思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

Kim・武田の討論的対話 「パウロと親鸞」( 佐古 純一郎著)をめぐり。

2021-12-28 | 恋知(哲学)

fb討論的対話

「パウロと親鸞」 佐古 純一郎著をめぐって

Taechang Kim

 

パウロの "ダマスコ体験" と親鸞の "六角堂体験" との比較から始まるキリスト教と仏教に関する著者の文言に注目しました。

"パウロの場合は、律法主義、つまり律法の行いによって義とされるというユダヤ教的-パリサイ派的な立場から、イエス-キリストを信じる信仰によってのみ義とされるという福音主義に回心しました。それはただ信仰のみ、'唯信' と言ってもよいものです。そのきっかけになったのが 'ダマスコ体験'だったわけです。

これに対して、親鸞の場合には、まず九歳から二十九歳までの二十年間にわたる比叡山におけるきびし修行がありました。その親鸞が二十九年間続けた天台宗のきびしい修行の立場を捨てて、ただ阿弥陀さまの本願を信じてお念仏を唱えるだけでいいという、法然の念仏門に入った。それが親鸞の '六角堂体験' による回心です。
さて、親鸞の回心とパウロの回心とを比較してみると、ユダヤ教-キリスト教と仏教という大きな違いがあるけれども、本質的には似ているいると思いませんか"

(pp. 18-19)

どう思いますか?

 

山本 恭司

 

パウロも親鸞も、一切の善悪を自身に引き受けた先師の生命(霊夢に現れた聖徳太子、イエスキリスト)に帰命した(回心、開新)ところが共通項だと思います。

 

武田 康弘

 

そういう角度で見るならば似ているでしょうが、本質はまるで違います。

神という観念が元からないブッダに依る親鸞の思想は、主著「教行信証」に明らかです。

Taechang Kim

 

にも拘らず、それを十分承知の上で、尚仏教とキリスト教とのあいだ-あわい-交わりを通して相互理解を深めようとすることの大事さを分かってほしいのです。本質は違うと切ってしまったら何の関係も拓くことができなくなります。
そこがたけせんと山本さんやわたくし自身との相違点ですね。橋渡しを何よりも最重要視する立場に立っているわけですから、本質が違うとくびをさすような言い方は相手の真意を無視する話になりやすいのです。著者も山本さんもわたくし自身も仏教とキリスト教の根本的な違いをキチンと踏まえながら尚相和-相生-共福への道を開こうとしているのです。

 

武田 康弘

 

Kimさん、そうですね。わたしは、本質論=意味論として考えるのです。

本質が違うのです。

親鸞は、主著「教行信証」の末尾で、相当な分量で、老子につくな、釈迦につけ、として厳しく老子批判をしています。釈迦と老子はかなり重なる思想ですが、それでも容赦しません。こういう徹底ぶりが思想の大事な点で、本質論としての追求です。

そうなると、頭は刺激され、深く考える作用が始まります。

キリスト教の創造神という発想と、ブッダ(親鸞)の人間存在の救いに特化するという発想は、かけ離れていて、それが決定的な違いを生みだしてきたわけです。

相和-相生-共福への道という一つの立場は、大切ですが、それは、やはり一つの立場であり、それ以上ではありません。本質的な違いを乗り越えることはできません。しかし、乗り越えなくていいのです。違うものは違うのですからね。

例えば現実問題で、天皇制と共和制は違いますから、真ん中というわけにはいきません。共福への道は、天皇は、明治維新以前のように京都御所に帰り、江戸城は、国民皆の公園にして、政治には関わらないようにすべきで、その間はありません。

 

Taechang Kim

 仰ることは十二分体感-体験-体得した上でやっているのでご心配不要。違うから対話が必要。違いがないあいだなら会話で十分なのです。そういうところに他国体験が大事です。本質的に違うというのは心学パラダイムの次元での話であって生命覚醒パラダイムの次元への根本転換を体得すれば、本質的違いまでものりこえて互いに繋がる、より奥深い次元の実在が実感できます。
 本来ギリシャ語のerosは媒介する愛であって一方的な恋求めのphilosんとは根本的に違うのです。違いを言い始めたらたけせんの恋知はphilosであってerosではありません。それを言い出したら不毛な論争になってしまうのでやめます。一点だけ。他の人もたけせんくらい真摯な 本質-意味の究明を経ながら相和-相生-共福の道を探るという共同努力を理解し、そこに参加しないのは互いの違いとして、他の人の真摯な取り組みに対する評言はもっと慎重にしてください。

 わたくし自身は今までたけせんとは、哲学する姿勢-立場-目指しが本質的な意味において根本的に違うというのを感じていたけれど、あえて繋がるところを大事にしてきたのです。ですが、たけせんは違いのほうに焦点をおいてきました。それでも、何とか違いを十分認知した上での対話を続けてこられたのは媒介愛としてのerosの本願力のおかげです。わたくし自身の親鸞体得は、彼こそが真のphilosの実践者であったけれど、そして阿弥陀への帰命無量寿如来を強調したけれど、ついに阿弥陀の本願力としてのerosの次元には到達出来なかったということです。親鸞は仏教的というよりはキリスト教的な側面が強いという気がします。

 

武田 康弘


以上の見方は、もちろんKimさんの見方=考え方です。

エロースの神は、ギリシャ神話で、この世の始現の神とされています。
大地があろうと、地底があろうと、・・・惹きつける力=エロース(魅惑し魅惑される)がなければ何も始まらないのです。そういう意味で、身体的愛は基本であり、老子の根本思想と重なります。

親鸞にキリスト教との近さをいう知識人はかなりいます。わたしの師の竹内芳郎さんもそうでしたが、わたしは、それは違うと見ています。創造者を認めることを当然とするキリスト教やその教徒たちは、人間を含むあらゆる存在に何かしらの絶対的真理があると見ますが、そういう我執が言語=理論を媒介にして絶対化した神への帰依と、煩悩につかれ悪事もなす(なさざるを得ない)人間存在を、理窟を超えて救う思想を信じようとした親鸞という一人の男は、とても人間臭くて素敵です。魅力的。

この宗教的でない生身の男の思想は、日本にキリスト教という一神教が入ることを防いでくれたので、わたしは大変ありがたく思っています。だれであれ、人間は一人の男であり、一人の女です。どんな思想も言葉もその人のものであり、それ以上でもそれ以下でもありません。親鸞はそれをよく承知していました。

Taechang Kim

ですから、たけせんの哲学を他の誰よりも高く認めてきました。ただ、わたくし自身は日韓相生の未来共創を目指す哲学の構築に全力投球してますので、違いがあっても互いの立場と真意を好意的に励ましあうようにして欲しいのです。竹内さんが何と言ったかは分かりませんが、たけせんの哲学を大事に思ってきたのですから、我々二人の直感と良知の働きを尊重しながら、互いの切磋琢磨を続けていきたいのです。
ブラボー !!!

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武田 康弘

はい、感謝しています。

そのために、わたしの恋知は広がり花咲いていますし、これから大きくなろうとしています。

忌憚のない意見の交換は、意義深く面白い!!

やったるで。大阪弁?かな。維新の会はぶっ潰さないといけませんが(笑)

Taechang Kim

そう。笑いが必要。たけせんの笑顔がたけせん

哲学の最高のシンボルマークですよ。

 

 

コメント
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