民主政治=自治政治とは、一人ひとりの人間の精神的自立に支えられて可能となる統治で、民主的な倫理意識(上下倫理ではなく)が生みだすもの。
古代アテナでペリクレスの敷いたデモクラシー(民主政)とソクラテスのフィロソフィー(恋知)は両輪です。
主権者を市民とする政治を実現するには、楽しく辛抱強い対話(ボディーランゲージを土台とする広義の対話)による子育て・教育が必要で、それにより一人ひとりを自由と責任をもつ「個人」に育成しないとなりません。
しかし、現実の日本の子育て、学校教育は、それとは異なり、豊かな「自由対話」は存在せず、「意味をつかむ学習」ではなく受験知という形式知の習得と競争になり、倫理は、各自の対等性につく人間的柔らかさ=「民主的倫理」とは異なる上下意識(先輩、目上)の涵養となっています。
これは、戦前日本の後進性そのままですが、ここを変えなければ、先がありません。 結局、「戦前思想」(靖国思想=国体思想=天皇崇拝)に戻るだけにおわります。
武田康弘
ブログを拝読して勉強させていただいてます。
>デモクラシーとフィロソフィー
フィロソフィー(精神)は自由、デモクラシー(又はルール)は平等、そして、エコノミーは協働が必要だと思います。
これは人間のひとつの活動の3つの側面で、自由、平等、協働が三つ巴で働くべきだと思います。
これは大きな社会にも当てはまりますが、大きな経済を競争から協働にするものがベーシックインカムではないかと思います。
先生はベーシックインカムについてはどのようにお考えでしょうか?
よろしくお願いいたします。
その共通の土台を現実のものとするには、最低限の保障というベーシックインカムは優れた考えであり、実現に向けた努力をすべきだと考えています。
現在の教育や社会問題の多くが上手くいかないのは経済問題に足を引っ張られているからではないかという思いがあって、先生のご意見をお聞きしたいと思いました。
質問にお答えていただき、ありがとうございました。
民主的倫理(各自の対等性と自由を基盤とし、自治的・相互的に生きるための市民的倫理)による生き方が必要というわけです。
フィロソフィー(恋知)は、マルクス主義とは逆の見方ですが、それは、経済を軽視しているのではなく、物質的土台も、優れた観念に支えられないと意味がない、との見切りによります。
人間は象徴動物で観念的存在なので、物質的世界や経済活動や経済制度もまた、優れた観念の育成ー転換がないと、意味付かないわけです。
明治以降の日本は、フィロソフィー=個人の精神世界をつくることを疎外する「滅私奉公」の倫理を強要したために、内的価値が分からず、外的価値を追い、それに従う人間ばかり生みだしました。それを変えないと、制度をどういじろうと元の木阿弥のように思えます。
「私」と「公共」(市民的共同)というセットがなくて、
「家族」と「国家」(公)にされているので、人間として生きる上で一番大切な、フィロソフィー(恋知)の営みがないのです。なんとかしましょう(笑)
長くなり、失礼。