思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

タケセンさんの認識は甘すぎー「政府転覆しかない」/プロセスが悦び・愉しみ

2007-12-22 | メール・往復書簡

以下は、この下のブログー「姑息極まる官府(厚生労働省と政府)ー「30億を勝手にお分けください」!? に対してのミクシィ内のコメント(Zさんとのやりとり)です。



Z 2007年12月20日 23:57

タケセンさんもいいかげん認識が甘すぎますよ。(爆)
だから、この国は最初から民主主義国家じゃないんですってば。

民主主義を実現するだけの民衆の意識の高さが、最初から無いです。
仮に在ったとしても、我々に民主主義を実現する力がありません。

戦前は奴隷の軍隊、戦後は社畜です。
最初から人間ではない。

日本民族など、家畜人にしか過ぎません。
単なるヤプーです。
国民はこの国では、アメリカと、役人と、
大企業に奉仕するだけの家畜です。

ミサイルに使う金は有るんですよ。
でも政府によって病気にさせられた人々に謝罪し、
補償する金はないということですね。
どうせ連中が死ぬのを待てばいい訳だし・・・・(爆)
この国のいつもの事であります。

これは政府の失策なのだから、
全部ケツを拭かせなければならない。
この場合、踏み倒しは絶対に許してはなりません。

無いという事であれば、ミサイルに使うお金を奪うしか有りません。
さて、そこまで腹を据えて戦う人間としての尊厳を持った奴が、
どれほど居るか見物ですな?

私は心の底から、日本のあちこちで暴動とテロが
起きて欲しいと熱望しています。

それでも、唯一の救いがあります。
それはこの国が末期的な状況にあるという事です。
おそらく今の政府は、近い将来に非常に危機的な状況に
立たされる事になると思います。

近代日本とはなんであったのか、
日本国の滅亡を前にして、
きちんと総括しておかなければならないと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――

タケセン 2007年12月21日 00:32
Zさん、

末期的であることはその通りですが、たとえ日本国が滅亡するにしても、よくなる可能性への道は示しておかないと、後が困ります。

また、わたしは小学生のころから、「非暴力不服従」の思想と行動をもって生きてきましたので、暴力には反対なのです。

非暴力で、改革への強い意思をもった人の輪を少しずつ広げてきました。「間に合う」かどうか?は分かりませんが、それを続けるのがわたしの最善なのです。
――――――――――――――――――――――――――――――

Z 2007年12月21日 10:54

このままでは良くなる可能性は、おそらくないです。
自らの力で自らの腐敗から脱却したなんていうケースは、
極めて稀です。

私が唯一、希望を持っている事は、
今の政治機構がガタガタになり、
政治権力と官僚制が機能不全を起こすことです。

そうすれば暴動が起き、テロが起き、内戦が起き、
その混乱の中から、必ずや新しい政治権力が誕生する。

南米のどこぞの国のように、とことんボロボロになるかも知れません。

それでもその混乱の過程の中から、人々が過去の教訓を活かし、
真に人々の為の政治体制を樹立させる為に立ち上がることが出来るかも知れません。

日本国のみならず、世界中の人々の幸福と、
自然と人間とが共存する道を選ぶ政府を樹立する事。
これこそ我々に残された唯一の希望です。

今の政府はいろんな意味で戦前の体制を継承しています。
この負の遺産をすべて断ち切らない限り、
日本国の立ち直りに残された希望はありません。
もはや政府を転覆すること以外には、方法がありません。

おそらくタケセンさんの努力は、
今の政府の崩壊を食止めることには、
間に合わないでしょう。

しかし、プラトンやアリストテレスの存在がそうであったように、
必ずや、いつの日か未来に、新しい社会を実現させる上で
タケセンさんの骨折りは無駄にはならない日がきっと来ると思います。
――――――――――――――――――――――――――――

タケセン 2007年12月21日 12:11

Zさん、
私に対する高い評価、どうもありがとう。
もちろん、わたしは現政府を認めていませんし、また、明治の山県有朋らのつくった詐欺のような官僚主導の政治体制(わたしはそれを「靖国思想ー天皇教・官僚主義ー東大病」と呼んでいます)を根本的に批判し変えていかなければ、市民主権の未来社会を開くことはできないと思っています。
これは、
哲学の土台から現実の法体系、
人生観ー社会観、
型の文化の枠内に人間の意識を閉じ込める教育、
それらを支える日々の生活仕方・意識、
いわゆる「文化」の全体を変革していくことと一つです。
――――――――――――――――――――――――――――

Z 2007年12月21日 15:02

タケセンさんのご指摘は、正しいです。
必要最低条件として、当然、要求される事ですね?

(残念ながら、今の日本の大衆にそれが出来る程度の
知的能力が存在するとは到底思えないですが・・・・)

近代日本を支えてきたエートスへの徹底した自己批判と自己検証を
前提としない限り、仮に新しい政府が樹立しても同じ失敗を繰り返してしまうでしょう。
――――――――――――――――――――――――――

タケセン 2007年12月21日 23:18

Zさん、
「近代日本を支えてきたエートスへの徹底した自己批判と自己検証を 前提としない限り、仮に新しい政府が樹立しても同じ失敗を繰り返してしまうでしょう。」は、
まったくその通りだと思います。

同時に、わたしは従来の左翼思想にある暴力肯定にも反対です。どこまでも【非暴力を貫く強さ】が大切だと考えています。

粘り強く、何千回でも繰り返す【持続力の文化】を生み出す営みと社会改革はひとつです。

自分自身の実存を豊かにしつつ公共的な思想と行動(【行動する良心】)をする、そのプロセスを悦びと愉しみにするのがわたしの生き方=哲学なのです。

武田康弘




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荒井達夫さんのコメントー山脇直司さん金泰昌さんの公共哲学

2007-11-04 | メール・往復書簡

以下は、「金泰昌・武田康弘の往復書簡・第二次「恋知と楽学の哲学対話」ドキドキの展開!! 」への荒井達夫さんのコメントです。


[ 荒井達夫 ] [2007/10/29 21:24]
「現実を直視し、事象の原理を踏まえつつ、有意義な実践を」というのが、金泰昌さんの思想ですね。国際的経験が豊富な金さんらしい思想ですが、特に「公・私・公共」や「滅私奉公、滅公奉私、活私開公」などの議論は、日本国内の諸問題を考える際にも、問題の重要な側面を際だたせ、非常に有用な視点を提供するものと思います。
そこで、最近問題になっている防衛省の公務員倫理違反などを考えると、「国民主権(憲法前文)→全体の奉仕者(憲法15条)→公務員倫理法」という発想で思考し、行政運営を行うことの重要性を痛感します。なぜなら、個々の公務員(特に霞ヶ関キャリア)が、憲法の依拠する民主制原理を深く理解し、「活私開公」を徹底的に実践すれば、当然、「私」から「公共」が開かれ、その結果、「真の全体の奉仕者」となり、「良き公」(=公務の民主的で能率的な運営)が実現することになるからです。
-――――――――――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2007/10/29 22:51]
荒井さん、
そうですね。自由対話による民主主義を原理中の原理に据えなければ、公共は成立しません。原理がボケれば、「公共」はすぐに「公」という名の官僚主義へと転落します。日本の現状は、その官僚主義ですが、彼らが「市民の公共的利益」とは違う独自の公(おおやけ)を持つことができると思うなら、それは言語道断という他ありません。主権在民の民主制を否定することにしかなりませんから。
コメント、感謝です。
―――――――――――――――――――――――――――――――
[ 荒井達夫 ] [2007/10/29 23:15]
私は、1年前、山脇さんとずいぶん厳しい論争をしたのですが、「公・私・公共」や「滅私奉公、滅公奉私、活私開公」などについて、上記のように理解するようになって、実は、あまり問題意識において違いはないのではないかと思うようになりました。今の日本で、「現実を直視し、事象の原理を踏まえつつ、有意義な実践を」とやっていくと、そのような理解が最も自然で、結局、皆そうなるのではないかと考えているところです。
補足です。
「公務の民主的で能率的な運営」とは、国家公務員法(1条)の究極目的で、公務が実現すべき「国民一般の共通な利益」を意味します。当然、「官」の利益ではあり得ません。
――――――――――――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2007/10/29 23:52]
そうですよね。
【官の利益】、なんてまったくどこにも位置付かない意味不明の話でしかありませんものね。組織の利益のために組織がある!?とうバカげたことにしかなりませんからーそれを主権者の税金で維持する!?無間地獄に落ちますよ(笑)。
山脇さんも「民主主義派」ですからね、荒井さんとも一緒にいろいろやれますよ~
――――――――――――――――――――――――――――
[ 荒井達夫 ] [2007/10/30 21:14]
金泰昌さんは、「三次元相関思考」と言っていますね。私は「三元論」よりも、こちらの呼び方が好きです。「三元論」ですと、単なる理論モデルのようですし、また、内容も公共哲学の「原理」とは違うからです。大事なことは、「現実を直視し、事象の原理を踏まえつつ、有意義な実践を」という点であって、だからこそ、「公・私・公共」や「滅私奉公、滅公奉私、活私開公」が、現実問題を考える上で重要な視角を提供してくれると考えています。金さんも、本来はこういう意図なのではないでしょうか。そうでなければ、金さんが一番心を痛めている日・中・韓の関係など、複雑困難な問題の解決が、さらに難しいものになってしまうからです。(これは、切ない話です。)例えば、「官=公」と杓子定規に考えていくと、戦前の悪しき日本官僚制類似の仕組み(キャリアシステム等)を、是として議論せざるを得ず、問題の解決がほとんど不可能になってしまうのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2007/10/30 23:40]
荒井さん、
わたしが、キムさんのほんらいは?を言うわけにもいきませんので、返事は無理ですが、荒井さんの言う、【「官=公」と杓子定規に考えていくと、戦前の悪しき日本官僚制類似の仕組み(キャリアシステム等)を、是として議論せざるを得ず、問題の解決がほとんど不可能になってしまうのです。】は、
誰が考えてもそう言うしかないでしょう。
そこが「官」の問題の核心のはず。
――――――――――――――――――――――――――――――
[ 荒井達夫 ] [2007/11/04 09:03]
山脇さんは徹底した民主主義派で、その三元論は、どこまでも、個人一人一人から成る「民の公共(活動)」が「政府の公(的行動)」と「私企業の行動」の「正当性(legitimacy)」を成し、前者が後者を方向付けるという観点で使っているようです。これですと、上のコメント欄の私の論や、その基礎にある武田思想とも矛盾しませんから、「官」の問題についても基本的な認識はそれほど変わらないということになるでしょうね。
――――――――――――――――――――――――――――――
11月7日補足。
以下にコメント欄の9つのコメントを張り付けます。


荒井達夫 ] [2007/11/05 23:50]
「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」(憲法前文)
これは、我が国が「地球的規模の公共性」の実現を目指すという宣言と言えますが、憲法を遵守し、実施する義務を負う「官」が率先してその実現に努力しなければならないことは、明らかです。また、この「地球的規模の公共性」の基礎にあるのは、当然「市民的公共性」であると言えますから、「官=公」でも、結局、「官とは市民的公共性を実現するための権力機構である」ということになるでしょう。私は、最近、「和」や「グローカル」の公共哲学をこのように考えています。
―――――――――――――――――――――
荒井達夫 ] [2007/11/06 21:18]
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」(憲法前文)
これは、「市民的な公共」の実現(正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保する)により、「官」が「最悪の公」(政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起る)とならないようにする。そのために、憲法を確定するに当たり、はじめに「主権在民」を明らかにしたものであると言えるでしょう。この思想についての深い探求なくして公共哲学はあり得ないと考えます。
――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2007/11/07 09:16]
「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」(憲法前文)
そうです。
当たり前と思うこの箇所こそ核心中の核心、原理中の原理であり、【主権在民】の徹底なくしては、武田の考える公共哲学は成立しません。
そこが【第二次哲学対話】(金泰昌と武田康弘)の論争点になっています。
まだ、発表していませんが、10月4日の『主権者は「天皇」から「国民」へーこの原理を徹底させたい』と、10月10日の『天皇制と主権在民について』は、この原理の確認と徹底化による【新たな公共哲学】の開示なのです。
新語・造語に惑わされず、「当たり前」を愚直に掘ること、それがほんものの哲学・公共哲学であるはずです。
―――――――――――――――――――――――
[ 荒井達夫 ] [2007/11/07 20:49]
「官=公」の「公」と「公共」は次元を異にする概念であり、そのように理解してはじめて、金さんの「三次元相関思考」が活きてくるのではないかと思います。「官=公」の「公」は、「良き公」(公務の民主的能率的運営など)と「悪しき公」(最悪は、政府の行為により起こる戦争の惨禍)に分けられますが、「公共」については、このような区分けはあり得ません。「公共」とは、市民一般の共通利益(市民的公共)を意味するからです。「官」とは本来「公共」を実現するための権力機構のはずですが、実際には「公共」の実現につながる「良き公」と、つながらない「悪しき公」となる場合があり、我が国ではそれが「最悪の公」となった過去があります。そのために主権在民・民主制原理を確認し、「公共」の徹底的な実現を図る(諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保する)というのが、憲法前文の思想であると考えるのです。
――――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2007/11/08 11:08] [ Myblog ]
荒井さん、
なぜ、【「官=公」の公は、】などと言わなくてはならないのか?
わたしは、「官」は、公共を下支えする組織であり、公共を「民意の代行機関であ
る議会」の決定の下に遂行する組織である。だから「官」は、絶えずその仕事が公
共(民意と人権)の実現に値するものかどうかを検証する義務がある、と言えばよ
いのだと思います。
「官の公」、というのは誤解を招く言い方であり、「官の仕事」、と言うべきであり、それならば、極めて分明に、「官の仕事は、民の公共を担保するのがほんらいだ」となり、そこに危うさが入る余地がなくなるわけです。そのような言い方=思想が民主主義の徹底化による公共の実現になる、わたしはそう考えています。
――――――――――――――――――――――
[ 荒井達夫 ] [2007/11/08 21:21]
おっしゃるとおりだと思います。私は、現行法制を分析してみましたが、以下のように理解しなければ、「三元論」と「三次元相関思考」を使って憲法前文や国家公務員法の目的規定(1条)を合理的に説明することは不可能である、と考えています。 ?「官=公」は「政府の組織と活動」を、「公共」は「市民一般の共通利益」を意味する。その意味で、「公共」は「官=公」と次元を異にする概念である。(そう考えなければ、三次元思考にならない。) ?「政府の組織と活動」の目的は、「公共」の実現である。また、「公共」の実現に反する「政府の組織と活動」は、認められない。これは民主制国家において当然である。 ?「三元論」は公共哲学の「原理」ではなく、「現実問題の重要な側面を際だたせて説明する道具の一つ」である。また、「三次元相関思考」は、「現実を直視し、事象の原理を踏まえつつ、有意義な実践を行う」という点に重要な意味がある。
――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2007/11/08 22:39] [ Myblog ]
荒井さん、
官を公と置くという思想=キムさんの「公共哲学」の基本姿勢を引き受けて、それを現行の日本の社会制度と法体系に合致させようとすれば、ここに示された「荒井解釈」しかない、とわたしは判断します。
しかし、ふつうの多くの人の共通了解を命とする公共性に関する思想・考察が、「注釈」の必要な用語法の上にしか成立しないのは致命的な欠陥だと言えます。さらに、なぜ「三次元相関性」が、「現実を直視し、事象の原理を踏まえつつ、有意義な実践を行う」ことにつながるのか?論証抜きの結論先取りは、論理の基本に反しますが、荒井さんの悪戦苦闘!?(笑)ぶりはよく伝わります。
―――――――――――――――――――――――
[ 古林 治 ] [2007/11/08 22:58]
荒井さんが悪戦苦闘している姿を見てじっくり考えてみました。
『【公】という語を単独で使った刹那、公と公共は峻別され、公共とは別の正当な主体者が存在することを(暗に)喚起してしまいます。これはどう考えても民主制の原理とは相反する考えです。』
やはり、原理レベルでの調停、妥協、折衷というのは成立しない、それは現実レベルでのお話である、という結論になりますね。
――――――――――――――――――――――――
[ 荒井達夫 ] [2007/11/09 00:11]
私が、公共哲学の検証に憲法と国家公務員法を題材にしたのは、これらが公共哲学の実践において最重要の法制であることと、民主制原理を明確にしている法であることが理由です。その結果は以下のとおりですが、公共哲学関係者にとって無視できない重大な意味を持っていると考えます。是非、真正面から検討し、議論していただけるよう希望します。





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日本は管理されたリンチ・シゴキ列島!? Zさんとのコメント対話

2007-10-02 | メール・往復書簡

【日本の伝統?ー集団暴行の大相撲】に対するZさんのコメント(ミクシー内)とわたしの応答を載せます。

2007年09月29日 11:56

このようなリンチは何も角界に限った事ではないです。
日本のあちこちにあります。
それは仏教界もそうです。
永平寺に限らず、日本のお寺の修行とやらも
殴る蹴るが当たり前にあります。
ついでに言えば体育会系の部活などそうですね・・・・。
こういう事が特殊な世界という理由だけで容認されている。

角界には角界の掟やしきたりがある。
おそらくは竜虎の指摘はそういう事が言いたかったのでしょう。

しかしシゴキを新入りに課すからには、彼らはそれに相応しい振る舞いや責任を果たしているのか?シゴク側にもシゴクからには振る舞いや責任は問われる筈です。
それが無ければただ単に弱いものイジメのための陰湿なリンチにしか過ぎません。
で、龍虎さん、新入りをシゴクだけの資格がある振る舞いや責任を今の角界が果たしていると断言できるでしょうか?

しかも力士という身体を酷使する武道が出来ないほどのリンチが横行していることをどう考えるのか?

更に言わせてもらえば、もともと相撲とは神事において奉納される儀式をあり、
横綱とは大関のなかでも人間性も含めて優れた存在に対して与えられるものであり、神に近い存在であるがゆえにしめ縄で聖別されるものです。
だから朝青龍は(超人なのだから)ずる休みは許されないし、そういう横綱の器でない朝青龍を選ぶというヘタレばかりやらかしている相撲協会に偉そうにリンチを正当化する資格などあるものか。

相撲という格闘技は古い歴史と我々の誇りを背負っているがゆえに、
このような血で穢されてはならないのではないだろうか?

以上の事を踏まえて思う事があります。

少なくとも多くの若者はこんなアホな事ばかりやっている角界を軽蔑こそすれ、
入りたいとは思わないということ。

他の人間はどう考えているかなんか私の知った事ではありませんが、
別に大相撲が無くなったって全く困らないし、
それこそ陰惨なリンチで新入りをよってたかって殺すようなものなど、
私は御免こうむりたものです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

タケセン 2007年09月30日 09:20

Zさん、
踏み込んだよいコメント、感謝です。
わたしのブログよりも内容があります。

わたしは幼い頃からテレビで相撲はよく見てきましたし、毎日「砂場」で友達と相撲遊びをしていました。
いまだに(55歳)腰が強く、生徒(大学生まで)や友人で私に勝てる者は一人もいませんーホントウです(笑)。
わたしは、高校や大学で柔道部の連中よりも相撲は強かったですが、一度も運動部に所属したことはありませんし、したがって一度もシゴキを受けたことはないのですが、シゴキを受けた連中よりも強いのは、どういうわけか!?ですね(笑)。実は、自分でスポーツ科学を勉強して、自分に合ったトレーニングを面白く工夫しながらやっていたのです。
集団主義などというものは、人間を弱く愚かにしかしないとわたしは身をもって証明してきたわけです(笑・笑)。
日本の【部活文化】は、上位者に面従腹背するレベルの低いー愚かな人間を生むだけです。

それから、わたしは、神事としての相撲についてはよく分からないのです。単純に面白がっていただけなので、格闘技の一種としか見てきませんでした。したがって、朝昇竜の元気いっぱい・闘志むき出しのやんちゃ相撲はとても面白かったです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2007年10月01日 01:21

日本の社会の場合、面従腹背よりももっと屈辱的です。

上位者に面従腹背する事そのものが愚かであるというよりも、
むしろ日本の社会はその上位者がちゃんと責任を取らないで、
下の人間にすべて押し付けてしまう所にこそ問題があります。

上位者にとって何か都合が悪い事があると決まって
意味不明な精神論を振りかざし、問題解決から逃避しようとする。
戦前も戦後も何も変っちゃいない。

面従腹背するというのには、面従腹背する側の利害や思惑があるという
意味で主体的な行動であります。

しかし我が国の場合は「奴隷の軍隊」ですので、
そのような面従腹背すら入り込む余地が無く、
そこには判断停止しかない。

ついでにこのような思考停止の弊害は様々な所で起きています。

例えば、それこそ戦前は鬼畜英米と国民を散々煽ってきた連中が、
敗戦後に舌の根も乾かぬうちにアメリカにゴマをする・・・・。

何でひとりの人間がどうしてこうも豹変出来るのか?
それは主義主張や思想を持っていては、絶対に出来ない事です。
そして誰もが責任を取ろうとしない、取らせない。

このような貧困な精神風土においては、
リンチは日常茶飯事に起きるのではないでしょうか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

タケセン 2007年10月01日 14:11 さん、なるほどです。

「思考・思想の貧困」のために「面従腹背」も成り立たない!?そういう事態にまでなっているということですね。

考えない、思考力を鍛えないという精神風土の下では、なにもかもが幼児化して、即自的欲望と反射があるだけ。仕事は実務とハウツーで、というわけですね。

思考・全体的判断・個人の自立=輝きのない世界では、人の世界は閉じて集団主義になり、その結果、イジメとリンチの蔓延するおぞましい世界が出現するのでしょう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 2007年10月02日 00:50

でも、それは本当の意味での集団主義ですらありません。

集団という概念を表象するには、集団を構成する個という概念が
無ければ成立ちません。

それこそサルトルの謂う所のアンガージュマンという積極性を持たない社会に
集団という概念は存在しないのではないでしょうか?

烏合の衆という言葉によってしか表現出来ない
畜群があるにすぎません。

日本の大衆の圧倒的大多数には集団はありません。

爺さん婆さんどもには「世間」という不可視の陰湿な暴力はあるでしょう。
センター街をたむろしているガキどもには、「マス・メディア」とか「ケータイ」があるでしょう。それはひょっとしたら「ゴーマニズム宣言」なのかも知れません。

しかしこの国には消費者という群れはいても、集団が無い。

もし日本に本当の意味で集団があるのであれば、
そこいらでデモどころか反政府テロが起きています。
社会保険庁の職員は今ごろ虐殺され血祭りにされているはずです。

社会契約を反古にするような政府は、
どのような手段に訴えてでも倒さなければなりません。

でも、そんなことは起きません。
共通した利害を持つものが共闘して、
問題に立ち向かうということはまず起きようがない。
それは本当の意味での集団が存在せず、個人個人が
みんなバラバラにされているからです。

バラバラになった個人はマスメディアに翻弄される。
そこには欲望に群がる群衆はあっても、集団は存在しない。

せめて面従腹背するぐらいに民度が成熟すればマシなんですがね・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

タケセン 2007年10月02日 11:55

「烏合の衆」というのは、確かに自覚的な「集団」ではないですね。
「私」がないところでは、無自覚的な集団が結果としてできるだけであり、それは「集団主義」にさえならない、というのは、論理的にその通りだと思います。
バラバラな人がいて、それは「状況」も「私」も自覚的に捉えることがないために、その時々の気分・ムードに流されゆくだけー現代のオートマチックな世界の中では、人間自体もオートマチックになり、流される以外の生き方ができない、というわけでしょう。
この巨大化した管理社会の中では、直接的な「抑圧」の代わりに「システム化」が個々人の自由を奪ってますが、奪われていることが自覚できない不可視の管理になっているために、人は、バラバラなままで、集団にすらなれない不幸に沈む、というわけですね。
朝昇竜の相撲の面白さは、管理をぶち破る幼児的なエネルギーにあった!ということでしょうか?
脱線しましたが、
思想は、イデオロギーにしかならず、哲学は、哲学説のチョイスでしかないー自分の日々の具体的経験を踏まえて、自分の頭で考えることがなくなれば、人間は自動人形のような生を送るしかないわけですが、ここからの脱出は容易ではないです。「優秀者」ほどこのワナに深くはまっています。
?五感・心身全体による具体的経験、?想像力世界への着目と開発、?自問自答による「私」の深化、?自由対話による自他の意識の覚醒と解放この4つをよく行うことをわたしは実践していますが、それはエロースそのものです。

Zさん、よいコメント感謝です。





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疲れたらすぐ休もう!ーネクロフィリアに陥らずにエロースの生を拓くために。

2007-05-24 | メール・往復書簡

以下は、Aさんに宛てた今日の「白樺ML」に加筆し、一般化したものです。

Aさん、

パターンを身に付け、上位者に従って「慣習的に生きる」ようにつくられた形式主義の日本の教育・文化は、人間的自由を引き受けることで生まれる「エロースの生」とは対極にあるものです。

どのような職業であれ、日本というシステムの中で、目覚めて、自立の生の悦びを拓こうとするのは、厳しいことです。ほとんどの人は、途中で逃げます(笑)。でも、分かっているのに逃げると自己欺瞞に陥り、心の奥に巨大な穴が出来てしまうでしょう。それを塞(ふさ)ごうとすると、自分又は他人を否定する「ネクロフィリア人間」(静止し固定されたもの・死んだもの・厳しい規則・形式・権威・伝統・過去・・・を愛し、生きているものを愛せない人間)になってしまいます。ですから、Aさんの「休む」というのは、大変賢明な選択だと思います。

「白樺」のいう自由や自立の問題を、
社会的・公共的次元に焦点を合わせて語った〈四人による対談本〉(『自由は人間を幸福にするか』ポット出版刊)が数日前、竹田青嗣さんから著者謹呈本として送られてきましたが、「自由を前に進めることでしか現代社会の問題は解決しない」とする竹田さん(在日朝鮮人二世)の明晰な論理の前で、他の日本人学者は皆しり込みして、「全部賛成だが、やはり保守主義や伝統を見直し、それを若者に教えることも大事」!?(笑)という言い方になっていました。
わが日本国で、個人が個人としての悦びを深め広げ、自立した社会人として「相互承認のゲーム」を生きるのは、なかなかしんどいことのようですが、それは、環境が許さないという以上に、知らずに身に付けた・付けさせられた【自我】(集団の価値意識が深く内面化した様式としての自我)が、新たな広い世界(純粋意識の働きにより開ける広大な宇宙)を前にして、怯え、拒否反応を起こすからだと思います。
ここからどう羽ばたくか?それが可能なら、日本と日本人には大きな希望が開けるのですが、それが難しいのです。わたしが、哲学を「民知」としたのもそこに理由があるわけですが、ポイントは、力を抜くこと・心底は「フワー」としていること・他力を信じること・愉悦とエロースの生活を営むこと・ほどほどでいること・成果は期待せず、過程を面白がることです。「結果が全て」というマジメで固い人とは距離を置き、「アッケラカン」とわが道を楽しみつつ生きること。そうでなければ、よい生活も仕事もできないように思いますが・・・。

【学校も会社も疲れたらすぐ休もう!】ーこれは、だいぶ昔につくった標語です(笑)。
上手に怠けること、力を抜くことが、よい人生を拓く鍵だと思います。

「正解」ばかりでは人間はちっぽけな存在になり、悦びは開けません。何の面白みもない、したがって生きている意味のない「機械」にしかなれません。日本人が【即物的な価値】しか分からないのは、自分のロマンを育て、自分の生の悦びを広げられない形式が優先する【様式主義という思想】を植え付けられているからです。それを植えつける装置が、意味論・本質論のないただの「事実学」による試験知=受験知ですが、その上にさらに、安倍首相の進める保守主義・国家主義の「イデオロギー教育」が加わろうとしています。

武田康弘。






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理念の大切さと理念主義の恐ろしさ

2007-04-03 | メール・往復書簡

理念の大切さと、
理念主義の恐ろしさの問題は、
ロマンを育むことの大切さと、
ロマン主義のおぞましさの問題と同じで、
極めて重要ですので、
「コメントという形での対話」を整理して記事にします。
(荒井さん、智子さん、タケセン)

【理念をどう導くか?の記事へのコメント】

[ 荒井達夫 ] [2007/04/01 07:38]
ある法制度(例えば、人材バンク)について議論する場合、その役割や機能を現実具体的に考えるとともに、その法制度がそもそもどのような法の理念に基づいているのか、吟味することが非常に重要であると思います。
人材バンクは、法の手段。各省による再就職あっせんの禁止が、法の直接目的。官民の垣根をなくして人材移動を活発にすることが、法の間接目的。では、法の究極の目的は何か。それは、どのような理念に基づいているのか。
このような思考、議論がきちんとされていないところに、問題が発生していると考えています。
―――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2007/04/01 13:48]
荒井さん、コメントありがとうございます。
「その法制度がそもそもどのような法の理念に基づいているのか、吟味することが非常に重要であると思います。」(荒井)
その通りだと思います。こういう一番大切な営為がないのが日本の現状ですね。
ただ、さらにその先を考えるのが、哲学の重要な仕事です。
それは、【ある法の理念が生まれたのは何故か?】を生活世界の現場・赤裸々な心の本音から見ようとする作業なのですが、これがないと生活世界の「具体的経験」ではなく、ある「理念」から出発することになって、根っ子が切れた理念=理念主義へ陥り、皆の生の実感とはかけ離れてしまいます。哲学するとは、理念がつくられるおおもとを探る営みです。
―――――――――――――――――――――
[ 荒井達夫 ] [2007/04/01 17:46]
法制度がどのような理念に基づいているのか、しっかり吟味するためには、「理念がつくられるおおもとを探る営み」がなければダメですね。つまり、哲学なくして法の理念は語れないと思います。そして、それは「生活世界の現場・赤裸々な心の本音から見ようとする作業」であるということ。実は、私、つい最近になって、このことを意識し始めました。大学クラスで皆さんと、ああでもない、こうでもない、といろいろ話をしているうちに、血の通った思考になってきたように思います。
――――――――――――――――――――――
タケセン ] [2007/04/01 21:53]
新井さん、大変うれしいコメント、感謝です。
「血の通った思考」、制度としては、どこでもやっていない一番大切な教育、これがないから、わが日本人は総体としては、いつまでも内的精神の自立が得られず、思想の自由を行使できないわけです。
具体的経験に立脚し、自分の頭で考え、血の通った思想を生み出すという、人間が人間として生きるうえで一番大切な営みがどこにもないというのがわが日本の現実です。
孤軍奮闘に近いタケセンとしては、荒井さんのコメント、とても励みになります。
―――――――――――――――――――――

【愛は強制できるか(東京新聞社説)の記事に対するミクシィブログへのコメント】

2007年04月01日 22:31
智子

武田先生、お久しぶりです。私も最近の政治の動向が、変な方向へ向かっているようで、恐ろしく思っています。内心の自由まで否定して愛国心を強制する洗脳教育が始まるのでしょうか。まるで軍国主義に向かっているようで、危機感を覚えています。自分がなにができるか考えています。
――――――――――――――――
2007年04月02日 10:10
タケセン

智子さん、コメントありがとう。
右であれ左であれ、上位者に従い、集団同調するという風潮は、個々人から発するパワー、悦びを奪い、地位や肩書きやの鎧兜に頼る人生しか歩めなくなります。外的価値による評価しかできなくなるために、「人間性の魅力」の源泉を枯らしてしまいます。
伝統尊重・愛国思想の政治・教育が恐ろしいのは、上位者への従順と外的価値(特定の理念)による内面性の抑圧によって、人間性の魅力の源泉である「実存としての心」を踏みにじるからです。
私が危惧するのは、「理念主義」(この場合は、愛国や伝統尊重という理念)の恐ろしさ・オゾマシさなのです(この一つ前のブログに記載した通り)。
イデオロギー・理論によって政府の方針に立ち向かうという従来の方法ではダメで、赤裸々な心を開示する手法=実存からの異議申し立てが必要だ(そこに基盤に立脚した知のありようを民知と呼ぶ)と言うのが私の考えです。
ぜひ、友人や近所の人に呼びかけて、あらゆる種類の権威者に侵食されることのない皆の心の発露の場(小雑誌でも、おしゃべり部屋でも、インターネットコミュニティーでも・・・)をつくられることを!!


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チョムスキーとメディアー白樺ML

2007-03-14 | メール・往復書簡


以下は、白樺MLです。 (また、「紅草子」さんの感想も素晴らしと思いましたので、リンクしました。ぜひ、ご覧下さいークリック


武田様

映画、「チョムスキーとメディア」、昨日見てきました !
3時間近い映画なのに、一瞬も退屈しない、一言も聞き漏らしたくない“凄い”
“見事な”映画でした。観客は7割ぐらいの入りでしたが、渋谷からの道で会った
男性は長野からの出張の合間に来たと言っておられ、口コミで広がっているように
見えました。
〈他人との連帯の中で、自分自身の価値観を身につけ、自衛の手段を身につけ、
自分の生活に主導権を取り戻し‥‥‥〉
まさに民知という考え方にピッタリ、武田さんがおっしゃったみたいに合わせ鏡の
ようですね。 難しいことではなく、本当に哲学の初心です。基本のところがぶれない
生き方をする、そのことが非常に大切だということを強く感じました。
「歴史修正主義者」の本の序文に関する事件に関しても言論の自由を守るという筋が
きちんと通っていました。
「独裁的な政治ではこん棒で脅かせばいいが、民主主義では思想のコントロールが
必要になってくる。マスメディアは大企業だから、自らの利益のために市民ではなく、
権力に奉仕するようになる」他、すべての言葉が
強い説得力をもって伝わってきました。
チョムスキーさんは人間的にも「普通」の感覚を持った素適な人ですね。それに比べ
彼に敵対するする人たちの顔の表情がひどく気持ち悪く、不愉快な表情をしている
のを感じましたが、武田さんはお感じになりませんでしたか?あれは映画の作り方
の所為かしら?彼らの生き方の所為かなあ?
現実には巧妙に覆われた真実を一般市民が見極めるのは難しいです。しかし、
努力はいるが、人々が少し視点を変え、視野を広げ、連帯し情報を共有することで、
可能なのだという希望を感じました。
最後の方で、チョムスキーさんの講演を聞いた女性が「異を唱える者は孤独だが、
集うべき中心点があるように思える」と言っていましたね。日本でも色々な市民運動が
たくさんあっても、社会を変えていく力になりきれないことに無力感を感じていましたが
映画を見て、この女性と同じような希望を感じました。
(以下省略)
☆皆さんこの映画、16日までですが、是非ご覧下さい。
著作も「メディアコントロール」(集英社新書)は薄くてすぐに読める本ですから、通勤
途中で読むのにも最適です、是非!!

楊原
―――――――――――――――――――――――

阿部です。

鈴木安蔵の憲法研究会の映画「日本の青空」ができあがっているそうです。
http://www.cinema-indies.co.jp/aozora/index.html
日本の青空(HPよりストーリーを抜粋)
・・・政府によって作成された憲法草案はおよそ民主的とは言いがたく、大日本帝国憲法と基本的には代わり映えしないものであった。
それに対して「憲法研究会」によって熟考を重ねられ遂に完成した草案は国民主権、人権保障、男女平等などを謳った真に民主的なものであった。
政府による新憲法案はGHQ側にあっさりとはね返されたのに対し、憲法研究会による草案は英訳され、GHQ案に多大な影響を与えることに・・・・

筑紫哲也ニュース23で3/9に特集やってたらしいです。
どんな出来の映画か見てみないと判りませんが・・・。

あと、チョムスキーとメディアの映画見てきました。
タケセンの言ったのそのまんまですね。
精神衛生上非常に良い映画でした。
ふつうの人と人との横のつながりでー自分の意見を育てるー未来への希望も見せてくれてるし。
これはまさに民知だ!王道(真実に向かって真っ正直な道)をいってる!

チョムスキーがただ一つ悔いていたことー本の序文に使われた文章をあとから撤回したことーがあったりして、
ヴォルテールが言った「あなたの言うことには一つも賛成できないが、あなたがそれを言う権利は命を懸けて守るつもりだ」
ってことを言ってるのを理解してもらえず、悪者扱いされていたところは、けっこう人がいいんだなぁと思ってしまいました。

チョムスキーは自分ができること、得意なことをやっているだけと言っていました。本当にそうなんですが、
物事を比較検討して判りやすく提示する能力は半端じゃなくすごいです。

映画の内容ー大手メディアの構造的な問題点ー現政府のプロパガンダとしての役割をになってしまっているってところが
はっきりわかってしまうところがすごいですね。

――――――――――――――――――――――――

古林です。

一日遅れで私も今日見てきました。
入りは30%くらい。(10:40の上映)
楊原さんと阿部さんが素敵なインプレッション書いてくれたので、あまり言うべき
ことはないのですが、気のついたことをいくつか。

こんな面白いドキュメンタリーは見たことない。
一言で言うとこうなります。
制作者の執念に脱帽です。チョムスキーの行動力におそれいりました、です。
何より、題材が重く気分が暗くなってもおかしくないのに、なぜか活力をわけて
もらってきた感じがするのが最高です。
音楽(音)も良かったです。パーフォーミング・アートのローリー・アンダーソンや
ロック界の大御所、デビッド・バーンなどなど。もしかしたら彼らはボランティアかも?

ところで、チョムスキーのように思考と実践の中から培ってきた健全な思想を
受ける側がどう捕らえているかを考えてしまいました。
『国家は暴力装置である。』という会話がありました。
事実、そのような一面はあるでしょう。ですが、チョムスキーが国家そのものを
否定しているとは思えません。日本の「進歩的」知識人は国家の存在
そのものを否定しているように見えます。
チョムスキーはまた、リバタリアン的社会主義を自認していたと思いますが、
「自由の森学園」の一部の狂った教員たちが信奉していたのがリバタリアンでした。
無論、その内容はチョムスキーとは無縁のものです。
そんなわけで私はこの国の思想の貧弱さも同時に思い浮かべてしまいました。
繰り返しになりますが、「原理論」をしっかりと捉えることが出来ていないせいなの
でしょうね。
以上、チョムスキーとメディアについてでした。
ちなみにネットの前売り+ファミリーマートの発券で1300円です。

――――――――――――――――――――――――

武田です。

確かに古林さんの言うように、民主主義の国家と国体思想の国家との違いは何か?を明確にしておくことは、重要です。

すこし、簡単に整理しておきます。

ひとりひとりの自由で対等な人間が集まって、その権利と安全を担保するために国家という制度をつくる、と考える民主主義の国家観に対して、
国体思想による国家観は、予め日本はどういう国であるかを規定し、その観念的な国家像に合うようにひとりひとりは生きるべき、と考えるわけです。

個々の実存を基底に据え、国家とはその社会に住む人々の人権を守るために必要な制度だとする民主主義の国家思想と、国体思想=国家主義とは原理がまったく異なります。

日本語を使い、日本の気候風土の中で生活するする私たちは、自ずと「日本的」な感性と思考(私は「水の国ー日本」と考えます)を持ちます。日本で生きる人々の実存は、アメリカや中国で生きる人々の実存とは「異」なる部分がありますが、それは予め日本主義の思想を政府・教育機関が教えることとは違います。教育行政(権力)による方向づけ・誘導がなされれば、人々の想念は固定化・保守化してナショナリズム(国家主義)に傾斜していきます。頑なになり、柔軟で自由な思想が失われると、個人も国家も弱体化してしまいます。他在を受け入れる柔らかさ・しなやかさがなくなるのは「死」に近づくことだからです。

結論を言えば、国家という制度の価値は、人々のよき生のための条件整備にどれだけ貢献しているか、その程度にあります。同じことを逆から言えば、人々が自分たちのよき生(互いの人権確保と安全)のために、国家制度を有用なものとしてつくり、運用しているかどうか、それが核心。現代における国家とは、【人権と民主主義を守るための制度】と考える以外はありません。日本主義=国体思想を引きずり、特定の国家観を持つように国民を誘導するという政策は、現代社会では許されません。これは市民社会の原理です。「市民国家」以外の国家、たとえば「天皇元首の国体国家」を目がけることはできないのです。
個人の自由を奪うこと=実存の否定=哲学の否定=自由と民主主義の否定という選択は、国際的に禁止されています。

以上、少し思うところを書いて見ました。

また、楊原さんの言う、「顔―表情」については、私も同じ思いです。
「顔は顕現する」とは、現代フランス哲学者の長老、エマニュエル・レヴィナスのキーワードですが、人間は、ひと目「顔」を見れば分かりますよね~(笑)。

☆ドキュメンタリ映画「チョムスキーとメディア」は、渋谷ユーロスペースで、3月16日(金)までです(一日3回上映)。お問い合わせは、03-3461-0211(ユーロスペース)



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人を利用する!?(白樺MLメール)

2007-02-01 | メール・往復書簡

以下は、「白樺ML」内のメールです。

○○さま。

利用されていいのです。
利用されながらでなければ、悦び豊かな「よい」考えを広げることもできません。
よろしければ、どうぞ、どんどん利用して下さい、というスタンスでいればよいのです。

ほんらいは、システムや機械や物であれば利用することはできますが、誰であれ、人を利用する!?ことはできません。そういう発想は根源悪ですが、もしも、そういう発想でいる人がいたとすれば、警戒するのではなく、どしどし利用してくださいな、どうぞご自由に!!!という態度でいるのがいいのです。人を利用しようとする人は、必ず自分の策に溺れて人生を失います。惨めな生しか与えられないのです。本道を歩む人、堂々としている人は、何もしなくてもただそれだけで必ず勝利します。存在そのものが輝iいているからです。

世間的・既成道徳的にではなく、実存的に正直であること、このよき生の原理に忠実に生きる、つまらない自我主義・偉がり・程度の低い自尊心から無縁な人生、あっけらかんとまっすぐに、ただそれだけがよいのです。無策であることが最上の策をもたらします。無自己であることが最高の得と徳をもたらします。ただただ深い納得に徹することです。

武田康弘





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公共哲学をめぐってー荒井達夫さんの質問と山脇直司さんのお応え

2007-01-09 | メール・往復書簡

元旦のブログのコメント欄にありますように、
山脇直司さんから「荒井達夫さんの質問書へのお応え」が私(武田康弘)宛に来ましたので、以下に載せます(プライバシーに関わるものでない限り、公開性が公共哲学の要諦です)。


1. 三元論の現実妥当性

 私(荒井)は、一般市民の意識や民法、行政法等の現実具体の例を挙げて、「公・私・公共三元論」が現実妥当性を欠いている、と批判しています。この論に山脇さんが反対する理由は何でしょうか。具体的に説明してください。

お応え→たとえば、1) 「国民主権」が意味するように、「民の公共活動や承認」が「政府の公的活動」の正当性(legitimacy)を成すということ、2) 「経済の私的活動」も「民の信頼という公共的徳性」に基礎を置いていることなどが挙げられます。また、3) 私立学校や私立病院やNGOは、「公共性」を義務づけられた「非公的組織」です。


2. 三元論と「民から開く公共哲学」

 私は、「公・私・公共三元論」は「民が支持しない公」を想定する点で非現実的・非論理的であり、「民から開く公共哲学」には不適切である、と批判しています。この論に山脇さんが反対する理由は何でしょうか。具体的に説明してください。

お応え→世論(公共論)の著しい支持率低下など、「民が支持しない公」は、実際にあり得ます。「民が開く公共性」によって「政府の公」が政権交代を余儀なくされることや、全体主義体制が崩壊することもあり得ます。


3. 三元論と天皇制

 山脇さんは、「三元論は天皇制批判を射程に収めている」と述べていますが、その理由を具体的に説明してください。また、私は、天皇制批判のためには「民から開く公共哲学」以外にあり得ないと考えていますが、山脇さんの考えを教えてください。

お応え→日本語の公には、「政府の公」以外に「天皇の公」というニュアンスが常に伴うばかりか、伊勢神宮には、まさにそういう立場から、神道を「政府公認の国家宗教」にしようとまで主張するパンフレットが置かれています。それで、荒井さんの言う「民から開く公共哲学」による天皇制批判のお考えには、共鳴します。


4. 国家公務員と市民

 山脇さんは、「国家公務員は極めて公(公共ではない!)に近い特殊な職業である」、「国家公務員を職業とする市民はふつうの市民ではない」と述べていますが、その理由を具体的に説明してください。

お応え→まず、公務員には一般市民には漏らしてはならない「守秘義務」が伴います。これは、「公共性」を成り立たせる条件の一つの「公開性」と矛盾します。ですから、公務員(public official)は、政府の公(the official, the goverbmental)に近いと私は考えます。しかし、その点を踏まえるならば、「国家公務員としての自己」と「一般市民としての自己」は両立可能だとも考えます。この関係は、「企業秘密」を抱える「私的企業人」と「公共的市民」の関係にもあてはまるでしょう。


5. 白樺思想と大学の「公共哲学」

 私は、「民から開く」という意味では大学の「公共哲学」より市民の集まりである「白樺」の思想の方が優れている、市民が求める哲学(人生や社会のありようを深く問う哲学)が「白樺」の方にあるのは事柄の性質上当然である、と考えています。また、これは白樺の人たちに共通する認識であると思っています。この論に山脇さんが反対する理由は何でしょうか。具体的に説明してください。

お応え→公共哲学は、大学だけで行われるものではありません。平和運動や教育基本法改悪運動にコミットしている公共哲学ネットワークもあります。また全20巻のシリーズに関して言えば、議論や討論によって互いの立場をはっきりさせること、いわば「アゴーン(闘技)としての公共性」が公共哲学の醍醐味を成しています。こうした点で、人生哲学と公共哲学は、やや異なっています。しかし私としては双方が大切と思っており、どちらが優れているといった優劣を論じる発想自体がナンセンス(無意味)です。とはいえ、現下の日本社会の惨憺たる状況をみるとき、武田さんたちの白樺グループの意義はとてつもなく大きいと思うので、エールを送るだけでなく、時間の許す限り、これからも協働・連帯していきたいと思っています。
以上です。

山脇直司




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『欲望存在の自覚と肯定ー公共哲学の原理』 対するコメントです。

2006-11-26 | メール・往復書簡

11月21日のブログ=欲望存在の自覚と肯定ー「公共哲学」の原理へのコメントです(シナモンさんのコメントはミクシィブログです)

2006年11月22日
03:04

シナモン

すごく勉強になります!でもこれ、もう少しやさしい文章じゃないと私のまわりの友人には難しいかな~。私も難しい~。
でもね、思ったんですけど、
人間の生きてるエネルギーのもとのものを魂とすると、現段階で私が納得してる魂の定義が、宇宙のエントロピーに逆らう唯一のもの、だと思うんです。つまり欲望もそうかな。これが基本だとつくずく感じた文章でした。
私は理屈つけるほど能はありませんが、
人と向き合うときに、相手の「欲望存在」を知り、理解し、認めるということが大事だな~と思いました。
またずれてたらすみません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2006年11月22日
11:00

タケセン

「欲望」を憧憬化させて語れば「理念・ロマン」になり、形而上化させて語れば「魂」になる。そんな感じがします。
もっと易しくする努力をします。
よいコメント、ありがとう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2006年11月23日
00:12

シナモン

ごめんなさい、ブログ上の友人はみんな頭いいから上記の文章でも大丈夫だとおもいます。ただ、日常の友人に特に読ませたいな~と思ったときに無理だと感じました…。私は勉強になるので丁度いいです。
どうぞそのままで気になさらないでくださいね。すごく気ずかされて
感謝しています。
----------------------------------

2006年11月23日
10:30

タケセン

分かりよく、は大事なので、いつも心しているのですが、「常識」をめくろうとすると、どうしても難しくなってしまいます。さらにこなれれば、やさしく且つ明瞭になるはずだ思い、チャレンジし続けています。
ついでに、
親子の会話を聴いていると、親は、子どもの「欲望」を否定することが、子どもの存在を傷つけていることだとは気づいていないようで、それが恐ろしいことだと思います。欲望とは人が生きる原理で、それを否定することは、その人の生を否定することなのに、です。
それから、話し合いが成立する前提は、どんな人や組織でも、客観的真理などもってはいない、なぜなら「客観」とは背理だからだ、という認識論の原理を踏まえることの相互承認です。みなが主観を深め豊かにする、それを交換することが、社会性・公共性を生む。そうでなければ、公共性とは、集団に合わせることとか、学者が決めることとか、政府の決定に従うこと、でしかなくなってしまうからです。そうなれば、公共性や公共哲学は成立しません。へ理屈で「民」を抑圧するおぞましいエセ哲学にしかなりませんから。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2006年11月27日
01:34
シナモン

ほんとうにそうですね。「欲望」を否定された子供は生きるためにものすごいエネルギーを消耗するか、発散するかしないと存在できないから、いろんな悲しい事件や、人生を耳にするような気がします。
人間関係においても、社会においてもこれは基本でなければ、誰も納得出来ないのではないかと思います。問題解決の鍵ですね! 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2006年11月27日
09:43
タケセン

その通~りなのです(笑)。芯をよく読み取ってくれて感謝!です。

=========================================


[ 古林治 ] [2006/11/24 10:06]

『実存的生(欲望論)から公共へ』
公共哲学を哲学とするための基礎づけということになりましょうか。(よくもまあこれだけ短い文章に本質を書き込んだもんだ!)
これまで公共哲学にかかわる方たちの説明では、この最も重要な点に触れることを避けているように感じていました。合意が得られないと思っているのか、わからないから避けているのか。いずれにしても、そのことが深さと広がりに制約をかけてしまう原因でしょう。
これを機により突っ込んだ議論を進めて欲しいものです。
 ところで、この文章、一般市民にとってはまだまだ難しい表現であるように思われます。最初に引っかかるのは『欲望存在』でしょう。日常世界では、『欲望』とはネガティブなイメージでしかありません。多少長くなっても、もう少し砕いた表現があっても良いように思います。無理な注文ですかねぇ?
―――――――――――――――――――――――――

[ タケセン ] [2006/11/25 09:29]

古林さん、コメントありがとう。
本質を凝縮して書いたらこうなってしまった!(笑)。
「欲望存在」==ビシッと、そして、ショック的でいいな(笑)、そう思ったのです。
もう少し砕いた表現ができるように努力したいのですが、それがどうも私には難しいーのです。古林さん、そこのところよろしくお願いします。
ミクシイブログにシナモン(19歳の学生)さんからのコメントがあり、それに対するコメントをしましたが、そういうやりとりを載せると、「砕いた」感じになり、伝わりやすいでしょうか?どうでしょう。

武田康弘。



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公平・公正が何より大事ー身びいきは醜いー世界バレーへのコメント

2006-11-25 | メール・往復書簡

以下は、「私は日本を応援しません=バレーボール世界大会」に対してミクシィブログに寄せられたコメントです。

コメント

2006年11月23日
13:15
Masayuki

あのバレーを見ていて「うわー」と思ってしまうのは、
失点した後にDJが「GO!GO! NIPPON!!!」ってマイク使って言い出して、
それに観客も反応することですね。
「これじゃあまるで戦前の国家みたいだ」とまでは思わずとも、なんで対戦チームを公平に扱うべきDJがコールの煽りまでしてしまうのかが理解できません。

個人的には「不愉快」という次元よりも、「おいおい、これでいいのかよ。選手も監督も観客も」と疑問を呈さずにはいられない。
サッカーや野球を例として引くと、アナウンスがコール煽ることなんてないですからね。
ホームのチームを豪華に演出するような喋りはしますが、ゲーム中にアナウンスが何か言うってことはない。

決勝が日本戦の前座ってのも中々アコギな真似するなぁとも思いましたし、WaTやモー娘。も来ちゃうし、
バレー、凄いですね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2006年11月23日
21:04
タケセン

Masayuki さん、
内容豊かなコメントありがとう。
これでいい、いや これがいい、と思っているからやっているのでしょう。
不快だ→これでは困る→よくないのでは、と、感じるところ→思うところ→考えるところをはっきり言うことが必要でしょうね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2006年11月23日
21:09
智子

私も日本だから応援するということはありません。例えばノーベル賞を取った日本人なども、たまたま同じ日本人だったというだけで、自分がすごいことをしたわけじゃないですし^^;単にその人がすごかっただけの話で、同じ日本人として誇らしいという感情は何か違う感じがします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2006年11月23日
21:56
ゆな

以前、何かの番組でイギリスの伝統的な紳士についての特集をしていたのですが、有名校のラグビー選手達は応援でも指導を受けていました。
「相手が不快になるような応援をするんじゃない」と。
タケセンさんの日記を読んでいて、ふと思い出しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2006年11月23日
22:50
タケセン

智子さん、ゆなさん、
コメント、ありがとう。
ほんとうにこういうまっとうな意見がどんどん広がれば日本も変わるのに、と思います。
ネットでも、社会派発言、どしどしやりましょう!!権力志向のネットウヨクなど蹴散らしましょう!!(笑)よい社会は、個人がのびのびし、輝くところにあります。ニッポン、ニッポンのヒステリーでは話になりません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2006年11月24日
01:06
Masayuki

ゆな様のおっしゃっている、「番組」は自分が見たものと同じだと思います。
11月4日ぐらいにNHK教育で22時に放送していた教育をテーマにした番組だったと思います。

イギリスのパブリックスクールでの映像で、確かに、
パブリックスクールの生徒が「行き過ぎた応援」をしていたら、教員が注意していました。
「スポーツを通して相手を尊重する心を持って欲しいから」といったようなことをその教員は言っていましたね。
(アマチュアですが競技生活が長かった自分としては、「プレーしている身なんだから、最低限のルールはあれども、勝利の為に必要なことならば、お上品なことばかりやってられないだろ…。」とも思いましたケド…)


フジテレビ「ニュースJAPAN」のスポーツコーナー、「すぽると」で、
「Born in Japan」なるコーナーを最近放送していますね。
日本人選手が世界で勝つためにはどうしたらよいのか、を基本方針に製作されているコーナーです。
あらゆる競技のアスリート達が出てくるんですが、
これも個人的にはかなり引いてしまいますね…。
そんなに必死になることなのか?と。
スポーツの素晴らしさって国籍なんですかね?と疑問を呈さずにはいられないんですよ。
スポーツの本質はもっと別なところにあるんじゃないかな、と自分の経験からも言いたいわけです。

そして一方で、こんなコーナーを立ち上げておきながら、今日の「すぽると」の番組構成は、
フジテレビが放映権を持っているUEFA Champions Leagueが最初のほうのニュースで放送され、
その後にサッカーJリーグの結果を放送するという矛盾具合ですから、
僕の「引き」具合もヒトシオ、というところです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2006年11月25日
00:02
まきと

非常に同感でございます!

これがもしサッカーだったら、まったく公平性に欠けるという声はスグに出てきそうなのに。よくも平気であんなことができるなぁと思うところです。

日本人がなんにも考えてない馬鹿であると宣伝してるようなもので。
国際バレー協会的な団体は、なんでストップをかけないんでしょう・・・

とにかく見てると気分が悪い。スポーツの爽やかさ、真剣さ、面白さが全く感じられない!!



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?「幸福」について ?「グローカル市民」について

2006-11-11 | メール・往復書簡

以下は、11月6日のブログー「演技をやめることと、サービス精神の発揮と」に対するミクシィ内からのコメントです。

2006年11月06日 11:48


いつもタケセンさんからは学ばせてもらっていますが、現在の複雑化した世界では、タケセンさんんが仰る「優れた生き方」がますます不可能になってるように感じます。それで「幸福」という観点を導入したら話がもっと判りやすくなると思うのですが、タケセンさんの言う「優れた生き方」と「幸福」はどのように関連するでしょうか?タケセンさんの「幸福」論を聞かせて下さい。
―――――――――――――――――――――――
2006年11月06日 23:02
タケセン

Fさん、
私は、幸福それ自体を追求することはできないと思っています。
外的な価値に従うのではなく、内的な心の思いに忠実に生きたとき、結果として幸福(感)がやってくるのではないでしょうか。
幸福とは、目がけて得られるものではなく、自分に正直に生きたとき、結果として得られるもの、そう思います。
Fさんの言うように、「内的な心につく恋知(哲学)する生き方」が困難になっていることは確かでしょうが、私は、それ以外に幸福を感じることができる生はないと考えています。
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以下は、11月2日のブログー市民=シチズンとは何か?に対するミクシィ内のコメントです。

2006年11月06日 13:06


Fです。
タケセンさんの考えにほとんどすべて賛成ですが、「グローバル市民(地球市民)」という考え方についてはどう思われますか?それと、受動的に生活している人は市民と呼ぶことができないのでしょうか?ご教示下さい。
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2006年11月06日 23:31
タケセン

Fさん、
?直接経験が可能な地域レベルでの活動における市民=「地域市民」が一番おおもとにあり、その上に、国レベルでの社会性を担う「国民」があり、さらにその上位に「地球市民」があるわけですが、同一人物の中に多層に積み重なっているこの3つの世界・概念のうち、「地球市民」とはもっとも観念性が強いもので、したがってそれは、基盤としての地域市民というレベルでの営みがないと、単なる抽象性に終わってしまうのではないかと思います。
?受動的な市民とは、市民になる可能性をもってはいるが、まだ市民としてのレベルにない「市民」のことだと考えます。ただし、これは多く観念・意識の問題ですから、実践的な活動の大小には、直接は関係しないと思っています。
――――――――――――――――――――――

2006年11月07日 00:54


タケセンさん
一番めの点は、私がしばしば「グローカル市民」と抽象的に表現しているものとほぼ同じと受け取りました。人の職種によって様々なコミットの仕方があると思います。
二番目の点は、国籍保有者は受動的であろうとなかろうと国民と呼ばれうると思いますが、市民と呼ぶ場合それに規範的意味合いを含めると微妙な問題が発生してくるように思います。これは、国籍保有者でない在日市民の方々と国籍保有者たる国民がどう協働し合うかという点を含めて真剣に考えなければならない公共哲学的問題だと感じる次第です。
――――――――――――――――――――――

2006年11月07日 09:08
タケセン

Fさん、
国籍があれば、自動的に「国民」になるわけですが、「市民」になるとは、制度の問題ではなく、自らの意志・生き方の問題です。
その意味で、市民たる意志をもって生活している人には「市民権」があり、その人の住んでいる国・地域の政治に関与することが出来なくてはならないはずです。この権利は自然法上の権利で、国籍があるか否かという「国民」という規定・概念よりも価値的に上位にあるはずだと考えられます。
このように「市民」を規定すれが、裸の個人としての人間の思想・活動=人類とか地球市民という発想をもつ人々が国家をつくるという「実存に立脚した国の創造」が可能になります。近代市民社会の原理が深まり、主権者の意志とは無関係にはじめに国家を措定する国家主義(国体思想)をその根元から消去することができます。
国籍という受動性の縛りを超えるものは、「国民」を越えて「市民」になるという能動性の思想・言動だと考えています。
この市民という思想を支える哲学が現象学ー実存論である、というのが私の考えです。
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「公共哲学」への疑問ー「公共世界とは民知からひらかれるもの」へのコメント15

2006-10-23 | メール・往復書簡

以下は、10月19日のブログ=公共世界とは、「民知」からひらかれるものへのコメントです。

[ (哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/19 22:17]
基本理念は、本来明確で分かりやすいものでなければなりません。「公共哲学」は、「民のための哲学」、「公務員が身につけておくべき哲学」ですから、なおさらでしょう。だから、大御所の金さんに期待するというのは、変な話です。「シリーズ・公共哲学」(東大出版会)の編集・執筆者である2人の学者に来ていただき、それぞれ5時間に及ぶ議論をしても、基本理念への疑念は解消されず、むしろ深まり、また肝心の哲学部分が欠けていることが明らかになりました。公務員研修等で「公共哲学」が重要視されつつあることを考えると、これは「公共性」の問題として重大で、市民として無視できません。大学人の皆さんには、普通の市民が理解できる本物の「公共哲学」となるよう、本気で取り組んでいただきたいと思います。
―――――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2006/10/19 23:07] [ Myblog ]
金さんに期待するというのではなく、公私の対立を超える方法を共に考えることが必要です。行ったり来たり、時間をかけて、愉しみながら恋知するのが私は好きです。
広く公共の哲学を考えるのは、やはり「民知」という発想を基底に置く以外にはないと思いますが、その射程を長く伸ばす、深く深く掘っていくと素晴らしい世界が開けると感じているので、それをじっくり味わいたいと思っているのです。
―――――――――――――――――――――――――
[ 山脇直司 ] [2006/10/19 23:22]
皆さんの盛り上がった雰囲気に直接参加出来ず残念です。ただ、最初は徹底的に「哲学とは何か」「哲学に何を期待するのか」を最初に討論して、その後で公共哲学の存在理由を議論すべきなのに、順番が逆になっている点が奇妙に思えます。私などは、逆に「実存主義の限界の自覚」から公共哲学に入ったので、その辺を皆さんは一体どのように考えているのか、本当に知りたいと思います。「実存を語ることでグローバルな公共問題に対処できる」と皆さんは本気でお思いですか?
―――――――――――――――――――――――――
[ (哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/19 23:42]
山脇さん。
もう一度、白樺で討論をやりましょう。公・公共・私三元論と、哲学部分の有無が問題になっているのですから。また、私との討論で、山脇さんは、「公共哲学」でなく「公共学」の方が良いとおっしゃいましたよね。その点も、きっちり確認したいと思います。
―――――――――――――――――――――――――
[ 山脇直司 ] [2006/10/20 00:20]
荒井さん、応答ありがとうございます。
本当に徹底的に議論したいと思います。ただ、私の方、ユネスコ哲学デーのためモロッコに出かけるなど、11月いっぱい時間が取れません。12月になると何とか時間が取れるかもしれません。その時は、公共哲学などは後回しにして、「市民にとって哲学とは何か」について心底から話し合えればと思っています。
―――――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2006/10/20 09:02] [ Myblog ]
荒井さん、山脇さん、活発なコメントありがとう。
違い、対立を尊重するからこそ生まれる自他一如の心。異化し異化されるのを愉しむ自在の心。それが白樺精神です。白樺自由討論、活発にやりましょう。
実存から出発しない思想は恋知(哲学)ではなく、ただの理論に過ぎません。これは原理です。しかし、外部へと向かう意識の志向性から切り離して、「私」を実体化・固定化してしまうのは、実存論ではなく悪しき実存主義です。この両者の違いをわきまえることが核心。
自己を徹底して活かしていくことが、魅力ある公共世界を生み出す条件です。「一般性」に陥る灰色の公(おおやけ)ではなく、納得をつくる普遍的な公共世界をひらく生を、【公共的実存】(武田の造語)と呼びます。
―――――――――――――――――――――――――
[ (哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/20 21:34]
「自分にとって本当に良い人生とは何か」、「より良い社会とは何か」等について、可能な限り深く考えること。そのために、一人の生身の個人の立場で、「なぜ、どうして、何のために、何に依拠し、何をめがけるのか」と、常に問いながら生きるよう努力すること。これが「哲学する」ことであり、この思考実践の土台となる思想を持っているものが本物の「哲学」であると考えています。「活私開公」、「グローカル」、「和」等は、それらを提唱するだけでは、この思考実践の土台となる思想にはなり得ない。人の心に響くことのないキャッチフレーズに過ぎない。また、「公・公共・私三元論」は、現実妥当性のない単なる「理論」であって、「哲学」ではない。キャッチフレーズや理論だけの議論は、人々(市民)が生きていく上で有用ではない。現在の「公共哲学」は、これであると思います。
―――――――――――――――――――――――――
[タケセン ] [2006/10/21 09:03] [ Myblog ]
荒井さん、
アカデミックな学は、「客観学」であろうとしますが、人間の生の意味と価値を問う恋知(哲学)の営みは、ほんらい「主観性の知」です。ここに、本質レベルでの矛盾が生じていて、大学哲学(講壇哲学)は、恋知(哲学)の真髄からはズレて、哲学・学になってしまうのです。この「客観学」の呪縛から解放されるには、根源的な発想の転換が必要で、それは人間の生き方の変革とセットです。
出来たばかり、発展途上の「公共哲学」が今後どのように動いていくか?は、それに関わる人の態度と転換のレベル次第でしょう。
客観学の形態でもそれなりに可能な「公共学」ではなく、哲学(主観性の知)にまで深めなければならない「公共哲学」の営みは、確かに、従来の発想を革命しない限り不可能だ、と私も思っています。
―――――――――――――――――――――――――
[(哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/21 09:40]
東大出版会の「公共哲学(第3期)」では、「より鮮明に「政府の公」と「民の公共」と「私」の三領域が区別し、議論する。民を形成する個人の「生活世界」と「制度世界」を媒介する視点として「公共世界」をとらえる。グローカルに加えて,グローナカル(グローバル×ナショナル×ローカル)な三次元相関的思考発展もはかる。」が編集方針だそうです。「公共哲学」は混迷の度合いを深めていると言わざるを得ません。そもそも、どうしたら「民から開く公共」になるのか、まったく不明確なところに、さらに新視点や新造語の類を加えてきているからです。「民から開く公共」のためには、まず揺るぎない哲学的土台を置くべきで、一から出直す必要があると思います。
―――――――――――――――――――――――――
[タケセン ] [2006/10/21 11:27]
荒井さん、公務員なので切実!?ですね。
「公共哲学」は、ますます恋知(哲学)から離れて「理論」になろうとしている、
というわけですね。
東大出版会から出ている限り、「客観学」にシフトする以外にはない(笑)のでしょかね~。どうなることやら。
また【マルクス主義】(哲学までも客観学化して権威化する)の二の舞を踏むのでしょうか。根本的な発想転換の必要など、大学内安全地帯の学者には到底不可能!?なのが現実かもしれません。
なんだか全然エロースがありませんね~(笑)。 「民知と共にあらんことを!」です。
―――――――――――――――――――――――――
[(哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/21 14:11]
今のままでは、「公共哲学」は官僚に都合良く利用されるだけでしょう。どうしたら「民から開く公共」になるのか不明なまま、「公共哲学」と言っているのですから、どのような内容の施策でも、「公共哲学の観点からも極めて重要であり……」、「公共哲学を反映した施策であり……」なんて、もっともらしい説明ができてしまうことになるからです。また、仮に公務員の採用試験にまで「公共哲学」が導入され、○×試験でもされるようなら、これはもう最悪です。「次の中から、公共哲学として正しいものを選べ。」悪い冗談のようですが、客観学のままであれば、このようになる可能性は少なくないと思います。
―――――――――――――――――――――――――
[(哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/22 16:26]
大学教授が考える「公共哲学」を公務員が学び、公務員がそれを民に示す。「・・・・・・グローカル、グローナカルな施策が今日、求められている。」と。そこにあるのは、決して「民から開く公共」ではなく、単なる「公共というお題目」に過ぎません。現在の「公共哲学」が、大学の講座や公務員研修等により全国各地に広まれば、「官知、制度知、専門知」による民の支配は強まることになるでしょう。「公共哲学」自体が、普通の市民には理解できない言葉で語られているのですから。本当に「哲学する」ことをしないで、「哲学知識」だけを身につけた人たちが、「民のため」という気になって行政を執行していくことになると思います。空恐ろしい話です。
―――――――――――――――――――――――――
[ (哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/22 19:28]
(上からの続きです)公共実現のための権力機構である官が、常に市民によるコントロールを受けなければならないことは、民主政治の基本原理であり、その意識を常に持っていることが、職業公務員の基本道徳であるはずです。「公・私・公共三元論」は、この点の認識が浅すぎるのではないか、と思います。わざわざ「政府を担い手とする公」を区別し、「民が支持しない公」を想定することになるからです。公務員が学ぶべき学問として、「公共哲学」がふさわしくない理由です。
―――――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2006/10/22 22:39]
元来、市民社会・民主制社会における政府とは、公共=民の利益のために存在しています。その担い手の公務員も然りです。それ自身の利益(官の利益?)を追求するものではありません。もし、現実にそうなってしまったならば、それは理論次元の問題ではなく、実践次元の問題であり、理論・学によってどうにかなるものではないのです。
実践レベルの問題解決には実践知が必要で、それは客観学とは異なる「現場における生きた思考」からしか生じません。「大学知」で歯が立つことではないのです。そんなことはないでしょうが(?)、もしも大学人が、学知で現実問題の解決ができると思っているとしたら、オメデタキ人としか評しようがありません。
さて、実際はどうなのでしょうか?
―――――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2006/10/23 11:09]
補足です。「現場における生きた思考」の「現場」は、以下のような意味です。
例えば、教育問題を考える場合には、子どもたちに深く関わる人たちが感じ、思い、考えることを土台とする知=「現場の実践知」を鍛え上げていくことが一番に求められることですが、これと同じで、
公務員のありようや制度の問題を考える場合には、それに関わる人たち(公務員を雇っている人たち)=一般の市民が、感じ、思い、考えることを土台とする知=「現場の実践知」が一番必要です。
それは上記の場合と同じく、民知という立体的な全体知を鍛え上げていくことであり、専門知=大学知で解決できると思うのは、虚妄です。部分としての知は総合判断の知とは頭の使い方が違うからです(民知と専門知の関係については、9月25日のブログを見てください)。




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公共世界とは、「民知」からひらかれるもの (荒井、阿部、武田)

2006-10-19 | メール・往復書簡

以下は、10月8日の『白樺討論』についてのコメント欄をコピーしたものです。
市民的な公共世界をひらくためには、まだまだ大きな課題をクリアーしなければならないようです。

広く皆が了解する世界をひろげることと、自分自身の生の深みへの旅とは、内的にバランスが取れないと共に生きません。この【公共的実存】とでも呼ぶべき生の営みを下敷きにしなければ、「公共」とはお題目=言葉にすぎなくなってしまうでしょう。



[ (哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/14 00:13]

WHO総会に提案されただけの「霊性」を憲法25条の「健康」に含め、「霊的施設」の建設まで国に努力義務があると解釈する稲垣説の妥当性、また、その解釈が引き起こす現実問題の重大性に関し、稲垣さんが討論を一方的に打ち切ったことが非常に印象的でした。また、はじめに「国家機構、政府、官の意味で、公という言葉を使う」(靖国神社解放論P45)と定義しながら、公・私・公共三元論見取図(P68)で、「公=国家」を人の集団という意味で使っていることの不合理さについても、結局、回答がないまま議論が終わってしまいました。しかし、そもそも戦没者追悼施設という全国民的問題で、なぜこのような理解困難な論を展開しなければならないのか、なぜ普通の市民が分かる言葉で解説しないのか、まさに学知と民知の差を強く感じることとなった討論でした。

――――――――――――――――――――――――――――――――

[ タケセン ] [2006/10/14 12:35] [ Myblog ]

専門知とは、立体的な総合判断=民知を強めるためのアイテムです。ふつうの多くの人が「全体的・立体的なよき考え」をつくる営みに役立つのが、専門知の存在理由です。
専門知とは、全体的・立体的判断に役立ってはじめて意味を持ち価値が出る。--これは知の原則ですが、この自覚がまだまだ弱いために、専門知におかしな幻想を抱く人が、学者にも非・学者にも多いようです。
構えずに・ざっくばらんに・肩の力を抜いて・ふつうに話すという基本を、まずは皆が身につけたいものです。
白樺自由討論、どんどんやりましょう!!
家庭で学校で職場で地域で、いつも内容あるおしゃべりをする習慣を!!

――――――――――――――――――――――――――――――――――

[ (哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/16 21:26]

2006年の公務員白書(人事院)では、行政官の志・使命感の原点と題して、「公共哲学」の必要性について述べています。しかし、東大出版会の「公共哲学」は世に出たものの、現在の「公共哲学」は肝心の哲学部分を欠いており、また現実妥当性が疑われる公・公共・私三元論や、滅私奉公批判等の理論とは到底言えない主張の寄せ集めに過ぎない段階(開発途上の初期)にあると考えます。このような状況で、国家公務員の採用、人材育成に「公共哲学」を導入しても、単なる労力と税金の無駄にしかならない可能性が極めて高いと言わざるを得ないでしょう。地方公務員にも影響が及ぶとなれば、なおさらです。全体の奉仕者である公務員の持つべき哲学とは、「民から開く公共哲学」以外にあり得ません。白樺による「民知」を土台にした「民から開く公共哲学」の議論をすみやかに全国に広めなければならないと思います。

―――――――――――――――――――――――――――――

[ タケセン ] [2006/10/16 22:22]

まず、広く厳しい議論がなければ、公共・・・・にはなりません。大学人のみの議論ではあまりに脆弱です。実践的なほんものの力ある思考が必要です。
民からひらく、はその通りで、それ以外はありません。民からひらかない!?「公共哲学」では存在自体が矛盾です。
民からひらく公共のサポートが「官」の存在理由ですし、本来その営みが「官」のよろこびであるはずです。これは民主制社会の原理。
市民社会=民知に依拠した社会でなければ「公共」は成立しません。

――――――――――――――――――――――――――――――

[阿部憲一] [2006/10/17 11:29]

タケセンや荒井さんの発言のなかから、「民知」というものの内容と位置づけがはっきり分かってきました。

普通の市民が自分の頭で考え、行動していく上での土台の知で、さらにその知をレベルアップしていこうというのが、「民知」という「全体知」。
そして、「民」をバックアップするのが仕事の「官」こそ、「民知」なくしては
本物の公務員にはなれないのではないかと思います。
「全体知=意味のあるもの」をバックアップするところに「官」の喜びがあるわけですよね。

荒井さんのストレートな発言は、フツーの市民の私にもよく分かります。
荒井さんの(普通の市民の)発言は、現在の公共哲学をさらに練り上げるのに必要不可欠だと思いました。

――――――――――――――――――――――――――――――――

[ (哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/17 20:51]

「官」は公共実現のためのシステム(権力機構)であり、それを中心に民である個人や集団が参加している。そうであるからこそ、常に民の支持を受けた「官」となるよう、しっかりコントロールしなくてはならない。普通の市民は、特に意識しなくても、このように現実を立体的にとらえていると思います。私が大学人の「公・私二元論批判、公・公共・私三元論」が変だなと感じるのは、それが現実とずれており、ひどく平面的な思考ではないかと思うからです。その点、白樺の議論は極めて立体的な思考であり、それは根幹に厳しい実体験に基づく実存の「武田哲学」があるからでしょう。このような立体的思考を伴わなければ、「活私開公」も「グローカル」も「和」も、キャッチフレーズの域を出ず、人生や社会について深く考え、人の心に強く訴える本物の「公共哲学」にはなり得ないと思います。

―――――――――――――――――――――――――――――

[ (哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/18 22:17]

追加します。
「公・公共・私三元論」のおかしさは、何より「政府を担い手とする公」と「民の支える公共」を区別するという点にあります。「民が支持しない公」を想定すること自体が、論理矛盾です。現実に官が市民の意志に反した行動をとることはありますが、それは「公」になっていない場合と言うべきです。また、仮に「公」が政府、「公共」がNPO等、「私」が個人を意味しているとすれば、三元論は単なる活動主体の分類に過ぎなくなり、理論として用をなさないことは明らかです。結局、三元論は意味不明と言わざるを得ません。

――――――――――――――――――――――――――――

[ タケセン ] [2006/10/18 22:39]

荒井さんの指摘する三元論は、金泰昌氏が主導する公共哲学(シリーズ・「公共哲学」東大出版会)の基本理念ですが、
荒井さんが指摘している文脈では、確かにその通りで、私も同意見です。
ただ、金泰昌氏の「公」と「私」の間に「公共」を立てる考えは、別の意味=文脈から出ているものなので、その有効性の有無は、その文脈を踏まえ上で、もう一度吟味する必要があると思っています。
近々、金泰昌氏は「白樺教育館」に来館(4度目)されますので、じっくり議論をしましょう。内容豊かな恋知(哲学)の対話を。




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失敗は成功のもと、どんどん失敗をしようーhiromin・タケセン・taro

2006-10-15 | メール・往復書簡

以下は、9月29日のブログに対するコメントです。


[ hiromin ] [2006/09/29 19:35]
「意見じたいが自分の中からでてきたものじゃない」って、ほんと普段の生活の中でそんな場面が多々あるのを痛感しています。おそろしいことに、そのことじたいに気がついていないかも。そうなると対話は成立しないんじゃないかな?かみ合わないよね?
―――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2006/09/29 22:09]
ひとそれぞれ、とは、自分の考えがないために、「一般論」に逃げる言い方です。これでは、内容ある話は全くできません。話者が「主体者」になっていないので、対話が成立しません。ただのおしゃべりだけがある、というわけですね。膨大に言葉を重ねても、堂々巡りで進展がない、感情のやりとりだけ。精神衛生上、とてもよくないですね(笑)。
――――――――――――――――――――――――
[ taro ] [2006/09/29 23:46]
一般論を言いたがるのは、常に失敗を避けようとする潜在意識が働いているように思うのですが。気持ちわるさもそこにあるのではないかと。
――――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2006/09/30 10:39]
【失敗は成功のもと。どんどん失敗をしよう!】
これは、1976年のソクラテス教室(旧称・我孫子児童教室)創設時から長いこと壁に張っておいた私の標語です。
どうでしょうか?
―――――――――――――――――――――――――
[ taro ] [2006/10/04 23:15]
「失敗は成功のもと」と言いながら、「できるだけ失敗しないようにしようね。失敗が少ない人ほど優秀だから」というのが、私の受けた教育でした。特に疑問も持たずに、やってきましたが、これでは、決して強い思想を生み出す頭脳は作れませんね。それにしても、30年ですか。気が遠くなるような時間です。
―――――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2006/10/04 23:57]
u-mu そうか!30年も経ってる(笑)。
日本という状況の中で強い思想をつくり・生きるのは、至難の業です。不可能に挑戦!というバカにならないとダメだな~~
「考える」ことをほとんど誰もしていないのです。
戦略を練ることや、戦術を編み出すことを考えることだと思っています。相手をやっつける言説を見出すことを考えることだと思っています。パターンを身につけることを考えることだと思っています。
本質に向かって思考する、ただ虚心に何がほんとうか?を目がけるという態度が弱いから、他者もみなそうだとしか思えないのですね。考えるための基本がない国にはよろこびが少ないですね。伝統とか愛国心とか天皇とかに逃げる脆弱な精神には魅力がありません。
――――――――――――――――――――――――
[ taro ] [2006/10/05 23:10]
私も明日から、もっともっとバカになって、どんどん失敗してやろうと思います。


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公務員は、政治批判はできない?ーtaro・タケセン・山脇・哲学するふつうの市民

2006-09-30 | メール・往復書簡

「政治批判をすることは国民の義務です」に対するコメントです。

公務員は政治批判はできない!?のか。


[ taro ] [2006/09/18 16:50]

「批判精神をもつこと、政治について発言すること、これは民主政治の命であり、国民の義務です。」と言われますが、………私は一応、公務員なんですけど、公務員は「全体の奉仕者」で、だから、公的にも私的にも政府批判が許されないことになっているんですね。ほとんどの公務員の人たちは、それでしょうがないと考えているように思いますが、これって、国民の義務を果たしていないことになるのですか? できないのだから、しかたないと思いますけど。
――――――――――――――――――――――

[ タケセン ] [2006/09/18 23:03] [ Myblog ]

taroさん、コメントありがとうございます。
困りましたね(笑) 私の父も国家公務員(労働省)で、「メーデー事件」の時は現場にいたそうです。
国家公務員法の16条に基づいて「人事院規則」が命令形式で定められいますが、これを読むと、私的であれ、政治への関与、発言が禁じられています。まともな頭の人が見れば、明らかに基本的人権の剥奪であり、違憲であることは論を待たないと思います。日本はおそろしいほどの後進国ですね。憲法41条の規定など無いかのような規則制定には唖然!です。愚か者の作文でしかありません。ユネスコに人権侵害で訴えたいですね。
―――――――――――――――――――――――

[ taro ] [2006/09/18 23:31]

やっぱりそうですか。私生活で全体の奉仕者やるって、何なんでしょうね。これ無理ですよ。治安維持法の世界に住んでいるようです。公務員労組はILOに労働基本権の制限が不当だと訴えていますが、こちらの方がよほど重大じゃないですか。言論表現の自由を制限しているんだから。これじゃ、自分の意見が持てなくなって当然ですよね。
――――――――――――――――――――――――

[ タケセン ] [2006/09/19 10:02] [ Myblog ]

taroさん、なるほどね。1925年公布の悪名高き思想の国家統制ー「治安維持法」(天皇ヒロヒトの命令で、朝鮮や台湾にも施工)にいまなお縛られる公務員の世界!!日本はぜんぜん民主制社会ではないですね。政治家は一体何をしているのでしょうか?
もしかすると、「国体思想ー天皇制」を賛美する思想をもつ保守主義の政治家は、再び天皇崇拝ー家族主義ー国家主義ー靖国思想の復活をもくろんでいるのかもしれません。安倍晋三は、教育基本法の改定をうたい、社会科と家庭科の教科書を変え、政府が国民にあるべき家族像のモデルを示すと「美しい国へ」で書いています。先祖がえりのようなとんでもない政治家が現れたものですが、へたをすると、公務員だけでなく、全国民が再び国家の思想統制下に置かれるようになるでしょうね。「国民の不断の努力」が求めらます。taroさんも、風穴を開けるべく、工夫して頑張ってください
―――――――――――――――――――――――

[ taro ] [2006/09/19 21:08]

「頑張って」と言われても、困ります。全体の奉仕者なんだから、あまりできることないです。でも、毎日、地道に「これ絶対に変だよ」って、声かけていくことで、少しは変わっていくのかもしれませんね。人の思考(脳の働き)が、そう簡単に変わるわけはないですが、何事も継続は力なりですから。今、日本は、靖国問題などで外観上は右の方向に大きく流れているみたいですけど、私は、日本人の場合、本当は右も左もなくて、思想的に「空」なんじゃないか、本当は何も深く考えていないんじゃないか、と最近思うようになりました。右の人も、左の人も、どうも、やたら薄っぺらい感じなのです。これは、政治家も、官僚も、大学教授も、みんな含めてのことですけど。どう思われますか。
―――――――――――――――――――――――――

[ 山脇直司 ] [2006/09/19 21:23]

taroさん
「思考の薄っぺらさ」が日本を支配しているという見解に賛成です。無内容な週刊誌がたくさん発売されているのは、世界にも例がないでしょう。メディアと教育の責任は重いと思います。ところで、公務員の「理性の公共的・私的使用」に関しては、カントの『啓蒙とは何か』(岩波文庫)を是非お読み下さい。現代にも活きる見解が示されていると思います。
――――――――――――――――――――――――――

[ taro ] [2006/09/20 21:00]

哲学思想は苦手なので、カントから何を得られるか、全然自信ありませんが、本当に考えなくちゃいけないのは、何のための「全体の奉仕者」なのか、ということだと思っています。結局、国民の基本的人権がしっかり保障された、より良い民主社会を実現するため、という以外にないんじゃないか。だとすると、「全体の奉仕者」を理由に言論表現の自由をやたら制限するのは、やっぱりおかしいのではないか、などと考えているのですが・・・・・。
――――――――――――――――――――――――――

[ 哲学する普通の市民 ] [2006/09/20 23:37]

「東大脳の作り方」(安川佳美 平凡社新書)という本があります。著者は、桜陰高校を首席卒業、東大理3現役合格で、何についても、奮起→努力→挑戦→達成のプロセスを続けられる人が、真の「東大脳」なのだそうです。私には、「最高の受験マシーンの作り方」の指導本としか思えなかったのですが、もちろん、著者にはそのような意識はないようです。暗記力抜群、頭の回転もすごく速いのでしょうけど、思索はひどく薄っぺらな感じです。良い感じのお嬢さんとは思いますが、こういう人が東大卒業して霞ヶ関の官庁に入ると、無思想で、ひたすら忠実無定量に働く昆虫のような役人になるのかもしれません。ちょっと怖い気がしました。
―――――――――――――――――――――――――――

[ 山脇直司 ] [2006/09/21 00:08]

taroさん
公務員が全体の奉仕者というのは、「私利私欲」に陥らずに、常に「公正・公平・公共益」を考えながら行動するという意味に受け取るべきだと思います。またtaroさんが公務員(public official)であるかぎり、業務命令には逆らえず、守秘義務も当然生じます。しかしtaroさんも、公務員以外の「市民というアイデンティティ」を持っているはずで、その市民というアイデンティティの下で、「現在の政府や国家や公務員制度の在り方などを批判する自由な権利」を持っていることを自覚し、賢く行動されるのがよいように私には思えます。
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[ taro ] [2006/09/21 23:34]

いつも「全体の奉仕者」を「市民」の視点から考えて行動する、ということですね。これなら、「国体思想ー天皇制」のために忠実無定量に働く昆虫役人になることもない。日本国憲法の想定する公務員像というのは、本当はこれなんでしょうね。
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了。


コメント
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