先ほど、fb友人で建築家の岩崎俊介さんから、メールで以下のような質問がありましたので、お応えしました。
武田康弘
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岩崎駿介
武田さん、一つ質問ですが、「哲学」と「信念」または「信条」とは異なると思うですが、安倍晋三元首相は、いいか悪いかはともあれ、彼なリの「哲学」を持っていたと言っていいのでしょうか。もう一つ、哲学と宗教は違うと思うのですが、宗教は一つの哲学であるということは可能でしょうか。お忙しいのにすみません。よろしくお願いします。岩崎駿介
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19:40
武田康弘
今、授業中なので、9時30分におわります。 家にかえってから、夜にメールします。
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岩崎駿介
恐れ入ります、感謝します
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23:20
武田康弘
アテネのソクラテスの造語=プロソピアは、知(知識、知恵、その他すべて)と恋愛の情を足した言葉です。 知を恋する営みで、善美に憧れ、ほんとうとは何かを探求する情熱を指します。それをディアレクティケー(問答的に探究)として行ないます。生きた話しことばにより行い、文字は死んだ言葉とされました(プラトンによるソクラテスの対話編「パイドロス」の最後の方に記されています)。
唯一の正解がある、というのではなく、普遍的な納得を目がけての対話です(絶対や超越ではなく普遍的了解をつくる)。 したがって、「信念」や「信条」とは異なります。結語・結論ではなく、たえざる思考の実践であり捉え返しなので、哲学という名詞形よりも哲学するという動詞形で語るのがよいのです。
持ち歩けるもの、または、確定した真理のようなものとは根本的に違います。 そういう営みは明治以降の日本にはないので、「日本に哲学なし」と言われてきました。
明治維新を礼讃する安倍晋三の思考法や言説は、哲学するとは、ほとんど正反対です。
次に思想と哲学の違いですが、思想という言葉の概念はとても広く、信条や信念もみな思想ですし、マルクス主義のような体系だったものも思想です。
カント哲学とかヘーゲル哲学とは言われても、マルクス哲学とは言われないのは、人間の認識の原理論(認識論)がないからです。マルクスの認識論はヘーゲルの認識論に依拠しています。唯物論という発想からは、認識論をつくることが不可能です。フッサールで一応の完成をみる認識論は「純哲学」の世界ともいわれます。インドでは、紀元1~2世紀に竜樹により「中論」が書かれましたが、フッサールとダブるところが多々ある認識の原理論で更に深い考察とも思えます。ともに難解な書物です。
古代ギリシャのプロソピア=哲学するという問答的思考法の話しからズレましたので、戻しますが、結論を言えば、哲学は原理的思考の強いもので、思想とはさまざまなイデオロギー全般を指します。ただし、明確な区分けはできません。
宗教は、信じることが求められます。哲学は、自由に考える作用であり、固定した真理があるとはしませんので、信じることを求める宗教、とくにキリスト教のような一神教は、哲学ではありません。疑似的な一神教である明治政府がつくった天皇教(現人神)ももちろん哲学とは無縁です。宗教は、一つの思想ですが、哲学ではありません。
武田康弘