思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

武田哲学の芯に迫るためのインタビュー=質問 内田卓志 ( 質疑応答3、5回)

2015-04-29 | 恋知(哲学)

 以下は、内田卓志さんからのメールです。
 内田さんは、早稲田大学で哲学を専攻し、プラグマティズムを中心に研究し、「京都フォーラム」での発題者の一人でした。石橋湛山の研究家でもあります。

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   武田哲学の芯に迫るためのインタビュー=質問       内田卓志

 

  もう武田先生と知り合って10 年以上になります。先生と私の出会いは、わたしが2000年12月に沖縄旅行で偶然にも出来たばかりの『白樺文学館』の小冊子(先生制作の豪華パンフレット)を手にしたことによりますね。実は、 それ以前の1990年に岩波の月刊誌『世界』に載った武田論文を読んでいて存じ上げていたのですが、その辺は、別途話すことにしまして・・・。 

 いつだったか、私の敬愛する哲学者の山脇直司先生は、武田哲学を称して、「エロースの哲学」と言っていましたね。武田先生に10年師事してきて、「そうなんだろうな」と思います。これから武田先生の哲学の芯についてせまりたいです。私がインタビューしますので、ご教示下さるようお願いします。いろいろ質問します。

 私は、武田哲学の柱には、哲学(恋知・愛知)とは何か、哲学的思考は、どのように行わるべきか、との問題意識と共に、哲学を現実の生活(世界)に活かす方法、哲学を役立てることについての、具体的な思索が常にあると思っています。それは別に、プラトンでもなければ、カントやヘーゲルでもない、ましてはハイデガーの哲学でもないでしょう。

 武田先生、それでは伺います。先生は、30年以上に渡り個人の<主観性>を強調されてきたと思います。そして、もう一つ大切な哲学的知としての<全体論>がありましたね。先生は、全体論について、以前たしか大工さんが家(建物)を建てるときの例?を使って説明されていましたね。これらのことから話題にしたいと思います。

 まず、全体論について、全体論は、哲学的には存在論の考え方として、<原子論>(アトミズム)に対して<全体論>(ホーリズム)として提出されることがあります。<主観性>は、当然に<客観性>に対する言葉で、主観性を「個」と考えれば、客観性を「全体」と考えられるし、「個人」にたいしては、「社会」との対比で論じることもできると思います。(実存に対しては、構造とか・・・)

 そこで質問です。私が思うには、先生の言われる<全体論>と<主観性>の関係です。普通に考えれば、全体論を強調するには、客観性を強調し、原子論を強調するには、主観性を強調するのが、すっきりと対応関係として考えられるのではないでしょうか?よく学校の先生から言われました。「物事を全体的・客観的に考えろ・・・・」と。

 この関係性について、どう考えればよいのでしょうか?哲学の考え方は、一般的に考えられているもの、言葉として一般的に使われている使い方とは違うのでしょうか?よろしくお願いします。

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  内田さん、よいご質問、とても感謝です。          武田康弘

 

   早速ですが、まずはじめに、
フィロソフィ(恋知)の土台とは、人生の意味や価値、生き方を考える営みですから、個別の学問(諸科学)とは異なり、部分を問題にするのではなく、全体を問題にします。生き方の部分とか専門というのは、ありえない話ですから。


個別学問(諸科学)は、対象を狭く限定することで、細かな観察や実験を可能とし、いわゆる「客観性」を獲得できるわけです。もちろん、何をどのよう認識するのかは、人間の欲望、関心や必要や目的という主観的な領域の問題です。

わたしは、木を詳しく観察するすることと、その木が生えている森全体を見ることはどちらも必要という考えですから、部分と全体の往復になります。

内田さんの言われるホーリズム(全体論と訳される)とは、現代哲学のクワインに端を発しますが、わたしは、それを主題化したのではなく、もっと広い意味(=日常言語の次元)で、部分と全体についてお話しています。

認識は、個別科学において客観性を目がけるという認識であれ、主観の欲望=関心・目的・必要により成立しますから、主観のありようを注視し自覚化することは、何より大切になるわけです。フィロソフィとは「主観性の知」です。

人間を惹きつける対象&惹きつける作用である「エロース」は、フィロソフィを成り立たせる動因であり、それなくしては、混沌と広がる世界を意味づける=秩序づけることはできませんので、エロースは、武田フィロソフィというより、古代アテネのソクラテス出自のフィロソフィそのものと言えます。

なお、「客観学」(知の手段)と「主観性の知」(知の目的)の日本における逆転については、参議院事務局から依頼された論文『キャリアシステムを支えている歪んだ想念』に記しましたので、見てください。この知の逆立ちを自覚している人は、学者を含めてほとんどいませんが、ここに「日本人の根源的不幸」(外の価値に呪縛され内からの生がない)があります。
http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori108.htm

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 全体論についての回答、ありがとうございました。続けて質問します。 内田卓志

 

 先生の考えている全体論は、哲学の使命に関わる根源的な点だと思います。私の質問の前提とした全体論は、哲学の領域に関しての問いでした。
 存在論・認識論・価値論のように・・・。先生の問題意識を承知したところで、さて個別科学は、論理的、実証的な系統立った説明が必要になります。
つまり科学性ということでしょう。その科学的な知のありようを客観性という人もいますね。

 それでは、主観性の知の哲学は、ある種の科学性(皆が了解できる地平)を担保しなくて良いかとの疑問が湧きます。主観と主観の衝突ばかりでは、
 何が真なのか、何が善なのか、何が美なのかが分からなくなります。つまり好き勝手に利己的に考えることも主観性の知になってしまうのか、との疑問です。

 そこを解決する考え方が、ギリシャ以来の、哲学の本質的な意味と考えてよいでしょうか。つまり哲学的な原理についての問題です。そのあたりについて、
お話し頂けないでしょうか?

 

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「ほんらいの哲学=恋知」の核心について                武田康弘

まず最初に、
諸科学の「客観的」認識と言わるれるものも、誰か個人の頭の中で得られるものですから、事実としては「主観」です。ただし、その認識内容が、その領域に携わる人々の共通了解になれば「客観的認識」と呼ばれることになるわけです。

というわけで、主観と客観とは並立して対立する概念ではないのですが、言葉がつくりだすイメージが、「二項対立」を生み出します。要注意です。

では本題です。
フィロソフィ(直訳は「恋知」)は、主観の感情や想念ではなく、「主観性の知」ー「知」なのです。主観=私の直観や想いを絶対化するのとは対極にある営みです。

誰でも想いや直観から認識は始まるので、それは全く正当なのですが、そのはじめの直観を固定して絶対化するならば、自分勝手な思い込みに留まり、なんの普遍性もない「私的認識」に陥ります。

フィロソフィは、心身(五感)と頭(思考力)をフルに用いて「吟味」すること=疑い、試し、確かめる作業です。その自問自答を他者に示し、問答し、だんだんと普遍性の豊かな考えに鍛えていく営みですので、その限りでは個別科学と変わりません。それは、(1)宗教的信念のような絶対的「真理」ではなく、また、(2)みなが言うからという一般的「真理」でもなく、(3)腑に落ちる・深い納得という 普遍的「真理」を目がけるものですので、諸科学をその一部(手段)として含むのです。

ただし、諸科学は、認識対象を狭く限定することで細かな観察や実験が可能となり、質的相違を量的(数字)相違として表すことで、客観的と呼ばれる認識を得る努力をしますが、第一回目のご質問でお応えした通り、フィロソフイ―は全体的な見方や総合判断をしますので、頭の用い方が異なります。フィロソフイ は、諸科学における客観知を手段とする主観性の知であり、これが知の目的です。

人間の生の意味や価値を直接に問題とするのではなくとも、例えば、どのような家を建てるか、どのような音楽ホールをつくる か、それを思案するのは主観性の知であり、安全性という基本的要件のみならず、用途を満たす程度や、美しさの程度や、使い勝手の程度などが問題になりますが、それは客観知として測れるものではなく、全体知としての主観性の知による総合評価となります。

また、優れたセンス、企画立案能力、創意工夫や臨機応変の才、自由対話の力、作文力、問題発見と解決の能力、想像 力・・・・・・・などは、みな主観性の知であり、それらは受験知ーテスト知・客観知ではありません。繰り返しますが、人間の生きる意味や価値の問題を土台として持ち、含むこれらの主観性の知こそが知の目的であるわけです。そのことをわが日本人がほとんど自覚できていないのは、とても困った問題と言えます(東大病)。
わたしは、これに取り組んではや40年。時の経つのは早いもの、まだまだ頑張りますよ~~~~。全身 がだいぶボロくなっていますが(笑)。

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 なぜ主観性の知に無関心なのか          内田卓志

 

 続けて伺います。なぜそのような、想像力(構想力)の源泉ともいえる主観性の知について無関心なのでしょうか。それとも誤解しているのでしょうか。

 また、主観性を消去したほうが、誰かに都合がよいのでしょうか。かつては、お上、大日本帝国、今なら会社とか・・・・。

 私は武田先生とある高名な哲学者※との対話を隣で聴いたことが数回ありますが、このことを説得し理解してもらうのに、かなりの時間が掛かりましたね(その先生は、対話をはじめて二時間ほど経って、「武田哲学は、哲学の王道だ。」と言われていました)。

 デカルト以来の機械論的自然観批判、近代批判が哲学会でも流行ですので、主観性についての誤解は学者の間にも蔓延しているのかもしれません。

 私はデカルトやベーコンの機械論的自然観には与しませんが、近代の超克などは、たやすくできるものではないと思っています。後期ハイデガーは、ちょっと危険です。この話をすると長くなりそうなので、このあたりで武田先生にバトンタッチします。

(※ 山脇直司先生:ミュンヘン大学で哲学博士号、東京大学教授ー今は名誉教授。数年前に、武田先生と山脇先生との対話ー論争が幾度も行われた。)

 

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   「客観学」(手段)と「主観性の知」(目的)の混同と逆転のわけ   武田康弘

 

 単に「学」の問題というのではなく、現代の人間の生き方・考え方の根源的大問題、それが、主観性の知こそが「知」の目的であり、読み書き計算にはじまる客観知(答えが決まっている知)は手段にすぎないことを知らないーその逆転に気付いていないことなのです。
  
  この逆立ち、価値転倒は、世界的な問題ですが、とりわけ日本は酷いと言えます。その原因は、幼いころから「想う→考える」という【対話による子育て】(表情やボディーランゲージの交感を含む)がなく、芸を仕込むようにして「読み書き」という技術を教え込むもうとする教育ならぬ強育が支配しているからでしょう。

    答えは決まっている=正解があるという思い込みは、日本の型の文化に、正解として輸入された近代欧米学問が接ぎ木されたことで、酷い歪みとなって、手段も目的も分からないままに「知」に接するという事態を招いている、というわけです。これは、小学校から大学院まで変わらずです。教える側も教わる側もこの逆転の事態を自覚していません。この問題を明瞭に述べたのは、おそらく公式には、参議院のわたしの論文がはじめてでしょう。

 キリスト教という唯一神への信仰がつくった「近代西ヨーロッパの学」は、ニュートンの力学・数学や宇宙論に至るまで神の偉大さを証明するためという宗教思想を背後に持ちますので、人間の主観を離れた「純粋な客観」(神がつくった完全な世界)があるという根深い(深層心理にまで入り込んでいる)思い込みから自由な人は、稀にしかいません。ここからの解放は、21世紀のいちばん重要な課題だとわたしは思っています。

 キリスト教文化圏※は、さすがに本家本元だけにこの弊害に気づくのも早いようで、オランダや北欧にフランス、それにイギリスのエリート族などの間では少し前から「正解」のない問い、フィロソフィの教育をはじめています(幼少期より)。絶対的な真理を求めるのではなく、普遍的な思考を鍛える教育です。いまだにテスト知のチャンピョン崇拝=東大信仰が揺るがない日本は、どんどん置いてけぼりですが、教育改革をするにも、政府関係者には、東大病の官僚と、アナクロニズムの国体思想のイカレタ学者しかいないのですからお手上げです。

(注)※なお、フィロソフィは、西洋ではなく、小アジア(いまのトルコ)で起こったもので、かつ一神教の思想ではない(紀元 後4世紀にキリスト教によりプラトンがつくったアカデメイアは廃校にされた)のですから、「西洋哲学」という言い方は、欧州 人の我田引水でしかありません。インドの釈迦(仏教)の思想と近親性をもちます。要注意です。

 なお、後期ハイデガーは、論外です。彼のように、詩的言語で語っても、それはフィロソフィにはなりません。詩作品として発表するなら分かりますが、それを哲学だと言うのでは、知的退廃というほかないでしょう。きちんと吟味、検討、批判のできない言葉の用い方は、論理ではありませんから。超論理(笑)。

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     主観性の知への無知   日本の教育の病=「東大病」      内田卓志

 

  実例を多く示していただきありがとうございます。本来眼目であるはずの、主観性の知を育て、鍛えるべきことは二の次、三の次にしておいて、客観知を中心とする技術知、パターン知のみに優れた人間を創ろうとする逆立ちした教育が、いまだに日本では主流と言うわけですね。その象徴こそが、東京大学を頂点とするヒエラルキーにあり、この国の病(東大病)だというのが先生の長年のご主張でした。

 

 私がスエーデンの教育について、聴き読んだところによると先生の言われる通りで、全く日本の学校の勉強の仕方と違います。まだ江戸時代の寺子屋のほうがスエーデンに近いです。(笑)私も大学で学んだ教育原理とやらを思い出し、敬愛するジョン・デューイの教育哲学を考えながら先生のお話伺いました。私は、25年以上ビジネスパースンをしていますので、学校教育の現場はほとんど存じ上げません。そこでもう少し先生に現場を踏まえた教育のことを話して頂き、そこから哲学の使命について話をつないでいきたいところです。

 

 

 

続く

 

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