思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「20万人が国会包囲!」深い感動。高校2年生からの43年間―逆流に抗し続けた人生が走馬灯のよう。

2012-07-30 | 私の信条


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 わたしは、1976年に「東大病」による官僚支配を変えるための教育=暗記主義ではない【意味をつかむ頭と心の自立】をうむための教育を目がけ、それをチラシで宣言して小さな私塾(「我孫子児童教室」・現「ソクラテス教室in白樺教育館」)を立ちあげましたが、今年で37年目になります。

 わたしは、高校生の時(1968年・69年)に、小田実さんの提唱する「ベ平連」のデモに連続して参加し、都立向丘高校(文京区)の3年生のときには、わたしの働きかけによりクラスの半数もがデモに参加しました。アメリカ政府によるベトナムへの無差別爆撃と自民党政府の北爆支持の言動にハラワタの煮えくりかえるような怒りをもっていたわたしは、『渦巻』という名のガリ版印刷の新聞を学校の輪転機で印刷し、毎週校門前で全生徒に配布していました。文章もガリ版刷りも印刷もすべて一人で。配布は友人が手伝ってくれましたが。

 高校紛争が荒れ狂う中で、わたしは2年生(1968年)の後半から3年生(1969年)の前半まで丸1年間、生徒会を発展させた自治会組織=『全学学生会議』の代表=議長となり(各クラスの学級委員の全員一致により選ばれた)、(1)校則の大幅な自由化=生徒の個性の尊重と(2)授業仕方の改革(生徒と教師の共同でつくるゼミ式授業の導入)を、学校側との二カ月に及ぶ話し合いの末に実現させました。それは、だいぶ経ってからNHKが5回連続して「進んだ都立校高校」として詳しく紹介し、大きな話題となりました。

 高校の改革は「話し合い」(校長室で、生徒側はわたし一人、先生側は3人というおかしなカタチ・笑)により成就したわけですが、その時からわたしは、話し合いによる民主主義が日本には少なく、政権党である自民党と一体化した官僚集団が決めたことに従うほかないわが国には人権思想(憲法10条―40条)に基づく【自由】(自己決定)がないことを痛感していました。クラブ活動は「社会問題研究会」に所属しましたが、それは、どのように考え行為すればこれを解決できるのか、という問題意識からでした。

 しかし、日本全体の「東大病による官僚主義」という閉塞状況の中でも、校長先生らとの話し合いで高校改革を成功させたことは大きな希望とよろこびがえられました。その経験から「自由対話に依拠する民主主義」をひろげることが、日本を変える(=人々の考え方と生き方を変える)ことになる、との確信をもったのです。どんなに遠く思えようとそれ以外の方法はない、との考えは今日に至るも同じです。

アメリカ政府や日本政府の行う大きな「悪」を正すためにも、自分の日々の経験を大切にし、自分の頭で考える生き方・勉強仕方を身に付けることが何よりも大切なことだとの【明瞭な直観】を持ちました。その直観から想像力が刺激され、さまざまなイメージが広がり、現実的な創意工夫と臨機応変の言動が生まれたのです。

 成人してからのいくつもの社会的・公共的な活動を成功に導いたのは、新たな知―勉強仕方の模索・実践(単なる「事実学」から「意味論」へ)が支えたのです。それなくしては何も成し得ませんでした。わたしのその広義の教育活動=哲学する実践に直接影響を受けて人生が変わった人は、政財官の中にもいますが、原理的思考の力は、人と社会を変えるのです。

今朝の東京新聞一面を見て、わたしは、高校生時代から続く活動(文字通り「逆流」に抗した43年間)を走馬灯にように想起させ、震えるような感動を覚えました。「民」、この世は「小さな人間」が支え、つくっています。「主権在民」とはそういうことなのです。

 

これから、山のような荷物を担いで、37年目のこどもたちの式根島キャンプ&ダイビングに出かけます。無重力の海中。生物が溢れる磯と、大海原。満天の星の下で眠る4日間。管理主義とは無縁の「自由な時空間」は皆の心を解き放ちます。

 

武田康弘

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わたしは、期待人は、嫌いです。

2009-11-15 | 私の信条

わたしは、何かを期待する人は嫌いです。誰かに期待する人も嫌いです。

そういう「期待人」からは、マイナスのエネルギーが出ていると感じます。近寄ると、生のエネルギーが吸い取られ、心身の調子が悪くなりますし、頭が痛くなります。

「期待人」は、いつも不足を訴えます。いつも不満や不平を言います。いつも自分の得ばかり考えます。いつも人に何かをしてもらおうとします。してもらえないと、相手に能力がないように言ったり、非難したりします。それを「自己主張」と勘違いします。例えば、アメリカ人のなんでも訴訟に持ち込み、自分の得を取ろうとする生き方。アメリカ人がみなそうだというのではありませんが、自己主張とエゴイズムとを混同するようでは悲しいですね。

わたしは、「期待人」には近づかないようにしています。向うから接近してきたら、それではダメだと諭しますが、いつまでも変わらなければ、縁を切ります。寿命が縮まりますから(笑・ホントウ)。

わたしはいつも憧れの心や希望の目をもって、自分のできることにしっかり取り組みます。何かに、誰かに、期待はしないのです。これは、高校生の頃から40年間のわたしの生き方であり、信条です。


武田康弘


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主義にとらわれずに、時流にながされずに。

2009-11-13 | 私の信条

サヨクの固い理論・客観主義的な思考法。
ウヨクの偏狭な天皇教的心性。
わたしは、ともにうんざりします。
やわらかい、自由、のびのび、楽しい、という生き方・考え方がなぜできないのか?
とても不幸です。

ふつうの生活者の良識につく。
上下意識に縛られない人間関係をつくる。
権威をつくらない平等な人権尊重の社会をめがける。
民主的な考え・生き方を広げていく人生を歩む。
自分の存在を何よりも愛し、大切にする心をもつ。
互いの違いを面白がり、楽しみを広げようとするプラス思考で生きる。
美しいもの・よいものに憧れを抱き求める恋知の生をよしとする。
自問自答と自由対話を方法にして、普遍的なよさを探り、しかし、絶対を求めないしなやかな精神を鍛える。 そういう考え方・生き方がいいな、とわたしは思っています。
幼いこどものような自然さを失わず、愛がいっぱいで、明るく、楽しく、「年を取るにつれて若くなる」ような。


武田康弘


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「さん」と「先生」-- 呼称について。

2009-10-02 | 私の信条

同じ発話場で、「さん」付けと「先生」付けを使い分けるMさんに対して、わたしは「不快感」を表明しましたが、以下に結論を記します。


わたしは、
教場で何かを教えている(教えられている)という人間関係の場合は、「○○先生」と呼ぶのが妥当だと思っています。教える人を先生と呼ぶのは、自然なことで、そういう場で「○○さん」というのは、日本社会の場合、好ましくありません。わたしも、生徒、特に未成年の子どもから「○○さん」と呼ばれたら、かなり違和感を覚えます。

ただし、教場での人間関係にない人を「○○先生」と呼ぶのは、大いに疑問です。はっきりと教える・教えられる関係にはないのに「先生」という呼称を用いるのは、不適切だと思います。

対等であるべき公共圏で、ある人を「先生」と呼び、他の人を「さん」で呼び分けるのは、とてもおかしな話です。《公共》や《哲学》を意識する人は、率先してこのような【悪習】をやめるべきでしょう。

「さん」付けによる民主主義を広めていきたいと思います。


武田康弘
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以下は、コメント欄です。

常識レベルの話です (荒井達夫)
2009-10-02 22:40:38

「対等であるべき公共圏で、ある人を「先生」と呼び、他の人を「さん」で呼び分けるのは、とてもおかしな話です。《公共》や《哲学》を意識する人は、率先してこのような【悪習】をやめるべきでしょう。「さん」付けによる民主主義を広めていきたいと思います。」(武田さん)

これは、常識レベルの話です。常識をわきまえないで、「公共」も「哲学」もあり得ません。「民主主義」とは、常識ある普通の人達によってはじめて成り立つということが、よくわかりますね。


コメント (4)
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「一般人」に陥らず、充実した強い生を歩むために

2009-06-12 | 私の信条
他人の眼や言説に怯え、
既存のシステムに囚われ、
外なる価値意識に脅迫され、
一般人=単なる事実人としてしか生きられない人。
あるいは、
情報に振り回され、自分の五感・心身の声に従うことのできない外面人。
そういう本質的に心身薄弱な人間として生きるのは、一番損だ。それは生きるに値しない生だから。
わたしは、40年間以上ずっとそう思って生きてきました。
だから、中身において、とっても生産的な人生です。

「自分自身」として生きるという一番大事な生の基本が崩され、「一般人」として生きることをよしとする。
周りに合わせる手法を教え・奨励する「病気」のような「哲学」が万延する。
どうも みなが強迫神経症者のようです。愚かな話です。

わたしは、そこから脱却するには、心身を統一するための行をすることだと思っています。自分流に、気持ちと身体を一つにする方法を見出すと、とっても強くなれます。

※写真は、5月、サイクリングで。撮影は小学生、57歳のわたしです。


武田康弘
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身近な人・ものにこそ【善・美】は宿る。

2008-08-01 | 私の信条
身近な人・ものにこそ【善・美】は宿る。


【よい】ものや【美しい】ものは、どこか遠くにあるのではない。


【よい】人や【美しい】人は、どこか遠くにいるのではない。




武田康弘
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エロースの生とは?

2008-07-23 | 私の信条
ふつうの日常の生活には無限のたのしみとよろこびがある。

例えば、背筋を伸ばし、腕を後まで振って歩いてみる、とっても気持ちがいい。心身が生き返る。

フィットするスポーツシューズを履いて、軽くジョギング。自由に好きに飛び跳ねる。ウキウキしてくる。

デジカメ持って、そこらを散歩してみる。ふだんの世界ががぜん色づく、ファインダーは万華鏡だ。

はっきり明瞭な声で話す。

音楽に合わせて、ハミングし、踊る。

感情移入し、情景をイメージし、詩や小説を声に出して読む。

友人と話し込む、本音トークは頭脳の活性化だ。形だけの会話、当たり障りのない無駄話ではなく、真面目に、本気で対話する。まったく違う世界が広がる。

自分を貶めるような他者への迎合ではなく、自分を高める心身の使い方を工夫する。

感覚と心と頭を柔らかくしなやかに。脱力する。

既成の枠組みの中で他者の目と言葉に翻弄されて生きるのは愚かだ。自分の心身の全体を使い、自分の頭で考え、自分が生きる。

ふつうの日常の生活は、よきもの・美しきものの無限の宝庫だ。それに気づくか否か、それを活かすか否か、それが人間の価値を決める。

どこか遠くによきものがある、と思っているうちは貧しさから抜けられない。

魅力ある世界を自分自身の心身と身の回りに発見し、開拓しつつ生きる人こそが魅力的な人だ。それがエロースの生。


武田康弘
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白樺の原理

2008-05-27 | 私の信条
白樺の原理


競争による勉強は、心も頭も歪めます。

納得による勉強は、一生の得を生みます。

競争原理は、もう古いのです。

人類は、「国家と文明」以降、競争原理に支配されてきましたが、

それは人間を幸福にしません。

競争原理の廃止、納得原理の導入。

それ以外に人類の生き延びる道はありません。

納得は、生きるよろこびを生みます。

それは、外なる悲惨を超え出るのです。


武田康弘
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あるべき、ではなく、

2008-05-24 | 私の信条
あるべき、ではなく、

そうしていきたい、そうしていこう、そうするにはどうしたらよいか?

と考え、行為する。

しかし、それはけっしてうまくはいかないもの。

では、また、そこからどうするか?を考え、行為する。

それでも、うまくはいかないもの。

だったらどうするか?

繰り返すこと。何十回、何百回と繰り返すこと。

繰り返しそのものが人生だと気づくこと、おもったようにいかないのが常であることに気づくこと。

でも、実は、同じに思えるその繰り返しには、限りない力・見えない偉大な前進がある。

それがある日分かる。

そのとき人は限りない力を身にまとう。
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僕の人生

2008-02-27 | 私の信条
今日は、おやすみなので、机の片付けをしていたら、ノートに挟んであった紙きれが落ちた。
ずいぶん昔に書いたもののようだが、せっかくなので、ブログに載せることにした。


僕の人生

僕は、死の瞬間まで、情熱的に生きる人間でありたい。
精神と肉体の輝きをもって、エロースの生を紡ぎ出す。
僕は、その同伴者を増やしていけたらいいな、と思っている。
しかし、現代の管理社会の中で、みなは重たい日常に縛られ、はつらつとした命、心身の輝きが失せ、多くの人は、惰性態に陥っている。
自分で自分の首を絞め、悦びから遠ざかる。
いろいろ言い訳をしながら。
僕が子どもたちが好きで、子どもたちを愛するのは、彼ら・彼女らの多くがまだ惰性態になっていないからだ。
大人ではそういう人はほとんどいない。
僕は僕の発する光を受け止め、生かし、高めてくれる同伴者を求めている。僕の光が同伴者にもよき世界をもたらせたら素敵だ、と思う。
これは奇跡のような出来事―夢だ。
でも、僕はその夢を生きてみたいのだ。

武田康弘

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「・・してあげた。」ではなく、「・・した。」

2007-12-10 | 私の信条


個人と個人で人間関係をもつ場合、わたしは、相手に対して「・・・してあげた。」とは思いません。

 してあげた、のではなく、した、のです。わたしが「した」のです。頼まれてする場合も同じです。もし、ほんとうにイヤなら断るべきで、「あなたのためにしてあげた」、という考え方・言い方ほどイヤラシイものはありません。

それは個人に対してではなく、社会への関わりにおいても同じです。皆のためにしてあげた、という言い方は、不遜です。

してあげている、という意識は自他を殺します。

自分自身が心身の健康を保ち、人とのよい人間関係を築くためには、自分がしているのだ、という意識を持ち、前向きに取り組むことが大切です。したのだ、という責任意識を持つと、自分の生が充実し、自分が得をするのです。

自分から、という能動的な心は、心身の免疫力を高め、パワーを生み、健康をつくる。わたしは、そう思います。

武田康弘




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「よくない私」を肯定するー民主制とはご同胞ご同行

2007-10-18 | 私の信条

間違いを犯す私、欲に突き動かされる私、・・・・「よくない私」がそれでも夢や希望を失わずに、よきもの美しきものに憧れて生きるーそのような人間が互いを認め合い、「ご同胞ご同行」で生きるのが民主制社会ではないでしょうか。

「理想的な政治」というのは概念矛盾でしょう。失敗を繰り返し試行錯誤でその都度修正しながら歩むしかないのが人間社会であって、「正しい」理論で政治を行えば、恐ろしい事態を招くのは、すでに歴史が証明済みです。

個々のよくないことや失敗が許容されるから人間は生きられるのであり、個々の悪をすべて無くせば、生の全体が崩壊するしかありません。
個々への潔癖性は、著しい全体不合理を招きます。部分の悪や不合理を許容するゆとりを持ち、個々の「悪」の前に萎縮せずに、「よい・美しい」を目がけるたくましく健康な生を築きあうのが、「ご同胞ご同行」の民主制社会でしょう。

民主主義とは、人間をその存在において深く肯定する思想です。それと対極にあるのがエリート主義で、その思想は人間のありのままの姿を認めず、特定の理想で人を縛りますが、それは必ず生の否定というニヒリズムを招来します。
間違いを犯し、欲に突き動かされながら、それでもよきもの・美しきものへの憧れを持ち続ける「現実の人間」を愛せない思想は、必ず滅びると思います。愛がないからです。

武田康弘




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よく生きるとは、生活を愉しむこと。

2007-09-17 | 私の信条

人がよく生きるとは、生活を愉しむことでしょう。
ノーベル賞を取ることではありません(笑)※
外なる目標のために生きる、というのは逆立ちした発想。
日々の充実の生を生むには? それがもんだいです。
日常生活を、面白く・愉しく・充実したもの、意義あるものとするには、何をどう考えどうするか?にかかっています。その営みが中心にないと、外なる目標は、自分の心身・人生をスポイルするものでしかなくなります。

心身全体のよろこびと、社会人(会社人ではなく)としての充実を生むには、どのように考え、どのように行為したらよいのか?それが人生の核心。
外なる目標=既存の価値観に囚われていると、永遠に欲求不満。悩み・不機嫌・不細工(おっと失礼)=能面顔・心身不良・不活性生活からヌケラレマセン。

よく生きるとは、日々の生活を愉しむこと。そのためには、臨機応変の精神と具体的な創意工夫が必要です。そして、その精神と行為を生み出すのがの恋知の営み(聖なる「狂気」の善用)、というわけです。

(※余談ですが、かつて文学者であり哲学者であったジャン・ポール・サルトルは、ノーベル賞の受賞を辞退しました)


武田康弘



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恋知の生と、恋知とは無縁な生と。

2007-09-01 | 私の信条

恋する心―恋とは、聖なる「狂気」ですが、人に恋し、音楽や美術や文学に恋し、知に恋し・・・という恋知(哲学)の生を歩む人と歩まぬ人がいるようです。

どうも人間には二種類いるようです。
恋知の人と、恋知とは縁のない人と。

でも「大人」化させられていない子どもはみな、恋知の人が好きです。
どうやら、恋知の生は、人間の自然性に合致しているようです。

【恋知】の代わりに【型・パターン】で生きる人も多いようです。
心の内側から沸きあがるものが乏しいために、外からの要請で生きるしかないからでしょう。
わたしには耐えられない人生ですが。
パターンで生きている人は、そのことに無自覚なのかも知れません。それが幸せ?
まさか、ですね。


武田康弘




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隠匿(いんとく)は、感謝の心がない証左ー恥ずべき人生。

2007-08-20 | 私の信条

わたしは、いいこと聞いたな、と思うと、○○さんがこんなことを言っていたんだ、とみなに言う。いいよね~~と。子どもの言ったこと・したことでも、何々ちゃんがね、と紹介する。

わたしは、読んで感動した本があると、その著者を偉いと思い、ありがたいと思う。だから皆に紹介する。本の題名だけでなく、その中身を要約して。

それは自他の悦びを広げるすてきなことだと思うから。

でも、わたしは何度も何度も驚いた。
人から教えてもらったこと、人にやってもらったこと、本で読んだことなのに、○○さんという人がね、こんないいこと、面白いこと言ってたよ・やってるんだよ、とは言わないで、みんな自分の手柄にする人が大勢いることに。40歳もすぎてから知った。

自分が偉い!?!?って人に思わせたいのかもしれないけれど、いいこと・すてきなこと・楽しいこと・助かること・ありがたいことをしてくれた人に感謝する心がなければ、幸せや充実がやってくるとは思えない。

隠匿(いんとく)とは感謝の心がない証左で、ほんとうに恥ずべきこと、嫌らしいことだと思う。

武田康弘





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