竹内芳郎さんとの出会いと交際
綿貫信一(18)竹内芳郎(62)
武田康弘 2022年4月9日(70歳になる年に)
わたしは、竹内芳郎の『サルトル哲学序説』を高校生の時に知り、愛読書としていましたが、著者の竹内さんと面接して話しをしてみようとは思いもしませんでした。
それがなぜ大変親しい仲になったのか? 教え子の綿貫信一君(1968年生まれ)のせいです(笑)。
綿貫君は、小学4年生から5年生になる間の春休みに、隣に住む友人の吉川渉君に案内されて、わたしの主宰する私塾に遊びに来ました。綿貫君=信ちゃんは、わたしのことを気に入り、塾に入ることになりました。10歳の時です。
彼は、中学2年生のおわりころに、教室の書棚にあった『サルトル哲学序説』を取り出して読み始め、面白いと言い質問してきました。わたしは、こんな難しい本をよくもまあ、と驚きました。
綿貫君が高校3年生のとき、「竹内さんがどこの大学で教えているのか知りたい」と聞かれましたので、わたしは、発行元の筑摩書房に電話をかけましたが、わたしの話を聞いて、「それでは竹内先生の電話をお教えしますので、直接、お聞きください」とのことでした。
わたしは、すぐに電話をして事情を話しましたが、「ほ~、そんな子がいるのですか、ぜひ、武田さんと一緒に拙宅に遊びにきませんか?」とお誘いを受けたので、行くことにしたのです(写真上1986年12月7日)。
それがきっかけで竹内さんと親しい交際に発展することになりました。綿貫君は東洋大学の哲学科に進みましたが、「竹内さんの国学院大学での授業を受けたい」と言い、「武田先生も一緒に行きましょう!」と強く誘われましたので、その旨を竹内さんにお伝えしたところ、大変喜んで、「武田さんも参加されるのでは緊張するな~~」と言われました。
1987年と88年の2年間にわたり毎週月曜日に、綿貫君と一緒に国学院大学まで通いました。1年目は「文学言語とは何か」、2年目は「言語とは何か」で、言語論を学びましたが、これは見事な授業で大きな得をしました。竹内さんの許可をとり、2年間の授業はすべてカセットテープに収めもしました。授業後の興奮!のやりとりもそのまま収録されています。
1988年10月9日、わたしは、竹内さんにお願いして、我孫子市民会館で【盗まれた自由】と題する講演会をして頂きました。この講演会は、わたしが友人の福嶋裕彦市議に提案して二人でつくることになった『緑と市民自治』紙(新聞折込で我孫子市全域に配付)に竹内哲学を解説・紹介した文章を載せ、朝日新聞にも大きく案内を出してもらいました。その講演文が、翌年89年4月に筑摩書房から『ポストモダンと天皇教の現在』(題名は武田による)として出版されましたが、これは大学入試にも幾度か出題されるほど評判を呼びました。
この本の出版を祝うパネルディスカッションが同年89年7月2日に、東京パンセホールで「いま日本を考える」と題して、竹内芳郎さん、海老坂武さん、古茂田宏さん、わたしの4名のパネラーにより行なわれました。司会は、編集者の久保覚さんでした。
それと時期が相前後しますが、竹内さんは、「あなたの仕事や活動を見て、わたしもやりたくなった。今までは書物に集中する人生を選んできたが、これからは、直接対話の実践をしたいから、いろいろと教えてほしい」と言われ、電話や手紙で頻繁なやりとりになりました。そうして竹内さんは大学を辞め、89年8月27日から「討論塾」を始めることになったのです。
まったく孤独に学的世界に生きて、第二次言語に集中してきた竹内さんは、なまの現実については疎く、右往左往でしたが、とにかくそれは93歳の死の間際まで続きました。わたしは、竹内哲学のよいも悪いも知り、ぶつかりもし、途中長い空白もありましたが、89歳の竹内さんと再び論争できたのは貴重な思い出です。純粋で厳しいやりとりは、わたしの思想の内容を強く豊かにしてくれました。改めて感謝の気持ちでいっぱいです。竹内さん、いつか浄土でまた議論しましょう~~~
1987年8月 竹内宅で 竹内(63才)武田(35才)
1987年11月21日 武田宅で 弘人7才
福嶋裕彦(32才) 佐野力(48才) 武田康弘(37才) 竹内芳郎(65才)
1989年8月27日第1回討論塾 狛江市