思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

広大なイメージの世界に想いを馳せつつ言語を用いること

2009-04-09 | 恋知(哲学)

言語とは、広大なイメージの世界に支えられてはじめて使用可能になるものですが、どうも、言語を習得した後では、人はそのことを忘れ、言語を自立的なものと見がちです。言語の扱い方が、固い規則(ラング)主義になってしまいます。

言語の便利さに慣れ、さまざまな事象を言葉に閉じ込めるー言語化することで「安心」してしまうのでしょう。言語以前の広大無限のイメージの世界―心身全体で感得するよろこびの世界を忘れがちです。

近代以降の文明は、人間が固い言語の世界に呪縛され「言語至上主義」に陥り、生のよろこびの直接性を失っているように見えます。表情、身ぶり、動作、言葉にならぬイメージの広がり、行為・・が無視され、価値の低いものとされています。

言語による「一般化」は、あらゆる分野を侵食し、ほんらいは、それに抗う世界である音楽・美術・詩歌(「一般言語」を超え出ようとする営み)などもみな「一般的な美」の領域から出られません。個人の生の実感・生活の現実に根を持ち、その地点から飛翔する「個性的にして普遍的な美」をめがける豊かな精神は消え、通り一遍の「美」=一般的な美に支配されています。

わたしは、言葉を用いる時、それを生みだした源イメージの世界を喚起するようにたえず努めています。そうしないと、自分の頭で考える=哲学することができないからです。書物に頼り、また情報の収集と整理ばかりしている頭脳は、機械化してしまい、一般化の海に沈みます。そうなると、「私」からはじまる生のエロースは得られず、一般的な善美をナゾルだけの存在に陥り、「私」(実存の生)は消えるのです。それは「根源的不幸の生」でしかないと思います。

あらゆる分野の「一般化」の陥穽から逃れるための第一条件は、イメージの世界に想いを馳せつつ言語を使う習慣をつけること、わたしはそう確信しています。人間文化を可能にした「言語」には偉大な特権性があるゆえに、その用い方を変える(=イマジネーションを刺激・開発することに努める)ことが「文明転換」に直結する、そうわたしは考えているのですが、みなさんはどう思われますか?

武田康弘

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする