思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

福島第1原発4号機の設計に関わった田中三彦さんのお話

2011-06-02 | メール・往復書簡
以下は、「市民連帯」MLです。


永岡です、たね蒔きジャーナル、続いて、福島第1原発4号機の設計に関わった田中三彦さんのお話がありました。

 水野さん、原発事故を調査しているIAEAが原発ありきで報告書をまとめている(津波想定で大丈夫との報告書)時、原発を設計した人の話が聞きたいと、サイエンスライターの田中三彦さんのお話になりました。

  田中さん、原発事故は津波災害があり、段々と原発大丈夫かと思っていたら夕方、原発が危険とのことで、電源が取れなくなり、これは大変なことになったと思われたのです。そして今の状況は、ここまでの予想は誰にも出来なかった、しかし、日本の原発は通常の運転でも事故の可能性があるものの、日本の原発は1箇所に6~7基あり、災害が起こると全滅なのです。設計時は、原発は大きな構造物で、全体を分かってやっているのではない、田中さんは原子炉圧力容器の設計をして、格納容器の設計、配管の設計と別々の人がやって、全体像は分からないのです。プロジェクトマネージャーを作らないと全体は分からないのです。田中さんは耐震解析はやらないのです。地震でここに何が起こるかとデータをもらう、配管の設計では、別の地震荷重のデータで設計する、データは上から下へ行く、大まかにしか分からないのです。

アメリカの下請けでやっていた時代は、日本で、大型原発は1970年に大阪万博で美浜、駿河で稼動、GE、ウエステイングハウスで設計、物を作るのが日本の日立、三菱であり、60~70年代の技術者は、アメリカの技術を教わりつつやっていたのです。福島は日本のメーカーがやり、1号機はGEが設計、70年代前半のものはGE(沸騰水型)、ウエステイングハウス(加圧水型)が教え、東芝、日立がその後自立して設計していたのです。当時は地震の設計は法律上になく、78~79年に原発に地震の指針が出来た、外国の地震波として残っていたものを利用して設計、日本の原発は、外国の地震波を使って設計し、日本の地震に合わせて設計されているのではないのです。日本国内に耐震設計を行う指針は当時なく、福島4号機も耐震設計なしでやっていたのです。地震に対して、設計者も意識していなかったのです。

 福島で地震により配管が壊れている模様で、田中さん、この問題を雑誌「世界」5月号で指摘した、地震で壊れたのは1号機の模様です。津波で壊れたなら、思いもよらない津波、想定外としているのに、津波の前に、田中さんは地震で壊れたと推測している、東電が、圧力容器の水の減り方、圧力の減り方、格納容器の圧力上昇を見ると、変化のスピードも考えて、地震により大事な配管が壊れて格納容器の圧力が上がり、燃料丸出し、水素爆発と推察されたのです。

 どの原発も、地震によりやられる可能性があり、原発を推進したい連中はこのことに触れたくないのです。原発を推進したい人には、この問題を避けて通りたいのです。しかし、原発の耐震設計を見直さないといけないのです。原発は耐震脆弱性(格納容器が弱い)があるのです。

 これで時間がなくなりました。やはり、福島の事故は、津波より地震動でやられた模様です。今後も、田中さんのお話を番組で聞きたい模様です。以上、お知らせいたしました。


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6月11日「反原発シンボジューム&デモ」・三井環

2011-05-30 | メール・往復書簡
以下は、市民連帯のmlです。
(三井環さんは、元大阪高等検察庁の公安部長です)



三井環です。

6月11日反原発シンボジューム&デモの詳細が決定しましたのでご連絡いたします。
「市民連帯の会」の皆さまのご参加を是非お願いいたします。

☆シンボジューム☆
◎日時:6月11日(土)午前10時20分~午前11時30分
◎場所:四谷区民センター
(地下鉄丸ノ内線「新宿御苑前」駅徒歩5分)
    東京都新宿内藤町87番地/℡03-3351-3314
◎出席者:国会議員、ジャーナリスト5・6人(確定次第連絡)
◎主催者:「市民連帯の会」

☆デモ☆
◎日時:6月11日(土)集合13時 集会13時30分 デモ出発14時30分
◎場所:東京・芝公園23号地
   (東京タワー下・地下鉄三田線「御成門駅」5分)
◎デモコース(予定):芝公園→新橋→東電本社前→日比谷公園(流れ解散)
※雨天決行、参加費無料、どなたでも参加できます。
※「市民連帯の会」の皆さんは「市民連帯の会」の横断幕に集合して下さい。
◎主催者:原水爆禁止日本国民会議

☆呼びかけ団体☆
市民連帯の会(代表 三井環)03-3844-8722/原水爆禁止日本国民会議03-5289-8224/
プラトニウムなんていらないよ!東京03-5225-7213/原子力資料情報室03-3357-3800/
日本消費者連盟03-3238-9035/ふぇみん婦人民主クラブ03-3402-3244/
たんぽぽ舎03-3238-9035/福島老杤原発を考える会/その他一般市民

お問い合わせは三井環事務所(下記)までお願いいたします。

〒110-0015 東京都台東区東上野6丁目1番4号イワツキビル201号
       TEL03-3844-8722 FAX03-5827-3132  siminrentai@goo.jp
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市民連帯mlー「三井環(元大阪高検公安部長)です。」

2011-04-28 | メール・往復書簡

以下は、【市民連帯】(三井環さんの活動を支える市民の輪)のmlメールです。

三井環です。(元・大阪高等検察庁公安部長)

皆さま方からの毎度ご熱心な投稿有難うございます。これらのご投稿にはすべて目を通させていただき「市民連帯の会」の活動に生かしてまいりたいと存じます。

ところで私は2002年4月に検察の裏金告発のため、テレビ朝日「ザ・スクープ」に現職・実名で出演しようとしましたが、その収録の3時間前に大阪地検特捜部より逮捕されました。逮捕は全くのでっち上げであり、私の口封じのためであることは明らかでしたが結局、1年8ヵ月の実刑が確定、2008年10月に収監されました。

10年1月18日に満期出所後、『告発!検察「裏ガネ作り」』『検察との闘い』『「権力」に操られる検察』などの本を出版、昨年末には「検察の裏金返還」や「取調べの全面可視化」などを求め市民デモなどを実施して参りました。

私はつい最近まで、検察の自浄能力や政治のリーダシップを期待していましたが、官僚組織という化け物は自分達に不利になることは決して認めようとしないし、私が期待した菅直人氏も所詮、官僚組織に太刀打ちできない無能な政治家であったと痛感した次第です。

そしてこの肥大化した官僚組織を改革できるのは、小沢一郎氏や鈴木宗男氏ら本物の政治家であり、政府にコントロールされない自由報道協会などのジャーナリストや評論家達であることを確信いたしました。

そこで今後「市民連帯の会」は、これら革新的政治家や真実を伝える言論人たちを支援し「公正で安全・安心な社会」「国民の生活が第一」の共生社会の実現を目指したいと考えています。是非、皆様方のご支援、ご協力を賜りたく宜しくお願いいたします。
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ハイデガーとサルトル、竹田哲学と武田哲学

2010-03-13 | メール・往復書簡

武田先生

受動性の哲学のハイデガー論、大変参考になりました。
勇気あるとても良いご意見と思いました。最近私の大切な
恩師が逝去し思考能力が低下しておりますのでこの件は、
またのチャンスで私の意見も述べたいと思います。先生と
ハイデガー論をするにはまたハイデガーを読まないといけ
ませんので。一点のみ本日は記します。前期ハイデガー
『存在と時間』の頃は、サルトルもハイデガーに能動性の
哲学を見ていたように思います。『実存主義はヒューマニ
ズムである』でハイデガーを神なき実存主義といっています
ね。「死への存在としての」現存在はそのような死への不安
や自覚から再度生を捉えなおし再構成しようという意気込み
のようなものが、『存在と時間』にはあったように思います。
だからサルトルも影響を受けたのでしょうかね。ただ、
「転回」以降のハイデガーは先生の文脈で言うと受動性の哲学
だったのかもしれません。それを哲学の自殺とまで言われると
難しい判断です。アドルノだったら先生のご意見に賛成でしょ
う。私にはそこまでの判断はつきません。
結論として、ハイデガーの哲学は私が求めている哲学ではあり
まえん。ただいまだに彼の論文を読んでいるとやっぱり引き込
まれますね。(笑い)どのようなものに引き込まれるかはまた
のチャンスに。

内田

――――――――――――――――――――

内田さん
はい、そうですね。
前期と後期は明らかに違いますよね。しかし、「存在と時間」自体にすでに問題の根
はあると思うのです。人間存在の分析と物の存在の分析を分けて考えることはできな
いはずですから。また、わたしは、サルトルの思想が「正しい」と考えているのでは
なく彼の哲学ならざる哲学が為になるー面白いと思うのです。哲学を「正しさ」競争
から解放しないと、能動性は支えられない、そう思うのです。「正しさ」を基準とす
れば、哲学は死ぬ(客観主義へと堕ちていく)。それがわたしの基本思想です。後期
のハイデガーも「正しさ」競争をしたのではないのですが、「受動的な存在論」がそ
れを導いてしまった、というのが私の見方です。
武田
――――――――――――――――――――――――

武田先生

ありがとうございます。
私もサルトルの思想が「正しい」と考えたことはありません。
あのサルトルの楽天的といえるほどの主体的な思想はどこから来る
のでしょうか?よくアンガジェするとか言っていましたね。(笑い)
「受動的な存在論」という文脈からすると、前期ハイデガーにも確か
にそのような根はあったと私も感じます。基礎的存在論(存在とは何
だろうと質問している人間存在の研究)の次の問題ですね。
しかし、哲学史家としてのハイデガーは驚くべき存在です。哲学史家と
してのハイデガーを「正しい競争」から評価しても意味がありません。
また、短い哲学論文ですが『同一性と差異性』とか強靭ともいえる思索
力で本質に迫ろうとします。
再度申し上げますが、ハイデガーの哲学は私の求める哲学とは違うのです。
主体性の哲学という文脈では、サルトルやヤスパースの方が近しい存在と
思います。
(ヤスパースに関しては先生も竹田青嗣さんも批判的のようですが?)

                               内田
――――――――――――――――――――――――

内田さん

哲学を知る、というときの「知る」は、考え出す・生み出す・提案する・意味を与える・・・という「主観性の知」です。徹頭徹尾「意味論」なのであり、したがって、通常の勉強・学問(「事実学」)とは頭の使い方が異なりますが、その点の認識が明晰でないために、ありもしない「正解」を求める悪弊から抜けられないのではないでしょうか(=一神教の枠内にある哲学)。サルトルの哲学は、その悪弊を打ち破ろうと企図したものでしょう。 「専門の哲学の学者」ではない「哲学する者」としての哲学者というのがサルトルであったと思います。  「理論」(静的な論理の構築物)ではなく、自らの生きる姿勢を問い、生を創造する哲学であり、したがって「研究」しても意味がないわけです。知的言語ゲームではなく、心身全体によるその都度の思索なのではないでしょうか。

武田

――――――――――――――――――――――――

武田先生

ありがとうございます。大切なポイントですね。
「心身全体によるその都度の思索なのではないでしょうか。」⇒ 哲学的に知るとは、
先生の文脈から考えると、『全身による会得』というような感じでしょうかね。
正に意味を与えるのは、主観であるこの私ですね。意味論であり主観性の知ですね。
知られて事実だったら勉強したり、研究したりしてもよいのですが、こちらがその意味
を与えるのですから主体的な行為の問題となると思います。
極端に言えば、未知の事物に出会ったときにどうするでしょう。無条件・無前提・今ま
での常識は通用しません。そのときは裸の個人として、その事物に対峙せざるをえない
のです。その時、人は意味を与えるでしょう。ただ、そのような反射や行為に伴う知を
会得するには、常に訓練が必要かもしれません。それは、勉強や研究とは違ったもので
しょうね。
違った頭の使い方をしないと確かに対応不能なことだと思います。今の学校の勉強では
ダメですね。柔軟なしなやかさを伴う、とっさの時の実践知のようなものでしょうか。


追伸 竹田青嗣さんと竹田先生の哲学の違いについて私なりに想像します。

ちょっと話しは外れますが、昨年東大名誉教授の高崎直道先生にお会いしました。その際
開口一番、「仏教学は文献学なので哲学でないのです 哲学はできません」と言われま
した。私が、比較思想(哲学)を研究しているのをご存知で言われたのでしょう。高崎
先生は、『如来蔵思想』の世界的な研究者です。如来蔵とは、仏性と同義の言葉です。
簡単に言うと、すべての人に仏となる性質が本来私たちには誰にでも備わっているとい
う意味でしょうか。私は、高崎先生を仏教哲学者と思っていましたのでその発言には驚
いたと同時に、先生の学問である文献学への真摯な態度と誠実で謙虚な人柄に心をうた
れました。高崎先生は、僧侶でもあり市井の民に接しておられることもあって東大病か
ら遠い立派な方と思いました。

本論に戻し、竹田青嗣さんの哲学は常に厳密な文献学的手法を用いテキストを正確・精
緻に読み込むことを基本にされていると思います。その意味では原典主義の伝統的な日
本の哲学者の態度のように思います。学者としては、正に正統的かつ立派な姿勢をお持
ちです。その成果がヘーゲルやカントやフッサールですね。
そこをベースにして自らの哲学を表現されているのでしょう。だから、テキストの読み
に執拗にこだわられていると思います。私など非力な原典が読めないものからすると驚
きですが、居直ってしまって「偉大な思想は誤読から始まる」親鸞や道元など・・・と
思っております。恥ずかしい限りですが。
武田先生の哲学はそれと正反対で、直接的な体験や経験から立ち上げる哲学でありテキ
ストはあくまで参考程度というところだと思います。もちろん、先人他のテキストを読
むことは、体験や経験だと思いますがそれは2次的なこと。まずは、子供たちと学び遊
ぶところから、自分と同じ考えや異なる考えの人との対話から、自由闊達な人との交わ
りから立ち上がってくる哲学と思います。
どちらの哲学がより価値があるかとは言えないと思いますが、このスタイルの違いは大
きいですね。ただ竹田青嗣さんのようなスタイルで哲学をしている方は、彼ほど素晴ら
しく行えなくても結構おいでになるし、私も存じ上げております。
ただ、武田先生のようなスタイルの方は、哲学の世界ではいわば天然記念物の希少価値
生物(失礼です)なのです。ただ、市井の民にとってどちらが頼りとなるかということ
です。本来哲学は、「いつでも、どこでも、誰でも、ただで」行えるものと思っており
ます。そのような開示性がないと、民は哲学から離れるでしょう。
つまり、学者が求める哲学と民が求める哲学は違うということでここに日本の哲学界の
不幸があるように思います。一番肌身で感じておられるのは、30年市井の民の中で哲
学をされている武田先生でしょう。

内田

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検察庁の裏金問題ー詳細・分明なCmoonさんのまとめ。

2010-03-02 | メール・往復書簡

以下は、マイミクのCmoonさんのブログ(mixi)です。
三井さんが告発した検察庁の裏金問題について、三井さんの書かれた手紙を基に分明に書かれていますので、ご紹介します。この問題についての真実をしっかり知ることができる極めて優れたブログです。昨日の私のブログとあわせてご覧ください。わたしは、哲学する者として、「なにがほんとうなのか」に高い関心があります。人間が生きる上で最も大事なのは、誤魔化さずに「真実」を知る勇気です。


Cmoon

三井環さんが、告発した、現在もし続けている「検察の裏金」の問題の概略を書きます。(三井環さんの「鈴木邦男氏への手紙」参照)

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


当時(2001年)は、大阪地検加納駿亮検事正が、裏金づくりの犯罪(虚偽公文書作成、同行使、私文書偽造、同行使、詐欺)で刑事告発され週刊文春、週刊朝日が大々的に三井氏からの取材により報道されていた。

法務省は加納検事正を福岡高検検事長に上申したが、当時の森山法務大臣は刑事告発されていることを理由に難色を示した。小泉内閣としては人事を承認し刑事告発が「黒」であれば、その責任を内閣が負わなければならないからである。法務省はなかなか内示ができなかったため報道が過熱し大手新聞も一気に報道しかねない状況下にあった。

そこで原田検事総長が考え出したのが「けもの道」という選択だった。(検察の組織的な裏金づくりの犯罪は内部では「公知の事実」だった)
検察の組織的な裏金づくりの犯罪が公表されると、約70名の検察幹部の懲戒免職、国民からの刑事告発、使った金の国への返還、検察幹部OBへの波及など大問題が発覚し検察の信用は一気に失墜し、一時その機能が麻痺するからである。

10月末、原田検事総長とM法務事務次官、F刑事局長が後藤田正晴元法務大臣の事務所を訪ね、加納人事が承認されないと裏金問題で検察がつぶれると泣きを入れた。これを後藤田氏は後に「けもの道」と名付けた。

検察の原点は
◇真実のみを追求しそれを確定する
◇政権に貸し借りを作らないこと
政権に借りを作ると、与党政治家の贈収賄等の捜査が事実上不可能になる。政権への捜査が進む中、検察最大の弱点である「裏金づくりを公表しようか?」と一言いわれれば捜査を中断せざるを得ない。

検察の裏金づくりの犯罪は公知の事実であるのに刑事告発に対し「嫌疑なし」と裁定し「真っ黒」を「真っ白」にした。
「けもの道」により小泉内閣は加納人事を11月13日に承認し、天皇を欺き犯罪者を認証させた。

さらに原田検事総長と森山法務大臣は
◇「検察の組織的な裏金づくりは事実無根である」記者会見した。
◇オンブズマンによる裏金づくりの裁判では、虚偽の準備書面を提出し、法務委員会における野党議員による追及でも虚偽答弁をする。

そして翌年4月17日、「ザ・スクープ」の鳥越俊太郎氏と約束し、4月22日昼から大阪で取材、収録予定の日の朝、三井氏は逮捕された。
5月の連休明けに朝日新聞東京本社が報道した後に放映するという約束があった。他の大手新聞、NHKテレビ等も朝日新聞を後追いするという約束だった。

検察は組織的な裏金づくりの犯罪を隠蔽し、その発覚を免れるために三井氏を口封じ逮捕した。

公権力である検察を告発することがマスメディア電波に乗り、活字になるには、絶対的とも言える証拠がなくてはならない。
この証拠については、菅直人財務相の元政策秘書でフリージャーナリストの松田光世氏が全面的に協力し検証した、十分告発に耐え得るものである。
(松田氏は現在もツイッターなどで告発し続けている。また三井さんの国会証人喚問の道を開くべく活動中でもある)

「検察の裏金」とは、1年間に6億円もの「調査活動費」が1円も本来の用途に使われずに自動的にすべて裏金となって、検察幹部の遊興飲食費、ゴルフ代、麻雀代等に血税が使われた。といものである。
三井氏も次席検事通算6年間、その共犯者として裏金帳簿の決済をして飲食接待にも参加した。

三井さんの逮捕容疑。
◇不実記載・詐欺罪
三井氏は、マンションを購入するに当たり、銀行ローンを組む際に銀行担当者の要望により融資申し込みと同時に住民票を移動した。このことが不実記載として立件された。
不動産取引、銀行実務では、事務の煩雑から先に住民票を移動するのが慣行となっている。銀行ローンを組んで住宅を購入された方は経験されたと思う。
詐欺罪は、登録免許税の減額措置を受けるための証明書1通の財物を区役所から騙取したというものである。登録免許税法では違法な減額措置を受けた場合には追徴金でもって対応することになっている。

◇公務員職権濫用罪
検察事務官に指示して某氏の前科調書を入手しただけである。

◇収賄
某氏の依頼により三井氏が事業資金200万円を無利子で貸与し、その謝礼で3日間22万円の私的な飲食等の接待を受けたというのが事実である。あくまでも私的接待であるので収賄罪が成立しない。

判決は有罪で、7年間の懲役を経て、今年1月満期出所。仮釈放も認められなかった。

さらに詳細にマイミクのタケセンさんの、mixi日記、コメント欄に書かれているので、ぜひご覧ください。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

録画がアップされました。 (C-moon )
2010-03-02 20:43:48

タケセンさん、ご紹介ありがとうございます。

僕の記事の基になっている

シンポジウム「小沢vs検察」にみる検察と報道のあり方
【出演者】
三井環(元大阪高検公安部長)
鈴木宗男(国会議員)
上杉隆(ジャーナリスト)
青木理(ジャーナリスト)
元木昌彦(元『週刊現代』編集長)
安田好弘(弁護士)
司会:篠田博之(月刊 創 編集長) 

録画版が本日アップされました。お時間のある方は、ぜひご覧になってください

http://opinion.infoseek.co.jp/article/766



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検察庁と小沢氏、あるビジネスマンの見方

2010-01-18 | メール・往復書簡


以下は、わたしのブログを読まれての意見です。
ある大企業に勤める方で、公共的な役職にもつく方から寄せられたメールです。



今回の東京地検は特に異常と思えます。

政治資金報告書の記載漏れとか虚偽記載が問題なのか?それとも贈収賄なのか?4億円のお金の一部が怪しいお金で厳罰に当たる問題と考えているのか?
確信があるならターゲットを明確にして、堂々と捜査に当たればよいと思います。

ただ、このような曖昧なことで、公党の幹事長にたいして何をしようとしているのでしょう?検察ファッショといわれる問題です。小沢つぶし、民主党つぶしなのでしょうか?(官僚側の抵抗)私には分かりません。

早く国会で予算を通して、一国でも早く日本国経済を上向かせる努力をしないと大変なことになるのではないかと心配です。

小沢さんは不本意でしょうが、同義的政治的責任及び軽微でも法律に触れるようだったら相当な覚悟を持って国会等で説明していかないと、このままでは予算を人質に小沢さんの幹事長辞任ということになりかねません。

マスコミもひどいですね。小沢さんは確かにグレーかもしれませんが、国民から選ばれた代表が、このうな曖昧な形で公職から追われていったら、まったく恐ろしく思います。

内閣支持率がすでに40%台に急降下との事です。注意信号です。今考えるべきことは、検察のわけの分からないリークにより騒ぎ立てるのでなく、国民、市民の生活から何が今必要かを考えるべきでしょう。

小沢さんのことで現政権の足を引っ張るのではなく、早期政策実行によりこの停滞状況から如何に抜け出すかを考えるべきと思います。私は、ビジネスパースンですので本当にこの一年は歴史の峠だと思っています。世界経済から取り残されたらどうなるか?本当に怖いことです。

杞憂でしょうか?

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公共を哲学する=生々しい現実問題をテーマに、活発な議論を!

2009-09-21 | メール・往復書簡

公共哲学のML(pub-citizen@mlc.nifty.com)において、
公共(性)の問題で、生々しい現実問題が論じられ、面白い展開になっていますので、仕掛け人の山脇直司さんと、山脇さんの誘いでMLに新しく加入された荒井達夫さんの対話を載せ、読者のみなさまにも、ご質問やご意見を頂きたいと思いますので、よろしくお願いします。

武田康弘
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荒井さん

一般論として異論はありませんが、国家公務員の場合、活動の場がきわめて特殊な空間に限られているように思えます。どのような形で「全体に奉仕」するのでしょうか。イメージがわきません。

また地方公務員との関係をどのように考えておられるのでしょうか。地方公務員からなぜ国家(中央)公務員は嫌われるのでしょうか。
また、「地方主権」という言葉が現政権の下、使われ始めましたが(ちなみに稲垣さんが言う領域主権もこの意味だと私は考えています。)、この概念を荒井さんは認めますか?

さらに、三元論を金泰昌さん(彼は知識人で私も敬愛していますが、韓国籍の民間人にすぎないので、日本の国籍保有者しかなれない国家公務員の研修会に呼ぶのは不適切です!責任者の責任を問いたいと思います。)のいう(特殊な)意味だけで使わないようにして頂きたいと思います。

私の場合、2004年5月刊行のちくま新書『公共哲学とは何か)の176頁から177頁にかけて、「中央政府・地方政府を問わず、政府が実施する公共政策は、責任ある民の公共によって究極的に正当化され、また補完されるべきことを、公共哲学はつねに喚起します。」と明記しており、授業や講演でもそのことは繰り返し述べています。これは「民の公共」によって「政府の公」がダイナミックに変化すべきことを意味します。
また、行政学が専門でもある小林正弥さんもほぼ同じ意味で三元論を使っています。
なお、東大出版会のシリーズは、どこまでもいろいろな立場の人が論争を繰り広げるアゴーンを読者に提示するのが目的であり、編者はその仲介者にすぎません。本の中身をほとんど読まずに、金泰昌氏を公共哲学の権威とみなした荒井さんの出発点の判断に大いなる問題があったと、私は解釈します。

また、官報誌にすぎない『立法と調査』がどれほど影響力のあるものか、私には(少なくとも現時点では)不明であり、そうした官報誌を喧伝するのはいかがなものかとも感じています。
さらにもう一言、「官僚のキャリアシステム」問題などは、公共的争点としては相対的にマイナーなものだと私は思います。そうしたマイナーな基準だけで、公共哲学運動全体を判断するのは根本的に間違っています。もっとも私は、キャリアシステムは廃止されるべきという意見ですけれどもーー。

山脇直司
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山脇さんの質問にお答えします (荒井達夫)
2009-09-21 22:01:08

山脇さん

質問にまとめてお答えします。

「国家公務員の場合、活動の場がきわめて特殊な空間に限られているように思えます。どのような形で「全体に奉仕」するのでしょうか。イメージがわきません。」(山脇さん)

今日、国家公務員の活動の場は非常に広くなっており、そのため職種も非常に多種多様です。私も沢山知っておりますが、書き上げてもきりがないので、詳しくは人事院に聞いてください。
なお、山脇さんも、以前は国家公務員(東大教官で文部省職員)だったはずですから、「全体の奉仕者のイメージがわかない」のは、大変な問題です。他の三元論者と同様に、法の理念と現実が区別できていないのかもしれませんね。常に、国民の多くが共通に求めているものは何か、重要と考えているものは何か、を念頭に置いて、できる限りそれらを実現するよう努力するということです。一部の人達の利益だけを優先するように考えて仕事をするのでは、全然ダメでしょう。天下りや官製談合が許されないのは、「全体の奉仕者」に反するからです。


「地方公務員との関係をどのように考えておられるのでしょうか。地方公務員からなぜ国家公務員は嫌われるのでしょうか。」(山脇さん)

質問の趣旨が良くわかりませんが、「地方公務員からなぜ国家公務員は嫌われるのか」、地方公務員の方に聞いてください。私の個人的な関係では、極めて良好です。
なお、地方公務員も、「全体の奉仕者として公共の利益のために勤務しなければならない」(地方公務員法30条)ことをお忘れなく。


「地方主権という言葉が現政権の下、使われ始めましたが(ちなみに稲垣さんが言う領域主権もこの意味だと私は考えています。)、この概念を荒井さんは認めますか?」(山脇さん)

「地方主権」は、主権在民の原理を当然の前提としています。そうでなければ、憲法違反になりますから。その意味での「地方主権」=「領域主権」なら、問題ないと考えます。


「三元論を金泰昌さんのいう(特殊な)意味だけで使わないようにして頂きたい。」(山脇さん)

私が批判しているのは、「一番有名な金泰昌さんのオリジナルの三元論」、と明言しています。「山脇さんの三元論」は、金さんの三元論を利用しながら、それとは違う内容だと主張しているのですから、その違いを一般の人々に良くわかるように説明する責任が、山脇さんにあると思います。それを私に求めるのは、筋違いでしょう。


「彼は、韓国籍の民間人にすぎないので、日本の国籍保有者しかなれない国家公務員の研修会に呼ぶのは不適切です!責任者の責任を問いたいと思います。」(山脇さん)

国家公務員の研修会に外国人の学者が、その分野の専門家として呼ばれ、講演を行うことに、何の問題もありません。国際化の観点からも望ましいことです。また、金泰昌さんは、佐々木毅さんとシリーズ公共哲学(東大出版会)を編集しているほどの方ですから、超一流の専門家と見なされて当然です。参議院のパネルディスカッションに金さんをお招きしたのも、そのためです。ですから、山脇さんの発言は、甚だしく不適切と思います。それでも、「責任者の責任を問いたい」のであれば、人事院に問い合わせてください。


「中央政府・地方政府を問わず、政府が実施する公共政策は、責任ある民の公共によって究極的に正当化され、また補完されるべきことを、公共哲学はつねに喚起します。」(山脇さん)

「民の公共によって究極的に正当化され、また補完され」た後は、「公」=「公共」となりますから、山脇さんの三元論は、単なる現象面について「公」=「公共」となるまでの「過程」を述べているだけになりますね。知人が、「それなら三元論と言うほどの意味はないと思う」と言っておりました。


「行政学が専門でもある小林正弥さんもほぼ同じ意味で三元論を使っています。」(山脇さん)

小林さんにも、発言してほしいですね。行政学が専門なら、キャリアシステムの問題の重要性は十分承知しているはずです。


「東大出版会のシリーズは、どこまでもいろいろな立場の人が論争を繰り広げるアゴーンを読者に提示するのが目的であり、編者はその仲介者にすぎません。本の中身をほとんど読まずに、金泰昌氏を公共哲学の権威とみなした荒井さんの出発点の判断に大いなる問題があったと、私は解釈します。」(山脇さん)

これについては、このブログでさんざん議論しており、決着は着いたと判断しています。後は読者の判断にお任せしましょう。


「官報誌にすぎない『立法と調査』がどれほど影響力のあるものか、私には(少なくとも現時点では)不明であり、そうした官報誌を喧伝するのはいかがなものかとも感じています。」(山脇さん)

山脇さんにとって影響力が不明な官報誌を宣伝すべきでない、とする理由は何ですか。影響力があろうと、なかろうと、私には「立法と調査」を積極的に喧伝する責任があります。税金で作っている以上、広く国民一般に知っていただくよう努力することは、公務員の義務なのです。インターネットで公表しているのも、そのためです。何もしないで、知られないように放置しておくのは、職務怠慢としか言いようがありません。


「官僚のキャリアシステム問題などは、公共的争点としては相対的にマイナーなものだと私は思います。そうしたマイナーな基準だけで、公共哲学運動全体を判断するのは根本的に間違っています。」(山脇さん)

キャリアシステムの問題が、「公共的争点としてマイナーなもの」という認識には、本当に驚きました。山脇さんは、新聞を読んでいるのですか?
なお、私は、キャリアシステムの問題だけを基準に公共哲学運動全体を判断するなどと、一度も述べたことはありません。
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荒井さん、武田さん

山脇直司です。
22, 2009 12:28 AM

今、明治維新以降、現代にいたるまでの民権派と国権派の対立について、ドイツ語で原稿を書くのに追われていて、武田さんのブログをみる余裕がありませんので、このMLに書きます。

それで、荒井さんの形式的な応答を真似て、私も形式的に応えましょう。

①「なお、山脇さんも、以前は国家公務員(東大教官で文部省職員)だったはずですから、「全体の奉仕者のイメージがわかない」のは、大変な問題です。」(荒井)

とありますが、東大生と同じように、国民全体に奉仕せよと考えるとしたら、それは大変な欺瞞です。国民全体が東大の授業に参加できるわけではありませんから。それとも、荒井さんは、旧国立大学の授業に国民全体が参加できるような改革案でも提唱されたのでしょうか。荒井さんのこの発言は、全くナンセンスとしか思えません。ちなみに私の母校、一橋大学は国立でしたが、徹底的に反官僚のエートスに満ちていました。私は個人的に、法学部は法科大学院として独立し、大学は教養学部中心にすべきだと思っています。

②「他の三元論者と同様に、法の理念と現実が区別できていないのかもしれません
ね。」「山脇さんの三元論」は、金さんの三元論を利用しながら、それとは違う内容だと主張しているのですから、その違いを一般の人々に良くわかるように説明する責任が、山脇さんにあると思います。」(荒井)

この二つの発言には笑ってしまいました。私の本を一度も読まずに、皮相的に公共哲学を論じていることがよくわかります。まぁ、ドイツでの仕事を終えて、落ち着いた11月以降にでも発表しましょう。赤羽さん、セッティングをよろしくお願いします。

③「常に、国民の多くが共通に求めているものは何か、重要と考えているものは何か、を念頭に置いて、できる限りそれらを実現するよう努力するということです。一部の人達の利益だけを優先するように考えて仕事をするのでは、全然ダメでしょう。天下りや官製談合が許されないのは、「全体の奉仕者」に反するからです。」
(荒井)

この荒井さんの考えにはほぼ全面的に賛成します。現場で頑張ってください。

④「地方公務員からなぜ国家公務員は嫌われるのか」、地方公務員の方に聞いてください。」(荒井)

権力が強すぎて、傲慢だからだと思います。荒井さんは例外のようなので、良好な関係を続けて下さい。

⑤「金泰昌さんは、佐々木毅さんとシリーズ公共哲学(東大出版会)を編集しているほどの方ですから、超一流の専門家と見なされて当然です。」(荒井)

うーん。金さんは、思想史などの分野では確かに一流で、私も尊敬していますが、残念ながら、日本の行政事情に疎く、戦後民主主義もあまり勉強していないので、この見方は買被りです。佐々木さんがなぜ推薦したのか、私には判りません。公務員研修所のお話を拝読した限りでは、金さんの形而上学のご披露といった感じですね。荒井さんが全く読んでいないシリーズ11巻での金さんの発言も、行政学者たちと立ちうちできない内容でした。ですから、「著しく不適切ですという」極めてフォーマル(公的な!)荒井さんのお応えこそ、不適切に思います。
なお、それはそれとして、在日外国人が地方公務員はもとより国家(中央)公務員になれることは、日本で近い将来可能だと荒井さんはお考えかどうか、お聞きしたいと思います。

⑥「それなら三元論と言うほどの意味はないと思う」と言っておりました。(荒井)

いいえ、あります。私の言う公は、英語ではofficialやformalの意味であることをお忘れなく!
また、「正統性(legitimacy)」という根本問題を荒井さんはどう考えているのでしょうか。もっとも、法律職の方にとっては重要でないかもしれませんがーー。
いずれにせよ、その知人の方を交えて、(ただし白樺記念館という武田さんのフランチャイズではなく、中立的な場所で)、11月以降議論しましょう。

⑦「小林さんにも、発言してほしいですね。行政学が専門なら、キャリアシステムの問題の重要性は十分承知しているはずです。」(荒井)

小林さんは、今、友愛の公共哲学の展開で忙しいようですが、ぜひ、発言してください。

⑧「影響力があろうと、なかろうと、私には「立法と調査」を積極的に喧伝する責任があります。税金で作っている以上、広く国民一般に知っていただくよう努力することは、公務員の義務なのです。インターネットで公表しているのも、そのためです。何もしないで、知られないように放置しておくのは、職務怠慢としか言いようがありません。」(荒井)

喧伝する義務があるということで、了承しました。

⑨しかし、私はキャリアシステムが比較的マイナーな公共的争点だという認識を撤回するつもりは、全くありません。公共哲学は、平和、福祉、人権などもっと重要な哲学的・実践的問題にコミットするべきであり、公務員の問題など二次的、三次的問題にすぎません。したがって、公務員の改革に使えるか使えないかで公共哲学を判断しようというのは、公共哲学の矮小化以外の何物でもなく、荒井さんの視野狭窄を露呈しているとしか申し上げようがありません。

⑩それで、失礼な質問になるかもしれませんが、荒井さんは若い時、哲学することを学んだことがあるのですか?


以上、ポレミークな表現になってしまいましたが、荒井さんの公務員としての活動には心から敬意を表しますし、足を引っ張るつもりは全くありません。
ただ、私との関心領域がずれていることが多いので、その場合の武田さんの調停を仰ぎます。

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追加します (荒井達夫)
2009-09-22 09:06:43

山脇さんから、さらに追加のメールで質問・反論がありました。特に重要と思われるものについて、以下に述べておきます。

①「東大生と同じように、国民全体に奉仕せよと考えるとしたら、それは大変な欺瞞です。国民全体が東大の授業に参加できるわけではありませんから。」(山脇さん)

大学教授は、自らの教育・研究の成果が社会の発展に貢献することとなるよう、日々努力すべき、ということが、大学教授の「全体の奉仕者として公共の利益のために勤務する」ことの意味です。また、教育・研究の成果(授業、講演、論文執筆等)については、積極的に情報公開して、社会の評価を受けることが、「全体の奉仕者」としての責任と言えます。法の理念に基づいて、現実にどう行為するのか、と考えれば、こういうことになると思います。山脇さんは、「国民全体が東大の授業に参加できるわけない」から、「全体の奉仕者」になれないと主張していますが、これこそが、法の理念と現実の区別ができていない証拠であると言えるでしょう。

⑥「私の言う公は、英語ではofficialやformalの意味であることをお忘れなく!また、正統性(legitimacy)という根本問題を荒井さんはどう考えているのでしょうか。」(山脇さん)

日本語の「公」を英語訳して並べるだけでは、無意味です。重要なことは、「事柄の現象面の説明」としてではなく、「思想の大元の論理」として「公共と異なる公があって良い」と考えるのかどうか、この一点に尽きます。主権在民の原理から、三元論の説明の「正当性」が問われているのであり、三元論の「根本問題」と言えます。

⑩「失礼な質問になるかもしれませんが、荒井さんは若い時、哲学することを学んだことがあるのですか?」(山脇さん)

若いときは、「哲学すること」を学んだことはありません。ただし、私は、30年前もから、キャリアシステムには違和感と疑問を感じてきました。それが今日の「哲学すること」に直結しています。武田さんは、我が国のひどく歪んだ知のありようを「東大病」(=客観学への知の陥穽)と名付け、その原因を「主観を消去する日本というシステム」にあると分析していますが、私は、それがキャリアシステムの問題を根本的に解くことのできる哲学思想であると直感したのです。

「哲学すること」とは、書物から知識を得ることではなく、哲学知識を人々に説明してまわることでもありません。日々の具体的経験に基づいて、より良い人生とは何か、そのためのより良い社会とは何か、と深く問い、現実社会の中で具体的な行動を起こすことであると考えています。それが、山脇さんのような最高学府の大学教授から見て、どれほど「ちっぽけな世界」であろうと、私は、それで良いと納得しています。
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荒井さん
23, 2009 11:44 AM

昨日はドイツ語の執筆に追われていて、メールを読む時間がありませんでした。

それで、下記のご発言に関して若干のコメントをしておきます。

法の理念と現実をどう考えるかは、法哲学的に未だ決着のつかない大問題で、荒井さんの言うように、簡単に片づけるわけにはいきませんが、今はそれに立ち入る余裕はありません。

ただ、自分の研究成果を公開して公衆(The public)にフィードバックすることは、公共哲学の基本理念であり、それは公務員の理念とは関係のない事柄だと思います。

荒井さんは、完全にドメスティックなレベルだけで「公」を考えているようですが、私はそれに甘んじるわけにはいきません。どこまでも、インターナショナルなレベルで考えます。

あと、荒井さんがいまだに「最高学府」という時代遅れの言葉を使っていることに、驚きました。東大を最高学府だと思ったことは、ほとんど私はありません。ですから、そのような言葉は死語にしていただきたいと思います。

山脇直司
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山脇さん
23, 2009 6:22 PM

内容のある議論をお願いします。

これでは、反応のしようがありません。

荒井達夫
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コメント

山脇さんへの疑問 (青木里佳)
2009-09-24 01:07:34

山脇直司さんへ
青木里佳です。

山脇さんと荒井さんの議論を読み、疑問に思った点がいくつかありましたので書かせて頂きます。

1.山脇さんの外国語用語についてですが、前にも書きましたが、一般の人が見て理解できないような言葉はわかりやすい言葉に換えて説明して欲しいです。
今回の議論でもアゴーンやエートス、ポレミークという言葉が使われており、意味がわからないので辞書で調べてから読み直しました。これは私だけでなく、読んでいる一般の人々も同じように感じているのではないでしょうか。
日常的に使われないような難しい言葉・専門用語が少しでも入ると、読む側は何が言いたいのかがわからなくなり、読む気をなくしてしまいます。人によっては「普通の人がわからないような言葉を使ってインテリぶってる」と不愉快に思うかもしれません。
読む人の立場を考えて、言葉を選んで書いて欲しいと思います。

2.山脇さんも以前国家公務員として長年東大教授をしているのにも関わらず、
全体の奉仕者としてのイメージが沸かないということについてですが、これは驚きで、大変なことではないでしょうか。直接には学生さんに教えているわけですが、その授業や研究は、日本に住む人々全体の利益になるようにと考えなければ、国民の税金から出る給料をもらうことはできないはずです。

3.「荒井さんは、完全にドメスティックなレベルだけで「公」を考えているようですが、私はそれに甘んじるわけにはいきません。どこまでも、インターナショナルなレベルで考えます。」(山脇さん)

山脇さんがインターナショナルな方で、沢山の国々を訪問し、世界での経験が豊富であることは素晴らしいと思います。ですが、この話は論点とずれていると思います。
荒井さんは国内問題としてキャリアシステムの問題に取り組み、改善できるよう行動を起こしています。そのことと、世界問題に具体的に取り組むことはどっちがすごいか・偉いか比較はできませんし、比較する対象としてもずれていると思います。メジャーかマイナーかという基準で判断できることではありません。
どの国も自国の問題に頭を悩まし、どうすれば改善できるか取り組んでいますが、世界問題をそっちのけにするとか忘れているわけではありませんよね。
要するに自国問題だけに取り組んでいる人(国)はいませんし、世界問題だけに取り組んでいる人(国)もいません。どの国も自国問題も世界問題も並行して取り組んでいるのが現実ではないでしょうか。自国の問題に強い責任をもって取り組む人でなければ、インターナショナルなレベルでも高い評価は受けないはずです。

それと度々気になっていたのですが、山脇さんの相手に対する言葉遣いです。
前回書かれていたように荒井さんの官僚の世界を「ちっぽけな世界」と称したり、今回もキャリアシステム問題を「公共的争点としてマイナーなもの」と表現されましたよね。
国内的な問題=マイナー、国際的な問題=メジャーという視点・考え方から出てくる言葉・言いまわしなのかなと疑問に思いました。差別的です。

「私の本を一度も読まずに、皮相的に公共哲学を論じていることがよくわかります。まぁ、ドイツでの仕事を終えて、落ち着いた11月以降にでも発表しましょう。赤羽さん、セッティングをよろしくお願いします。」(山脇さん)

この文面も議論相手である荒井さんに対して、対等に話をするのではなく、上から応じている感じが伝わってきます。
山脇さんがそのつもりはなくても、「俺の仕事が片付いたら教えてやるよ。そのためのセッティングをよろしく」という風に聞こえてしまうわけです。

4.忙しくて余裕がないようでしたら、優先すべき仕事や作業を終えてからコメントすべきだと思います。「~で忙しいので・・」「~で読む時間がありませんので・・」と書くのは第三者から見て、議論する相手に対しても失礼ですし(相手にも生活や時間的制限がありますで)、追われている心境で書いたコメントは、読んでいても表面的な答えにしか見えません。それだったら、先にやるべき事を終わらせて、腰を据え、深みのあるしっかりした内容のコメントを書かれる方が、議論相手にも読む側にも説得力があると思いますし、公共のためになると思います。


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山脇直司と武田康弘の哲学対話

2009-08-13 | メール・往復書簡

以下は、今日、山脇直司さんの異議に応える形で行われたメールによる哲学対話です。


いろいろな異議—山脇直司

武田さん
・・・・・・・・・・・・・・・
さて私の方、神奈川県庁で60名くらいの自治体職員を前に講演しました。なかなか鋭い質問が出て面白かったです。地方公務員の方が国家公務員よりもずっと自由な雰囲気を感じます。

それで時間的余裕が少しできたので、この際、「あえて」私たちの哲学観の違いを際立たせるのも面白いと思って、武田さんと荒井さんに根源的な質問を「思策の日記のコメント」に書き込みました。

私の考えでは、公共哲学は「哲学の一部」にすぎません。日常経験の延長にない宇宙論や科学哲学も哲学に入ります。その点で(実存主義者の?)武田さんは、あまりにも狭い哲学観に立っていらっしゃるのではないでしょうか。

また荒井さんに私が言いたいのは、中国やシンガポールからの留学生にお二人の民主主義観を押しつけることはできないということです。いったい彼らが生きる文化や歴史の違いをどう考えているのでしょうか。その点で、自分の日常経験を持ちだしたり、ふりまわしたりするのは、ナイーブ過ぎて危険です。それこそ「日本国民」の独断でしょう。

ですから、率直に言って、「思うて学ばざればすなわち危うし」という危ぐをお二人に対して抱く次第です。その点で、竹田青嗣さんの最近の「ヘーゲルの読解に立脚した」議論(ちくま新書)は、精緻な読解と学習に裏打ちされて立派だと思いますが、今まで竹田さんを絶賛していた武田さんが、この本に全く言及しないのはどうしてでしょうか。

以上のこととは別に、私たちはいま『民のための公共哲学』を、約20名の実践現場で活躍中の方々との対談を通して、刊行する企画が進行中です。その対談候補に、武田さんも入れておきますので、その時はこれまでの様々な実践を遠慮なくお話し下さい。まさに公共哲学の主役は「現場で活動する民」ですからーー。

山脇直司
――ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

山脇さん

お応えです。

「公共哲学は「哲学の一部」にすぎません。」(山脇)
は、もちろん、まったくその通りです。

「日常経験の延長にない宇宙論や科学哲学も哲学に入ります。」(山脇)
は、「科学哲学」はそうですが、山脇さんは「宇宙論」も哲学に入れるのですか?
わたしは、小学生の終わりごろから天文学と天体観測に憑かれ、中学・高校時代は、天文学・宇宙論関係の本を読みあさり、友人と宇宙についての会話を毎日のようにしていました。しかし、それは、哲学する上で重要な思考・想像力の訓練ではあっても、哲学だとは考えていません。現代の宇宙論は、カントの太陽系の起源論(星雲説)のようなレベルではないのですし。

「(実存主義者の?)武田さんは、あまりにも狭い哲学観に立っていらっしゃるのではないでしょうか。」(山脇)
哲学は、人間の生の意味と価値を「想う」ことを基盤としてさまざまな問題を「考える」知である限り、ひろい意味では、すべて実存を踏まえた思想だと言えます。それは、狭く自分の感覚、感情、思考に拘り、絶対化することとは全く違います。
実存論(主義ではない)とは、自己のかけがえのない生を踏まえ、主体的に考えるという意味です。

直接経験できない世界の探究は、推論によりますが、それもまた「経験できない経験」として意識=経験されるわけです。

「中国やシンガポールからの留学生にお二人の民主主義観を押しつけることはできないということです」(山脇)
わたしは、現在、中国の清華大学教授になっている方に、10年近く前、哲学と民主主義についてお話しましたが、大変喜んでいました。「武田先生から説明を受け、もやもやしていたものがハッキリしました。原理的なことが分かると、よく現実問題を考えることができます」と。

竹田青嗣さんの本については、相変わらず大変緻密な読み込みで、優れたものだと思います。触れないのは、もうしつこいくらい評価し続けていますし(20年間ずっと)、また、その結論は、言い古されてきたもので(私自身が何十年も前から主張してきたことでもある)、今更?という気がしたからです。

なお、わたしは、竹田さんが、認識論の原理を明晰にしたこと・実存論に立脚して人間と社会についての原理的な論を展開したことを極めて高く評価してきましたが、彼の現実問題への発言や態度に対しては、はじめから評価していません。そこには、深いところでの違いがあるのですが、彼と私との哲学の相違については、また後日。

「思うて学ばざればすなわち危うし」という危ぐを持つ(山脇)
というのは、何を仰りたいのか、意味がわかりませんが。

なお、近代の自然科学誕生後の哲学とは、人間・社会・自然の事象そのものの研究ではなく、個別学問の意味と価値を問うものであり、いわゆる博識とは何の関係もないことを、念のため確認しておきます。

武田康弘
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

武田さん

今日はこれから、出かけなければならないので、簡単にお応えします。

宇宙論が哲学にはうるかどうかは、その内容によると思います。カントの純粋理性批判の弁証論にあるような、「宇宙は無限か有限か」という問いは、明らかに現代でも自然哲学的な問いとして有効だと思います。また、物質の根源は何かという問題や、エントロピー、ビックバンの問題も自然哲学の部類に入るでしょう。私はその点で、ホワイトヘッドやハイゼンベルグに大きな興味を抱いています。もっとも、それは科学哲学の一部だと規定してしまえば、それでいいですけどーー。

私がコミットしている社会哲学や公共哲学は、自己の実存的生き方に基づかなければ宙に浮いたものになるという見解は、武田さんと共有します。しかし、自然哲学(科学哲学)が実存に基づかなければならないとまで言うことはできないと思います。

清華大学には私の友人もいますので、今度、タケセン哲学が一党独裁体制の中国社会でどの程度まで実践可能なのか、聞いてみることにします。

竹田さんの最近の主張は、ヘーゲルに拠っていますが、彼の国家論を武田さんは受け容れますか?

「近代の自然科学誕生後の哲学とは、人間・社会・自然の事象そのものの研究ではなく、個別学問の意味と価値を問うものであり、いわゆる博識とは何の関係もないことを、念のため確認しておきます。」(武田)
というお考えの後半部分は賛成しますが、前半部分は何を仰りたいのか判りません。人間とは何か、人間の根源悪とは何か、よき社会をどのようにして作っていくかは、極めて現代的な哲学的問題だと私は思います。

「思うて学ばざればすなわち危うし」という危ぐを持つ(山脇)の件は、ご放念下さい。失礼しました。

ではまた。

山脇直司
―――――――――――――――――――――――――――――――――

山脇さん

もちろん、自然科学の研究(=その内実)が実存に基づかねばならないのではなく、自然科学のもつ意味や価値を問うことは、実存に基づかざるを得ない、ということです。

各科学の研究は、その意味や価値を問う場面では「哲学」ですが、具体的な研究を行う場面では「科学」(個別学問としての一科学)です。なお、実証性が得難く、推論が多くを占めざるを得ない宇宙論=エントロピー増大や特異点ービッグバンによる宇宙(=物質と空間と時間)の誕生や、量子力学などの分野は、思考力が大いに求められるわけですが、その研究・探求は、人間の生の意味と価値の探求を通奏低音のように持つ哲学とイコールにすることはできません。ギリシャ時代に、自然哲学から離れ、いかに生きるか?また、いかなる考え方が人間の生に豊かな価値をもたらすか?の追求へと舵を切った(発想の大転換)ところに哲学は生まれたのであり、その初心は、現代において「哲学すること」を復権させるためにも必須の条件だ、というのが私の立場です。

ある分野の科学者が同時に哲学者であることは可能ですし、また、哲学者が同時にある分野の科学者であることも可能ですが、これだけ専門分化が高度化すると現実にはなかなか難しいことです。ただ、個別科学の追求者も、それが人間の生や生活についてどのような意味を持つのか?を「想う」ことは必要だ、とは言えます。

山脇さんは、竹田さんのヘーゲルに基づく国家論の何を評価し、また何に疑問をお持ちですか?まず、それをお聞かせ下さい。

武田康弘

コメント (4)
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死刑廃止へのコメントー2

2009-08-07 | メール・往復書簡
mixiコメントの2です。下からの続きですので、1から見て下さい。



バミューダ 2009年07月29日 10:03

はじめに断っておきますが、反論ではありません。死刑制度の存廃についてより理解を得るために、もう一度質問することをお許しくださいm(__)m 

主権が国民に存すること、これは異論がありませんが、ならば我が国において国民が意志を持って死刑制度の存置を容認している事実についてどうお考えでしょうか? 

今年の5月3日に読売新聞社が発表した世論調査では、もし自分が裁判員制度で裁判員になったら、現行法上は死刑を求刑する可能性があると答えた人は63%を占めました。これは、恣意的なデータかもしれませんが、現状無期懲役と死刑に大きな隔たりがあることは明白であり、終身刑が無ければ死刑を選択しても構わないとする国民の意志が読み取れます。

さて、このような国民の意志があるにもかかわらず、民意の反映の名の下に現行法を改正することは、国民の意志を尊重していると言えるのでしょうか。

このことを踏まえて、もし現行法を改正するならばどのように行われるべきかを合わせてお答え願います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

タケセン 2009年07月29日 10:34

反論でももちろん結構ですが(笑)。

わたしは、いまの日本人の意識は、死刑存続であることを承知しています。
しかし、人間の考えは、議論により変わるものです。広く世界の人々の意見が聞けるようになり、また、なるほどと納得できる意見があれば、動いていきます。
この問題に限らず、歴史の進展とともに、人々の考えは、次第に深い人間性を帯びてきました。
民意による合意が得られるように、粘り強く訴え続けていくことが大事だと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

バミューダ 2009年07月29日 13:10

回答ありがとうございます。

そうですよね。死刑そのものについて国民ひとりひとりが考えることがまず必要ですよね。 

最後になりましたが、僕の意見を述べさせて頂きたいと思います。
人間が持つ獣性と理性は否定できず、アリストテレスが理性を高めることこそが人間の形相とする考え方を肯定的に捉えるものの、そのまま近代社会に取り入れることはできないと考えます。

つまり、人間の理性を信じることについては平和の理想型として認めるものの、懐疑的な視点からこれを見ます。よって、日本で言えば終身刑を導入することで本人の更正を期待し、死刑により事件を終わらせないことで罪を誰にでも起こりうるものと捉える。そして平和の実現を図る。

同時に、死刑を存置するこ。根拠としては「殺人を犯してもその刑罰として死刑にはならない。だから殺す」と考えるような者については、そもそも更正の余地はない。また、獣性は理性的な終身刑だけで対応しきれないとし、必要悪として獣性の肯定とも繋がりかねない死刑を存置する。ただし、死刑を執行することに厳しい制約を課す。第一に、更正の余地を否定してよいか。第二に、平和の実現のために、罪が起こった原因を考察する意義が事件にはないか。第三に、主権である国民の意志(遺族の感情も含む)にそぐわないか。これら厳しい制約を課すことで、一般的には終身刑により解決を図り、特殊な場合において死刑を肯定する。そして段階的には終身刑のみの解決を目指す。

以上です。まぁ結論として、死刑存廃論は一元的な視点で考えるべきではないということです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

あ01-23 2009年07月29日 21:54

>それから、「市民を主権者とする革命」(ルソー)は、60年以上前、敗戦という形で日本でも成
>就しています。日本国憲法は、明治憲法の天皇主権を否定し、主権在民の原理を明白にしま
>したが、これは小中学校の教科書で誰でもが学ぶ事実です。

日本は敗戦しておりません。終戦したのです。本土決戦する戦力を残しながら、昭和天皇が終戦を決断され、軍部を抑えて終戦の詔勅を発せられたのです。「敗戦」という用語はサヨクの造語です。

あと、日本国憲法はGHQが作ったものであって日本国民の手によって作られたものではありません。帝国憲法は天皇主権を定めていません。国家主権を規定し、天皇を元首としています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

○ンシロウ 2009年07月29日 23:32 > タケセンさん
確かに言葉が感情的になりました。悪いと思ってます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

タケセン 2009年07月30日 00:01

ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をしたのは、事実であり、サヨクではなく、世界が日本の敗戦を規定したのですから、これを受け入れるほかありません。独立を回復できたのは、1952年のサンフランシスコ平和条約の締結によってです。これは、私の意見などではなく、世界史・日本史の事実ですが、あ01-23さんは、どこで上記のような「話」を教え込まれたのでしょうか?

また、現在の日本国憲法の元になったのは、日本人の民間人7人による「憲法研究会」の草案です。さらに言えば、欽定憲法である大日本帝国憲法が発布される前に、自由民権運動の植木枝盛らによる草案もあり(明治のはじめに作られた民間人の憲法草案はたくさん見つかっています)、その内容=基本思想は、現在の日本国憲法と大変近いのです。

個人のロマン的心情は自由ですが、それは個人的領域に留めないと危険です。世界に通用する普遍的な見方をしなければ、日本の国益ともなりません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

あ01-23 2009年07月30日 00:18

>ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をしたのは、事実であり、

ポツダム宣言にはトルーマンしか署名していません。連合国の宣言というよりトルーマンの個人的書簡と考えるべきです。

>無条件降伏

帝国は無条件降伏していません。国体護持を条件に700万の戦力を温存しながらも天皇の御聖断であえて武装解除したのです。

>どこで上記のような「話」を教え込まれたのでしょうか?

ネット上にいくらでもソースはあります。逆に言えば、タケセンさんのご主張は日教組の先生方が無垢な生徒に無理やり教え込んでいる内容と酷似していると思います。

>日本人の民間人7人による「憲法研究会」の草案です。

影響はあったとしても起草したのはGHQです。この事実は否定できません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

タケセン 2009年07月30日 00:43

現実において世界が認めたことを、覆すことはできないのです。それをやれば、無法者という烙印を押されるほかありません。
また、憲法という理念法は、民主主義思想の表現ですが、それは人類が互いに影響しあい、ふつうの多くの人により深い納得を生むものとして鍛えられてきたのです。なぜ、あなたは国籍や民族に異様なまで拘るのでしょう。「純粋な日本人」というものが存在し、それがすべてを決定しなければならない、とでも考えているのですか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

あ01-23 2009年07月30日 00:53

>現実において世界が認めたことを、覆すことはできないのです。

日本は終戦を選択した、日本は条件付き降伏を選択した、日本国憲法はGHQが起草した、といったことは史実なのですから誰が何と言おうと覆すことはできないと思います。

ちなみにサヨクは「敗戦」という言葉をよく使いますが、早期戦争終結を望んでいたのは米国側も同じでしたよ。米国側もものすごい戦死者を出してかなり苦しかったのです。

>なぜ、あなたは国籍や民族に異様なまで拘るのでしょう。

いささか唐突に感じます。小生はタケセンさんの日記で国籍や民族について論じたことはないと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

タケセン 2009年07月30日 01:05

現在の同盟国のアメリカも、欧州も(敗戦国のドイツやイタリアを含む)、アジアの多数派も認めない主張を繰り返して、あなたは何を得ようとしているのでしょう。

戦前の国体イデオロギーによる用語を使い、ご自分の日記で論じ、その想念は私へのコメントにも色濃く反映されていますね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

あ01-23 2009年07月30日 01:13

>あなたは何を得ようとしているのでしょう。

何も得ようとしてません。史実を申し上げているだけです。
私の主張が間違っているのなら反論していただければよいのだと思います。

factは時により多数派よりも少数派によって主張されることもあります。
誰が認めるか認めないかによりません。
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タケセン 2009年07月30日 09:25

あなたは、歴史を語る基本すらわきまえていないのです。

ある[事実]をどのように解釈するのが妥当なのか、というのは、その人がもつ価値意識=思想(それがたとえ無自覚のものであれ)によって変わります。解釈のしようはいくらでもありますが、事象を如何に見るか?は、何に価値を感じ、どう生きるのがよいと考えるのかと結びついているのです。人間の価値意識=思想と切り離した只の「事実」など存在しないのです。
この点については、認識論の基礎を学ばれる必要がありますが、まずは、竹田青嗣さんの「現象学入門」(NHKブックス)にじっくり取り組まれるとよいでしょう。

また、日本の近・現代史のきちんとした歴史的考証と証言を知ることは、問題を考え・語る上で避けて通ることができませんから、「あばれはっちゃく」等の児童読み物で有名な山中恒さんの「反日という呪縛」(けいそう書房)に取り組まれるのがよいでしょう。

ともあれ、「基本的な勉強」をきちんとした上で、考え・語らないと、戦前の天皇教の下で市民的自由を抑圧した(特高による恐怖政治―拷問はその象徴)思想教育による国家をよしする時代錯誤の危ない人で終わってしまいますよ。

あなたの主張する「事実」なるものは、例えば読者をひきつけるために週刊誌の書く「事実」と同じで、一面の強調により、大きくバランスを崩しているのです。全体的・多面的にさまざまな「事実」を考察し、よきバランス感覚を持って総合的な判断をするという精神のゆとり=普遍性に乏しいのです。老婆心ながら、ご忠告する次第です。良識あるバランスのとれた大人になることが、自他にとってよいことではないですか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

あ01-23 2009年07月30日 21:48

>歴史を語る基本すらわきまえていないのです。

GHQが起草した日本国憲法でもって市民革命が成就したというイデオロギーこそバランス感覚を大きく崩していると考えるべきではないでしょうか。

日本で市民革命が起きたと考える人は日本の左翼以外世界中にどこにもいないと思いますよ。バランスがとれていないからこういう妄想に取りつかれるのではないでしょうか。

>戦前の天皇教の下で市民的自由を抑圧した(特高による恐怖政治―拷問はその象徴)思想
>教育による国家をよし

戦時中の極端な統制は行き過ぎた面があったのは確かです。しかし、スターリン主義者を厳しく取り締まったのは正しいと思います。ちなみに「天皇教」という宗教は存在しませんでしたし、今もありません。
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タケセン 2009年07月30日 23:20

「天皇教」とは、原始宗教の内容を色濃く残す国家宗教のことです。明治政府が創作した新宗教ですが、哲学者で著名な宗教論を成した竹内芳郎氏の言葉です。何も知らないでこういう書き込みを繰り返す愚かさを、あなたは少しは自覚しないといけませんね。宗教論ー人類の宗教表象の概略も勉強せずに、一知半解な御託を並べるのは見よいものではありませんよ。神道の系譜や古神道、教派神道、明治の国家神道の次元の相違も知らないとは呆れますね。

主権在民というのは、国民の「公共」を実現するためにのみ国家は存在するという思想で、それとは別の場所に国家の公という領域をつくることを認めないということです。これは近代民主制の原理です。主権は国民に存するという新憲法の制定は、革命にも等しい歴史的転換なのです。あなたは、哲学も思想も勉強せずに、自分の心情を満たすだけの「理屈」を並べるだけですが、いい年をしてこういう無教養をブログでひけらかす!?のはもうそろそろ終わりにしたらよいでしょう。
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あ01-23 2009年07月30日 23:45

>哲学者で著名な宗教論を成した竹内芳郎氏の言葉です。

著名ですか?昔は反日思想家として名をなしたのでしょうが、今となっては無名ではないでしょうか。知っている人の方が珍しいですよ、客観的に考えて。

その反日マルキストが天皇教なる造語を発表したら、天皇教が存在してしまうことになるのでしょうか?それはおかしな話ですね。

>主権は国民に存するという新憲法の制定は、革命にも等しい歴史的転換なのです。

GHQが英文で起草した日本国憲法で、市民革命が成就したっておかしなロジックじゃないですか?外国の占領軍が日本の市民革命を成就させたという意味なんでしょうか。論理的に破たんした主張じゃないでしょうか。
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タケセン 2009年07月31日 14:03

反日!?の思想家というあなたの他者への烙印は、本質的には、何も見えていない証拠です。

また、「反日」というとんでもない言葉を他者に浴びせるのは、最も恥ずべき日本人であり、人間であるとわたしは思います。このような差別的で、戦前の国体イデオロギー(=本質的に民主主義に反する)に基づく言葉を臆面もなく使う輩を、わたしは心底軽蔑します。日本人で日本に住んで日本をよくしようと努力している人間を侮蔑する「恥知らず」で「礼」をわきまえない人間のコメントは、

あなたから「誠意ある謝罪」がなければ以後削除します。

また、竹内芳郎さんは、いわゆる「マルクス主義者」ではありませんが、あなたは哲学の素養がまったくないために、デマゴーグにすぎない言説を振り回すのです。嘆かわしい。怪しげなネット情報に頼らずにご自分で読んでから発言してください。これは基本原則ですよ。なお、彼の主著は「文化の理論のために」(岩波書店)です。

敗戦(あなた好みの言葉では「終戦」)が、市民革命に似た効果を現実にもたらしたことは、ふつうの理性ある人なら誰でもが知っていることです。議論以前の話です。「主権が国民にある」という大転換をなす新憲法が発布され、現在その基本思想を否定する人は、自民党にもほとんどいないのです。
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ここで終わりましたが、「まとめ」として言えることは、

民主的人間になり、民主主義社会をつくるためには、
小学生からの順を踏んだ【自問自答と自由対話】の授業=練習が不可避であるということです。それがないと、「私」にとっても「公共」にとっても一番大切な、なにがほんとうなのか? どう考えるのが妥当なのか? という能力が鍛えらないからです。
家庭と学校で、大元に戻して考え・話す「哲学」の実践をしないと、議論を避けるか、または「ディベート」という勝ち負けのゲームに陥るほかないのです。
ちなみに、ソフィストたちのディベート(言語勝負・言語技術)を徹底的に批判したところに生まれたのがソクラテスの問答法=哲学です。

「自問自答と自由対話」により、幼いころからの「自己決定」(=自由と責任)の鍛練をしなければ、民主主義社会をつくることはできませんし、その鍛練が人間を民主的な存在にしていきます。厳しく批判し合いながらも、相手の存在価値を認めるという≪民主主義の倫理≫は、その鍛練から生まれるのです。


コメント (2)
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死刑廃止へのコメント-1

2009-08-07 | メール・往復書簡
わたしの「死刑廃止」の意見に対するmixiブログへのコメントです。


あ01-23 2009年07月28日 23:27

お邪魔します。

>これ以上はなく「冷静」に人を殺す。そういうシステムを内にもつ国家に豊かな人間性が育ま
>れることはないのです。

武田さんは昔の文学とか哲学に造詣の深い方だとお見受けしますが、そういったものが作られた時代には国家に制度として死刑があったはずですよ。死刑と人間性は関係ないのでは?
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タケセン 2009年07月28日 23:49

早速のコメント、ありがとうございます。
あ01-23さん、
人間性は、だんだんと濃やかになり、あえて言えば「進歩」してきました。いまは、女性も同権となり、さらに子供の権利条約も生まれ、世界各国で批准されました。
昔の常識は、そのままでは通用しないのです。現代では、人間と自然への暴力は、より強く否定されています。「冷静に人を殺す」ことを「悪」と考える国が増えてきたのは、そのことと軸を一にしているのです。
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あ01-23 2009年07月28日 23:58

>武田さん

たびたび失礼いたします。

ルソーは社会契約論で死刑を支持していますが、武田さんの主張するルソー・ルネサンスを起こすなら、死刑はむしろ擁護すべきではないでしょうか?

一方で、お隣の北朝鮮やChinaにおける人間と自然への暴力は酷いものがありますね。朝鮮労働党や中国共産党は「冷静に人を殺す」ことを「善」と考える集団です。朝鮮労働党員や共産党員は人間の文明のベクトルから考えると退行した集団と考えるべきですか?
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ディジー 2009年07月28日 23:58

ニュースから失礼します。
死刑が良い悪いかは分かりませんが、どんな極悪犯でも無期懲役判決では出所してしまいます。

遺族の本当の気持ちなんて、遺族でなければ分かりません。
代弁するようなコメントはいかがなものかと思います。
しいて言わせてもらえば、私が遺族なら…事故なら別ですが、快楽の為に殺されたなら確実に死刑を望むでしょう。

人間の感情は綺麗事だけでは済みません。
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あ01-23 2009年07月29日 00:00

>遺族の本当の気持ちなんて、遺族でなければ分かりません。

その通りだと思います!
国家の死刑を廃止するなら、その代わりに遺族の報復権や復讐の権利を認めるべきです。
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タケセン 2009年07月29日 00:17

あ01-23さん

わたしが書いた山中元さんの「社会契約論」の紹介への、あ01-23さんのコメントに対して、以下のように記しましたが、ルソーは、理念次元の想定をし、またレトリックを駆使した文章を書いていますので、随分誤解されています。

「これは、ルソーが、「市民主権の国家」を生むための徹底した姿勢=覚悟を現わしたものですが、それは主権者を市民とする革命を成すための理念です。ルソーは、イギリス経験論とは異なり、理念次元の想定の必要を強く意識した哲学者です。ふつうの犯罪=経験論次元の話と混同して読んでしまうと、その本質的意味を取り損なってしまいます。山中さんは、優れた解説も書かれていますので、ぜひご一読下さい。 」

それから、ディジー さんのいう「遺族の気持ち」ということだけでこの問題は語れません。もっと落ち着いて、ゆっくり思索されてから発言されないと、感情論となり、議論が深まらないと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

あ01-23 2009年07月29日 00:39

>それは主権者を市民とする革命を成すための理念です。

日本には皇族がいらっしゃるので市民革命の理論など必要ありませんね。
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hiro 2009年07月29日 00:43

初めまして、ニュースからやって来ました。

>死刑という刑はあってはならないのです。

まったく同感です。国家の国民の名の下に行われるもう一つの殺人以外の何物でもありません。
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あ01-23 2009年07月29日 00:46

>国家の国民の名の下に行われるもう一つの殺人

罰金刑を「国家の国民の名の下に行われるもう一つの窃盗」と呼ぶほど陳腐な屁理屈だと思います。
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クリーミー 2009年07月29日 00:51

僕も死刑制度には反対です。
子供に人を殺してはいけないと教えても、では何故国が人を殺せるのかと反論されたら答えに窮します。
国家はいつの時代も適当な理由をつけて人を殺してきました。
個人が自然な感情に基づいて殺し合うのと国家が「合法的」に人を抹殺するのは次元が違います。
本来であれば国が人を殺せないように国民が働きかけるのが筋だと思いますがミクシーの日記などを見ると死刑肯定派が圧倒的多数であることに驚き呆れています。
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バミューダ 2009年07月29日 00:59

明日死刑制度についてテストを控えている者です。勉強させてください。

人権侵害という考え方をとると、殺人という罪は肉体的人権侵害の最たる例となりますよね。そして、人権は公共の福祉、言い換えれば国家の秩序を乱さない限り保障されると憲法は規定しています。

となると、殺人を犯した者は国家の秩序を乱し、社会に対する契約を裏切っています。それに対して、終身刑という刑が死刑よりも妥当である根拠は何でしょうか。
「私はあなたを一応殺さないと約束する、しかしあなたは私を殺さないと約束しろ」という考え方に繋がるのでは?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
Kaitaiya 2009年07月29日 01:04

ニュースから失礼します。
僕も死刑は廃止すべきやと思います。
でも死刑は必要だと思います。
この矛盾がなかなか解決しないんですよね。
なかなか決定的な決め手って無いです。 kengo 2009年07月29日 01:07 その豊かな人間性が成熟した社会が、如何に不可能極まりないかを直視されたし。国家が手をさしのべなければならないのは他にもいる。年間自殺者三万人。このことに本腰入れない国家が、何を殺人犯した人に配慮せんきゃならないかわからない。犯罪者救って、ワーキングプア放置の社会に人間性は育まれますか?議論があっちゃこっちゃいってごめん。
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あ01-23 2009年07月29日 01:09

>子供に人を殺してはいけないと教えても、では何故国が人を殺せるのかと反論されたら答えに窮します。

罪のない人を殺してはいけないと教えるべきではないでしょうか?
凶悪殺人犯は死刑で殺してもよいと教えれば矛盾は起きませんよ。
絶対無条件に人を殺すなという命題を立てるから混乱するのだと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

クリーミー 2009年07月29日 01:31

>罪のない人を殺してはいけないと教えるべきではないでしょうか?

国家は罪のない人間を散々殺してきました。
国家に人を殺せる権利を与え続ける限りこれは続くでしょう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ディジー 2009年07月29日 01:35

私は落ち着いていますよ。
貴方はとても知識豊富で高尚で賢い方なのでしょう。しかし、
>冷静に、理性的に殺してはいけない
>家族でも自分の手で殺せば心は晴れるでしょう

これは裏を返せば同じ事でしょう。
矛盾していませんか?
これでは犯人も家族も冷静でなければ何をしてもいいということになります。
それこそ現在の国家の冷静な判断がそこに存在するからこそ守られている秩序もあるはずです。
確かに殺人がなくなる社会になるよう国民が意識を持つことは大切でしょうが、残念ながら、犯罪者はいなくなりません。
あなたの述べるものこそ理想論と感じてしまいます。
人や自然を殺してはいけないという貴方様の意見にそわない事をした犯罪者に対しては、具体的にどういった制裁が必要だとお考えですか?

無期懲役?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

○ンシロウ 2009年07月29日 01:59

> あ01-23さん
それ(復讐権)はいいことだ。

○ンシロウ 2009年07月29日 06:03

>クリーミー
お前変わってる。
普通じゃない。
肯定派が正しいから多いのでは…
日本人も馬鹿ばかりではない。
少ない派っていうと…例えば社民党みたいな奴ってむちゃくちゃ言うし変わってるだろ?それと一緒さ。
だからあんなんに票入れる奴少ないんや。
こっちはお前の考えに呆れるわ(笑)

○ンシロウ 2009年07月29日 06:05 >
hiro
お前が死刑囚の身代わりになって氏ねば?WW
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タケセン 2009年07月29日 09:33

もっともオゾマシイ犯罪である「殺人」、
しかもそれが憎しみ合う関係の中で追い詰めれれた末の犯行、あるいは、生活の困窮の中での強盗の末の殺人でもない場合、
なぜ人間は、殺人を犯すのか?
それを追求するのは、よりよい社会を建造する上で、極めて重要な仕事です。殺人者を死刑に処するのではなく、彼らの病理の源を検証し、その精神の回復はいかに可能か(あるいは不可能か)を探ることが求められます。それは、「正常者」の中にもある殺意や不条理な心理をより深く見つめることにもなるでしょう。
あまりに酷い犯罪を犯した人は、隔離し、別次元の世界(刑務所という秩序)で生きてもらうしかないので、終身刑にするほかありませんが、殺してしまえば、そこですべて「お終い」です。粘り強く人間性の暗く恐ろしい一面を探り・見つめる作業をしっかり続ける国であれば、ふつうの生活者の考え方・生き方も多面的に深く豊かになるはずです。

それから、「市民を主権者とする革命」(ルソー)は、60年以上前、敗戦という形で日本でも成就しています。日本国憲法は、明治憲法の天皇主権を否定し、主権在民の原理を明白にしましたが、これは小中学校の教科書で誰でもが学ぶ事実です。だから、現在の日本という国家は、そこに生きる一人一人の個人の意志によりつくられています。わたしが、あなたが、皆でお金を出し合い(税金)、政治家を選び、役人を雇って国家をつくっているのです。民主主義社会における国家とは、われわれのものであり、ウヨクの「国家・命」という国家宗教ではなく、サヨクの「国家・悪」というイデオロギーでもないのです。われわれふつうの市民がよりよい信頼社会を建設していこうというのが、主権在民の国家なのです。

また少数派、多数派、ということであれば、死刑廃止は、世界の(先進国)の常識であり、廃止派が多数なのです。hiroさんに向けて、「お前が死刑囚の身代わりになって氏ねば?WW 」というOンシロウさんの発言は、撤回し、謝罪しなければいけません。mixiの基本方針に明らかに反します。異論・反論と暴言は全くちがうのです。

以上、まとめてのお応えでした。
なお、同じことの繰り返しのコメントや、暴言、糾弾でしかないコメント、人権侵害や反社会的なコメントについては、今後は削除します。

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昨日からの続きのコメントですー「公共哲学」論争。

2009-06-29 | メール・往復書簡
金氏の発言に関して (山脇直司)
2009-06-28 16:56:23
公・公共・私の三つを並べて「三元論」を主張しているのは、山脇さん(山脇直司東大教授)らである、と言っています。
とあるのはどういう神経でしょうか!私は並列的な三元論はとっていません。どこまでも「民の公共」を基盤として、「政府の公」の正当性を考える民主主義思想を展開しているのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

公・私・公共三元論とは何か (荒井達夫)
2009-06-28 19:48:53
「公・私・公共三元論」は、あくまでも「現状説明のための理論」として見れば、日本国内の諸問題を考える際に有用な視点を提供する理論と言えるのではないかと思います。例えば、薬害肝炎問題は、厚生労働省における「公」と「公共」の乖離の問題と言うことができますし、また、防衛省事務次官の汚職事件は、「滅私奉公」が「滅公奉私」に転じた事件として説明できます。問題の重要な側面を際立たせて、わかりやすく説明できる理論と言えます。ところが、「公・私・公共三元論」を哲学思想の大元の考え方であるかのような説明がされているために、主権在民(民主制原理・国民主権原理)との整合性を考えれば著しい論理矛盾となり、また、主張の全体が曖昧で不明確、さらには意味不明なものになってしまっていると思います。

公・私・公共三元論とは何か2 (荒井達夫)
2009-06-28 22:51:24

佐々木毅・金泰昌他編『公共哲学』全20巻(東京大学出版会)では、編集方針として次の4点を掲げております。ですから、これらが学問としての公共哲学の代表的見解と言えるのではないか、と思います。普通はそう考えるでしょう。

①公共性を、個を殺して公に仕える「滅私奉公」のような見方ではなく、個が私を活かし、公を開く「活私開公」という見方でとらえる。
②従来の「公」と「私」という二元論ではなく、「公」と「私」を媒介する論理として「公共性」を考える。
③公共性の担い手について、国家が独占するという観点よりは、市民や中間団体の役割を重視するという観点から議論を進める。
④グローカル(グローバルかつローカル)なレベルでの公共性について積極的に考慮する。

ここで、重要な点は②にあり、これを単なる「現状説明のための理論」としているのか、「哲学思想の大元をなす考え方」としているのか、が問題です。前者であれば「哲学以前の問題」であり、後者であれば「現状認識と原理的思考の混同」になると思います。
白樺思想と大学の公共哲学 (荒井達夫)
2009-06-29 00:20:05
以前、白樺教育館では、金泰昌さん、山脇直司さん、稲垣久和さん、の3人の大学人との座談会が行われました。その後に私が書いた論文です。今になって非常に参考になると思いますので、是非お読みください。金泰昌さんの依頼で書いたにもかかわらず、「公共的良識人」に掲載されなかったものです。現在、白樺教育館のホームページで公開されています。

83. 幻の「白樺特集号」『公共的良識人』07年2月号掲載予定の原稿公開

白樺思想と大学の公共哲学

白樺教育館では、金泰昌さん、山脇直司さん、稲垣久和さん、の3人の大学人との座談会や討論会が開催され、私はそのほとんどすべてに参加してきました。それらを通じて、私は、白樺教育館で行われている哲学の実践と大学の公共哲学には本質的・根本的な違いがあることを知りました。
 例えば、東京大学出版会のシリーズ「公共哲学」では、あたかも「公・私・公共三元論」が公共哲学の原理のように書かれていますが、民主制社会において、民の支持しない官=「公」を想定するのは、原理論的には成立しないはずです。現実問題として「官」がイコール「公」であるかのような事態が続いてきたことは事実だとしても、それは原理の問題ではないと考えます。「二元論的発想ではダメだ。三元論的発想にならなければ問題は解決しない。」という言い方は、見方・方法を哲学の原理にしてしまっているように聞こえます。これでは、多くの人の納得が得られず、結局、大学人が一般人を啓蒙するという時代遅れの哲学運動にしかならないはずです。
 私は武田康弘さんが提唱する民知としての白樺哲学を学ぶことによって、大学の哲学の大きな欠陥は、書物からの哲学的知識の吸収ばかりで、生活上の現実に即して個々具体の問題を生活者の立場からていねいに考えるという作業がないところにある、と考えるに至りました。
 ただし、この点は、金さんと一般の大学人の方々とでは、まったく異なるように思われます。金さんの場合は、ご自身の強烈な実体験に基づいて哲学論を展開されており、その並はずれた説得力の強さは「公・私・公共三元論」という理論などではなく、金さん個人の人間的魅力、その存在そのものから出てくるように思われました。
 なお、金さんは、12月23日の討論会で、三元論は公共哲学の原理ではなく「用」=現実運動上の働きの理論である、と説明されました。

また、民主社会における公共哲学は「民から開く」もの以外にありえませんが、その点でも大学中心で行われている公共哲学には問題があると考えています。「民から開く」という視点は、日本社会の歴史と現状を考えれば、いくら強調しても強調しすぎることはないと言えるほどに重要ですが、大学の公共哲学では、その点の認識がまだ非常に弱いと思います。なぜなら「民の公共」と言うだけで、それが現実具体的にどういうことなのか、極めて不十分な説明しかされていないからです。また、どうしたら「民の公共」が実現するのか、その可能性を広げ、現実のものにするためにはどうしたらよいかについては、ほとんど説明がないという状況です。
 金さんが強調する「対話」(対話する・共労する・開新する)の重要性は、当然のことであり賛成ですが、では、なぜそれが今まで日本社会ではできなかったのか、どうすればできるようになるのか、そのために必要な哲学の原理は何か、を明確にする必要があると思います。

この点、白樺思想は大学の公共哲学とまったく異なります。
思想の原点を日々生きる生身の人間、生活者であることに求め、個々人がすべて異なる欲望存在であることを真正面から正直に認める。このことの深い自覚が他者に対する配慮と尊重を生みだし、そこから自ずと公共性が開かれていく。一人一人が、何より主観を大切にして、よき人生とは何か、よりよい社会とはどのようなものかと問い、自由で対等な対話を生活の中で日々実践するところに「民から開く公共」が始まる。原点を個々人のありのままの主観に置き、それを互いに鍛え合う自由対話に依拠するというのは市民社会の原理であり、世界に通用する普遍性を持つ思想だ。個々人の実存から発する「民から開く公共」は必然的に地球的規模の公共につながる。
 これは、武田さんから学んだ私なりの白樺思想の理解ですが、ここには「民の公共」の意味とそれを実現するための方策について、基本となる考え方が簡明に示されています。ふつうの人なら誰でも理解可能で、「そうなんだよな」と腑に落ちる感覚を持って実践することができる、まさに哲学の原理であると思います。一般市民において「異」を前提とする「対話」は、このような思想に基づかなければ成立しないでしょう。討論会での金さんの発言も、私が理解する白樺思想とその芯はほとんど重なるものだと感じました。
 「民から開く」という意味で言えば、大学人中心の公共哲学より市民の集まりである白樺の思想の方がはるかに優れているというのが私の実感です。また、市民が求める哲学(人生や社会のありようを深く問う哲学)が白樺の方にあるのは事柄の性質上当然であり、これは、もはや否定しようのない事実だと思います。もともと哲学も公共も、ふつうの市民の生活世界から出てくるものであり、そうである限り、大学人中心の哲学・公共哲学はその存在意義を根本から問い直す必要に迫られているように思えてなりません。

ところで、今日、公共哲学は特に公務部門において注目されつつあるようです。しかし、私は、それを大学人中心の公共哲学に求めることに強く批判的です。全体の奉仕者(憲法15条)である公務員こそ公共哲学を身につけておくべきことは間違いありませんが、そもそも「民から開く」という哲学が十分に展開されていない状況で、大学教師が公務員に「公共とは何か」を教えることは甚だしい矛盾に他ならないからです。また、公務員が「公・私・公共三元論」を哲学的原理のように捉え、それを知識として覚えるだけで、その意味や働きについて深く考えることをしなければ、形だけの「公共」となり、タウンミーティングの「やらせ質問」のような公共性に反する有害な結果を招くおそれがあるでしょう。白樺のような対等な対話・討論を生み出す哲学を背後にしっかり持たなければ、対話・討論は形だけのものにしかならないはずです。
 大学の公共哲学が公務部門において真に有用なものとなるためには、民から開く公共哲学の原理である白樺の思想を土台に、それを作り直す必要があると考えています。そのためには、大学教師も、まず一市民、生活者であるとの深い自覚の下に、その立場で思考し行動する必要がある、と自戒も込めてそう思います。それが実現すれば、大学の公共哲学は、民主社会の基礎となる市民の日々の哲学実践に対し、その哲学史や哲学説の高度な専門的知識を活かし、側面援助が可能になります。まさに本来の「哲学する」ことが実現するのではないかと思います。一人でも多くの大学人の皆さんが、一日も早くこのことを理解されるよう願っているところです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大きな誤解! (山脇直司)
2009-06-29 02:43:13

荒井さん、相当にバイアスがかかった投稿に思えたので、あえて反論を述べさせていただきます。実際のところ、大学での公共哲学の授業は、大学人のための公共哲学ではなく、実社会に出て行く人のための、また社会人として大学院に入ってくる人のために行われています。学会がないのもそのためです。その点をあなたは全く誤解しています。私は、権威主義的なエートスを払拭できない国家公務員よりも、地域住民に密着した地方公務員やNPOの間に公共哲学の理念が広まることを期待していますし、実際に何度も集会に呼ばれて、対話を重ねています。ところで、荒井さんは自ら絶賛する白樺教育館「以外の方々」とどれだけ多くの緊密な会話を重ねていらっしゃるのでしょうか?もしそうでなければ、貴方の意見は単なる白樺教育館のプロパガンダの記事になってしまうと思いますので、あなたがどれだけ幅広く活動をしているか、その実情を聞かせてください。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

内容的には? (荒井達夫)
2009-06-29 05:53:16

山脇さん。
「白樺思想と大学の公共哲学」、内容的にはいかがでしょうか。
私の活動について解説しても、主張が妥当であることの裏付けにはなりません。
内容的な批判を、よろしくお願いします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ぜひ、有意義な自由対話を! (タケセン=武田康弘)
2009-06-29 12:45:45

荒井さんと山脇さんの忌憚のない対話、とても生産的だと感じます。いいですね。

国会所属の官僚である荒井達夫さんと、公共哲学運動をすすめる東京大学教授の山脇直司さんが、従来の狭い立場を超えて、民主主義を深め広げるために思考錯誤されるのは、実に素晴らしいことだと思います。ことばの最も深い意味での「自由対話」の実践は、まさに最良の意味での哲学なのですから。

ぜひ、また直接顔を合わせて、たのしく議論と歓談をしましょう!!真の「民知」をうむためには何をどうしたらよいのか?みなの力を合わせたいですね。


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公と公共の分離を柱とする「公共哲学」への批判②ー荒井達夫と武田康弘

2009-06-28 | メール・往復書簡
この下からの続きです。


公共哲学論争の結論 (荒井達夫)
2009-06-21 17:05:46

「公」と「公共」を区別する思想は、民主主義の原理に反しており、現実の法制度においてもそのようにはなっていない。これが結論です。

---------------------------------

てつがくにおける結論とは? (タケセン(武田康弘))
2009-06-22 13:46:03

荒井さんの結論は、一般の論理としては「その通り」ですが、哲学の議論(=わたしのブログの文章=論理)としては、これだけでは、少しマズイのです。

というのは、『哲学』とは、人間の生きる意味の探究(ほんとうに価値ある生とはどのようなものなのだろうか)を音楽における通奏低音のように絶えずもちつつ、人間の全体性の論理(単なる論理的整合性に留まらず)を追求するものだからです。

ここでの話で言えば、金さんは、どうして公と公共という言葉を使い分けるのだろうか?また、その主張に共鳴する人がなぜいるのだろうか?その地点にまで進み降りた上でなければ、「結論」は出せないのです。ここに哲学(人間の全体性の論理)としての深さと困難と魅力があるわけです。

わたしの言い方(結論)は、こんな感じです。以下をご検討下さい。

荒井さん
これは、一応は「結論」ですが、
この問題を論じる上で一番大事なのは、何故このような思想が語られ、それが一定の力をもつのか?を知るところにあります。

日本では戦前の近代天皇制による「国体思想」が長いこと社会全体を支配してきたために、私=個人のことがらに対して、皆に共通することがらは、「官僚政府が行う公」だと思われてきました。先に書きましたように、江戸の庶民文化は民がみずから公共世界をつくっていましたが、富国強兵をめがけた明治の天皇制官僚政治の下では、官府が民の公共を奪い、民の自発性を公に吸収してしまったのです。その結果が「お国のため」という言い方になり、皆のためになることがらを担うのは、すべて官府が行う公=国だ、という想念を国民全体が持つようになったのです。

そうであるために、「市民の意思が生む公共世界」という見方・自覚が弱いのです。だから、金さんの「官が担っている公に対して、市民が担う公共の世界を広げよう」という主張がリアリティを持つわけです。確かに現実の日本社会を見ると、「官」は誰が何を言おうともビクともせず、官僚は決して従来のやりかたを変えようとはしませんから、市民は絶望的になります。そこに公と公共を分けて考える、と言う金さんの主張が「救い」に見える理由があるのです。

しかし、金さんのように現状認識と原理的な思考を一緒にしてしまうと、結局は「現実」を変革する力を持たず、敗北するだけですので、わたしは、金泰昌さんの公共哲学に対して繰り返し批判してきたわけです。

現実次元における妥協や曖昧性はものごとを実際的に円滑に進める上で大切ですが、原理次元での詰めの甘さや戦略的な妥協は、混乱や停滞を生み、さらには逆効果になってしまいます。いま一番必要なのは、民主主義原理をさまざまな具体的な場で検証し、それに基づく現実の改革を進めていくことだと思います。その営みは、わたしたち自身の自己変革=生きるエロースの豊饒化につながります。ぜひ共に!!
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三元論の論理的破綻について (荒井達夫)
2009-06-22 20:50:20

 確かに一般の論理を説明しただけで、そこに止まっていては、哲学になりません。「金さんは、どうして公と公共という言葉を使い分けるのだろうか?また、その主張に共鳴する人がなぜいるのだろうか?」が、考えるべき最も重要な問題だと思います。ただ、私が主張しているのは、その一般の論理の段階で「公・私・公共三元論」が破綻しているということです。つまり、三元論が妥当かどうかは、哲学以前の問題であることを「私の結論」として述べたのです。以前、「三元論は、現状説明のための理論であり、公共哲学の原理ではない」と述べたのもそのためです。
 「金さんのように現状認識と原理的な思考を一緒にしてしまうと、現実を変革する力を持たない」というのも、まったくそのとおりです。現状認識と原理的思考の混同は、哲学以前の単なる論理的思考も妨げてしまい、法の制度を正しく理解することを不可能にしているようです。憲法の民主主義原理に立脚する国家公務員制度を明治憲法下の「天皇の官吏」のように理解するようでは、キャリアシステムの問題など解けるわけがありません。
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ほんとうの「結論」とは? (タケセン=武田康弘)
2009-06-23 10:37:27

もちろん、論理的にはその通りです。
しかし一番大事なのは、金さんが主張し続けてきた「現実問題」を引き受け、乗り超える、また、できるならば相手の納得を生む(誰に対するどのような批判も根底にはその意識が必要)ためには、どのように考え、言うか?です。

ただ論理的な間違いを指摘する、その次元を超えて(もうすでにとっくに超えているわけですから)「問題」(=主権在民の民主主義を阻害している日本における官僚制度の現実とそれを支える想念)の解決の方途を明瞭に示すことが、ほんとうの「結論」なのです。哲学の論議とは、ディベートの表層的論理(=勝ち負け)とは截然と異なり、遥かに深い意味と価値をもちます。

生きる意味(エロース)への探究を底に持たない論理は【無】であり、生にとってよきものを何もうみません。そういう論理しか知らないのが、従来の日本の「官」であり、それを根底から変革するのが、ほんらいの哲学の使命です。

荒井さん、よい対話ができ、とても面白くなりましたね。
みなさんもぜひご参加ください。

タケセン=武田康弘

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「公」と「公共」 (荒井達夫)
2009-06-24 20:45:35

「公共的良識人2009.5.1」で、金泰昌さんが、「公」は「官」の論理であり、「公共」は「民」の論理である、と述べているので、反証として以下の立法例を追加しておきます。

「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。」(民法90条)

つまり、民法は「公」の秩序を守る法律です。

また、次は、公安調査庁設置法の規定です。

(任務)
第3条 公安調査庁は、破壊活動防止法 (昭和二十七年法律第二百四十号)の規定による破壊的団体の規制に関する調査及び処分の請求並びに無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(平成十一年法律第百四十七号)の規定による無差別大量殺人行為を行つた団体の規制に関する調査、処分の請求及び規制措置を行い、もつて、公共の安全の確保を図ることを任務とする。

つまり、公安調査庁は「公共」の安全の確保が目的の機関です。
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荒井さん

現行の法律文における「公と公共の同一性」についての例証をあげても、金さんの公共哲学批判としてはピンときません。言葉の定義の問題に留まり、哲学次元に届かないからです。

「金泰昌さんが、「公」は「官」の論理であり、「公共」は「民」の論理である、と述べているので、反証として以下の立法例を追加しておきます。」(荒井)とありますが、
実は、ここでの金さんの言わんとするところは、従来の官僚政府の言動・思想を「おおやけ」と呼び、比較的最近の市民の自発的な言動・思想を「公共」と呼んで区別しないと、市民の主体性が育たないということなのです。なぜなら、官僚の力があまりに強い(官僚独裁国家とさえ言われる)日本社会では、官と市民を切り離さないと、官のもつ強大な権限や惰性態の力に従う他なくなる、という現状認識があるからです。

したがって、金さんの思想への批判は、法律論や言葉の定義のレヴュルでは不十分で、いまの現実を変革するより説得力のある新たな見方=思想を提示しなくてはならないでしょう。それが、わたしの【民主主義の原理を明晰化する民知としての哲学】です。もちろん論理批判はするのですが、相手が言いたいことの中身を引き受けて、より深い思想を提示し、より大きな普遍性を産み出そうとする努力なのです。それが民知(という最善の知)です。

タケセン=武田康弘
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公と公共は区別できない (荒井達夫)
2009-06-25 22:22:34

法律では「公」と「公共」の区別はしておらず、「公共」に反する「公」も想定していません。これは、現行法制が日本国憲法の民主主義原理・国民主権原理に立脚しており、「公」も「公共」も「全国民に共通する社会一般の利益」の意味を持っているからです。ですから、法の運用実態において「市民の公共」に反する「官の公」という事態が生じているのであれば、それは法の理念としてはあってはならないことと考えなければなりません。ところが、思想の大元(原理)において「市民の公共」に反する「官の公」も認めることになれば、当然そうなりません。それで具体的にどうなるかが重要な問題です。

例えば、官民癒着の最悪のケースである官製談合は、公務員が「全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」(憲法15条2項)の「一部の奉仕者」となり、「公共の利益」(国家公務員法96条1項)の実現を妨げることになるから許されない。これが通常の法解釈です。しかし、法の理念で「市民の公共」に反する「官の公」を認める場合、これらの規定は無意味に解釈され、そのような事態が生じても法的には「特段問題がない」ことになります。

また、国家公務員は「市民の公共」ではなく「官の公」を実現するためにある、との考えに従えば、国家公務員法96条1項は、「すべて職員は、国家の利益のために勤務しなければならない」と規定することになります。つまり、「全国民に共通する社会一般の利益」に反してでも、「国家の利益」を追求する義務が国家公務員に課せられるのです。
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荒井さん

これは、説得力があります。
社会に関する思想(もちろん法律や法律論も含む)では、ふつうの市民・国民にとって有益になる思想か、否か?それが最大の問題でかつ基準となりますから、そこが分明になる言い方が必要ですよね。ほんとうのてつがく(=恋知としての哲学)に通底する思想とはそういうものでなければいけません。
いいですね。

武田

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現状認識と原理的思考の混同について (荒井達夫)
2009-06-27 01:52:03
現状認識(法の運用実態)と原理的思考(法の理念)の混同は、哲学以前の単なる論理的思考(法の解釈)も妨げてしまい、法の制度(国家公務員制度)を正しく理解することを不可能にしてしまいます。金泰昌さんの「公共的良識人2009.5.1」での以下の発言がそれを明瞭に示しています。

「官僚の世界にはいわゆる通説的見解というのがあるという話を聞いたことがあります。それは自分たち、即ち国家公務員たちこそ国民全体の奉仕者だという位置付けです。そして国民全体に関連する事柄についての正当な思考と判断と決定と執行の主体であるということでもあるというのです。その法的根拠が国家公務員法の中に明示されているということを強調します。だから自分たちがやることはすべて国民全体のための法的に認定された正当な公務であり、だから自分たちこそ公共性の担い手でもあるという理屈です。だから公と公共とは基本的に同じものでありそれらを区別する必要はないというのです。」

国家公務員法96条1項は、「すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務しなければならない」と、国家公務員の在るべき姿を「法の理念」として規定しているのであって、国家公務員の現実の職務遂行(法の運用実態)が常に「国民全体の奉仕者として、公共の利益のために」なっているなどと言っているのでありません。むしろ、そうならない可能性があるので、戒めるために規定しているのです。国家公務員は「一部の奉仕者ではない」(憲法15条2項)のだから、何時も「全国民に共通する社会一般の利益」の実現を目指して努力しなさい、官製談合などは絶対に許しません、という義務付けの趣旨の規定なのです。(だからこそ、公務員制度・公務員倫理の根幹をなす規定と言えるのです。)

ですから、この規定があるからといって、金さんの言うように、現実の国家公務員が常に「国民全体に関連する事柄についての正当な思考と判断と決定と執行の主体である」と考えられるわけではないし、「自分たちがやることはすべて国民全体のための法的に認定された正当な公務」になるわけでもないのです。

また、「公と公共とは基本的に同じものでありそれらを区別する必要はない」のではなく、法律の明文で「公の利益」ではなく、「公共の利益」と規定されており、法解釈上は議論の余地がないということなのです。

私は、金泰昌さんのような国家公務員法の解釈を聞いたことがありません。

以上は、言うまでもないことですが、哲学以前の問題です。
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「公・公共」と法の読み方 (荒井達夫)
2009-06-27 11:01:40

「公の施設」(地方自治法96条1項11号)、「公の機関」(同法252条の2第6項)「公の秩序」(民法90条)、「公民館」(社会教育法12条)、「公的賃貸住宅」(住宅確保要配慮者に対する賃貸住宅の供給の促進に関する法律5条)、「公共の福祉」(憲法13条)、「公共の安全」(警察法1条、公安調査庁設置法1条)、「公共の精神」(教育基本法前文)、「公共の利益」(国家公務員法96条1項)、「公共機関」(災害対策基本法1条)、「公共的施設」(武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律2条2項)、「業務の公共性」(日本銀行法5条)・・・・・・・

法律では「公」も「公共」も、全国民や地域住民や一般市民に共通する「社会一般の利益」の実現という「理念」の下に使われており、その「法の理念」に基づいて、それぞれの「法の制度」が出来ています。現行法制は、憲法の民主主義原理・国民主権原理に立脚しているからです。

そこには、金さんのような、「公」と「公共」は異なる、「公」は「官」の論理で「公共」は「民」の論理である、という考え方は存在しません。

ですから、金さんのような発想で法律を読むと、とんでもなくおかしなことになります。それが、現状認識(法の運用実態)と原理的思考(法の理念)の混同であり、憲法15条2項と国家公務員法96条1項の「聞いたことのない」解釈は、その典型例と言って良いと思います。
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感覚的な話 (荒井達夫)
2009-06-27 17:09:08

少し感覚的な話になりますが・・・・・

私は仕事が国家公務員ですが、金泰昌さんのように、「市民の公共に反する官の公も認める」と言われると非常に困ります。なぜなら、官製談合等の深刻な不祥事は、明らかに「市民の公共に反する官の公」という現象であり、そのような現状を肯定する結果になってしまうからです。金さんの思想では、公務員の中から改革する機運を起こすことはあり得ないと思うのです。

これまでくどくど見てきたように、現行法制は建前は憲法の民主主義原理・国民主権原理に立脚しています。ですから、続発する公務員不祥事を目の前にして、公務員が考えなくてはならないのは、「法律をその趣旨目的に沿って誠実に執行すること」ではないかと思います。金さんの考え方では、それを逆に困難にしてしまうと思います。

また、私もいずれ退職して公務員でなくなるのですが、その時に「市民の公共に反する官の公も認める」という思想では、官に対して中途半端な批判しかできず、真に国民・市民のための政府を求めることができないのではないか、と思います。
キャリアシステムと公共哲学 (荒井達夫)
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荒井達夫
2009-06-28 10:37:35

続発する公務員不祥事を目の前にして、公務員が考えなくてはならないのは、原点に立ち返って「法律を誠実に執行すること」(憲法73条1号)であると思います。そのためには、公務員が常に市民の目線に立って、全国民や、地域住民や、一般市民に共通する社会一般の利益を実現するには具体的にどうすべきか、をきちんと議論し考えていくことが必要です。そのためには、土台となる哲学思想(公共哲学)が必要であり、私は、それは「主権在民」の意識を公務員に徹底させる強い思想でなければならないと考えています。

例えば、国家公務員のキャリアシステムは、思想的に「天皇の官吏」の流れをくむ、国家公務員法に違反する人事慣行であり、今日の行政における最重要の課題となっているところです。キャリアシステムは、天下りと省庁割拠主義の温床であり、行政の無責任の本質的原因と言えますが、私は、さらにキャリアシステムが生み出す公務員の「特権的意識」が、一般市民の常識・利益(市民的公共)とかけ離れた「官」の歪んだ想念(官の公)を形成し、民主的運営を第一とする公務(国家公務員法1条)に深刻な悪影響を及ぼしてきたと考えています。

つまり、キャリアシステムの問題は、単なる組織・人事の実務的問題ではなく、日本の民主主義の在り様を大きく左右する思想的問題とも言えるのですが、この問題は「主権在民」の意識を明晰にする強い思想でなければ、解くことができません。ところが、金さんのように、「主権は国民に帰属しているが、天皇に寄託され、行使される」、「市民の公共に反する政府の公も認める」とするのでは、キャリアシステムを廃止するどころか、それを維持強化する結果になってしまうことは明らかです。私が「公・私・公共三元論」に強く反対しているのは、このためです。
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対話により議論が深まりました。 (タケセン=武田康弘)
2009-06-28 11:34:55

金泰昌さんは「現状認識(法の運用実態)と原理的思考(法の理念)を混同している、という荒井さんの指摘は、わたしもまったく同感です。
原理次元の話と現実次元の話を同一平面で語れば酷い混乱を招き、非現実的な話にしかならないことを、わたしは幾度も強調してきましたが、
金さんは、自分は「三次元相関的」に考えているのであり、公・公共・私の三つを並べて「三元論」を主張しているのは、山脇さん(山脇直司東大教授)らである、と言っています。
ところが、金さんは、わたしとの対談でも、繰り返し、自分の公共哲学の要諦=一番大事な点は、公(おおやけ)と公共の分離にあることを強調してきました。
これは、まさしく、現状認識と原理的思考の混同が生みだした「思想」だ、としか言えないのです。思考は、充分に立体的でダイナミックでないと、「現実」の前に敗北する考え方しか生まないのです。

また、荒井さんの「感覚的な話」ですが、
これは、荒井さんの生きる現場を踏まえた実存的な視点からのもので、大変に説得力があります。
「官僚の方は、国家=公のために働くのです。」(金泰昌)と言われ、「市民的な公共」とは異なる世界=公を自覚せよ、と言われれば、一人の人間や一市民としての、あるいは家庭人としての彼らの常識や生活とは異なる発想で仕事をしなければならないことになりますが、それは、官僚が天皇の官吏とされた戦前の日本でならまだしも、主権在民の日本国憲法下においては完全に間違った考え方だ、と言う他ないのです。現代の官僚とは、「主権者である国民に雇われた国民サービスマン」であり、市民的公共につき、それを支え、担保するのが仕事=公務なのです。憲法に規定されている通り、特定の人や団体でなく、国民全体(=市民の公共)への奉仕者でなければならないのですから。


コメント (7)
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公と公共の分離を柱とする「公共哲学」への批判①ー荒井達夫と武田康弘

2009-06-28 | メール・往復書簡
以下は、「金泰昌さんの公共哲学批判ー公と公共の分離」への荒井達夫さんのコメントと、わたしの返信コメントです。
(10000字を超えてしまい、一度に出せないので、二回に分けて載せます。)


金泰昌さんの思想について3 (荒井達夫)
2009-06-20 08:20:05

 日本国憲法の制定に深く関わり、さらに第3代の人事院総裁を務めた故佐藤達夫氏は、次のように述べています。
 「昭和22年新憲法の実施とともに、公務員は〝天皇の官吏″から〝全体の奉仕者″となり、その結果、公務員制度についても根本的改革が行なわれました。」(「人事院創立15周年にあたって」『人事院月報』昭和38年12月号)
 この佐藤氏の見解は、現在のすべての公務員の立脚点を明らかにしていると言えますが、それは日本国憲法下の国民一般の理解を前提とするものです。
 「主権は国民に帰属しているが、天皇に寄託され、行使される」、「市民の公共に反する政府の公も認める」という金さんの思想は、これに真っ向から反すると言わざるを得ません。
 この点について、公共哲学の関係者の間で徹底的に議論していただきたいと思います。



公と公共について (荒井達夫)
2009-06-21 12:12:39

 公・私・公共三元論者は、「公」と「公共」は明確に意味が異なっており、常にそれを意識しなければならないと主張していますが、これがそもそもの間違いの原因と思います。
 例えば、国家公務員法第96条は、「すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務しなければならない。」と規定していますが、この規定を三元論では説明できません。国家公務員は「市民の公共」とは異なる「官の公」を追求する存在である、というのが、三元論者の主張ですから、それに従えば、同条は「公共の利益」ではなく「公の利益」と規定されているはずだからです。
 次の警察法の規定も、例にあげることができます。
(この法律の目的)
第1条 この法律は、個人の権利と自由を保護し、公共の安全と秩序を維持するため、民主的理念を基調とする警察の管理と運営を保障し、且つ、能率的にその任務を遂行するに足る警察の組織を定めることを目的とする。
 警察の目的は、「公共の安全」と規定されているのです。また、ここで「公共の安全」と書こうと、「公の安全」と書こうと、意味は同じです。
 このような立法例は、他にもいろいろあります。つまり、「公」か「公共」かという議論自体が、現実とかけ離れており、ナンセンスと言うほかないのです。
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タケセン(武田康弘)

わが国における「戦前レジーム」の発生源は、明治時代前半に、自由民権運動を徹底して取り締まった明治政府(山県有朋ら)が、天皇主権の大日本帝国憲法の下で、市民的な公共性を抑え、天皇制国家=「公」に従う臣民としての【公民教育】を、小学校を中心に徹底させたところにある、これは誰も異論を挟めない事実です。

その名残りを、戦後も「官」が引きずってきた現実(それを象徴するのがキャリアシステムであり、そのシステムを支える想念が「東大病」です)が、公共問題を分かりにくくさせているのです。

端的には、有罪率が100パーセント近い検察と司法との癒着関係は、わが国を除き、独裁国家以外にはありませんが、警察や検察の閉鎖的で独善的な組織の実態は、明治以来の旧態依然とした「官」のありようを象徴するものです。冤罪事件が日常的に起きますが(月刊「冤罪ファイル」を参照)、誰も処分されず、足利事件で「異例」の陳謝が行われても、冤罪の被害者の方が深々と頭を下げてしまう現実を見ても分かるように、わが国では依然として「公」と呼ばれてきた「官」が、市民の上位にあるわけです。これが現実です。

だからこそ、公と公共の区分けを要請するような思想(金泰昌さんの公共哲学)は、今後、わが国をその内実において、市民主権の民主主義国家にしていくための「障害」にしかならないのです。「官」は、その仕事の内容も組織運営のありようも、わたしたち市民が考える公共性=ふつうの市民の良識に合わせなければならず、もしそうしないのなら、その存在自体が民主主義の原理に反するわけですから、認められないのです。

武田康弘
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全体知は生活世界の言葉で。

2008-01-18 | メール・往復書簡
下のブログに対するミクシィのコメントです。

ヨッシー 2008年01月16日 23:43 タケセンさん  生活世界から立ち上がる匂い、そこにエロスを感じます。  知に恋することの意味は、問いを問い続けることではないかと思っています。  ではでは ヨッシー ーーーーーーーーーーーーーーーーー

タケセン 2008年01月17日 11:17 ヨッシーさん、 コメントありがとう。 わたしは、生活世界から立ち上がるー立ち上げる、ということを、二次的な言語世界で言うのではなく、ナマの具体的現実を踏まえて、生活世界で通用するような言葉ー思想として語るのが固有名詞としての「公共哲学」ではなく、一般名詞としての公共哲学ー公共思想だと思っています。その点、ヨィシーさんとも共通すると思います。 ーーーーーーーーーーーーーーー

ヨッシー 2008年01月18日 00:21 タケセンさん  本来、哲学と命名すると、何れ劣らずアカデミズムに接近すると思います。「立ち上がる匂い」という喩は、ノンバーバルな事象も含む現実へと思いが至ることへの思いからです。  問いを問い続けることの意味は、ノンバーバルな世界へと接近する唯一の方法だと感じています。  語りたい欲求はあっても、語り得ないという焦燥、それが現実だと思うのです。  固有名詞としてではない、一般名詞としての、という感覚は理解できます。多分共通していると思います。  ではでは ヨッシー ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

タケセン 2008年01月18日 09:22 言語化できない、あるいは、とてもしずらいことを、なんとか言語化しよう、という無理な努力!?が哲学の営みのように思います。人間の生に関する問題の考察・判断は、広義の感情世界の中でしか成立しないと思いますが、その言語化できない心の赤裸々な思いをどのようにして言葉にするか?ある種文学とも共通する課題ですが、それを全体的な論理=悟性に対して弁証法的理性として行おうという試みです。わたしはそれを日常言語の世界に引きずり降ろして、ふつの言語で語る文化を生む出せないか?と考え、実践しているわけですが、「ドンキホーテ」かもしれません。 ------------------------------------

おまけーーさあ、今日は、今から鎌ヶ谷市公民館で「てつがく講座」です。2008年最初の講座なので、新年会気分(笑)で出かけます。もう10年になりますが、主婦の方中心の会です。何事も長く続けるには、よき理念の強い意識化と持続する意思を支える場の二つが必要です。何があってもブレないのがわたしですが、煮ても焼いても食えない、とも言われます。これ以上はない最高の賛辞だと感じています。みなさんありがとう!

武田康弘。
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「公共的良識人」12月号をアップー「楽学」と「恋知」の哲学対話・武田康弘と金泰昌の往復書簡

2007-12-25 | メール・往復書簡

金泰昌と武田康弘の往復書簡―【楽学と恋知の哲学対話】が、「公共的良識人」紙の7月8月号に続き、12月号に掲載されましたので、その部分を「パート2」として白樺教育館ホームに古林治さんがアップしてくれました。(クリック)

12月号に掲載されたのは、再開された往復書簡の前半(9月5日から10月10日まで)ですが、これは、武田による【言語至上主義】への批判―【想像力次元】への着目という主張からはじまり、「イメージと言語のたえざる往復を心がけつつ対話する」という基本方針を確認した上で、「官」の位置づけの問題を主題としました。

「公」と「公共」の問題―これを分けるのが金泰昌さんの進めてきた「公共哲学」の要諦ですが、武田の考えは、主権在民の民主主義国家においては、「官」独自の「おおやけ」があるとする考え(公と公共の区分け)は、原理上成立しないというものです。

大変重要な論点だと思います。ぜひ、ご覧下さい。


武田康弘




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