ民主政国家では、危険なカルトとして取り締まりの対象です。

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「日本の悠久の歴史は、天皇制による」(安倍晋三)ーもちろん真っ赤なウソです。

2016-07-24 | 社会思想

 神話上の神武天皇(126歳の長寿)を初代とする天皇国の日本こそが、世界に誇る悠久の歴史をもつニッポン、と主張するのが「日本会議」ですが、その主要メンバーである安倍首相も自著(「美しい国」へ=改訂版は「新しい国へ」)で「天皇制こそ日本の歴史の根幹」と書きます。

 はたして、ほんとうにそうでしょうか?

 神話の世界までをも現実だとする戦前の「天皇現人神」(現代の言葉で言えば「カルト」です)の思想を喧伝する「日本会議」の主張が正しいと仮定しても、その悠久の歴史とは、わずか二千数百年に過ぎません。

 彼らは、律令政治の始まり(645年の大化の改新ー701年の大宝律令)ではなく、そこから遡ること1300年以上も前から天皇の時代だった、と主張をするわけですが、それは、稲作文化の弥生時代と重ねたいからです。天皇家の中心行事は大嘗祭や新嘗祭ですが、この稲作儀礼が「みな一緒=同調」をつくる象徴行為ですので。

 しかし、もし、日本の「悠久の歴史」を語るならば、それは弥生時代ではなく縄文時代であることは、どなたもが義務教育で習い知っているはずです。

 1万年以上にわたり平和のうちに生活し、土器に代表される驚くべき高い芸術性をもち(弥生とは比べものにならない)、エコロジカルな生活をつくった縄文文化は、いま、世界の研究者から称賛されています。とりわけ、彼らが稲作技術を知っていたにも関わらず、それが大規模な自然破壊をもたらす(森林伐採)と判断して、稲作中心ではなく栗栽培を柱とする森林文化を守り育てたことは世界に例をみないと言われ、行き詰った現代文明を救うヒントになるとさえ称されます。

 時間的にも日本史の大部分を占める縄文時代とその文化を外して、その後の稲作中心の弥生以降を強引に天皇=皇室と結びつけ悠久の歴史とするのは、あまりにも狭隘な思想です。今また戦前のカルト思想を広めて何をしようというのでしょうか? 
 古代において王政による律令政治を支えた天皇という存在を、過去にも未来にも引き延ばして「永遠化」しようとする試みは、明治維新政府の中心思想でしたが、それにより全国民を縛る国家宗教=天皇教は、太平洋戦争で無惨な結末を迎えました。その歴史の事実を反故にして、再び、真っ赤なウソを広めるのは、おぞましい犯罪行為というほかありません。歴史・現実的にはウソを、思想的には稚拙な言説を広める先頭に首相が立つ国とは、「醜い国」「旧い国」でしかありません。

 おぞましい想念に憑りつかれ、すぐカッと熱くなり子どもじみたな言辞を弄するのをやめ、少しは冷静で明晰な理性を持たないと、国が滅びます。いまは、21世紀の近代市民社会なのですから。



 ※なお、物部氏の「神道」を排して「仏教」による国づくりを宣言した聖徳太子の17条の憲法の意義については次に書きます。明治維新政府の「廃仏毀釈」とはアベコベ。


武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員ー国会職員に「日本国憲法の哲学的土台」を講義)


国会内の売店で売られている歴代天皇の一覧カップです(神武からはじまる神話上の天皇の名前も列挙されていますが、そもそも壬申の乱で勝利し天皇制をつくった天武天皇673年即位が最初の天皇であり、それまでは大王と呼ばれ天皇という呼称さえ存在しませんので、これも真っ赤なウソです)



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「愛国心とは、国体護持のこと」ーー安倍政府-靖国神社-日本会議の考え

2016-06-23 | 社会思想

以下は、安倍政府-靖国神社-日本会議の考えです。

 無条件に祖国である日本を愛する心の育成が大事、無償の愛こそがほんとうの愛なので、国に何かを求める(福祉を求める)のではなく、国に尽くすことが大切。愛する人には尽くすのと同じで、国に尽くしてこそ、日本国民なのです。愛は惜しみなく与えるもの、愛国心があれば、どのような老後にも耐えられる、耐えてこそ、立派にお国に尽くした人として尊敬を受けるのです。

 これが、日本というありがたい文化と自然豊かな国に生まれたあなたの恩返しなのです。

 愛国心をしっかり持てば、不平不満など言わない立派な人として生き、死ぬことができます。こころしなさい。

 というのが、わが日本政府のありがたい国体思想=靖国思想です。

 天皇ー皇室を中心に置き、みな同じ心で挙国一致、これそ最高の愛国者です。道徳とはそういう意味なのです。分を弁え、自分の役目をしっかり果たしなさい。「忠」の精神こそ、日本を立派な国した最高の徳なのです。これに反対する人は、非国民であり、つまらない人生しか与えられないのです。

 わが日本で「個人」なる言葉=概念は不適切なので、自民党憲法案からは、すべて「個人」という言葉は消しました。日本人は、日本人であり、「個人」などではありません。悠久の歴史ー皇室の伝統が何より優先します。自立する個人とは、虚妄かつ空疎な言葉で、欧米の思想に過ぎないのです。愛国心を持ちなさい!!

~~~~~

 という本音の国連演説をし、二度目の国連脱退となるか?(笑呆)
   安倍政権の人々のホンネは、以下のビデオをご覧ください。
   https://www.youtube.com/watch?v=h9x2n5CKhn8


 自由な個人の想念ー意思を先立てず、国家意思に従うのがよい、というのは、民主政の思想(一人ひとりの市民を「自由と責任をもつ個人」と規定し、互いの対等性と自由を認め合う社会原理)に反するので、民主政社会では認められません。根源ルールに反する思想であり、同じ敗戦国のドイツでは取り締まりの対象です。なぜなら、民主政の前提を覆す思想を認めると、民主政社会が壊されてしまうからです。独裁をする自由や特定宗教を強要する自由は、自由の自己矛盾で、不成立です(小学生も知っています)。


武田康弘

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