忖度文化ではない超自立パワーの二人(笑)
芸を仕込まれたアシカではありません(笑)
昼間テレビを見ると、おそろしいまでに単線的な価値意識の披歴に吐き気をもよおします。
なんでも答える博識が偉い?
天才!?というので見ていると暗記マシーンのこどもが登場!
あげくに、東大生を天才と言う始末(笑)
いまの芸能人が支配する日本のテレビが示す基準で言えば、クイズはできず、博識でもなく、高校は落第し、大学入試も失敗した(数学の才能ありで特別に拾われた)アインシュタインのような人は、「大したことないおじさん」にしかなりませんね(笑)
知的好奇心に富み創造力に優れた頭(自立した精神)は、受験知頭(パターン知と暗記の忖度精神)とは二律背反であることさえ弁えぬようでは話になりませんが、単なる「事実学」の累積が学問と信じるニッポンは、本質学・意味論とは無縁の知で溢れます。おそらく本質学(論)と言っても何を言われているのか分からぬ人が大多数でしょう。
どうしてここまで堕ちたのか。
こういう「優秀」人間!ばかリでは、仰々しい儀式をありがたがり、上位者に従う「忖度文化」を自ら生きるよりほかの生き方は不可能です。一人ひとりの個人がもつ価値以上の価値はないという民主的公共社会の思想の原理を知らず、ただ組織や団体(最大のものが国とされる)が暗黙のうちに示す価値に合わせるのでは、人間にはよろこびが得られず、輝かず、艶は消え、精神は死んでしまいます。
わたしの存在、わたしがここに存在することが価値であるという不動の出発点を失って、外なる絶対=一番を求めるのは、底なしの愚か者の行為です。いまは、国全体が狂気に陥っていくように思えますが、凝りもせず、再び戦前の天皇陛下万歳の忖度文化へ、では酷すぎる話です。いつまで明治政府のつくった「天皇教」=「外なる一番文化」=「忖度文化」を続けるのでしょうか。
生き方=考え方の革命が必須です。「民主的倫理に基づく実存としての生」を追求することがよき生の基盤であり、はじめの一歩ですが、まだ「はじめの一歩」が歩みだせません。
武田康弘