安藤昌益をめぐる Kim・武田対話。
安藤昌益 「真人」
安藤昌益の「真人」という思想は、いまこそ。今は大元から真逆。そうしなければ有名人にも肩書人にもお金持ちにもなれませんから。
生きる意味が逆立ちの現代人。
昌益の真人とは
"直に穀を耕す" 衆人のことです。"衆人は直耕して転(天)道不背の真人" と強調されています。
分業の成立した現代、分業自体を否定することはできません。しかし、生きる現実が異なっても、言わんとする思想の本質は現代に活かせます。そう読むのがほんとうだと思い、実践してきました。
昌益翁の文言に接して見ましょう。
"儒者-聖-賢は....亢偏知にして巧工甚だしくして私偽の法を為り、耕さず貪り食ひ衆を誑かし、世を迷はし、転の直耕道を盗む乱惑の根始なり。
夫れ真の生知と言へるは、習はず学ばざれども、耕さざる者は転に背くことを知り、安らかに直耕を行い米穀を生じて、聖-賢を始め凡て不耕盗道の輩を養ひ、悪まず反って恐れて己を慎み、転定と与に直(耕)-安食して微も私巧の罪無し、誠に転子なり".
聖人君子の学知と直耕民衆の "真の生(命)知" とはそれぞれの目的と内容が根本的に相異なるものであります。前者は直耕せずに人々を巧妙に支配するための学門でありますが、後者は人として直耕生活を通じて必要な知識を身につけるものである、という学門観の相違を示しているのです。
そうですね、「直耕」という概念は、現代社会と人間の生き方・価値意識に根源的反省をせまるものです。どんなに技術が進んでも、愛し合い、子を産み育て、という原理は、不変であることを深く明晰に意識し続けることは何よりも大切と思います。
わたしが幼いこどもから学ぶのは、「直耕」概念のもつ根源性です。直観=体験という直接性ともかさなります。
更に次のようにも言ってます。"直耕する者の智は、耕して転道に背かざる故に、真知なり。孔丘、不耕貪食の智なる故に、真知に非ず、盗道を計る謀智なり。
(釈の知も是れなり。)"。
どう思いますか?
「不耕」とは、心身全体で、直接、自然に関わらず・人と関わらず・物と関わらずで、それではダメ。とわたしは捉えました=40年以上前ですが、「安藤昌益」を学習したとき、そう読みました。
わたしは、身体を使い、全身で生きることを信条にしています。なんでもできるだけ自分でやってきたのです。
================================
脱中国古典盲信
安藤昌益の脱中国古典盲信の一面とも言えますが、"天地" というのが天尊地卑という上下二別の(中国古来の)思想と結びついているから、敢えて天地を"転定" (てんち)と表記したのです。
根拠にしたのは、《易経》の繋辞上伝にある "天は尊く地は卑しくて、乾坤定まる。卑高以て陣なり、貴賤位す。" という冒頭の一句で始まり、この天尊地卑、陰陽-上下-貴賤-二別の思想は、中国の伝統的な自然観を一貫する基幹となっていますが、昌益はこれに反対し、"転定には上下無くして一体なり"
(全集二巻100頁)と言い、"転定は一体にして上無く下無く、統べて互性にして二別無し" (全集一巻268頁)とするのです。どう思いますか?
老子と根本は同じで、中国文明の底の深さをみます。
老荘思想こそが中国思想の中心になるように、中国政府に働きかけ、説得したいものです。そうすれば、欧米を超えた世界でもっとも優れた国になれるのに~~(笑笑)
武田 康弘
老子の読みは難しい(詩的作品)。道教は、あまりにも老子から離れている。親鸞も教行信証末尾で、多くを老子批判に充てている。書かれたものは、その読み手の生き方・思想・無自覚の立場により、さまざまな解釈が可能で、真逆にすらなる。
ソクラテスもブッダもだいぶ時代が下ってイエスも、話し言葉と行為・行動のみで書き言葉を残さなかったことの深い意味を想う必要がある。
それがわたしの考えです。
======================
聖人君子への批判
勿論安藤昌益の痛烈な聖人君子(の言行)批判です。
私法と書いて "コシラエ" (全集四巻377頁)と訓ませているように、"私のコシラエ"(制)(全集九巻90頁)であり、
支配者の私利-私欲に基づく"私の制法" (全集四巻95頁),
"私立のコシラエ(法言)" (全集三巻260頁)のこと。
つまり利己のためにでっちあげた "私術の制(コシラエ)法
(コシラエ)"(全集四巻137頁)
であり、権力者が自然に反して作為した "聖人私法の作事" (全集八巻215頁)のこと断定しています。
そうです、この否定の徹底性は、新たな世界を生むために必須です。豪快にして愉快な人間性で、同時にシリアス。こういスケールは今は絶無。否定こそは、弁証法の魂であり、生産的で快活な生をつくるのです。
===============
法世
Taechang Kim
安藤昌益の社会像によれば、"法世" とは、"私法" に基づく上下の位階制度があり、
"王は公卿の功を食ひ、
公卿は将軍の功を食ひ、将軍は諸候の功を食ひ、諸候は諸役人の功を食ひ、諸役人は足軽の功を食ひ、足軽は諸民の功を食ひ、万民は主は奴僕の功を食ひ、是れ大は小を食ひ" (全集六巻129頁)、
まさに人が人を食う社会であると言うのです。
改めて深思熟慮するに値すると思うのですが如何でしょうか?
だから、こどもにとっては、なんでもない風邪、誰も死なないという歴史上もっとも安全な風邪に、リスクのあるワクチンを打たせようと、官僚政府・製薬会社・医療関係者・・・はやっきになっているのです。こどもを食って生き延びる、儲ける。ウジ虫以下。
だから、わたしは、非妥協的に戦い続けているのです。不退転・非妥協的に。
強い立場の人が弱い立場の人を食う。権力ある者の高いびきを許してはいけません。
以前は、知識人とは、高いびきを叩きのめすために頑張りました。いま、知識人とは、支配グループの太鼓持ち、ソフィスティケートして煙に巻く、うまく騙す人間のこと。
昌益を生きること、昌益を知るとは、いま、ここで、それを生きることにある。それがわたしの不動の確信。
=====================
安藤昌益は世界思想に先行する
Taechang Kim
安藤昌益は一世紀以上前に
ニーチェの価値転倒やマルクスの唯物弁証法、そして
毛沢東(1893-1976)の矛盾論
までも先取りして実に三世紀以後のわたしたちに哲学開新への道筋を例示しています。
灯下不明、脚下照顧という言葉がそっくりではありませんか?
ええ、そうですね。 「自然人」の概念もルソーに先駆けています。
わたしは、20代後半で、安藤昌益に出会い、わたしの生き方・考え方の基本に据えて、実践・行動の指針としてきました。
恋知という発想もそうです。昌益の実際のところは、あまりに資料が少なく、足跡を辿れないなので、そこが残念ですが。
Taechang Kim
たけてつ(武哲)の内奥深く安藤昌益の影響があるのではないかという気がしていましたが、やはり20代の後半の出会いは大きな意味があったと思われます。
わたくし自身は、50代になって、欧米での留学-研究教育を終えて日本に来ていろんな方々との交流の過程で安藤昌益、二宮尊徳、新井奥邃の三人の民学の先人に出逢得たことは大きな幸運であったと思うのです。
大勢の官学者たちは知的な好奇心を充たしてくれるところがありましたが、心魂深く響くものはありません。考えてみれば、安藤昌益はルソー(1712-1778)と同時代における日本とフランスの反時流の異端者であったということにも注目するのです。
==================
互性(安藤昌益の中心思想=Kim解釈)
Taechang Kim
"互性" とは、たとえば、天と地、日と月、昼と夜、男と女、雄と雌、生と死、明と暗、善と悪などは、それぞれ一つの事物の進と退の二つの側面であり、二つの側面の対立と依存があってこそ一つの事物の働きをなす矛盾関係にあるとされ、このような '二' と '一' との矛盾が、いわば <基本互性>というものとして、<互性>概念の基軸をなすのであります。
ウパニシャッドのアートマンとブラーフマンもそうなのでしょうか?
そこまではいいとして、それが、「絶対矛盾的自己同一」という西田になると、とんでもないものに堕ちるので、要警戒。
安藤昌益の場合は、絶対矛盾の真っ只中から自他相生への道開きが生じるという動態的-開放的対立-矛盾-葛藤であって、西田的な自己回帰-収斂-閉鎖的な矛盾観ではありません。
その通りですね!
=================
自然世
安藤昌益の唱える自然世の特徴は無階級-無差別で法制体系が無く、無搾取の生産共働社会であると同時に、天人一和の "直耕コミューニテイ" であります。
現代では、アテネ出身の指揮者・音楽家のクルレンティスは、「武器も国境もない社会を夢見ている」と言いますが、
昌益の自然世も、現実にそのまま実現できるものはありませんが、いつも始原に戻れるイマジネーションをもって事にあたることは、必須です。
クルレンテイスじゃなくて、今の日本で全力投球しているタケテツの方に共感するのです。
十八世紀日本の安藤昌益がその実現を目指して一生一町人医者としての生涯を燃やし尽くした、その生き方が老年後期を生きているわたくし自身のいのちの深淵に響くものがあるのです。
=================
直耕
「その一人は、【直耕】して業を転(天)道と同じくする。
その一人は、賢にして口才、分才、知慮、教化 盛んにして、その直耕の者の余分を貪り食うなり。」
直耕の衆人たる【真人】が、転子(天子)である、と昌益は規定しました。天子とは真人のこと。
わたしは、『明治政府がつくった天皇という記号』(pdfでネットで無料で読めます)を書きました。今月、同時代社から本になります。もちろん私は、口舌の輩ではなく、直耕の精神をもち、心身全体で仕事をしながら生き続けます。20代の時、そう決めたのです。
ようやく、やっと、遂に、タケテツとキムテツが
<共に直耕する正人=衆人=真人の哲学=哲覚=哲活>を生きて真にしているのだという共通覚醒に至ることが出来たような気がして嬉しいです。
直耕哲学の友としての相互確認!!! 安藤昌益が3世紀の歳月を経て日韓友情哲学共働実践として蘇った
と言いたいのですがどうでしょうか?
「タケテツとキムテツが<共に直耕する正人=衆人=真人の哲学=哲覚=哲活>を生きて真にしているのだという共通覚醒に至ることが出来た。」
そのようですね(喜)
韓国からそして19年の先達からのエールに感謝です。
==================
続いています。現在進行形