体験(明証性)から出発する哲学
――「具体的経験の哲学」批判Ⅱ――
わたしは、高校3年生の時、竹内芳郎著の『サルトル哲学序説』に出会い、深い悦びを得ました。それ以降、この意味の塊のような本は、わたしの思想の基点となりました。
しかし、わたしは竹内さんとは異なり、高校・大学時代の一時期を除いてマルクス主義には懐疑的です。巨大理論は生理的に受けつけないからです。わたしにとっては、自らの心身の声に従う生き方(自然・自由・ふつう・健康)以外の生はあり得ませんので、体系的な哲学や社会理論には魅力を感じません。というよりも、そのような理論構築物は、日々を創造しながら生きるこの今の「私」を抑圧する無用の長物としか思えないのです。
1986年に出版された『具体的経験の哲学』(竹内著・岩波書店)は、その標題に惹かれました。わたしは、『サルトル哲学序説』をはじめどのような本を読むときも、自らの体験に照らしてその意味を汲み取るという習慣を持ちますので、「具体的経験」という概念=言葉はわたしにピッタリなのでした。けれども、わたしは、竹内さんの「具体的経験」が「理論を賦活させるために理論のなかに不断に復元されるべき或る種の次元でしかない」(はしがき2ページ)というのには、なにか釈然としないものを感じました。竹内さんは、「自分の具体的経験は、自己異化の作用をはじめから含んでいるからだ」と説明し、それは、「マルクス主義という客観主義的な理論体系と切り結ぶ」ためだと言います。
わたしは、人間の生き方や社会のありようについて考える時、「客観主義的な」思想は成立しないと見ています。それは認識論の原理(現象学)を踏まえれば分かります。もちろん社会の構造的理解は必要であり可能ですが、そこから「よい生き方」や「どのような社会が望ましいか」を導くことは不可能です。よい生を拓くことと、社会の構造的理解や歴史解釈とは、別次元の話ですから。いま私たちがどのように生き、どのような関係をもてば生産的になるかを考えるための条件は、互いの主観性を尊重することにあります。人が内的に通じ合い相互性を得るには、まずは、主観性に徹することが必要です。徹することではじめて意識の地下水脈が通じるのです。だから「民主的倫理」(自然な人間性を肯定する倫理)の基盤は、互いの主観性の肯定・尊重・開発にあると言えるでしょう。
「客観主義的」な考えが有効性をもつのは自然を対象とした学問や技術の分野であり、人間の生き方や社会のありようについて考察するときは、「主観性の知」によらなければならないはず、それがわたしの不動の確信です。右であれ左であれ、「客観的な正しさ」という想念は必ず他者を抑圧し、権威主義・管理主義を招来します。民が主体の民主主義は、互いの自由(主観性)を承認し合うという土台の上に成立するルール社会です。民主主義という社会思想と、民主的な生き方という関係性の倫理は、「主観性の知」にその基盤をもつのです。
さて、いよいよ本題です。
具体的経験には、本を読んだりテレビを見たりという「間接経験」と自分の五感で直接経験する「体験」の双方が含まれますが、わたしは、この両者の違いをよく意識することが重要だと考えてきました。それが、20年前の『竹内芳郎「具体的経験の哲学」批判』6000字(91.10.30)のテーマでした。
今年の『白樺教育館』のパンフレットには、その時に書いたものを簡略化して載せていますので、以下にコピーします。
「情報化された知 と 心身全体での会得」
「活字・音声・映像の溢れるような情報の中で、私たち現代人は、〈情報化された知〉と〈心身全体での会得〉との相違をあまり自覚しなくなっているようです。
このことが、子どもたちの教育の場において深刻な問題を生みだしています。
現代は、受験主義の手法が支配しているために、なまの直接経験をもつ余裕がなく、記号や観念の操作が優先されます。しかし、〈五感〉を使っての認識や思考錯誤がおろそかになると、現実と観念が遊離する結果、自分の力で「意味をつかむ」ことが出来なくなります。
「心身全体による会得」という知の方法を身につけないと、当否を確かめる最終の根拠である内在が希薄化し、生き生きとした現実感が消えるのです。これは、実に恐ろしい現代の病と言えましょう。」
物事の確かめの最終の根拠は、体験=心身全体を用いての確かめ(認識論では「内在」と言う)にありますが、それは「客観的真理」だというのではなく、人間の認識にとってこれ以上は遡れないという意味で、「明証性」が得られるとよびます。
この「明証性」は、よく五感を働かせて確かめる直接経験(体験)がないと得られませんので、情報化された知(活字や映像や人伝ての話し・・)を基にした生き方をしていると、内的な確信はやってきません。内的な確信がなければ人は権威に頼る生き方をするほかなくなりますが、それが現代の専門知の権威による支配(=官僚集団による支配)を導く深因なのです。クリア―な実感、イキイキ・アリアリとした現実感は、知識以前の直接経験(体験)がつくる「明証性」の領域ですので、これが失われれば、人間の自発性・主体性も消えてしまいます。そうなれば、一人ひとりの内的な欲望から出発するまっとうな生は始まらず、外なる規範と要請によって生きる外的人間に陥ります。
現代人が抱く不全感や疎外感は、自分の内側からの声と衝動がないために、何事においても内的な追求ができないところに生じるのですが、心身の奥から湧き上がる内発的な生という基盤が失われてしまうという根源的な不幸は、なまの直接経験の重大性を知らず、記号や観念の操作を優先する小賢しくかつ脆弱な「知」(単なる事実学の総和)から生じているのです。
その意味で受験主義の勉学は、人間性を元から奪い、深い不幸をつくる根源悪と断じるほかありません。「東大病」の克服は必須です。
話を戻しますが、
意識存在である人間が、心身ともに健康に生きるための基盤は、クリア―な実感、イキイキ・アリアリとした現実感をもてることにありますが、それは体験がつくる明証性の領域のことでした。したがって、哲学の土台・基盤とは、「体験」なのです。日々のさまざまな体験を流れゆくままにしないで「私」に根付かせること、体験を意識化する作業は、意識存在である人間がよく生きるための絶対条件です。
哲学的な理論好きが哲学者なのではありません。知識の有無は関係なく、体験をよく省察する人が哲学者なのです。哲学とは絶対的真理を求めることではなく、また、世俗を超越することでもありません。哲学とは、自らの内側から内発的に生きることを可能にする根源知=意味論としての知なのです。その知のためには、体験によって得られた明証性の領域を省察し、同時にそれを吟味する対話が必要です。各自の異なる体験により得られた明証性を示し合うことが、豊かな認識をもたらす条件になります。哲学(人間の生)に客観的真理はありませんから、認識は「正しさ」の追求ではなく、「豊かさ」の追求なのです。目的はよく生きること。イキイキ・アリアリとした現実感の基に、囚われなく、自由に、自然に、健康に、自分自身として内発的に生きることです。
わたしは、竹内芳郎さんのいう【具体的経験の哲学】をさらに還元して、【体験から出発する哲学】(学としての哲学とは異なるほんらいの哲学)を提唱しています。それは、明証性から出発し、明証性に戻る哲学とも言えます。「理論としての哲学」ではなく、「いまを生きる哲学」(日々の体験を哲学する実践)です。
武田康弘
写真は、10月16日 サンシャイン神奈川のレストランで 竹内芳郎さん・87歳(クリックで拡大します)撮影・武田康弘
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よいコメントありがとう。
本文のつづきを書きます。
現代日本の知は、すべて外側の知、暗記の知、パターンの知です。哲学までも「考える技術」と定義されています。
ほんらい、恋知(哲学)は、さまざまな個別の学問の一つなのではありませんし、思考の一技術でもありません。
生活世界の体験から浮かぶイメージを意味づける作業、とりわけ善・悪、美・醜と感じるものを言語化しようとする営みなのです。だから哲学は必然的に意味と価値の探求となり、あらゆる学や知が成立する根源・根拠となるのです。
「理論の体系」や「知識の集合」ではないからこそ、個別学問の根拠(生の意味を考える)になるのですし、個別の学知の持つ意味、その存在理由を問い直し、人間の生の現場からそれらを価値づける(評価する)ことが出来るのです。
哲学のもつ特権性は、哲学が専門知や専門技術にはなりようがないために生じるのです。客観的な理論体系ではなく、「主観性の知」を豊かにする実践ですから、専門家はいないのです。大学の中にある哲学科とは、哲学書の歴史を学び、過去の哲学書を読む場であって、実際に哲学するのは、生活世界以外にはないのです。
繰り返しますが、哲学はそのような学知以前の知の働き(根源知)なので、ある種の特権性をもつのです。「哲学する専門家」とは概念矛盾です。
サンデルさんのような人は、社会思想の専門家なのです。それと哲学する実践とを混同すると、哲学までも一つの学問になってしまいます。それでは哲学は死んでしまいます。
この言葉を学者の皆さんに噛みしめていただきたいと思います。(サンデルさんを含めて)
よい感想をどうもありがとう。
ご承知の通り、わたしは、「理論をつくる」という考え・構え持ちません。
わたしの哲学は、「どう考えるのがほんとうか」という基本姿勢を明確にし、それを踏まえてよく生きることが目的です。
現実によく生きることを可能とする哲学でなければ、存在する理由がありません。
自然で、自由で、健康な、言葉の最上の意味で「ふつう」の生を豊かにすることがほんらいの哲学の価値だと確信しています。
とてもわかるような気がします。
いろいろと批判もあるのでしょう。
しかし、武田先生には、実践三十年の確信を感じます。
二次言語で語られた知を一次言語の世界へ戻して生活に活かす方法ではなく、体験から出発する哲学。
また、体験を意識化する作業は、一次言語とか二次言語といわないで、「普通の言葉」で行うといった方が適切と思いました。コモンマンに通用する言葉です。
コモンマン(普通の人)にとって先生の哲学は、本当に説得力があります。この論文も素晴らしいと思います。
簡単ですが、ご一報いたします。