★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

死を抑圧しない大学

2025-03-13 23:43:04 | 文学


衛門の督の殿には、渡りたまはむとて、女房に装束一具づつして賜へば、ほどなく今めかしう、うれしと思ひけり。中納言殿には、物をだに運び返しに人やりたまへど、「さらに入れだに入れず」など言へば、北の方、手を打ち、ねたがる。「いかばかりの仇敵にて衛門の督あれば、わが肝心も惑はすらむ」と、まどふ。越前の守「今はかひなし。『物だに運び返さむ』と申せば、『早うそれは取られよ』とは、なだらかに宣はど、人々さらに入れねば。いさかふべきことにしあらぬば」。たけきこととは、集まりて、のろふ。

呪いが土地に憑く、とはこういう情況をいうのであろうか。それは冗談としても、地券を持っている持ってないでこれほどのことが起こるのは当然であるようであるのに、中納言家はあまりに迂闊である。むかしから、その土地の持ち主は誰かみたいな問題で人が殺されたりしているわけであるが、現代だって似たようなものである。それが暴力で解決しないように、厳しい税金と煩雑な手続きが課されているのが現代であるが、人間がこういうことにずっとたえられるのかどうかは、分からないと思う。

ずっとトレンドになっているコミュニケーション能力とやらは、相手に柔らかくも厳しくも攻め込むような能力であって、仲良い友だちをつくる能力とも優しさとも観察能力とも違う。近いのは、証拠を挙げて相手を説得する能力であろう。証拠(エビデンス)とは、必要な場合の武器に過ぎない。これは、物事を死に行く生=生活に即して「つくる」「常識」(戸坂潤)とは無縁の武器であって、――とたえば、アイデアを出せという奴はだいたいアイデアだしたことないし、出しても自分でやらずに逃げ、そして成功したら自分がやったと言い張る。これはその成功した物事が証拠だからだ。かんがえてみると、イザナギはそういうやつだったかもしれない。イザナミがおそらく神を生み出した疲労で死んだから、それを棄ててイザナミが生み出した様々な神を統べる生の立場を勝手に僭称する。この統制というのが、土地を奪う行為と極めて近似的であるのは言うまでもない。「国家」というものがそうである。

だいたい「生」の立場、「生産」の立場というのは「死」の隠蔽というきわめて欺瞞的な立場なのである。我々はこのことを生きのびるためにだかなんだかわからんが、簡単に忘れる。噂では、ある教★学部の新入生のガイタンスで「君たちは大学に入ったのではない。教員養成の専門学校に入ったのである」と言われ仰天した、という話を聞いた。まあそういうやばいところに教員志望のやつが果たしていくのかなと思うが、結構行くのだからよのなか佳く出来ている。大学とは死を抑圧しない場所であるべきだ。その死は、イザナミのような神を生み出すような事態であって、教員養成の専門学校とは生を統制するだけの生産の場所である。

コミュニケーション能力?であいつは出来るあいつは出来ない、みたいなことを陰口を言いあい、果ては学生を評論している集団は、群れとして醜悪という以上に、自分たちのコミュニケーション能力?が「人間の全体性」の長所だと思い込んでいるというのが最悪である。だから、一部突出した異形な能力や落ちこぼれを差別するのである。これは結果的には、偏差値エリートが全能感におぼれるのと同じ結果に陥っている。似たもの同士だからいがみ合っているに過ぎない。

生と死、あるいは脳と肛門

2025-03-12 23:20:16 | 思想


 ひそかに推測してみると、人間の生存の根源的不安を課題にした『不安の概念』におけるキェルケゴールと、すべての不安神経症の根源を〈母胎〉から離れることへの不安〉 に還元したフロイトは、どちらもヘーゲルのこういった考察からたくさん負っているような気がする。だがへーゲルのこういう考察は、自己幻想の内部構造に立ち入ろうとするとき問題になるだけだ。ここでヘーゲルの考察から拾いあげるものがあるとすれば 〈生誕〉の時期での自己幻想の共同幻想にたいする関係の原質が、胎生時の〈母〉と〈子〉の関係に還元されるため、すくなくとも生誕の瞬間の共同幻想は〈母〉という存在に象徴されることである。
 人間の〈生誕〉にあずかる共同幻想が 〈死〉にあずかる共同幻想と本質的にちがっているのは、前者が村落の共同幻想と〈家〉での男女のあいだの〈性〉を基盤にした対幻想の共同性の両極のあいだで、移行する構造をもつことである。そしておそらくは、これだけが人間の〈生誕〉と〈死〉を区別している本質的な差異であり、それ以外のちがいはみんな相対的なものにすぎない。
 このことは未開人の〈死〉と〈復活〉 の概念が、ほとんど等質に見做されていることからもわかる。かれらにとっては〈受胎〉、〈生誕〉、〈成年〉、〈婚姻〉、〈死〉は繰返される〈死〉と〈復活〉の交替であった。個体が生理的にはじめに 〈生誕〉し、生理的におわりに 〈死〉をむかえることは、〈生誕〉以前の世界と〈死〉以後の世界にたいしてはっきりした境界がなかった。『古事記』には〈死〉と〈生誕〉が、それほどべつの概念でなかったことを暗示する説話が語られている。


――「祭儀論」(『共同幻想論』)


『教行信証』読んでないから急ぎ読まねばと思うが、あまり時間がない。しかし親鸞とは文学をやるものにとって、交響曲第9番の如きものであって、あつかったらもう最後みたいなところがあるからよいのかもしれない。――いや、よくおもいだしてみれば案外生きのびるやつもいるようである。野間宏なんかたしかに生きのびた。もっとも、彼なんかはもうデビュー当時の「暗い絵」とか「顔の中の赤い月」なんかでももう生きながら死んでいると言えば言えるので信用できない。デビュー前の野間宏はイザナミのようなものであって、そこから逃げてきたイザナギが戦後の小説家としての彼であるのではなかろうか。

生も死もないんだ機械があるんだ(違うか)みたいなことを言っているドゥルーズなんかは『アンチ・オイディプス』で、次のように述べている。ちなみに、大学の私は、この革命的な書物において、この辺りで挫折した。

〈器官機械〉が〈源泉機械〉につながれる。ある機械は流れを発生させ、別の機械は流れを切断する。乳房はミルクを生産する機械であり、口はこの機械に連結される機械である。拒食症の口は、食べる機械、肛門機械、話す機械、呼吸する機械(喘息の発作)の間でためらっている。 こんなふうにひとはみんなちょっとした大工仕事をしては、それぞれに自分の小さな機械を組み立てているのだ。〈エネルギー機械〉に対して、〈器官機械〉があり、常に流れと切断がある。シュレーバー控訴院長は、尻の中に太陽光線をきらめかせる。これは太陽肛門である。

――宇野邦一訳


思うに、我々の身体とは、我々でないものまで機械として作動させることがある。そこにはスイッチなどがあり、肩書きなんかをもらうと、自分の身体を棄て組織でうんこを漏らそうとする。たしかにこれにくらべると、太陽肛門なんかはストイックさで清く正しいような気がしてくるほどだ。肩書きのスイッチが入ると、「誰にでも」命令を下せると思っているレベルの奴がなんでこんなにおおいのか、一見わけわからない。たとえば下部組織の人間だってただちにお前の部下ではないことすら忘れ、政治と官僚の関係も部署の違いも忘れる。しかし、違うのである。自分の脳で発した素晴らしいアイデアを、組織の肛門から排出しているだけなのだ。このとき、組織は死ぬが彼の脳だけは生きのびるようにみえる。しかしやはり組織は組織であって、食道と肛門だけでできているのではない。ちゃんと筋肉とか肺とかもある。

組織のなかにいると、強者と弱者の対立と言うより、肩書きで興奮した強者が、組織を支える動きが可能なある種の強者を奴隷としてつかうために、何もしない多数を奴隷でない右往左往するだけの群れとして放置しながら甘やかす場合さえあるのがわかる。外部から観ると、あたかも上の興奮した輩が勇敢な抵抗者に見えることがある。だから外から見ているだけではだめなのである。確かに、いろいろ外から見えることもあるだろうが。外からは、すべての動きがゆっくり自分勝手に総花的に見える。だから、もっと単一の食道と肛門しかないような美しい花を夢みる。この外の人とはだれかに似ている。先ほどの興奮した脳の人に似ているのである。

純粋姫様の周辺

2025-03-11 23:40:16 | 文学
 かかる物思ひに添へて、三条いとめでたく造り立てて、「六月に渡りなむ。ここにて、かくいみじき目を見るは、ここの悪しきかと、こころみむ」とて、御むすめども引き具していそぎたまふ。衛門聞きて、男君の臥したまへるほどに申す、「三条殿は、いとめでたく造り立てて、皆ひきゐて渡りたまふべかなり。故上の『ここ失はで住みたまへ。故大宮の、いとをかしうて住みたまひし所なれば、いとあはれになむおぼゆる』と、返す返す聞えおきたまひしものを、かく目に見す見す領じたまふよ。いかで領ぜさせ果てじ」と言へば、男君「券はありや」と宣へば、「いとたしかにてさぶらふ」。「さては、いとよく言ひつべかなり。渡らむ日を、たしかに案内してよ」と宣へば、女君「また、いかなることを、し出だしたまはむ。衛門こそけしからずなりにたれ。ただ言ひはやすやうに、いみじき御心を、言ふ」と怨みたまへば、衛門「何かけしからず侍らむ。道理なきことにも侍らばこそあらめ」と言へば、男君「物な申しそ。ここには心もおはせず、御なめあしき人は、『いとあはれなり』と宣へば」、「わが身さいなまるる。よし」とて笑ひたまへば、衛門心得て、「いかがは申すべき」とて立ちぬ。

道理なきことには正義の鉄拳をと息巻く人に対して、姫様は誰にでもお気の毒だと思ってしまうみたいである。今でも、殲滅せよみたいな正義派と寄り添い派の両方がいる。しかしこの二つは別に対立しているわけではなく、後者が前者のように振る舞ったり前者が後者のようなことを言い始めるのが屡々である。そのためにであろうか、大して細々描かれていない姫様が純粋な存在として想定されていなければならず、これは我々の文化で人間を超えたお姫様が屡々顕れるのと同様である。この純粋姫様の周りに憎しみや笑いが決定的な亀裂を生じさせずに生起する。姫様は天皇の血を引くものであった。



藤井清治の『光り輝く神の御支配』(昭19)である。まさに、この時代からやたら「見える化」をやりたがっていた証拠のひとつであろう。各自に与えられたる神性は努力によって真に顕現するらしいのであるが、ハイデガーと違って死の影がなく、この図の2頁後には、教育とは「育成」ではなく「化育」であり、その者を喜ばしめつつ行われなければならない――みたいな、現代の絶対的自己肯定感みたいなことまで言うている。だいたいこの「神」に関しては、彼の「世界平和樹立理念の提唱」(昭16)でも、宇宙とはアマテラスの身体だみたいなことを言うているところからして、「天皇陛下萬歳」みたいな崇拝とはストレートに繋がらない。しかし、同時に天皇が現存在として措定されないとこの論法はありえないようにみえる。そんな困難に感づいたある読者が、デジタルライブラリーの元になったこの本の表紙に、この議論は観念的で云々と疑念を殴り書きしていた。昭和12年の「全人類之指導原理大日本教 : 大日本国の真態・日本人と其本領」にも終わりのほうには、宇宙と人間の肉体と心の関係が図示されている。宇宙には、神界、霊界、幽界、現界があって、これが最初のほうから順に土台になってピラミッドのように重なりその最後に現界(肉体)が乗っている。そしてこのピラミッド全体が「こころ」である。つまり宇宙は心である。――というわけであるが、この図に、現にいる天皇とか幽霊とか不肖の人民とかがどこに位置づけられるのかわからないと同時に、心が肉体に従属した主観であるみたいな通念を転倒する勢いが、どことなく気合いありげにはみえる。これは復讐劇としての図式でもあったわけだ。

思うに、継子いじめや復讐劇も具体的にみえるが、それがそれだけでおわらない側面をあまり深く考えすぎると、上のような図式=空想に陥るのである。このような帰趨を我々は笑えない。官庁の世界のポンチ絵なんか、これと大差ないからだ。そういえば、与えられた個性が不可侵である(神性)という前提の元、「みんなちがってみんないい」が道徳化するとこんな感じになっているではないか。みんなの違いを全部記述してから言ってくれ、というやつである。逆に、キョンシー映画は「霊幻道士」という名前ついてたが、いま見るともはや人道映画にみえる。なぜかといえば、その「霊」とか「幻」がちゃんとぴょんぴょんとでてきて、人間の欲望と闘っているからである。宇宙とか霊界が出てこないのは重要である(すくなくとも一作目はそうだった記憶がある)。キョンシーと人間たちの暴力とは、人間の欲望の表れにすぎないところに笑いがある。これにくらべて、落窪の暴力と笑いは、慈悲と支配による平和に導かれる。これは人間の感情ではなく、何かそうしなければならない情動のせいである。むかし、ユーモア論というのがポストモダニズムのなかでも流行ったことがあったが、そのなかでフロイト的なヒューモアが、自己の解体みたいなものとセットのものとして持ち上げられたこともあった。要するに人間の行為の成長と関係づけられている(下手すると最近はこういうものでさえ、コミュニケーション能力らしい――)わけだが、もともとGalgenhumorは、実際の死刑台で放ってなんぼなのだ。みんなで仲良く放つものではない。ユーモラスな人間たちが、どのような情動に突き動かされているのかは、観察してみないと分からないのは当然だ。

そういえば、ニュー・マテリアリズムのカレン・バラッド『宇宙の途上で出会う』みたいな本は下手をすると、藤井清治みたいになるところがあるんじゃないだろうか。問題=物質(マター)とか、「こころのますがた」と何処が違うのだ。

欲望について

2025-03-10 23:16:42 | 文学


 人は肉慾、慾情の露骨な暴露を厭ふ。然しながら、それが真実人によつて愛せられるものであるなら、厭ふべき理由はない。
 我々は先づ遊ぶといふことが不健全なことでもなく、不真面目なことでもないといふことを身を以て考へてみる必要がある。私自身に就て云へば、私は遊びが人生の目的だとは断言することができない。然し、他の何物かゞ人生の目的であるといふことを断言する何等の確信をもつてゐない。もとより遊ぶといふことは退屈のシノニムであり、遊びによつて人は真実幸福であり得るよしもないのである。然しながら「遊びたい」といふことが人の欲求であることは事実で、そして、その欲求の実現が必ずしも人の真実の幸福をもたらさないといふだけのことだ。人の欲求するところ、常に必ずしも人を充すものではなく、多くは裏切るものであり、マノン侯爵夫人も決して幸福なる人間ではなかつた。無為の平穏幸福に比べれば、欲求をみたすことには幸福よりもむしろ多くの苦悩の方をもたらすだらう。その意味に於ては人は苦悩をもとめる動物であるかも知れない。


――坂口安吾「欲望について」


そういえば、このエッセイについてよく考えていなかったと言うこともあるけれども、――わたくしにとって、長年、実感がわかないにもほどがある問題でもあったが、なんかみんなが重要だと言うから欲望の問題について考えることにした。これによって、とにかく根本的なやる気がないということはどういうことなのか考えることになるであろう。

例えばわたくしは、ルイ・エモンの「白き処女地」が大好きであって、ここに描かれている欲望とは何だろうと時々空想する。これは映画化もされたが、文月今日子のマンガが結構よかった記憶がある。「大草原の小さな家」をいい話として受け取って育ってきてしまった私だからであろうか。カナダの仏蘭西人移民が恋をしながら森に沈潜していくはなしを、なにか自動的によい話として受け取っているのであろうか。森や農村の恋、ツルゲーネフの「あひゞき」や藤村の「初恋」をまじめに受け取りすぎているのであろうか。

情動・心・動物

2025-03-09 23:55:14 | 文学


よろしき人ならばこそ、もしやと言ひはべたらめ、ただ今の一の者、太政大臣も、この君にあへば、音もせぬ君ぞや。御妹、限りなく時めきたまふを持たまへり。わが御覚えばかりと思すらむ人、うちあふべくもあらず」など言ひて往ぬれば、かひなし。おりなむと思ひて、六人まで乗りたりければ、いと狭くて、身じろきもせず、苦しきこと、落窪の部屋に籠りたまへりしにも、まさるべし。[…]「北の方、このたびの御婿取りの恥ぢがましきことと、腹立ちたまふ。宿世にやおはしけむ、いつしかとやうに孕みたまへれば、心ちよげに見えたまふかし。北の方も思ひまつはれてなむ、いみじう誉めたまふめるものを。鼻こそ中にをかしげにてあるとこそ、言はるめれ」と宣へば、少納言「嘲弄し聞えさせたまへるなり。御鼻なむ、中にすぐれて見苦しうおはする。鼻うち仰ぎ、いららぎて、穴の大きなることは、左右に対建て、寝殿も造りつべく」など言へば、「いといみじきことかな。げに、いかにいみじうおぼえたまふらむ」など語らひたまふほどに、中将の君、内裏より、いといたう酔ひて、まかでたまへり。

車の中に閉じ込められた北の方たちは落窪の姫よりも苦しかったに違いないとか言ってみたり、鼻の穴に寝殿を建てられるとか言わせてみたりと、現代に生きていれば「箱男」でも書いたのではないかとも思われる「落窪物語」の作者である。うんこネタが有名な「落窪物語」であるが、そういえば、幼児は矢鱈段ボール箱とかに入りたがるものである。わたくしもそんなだった記憶があるが、やはり個体差がある。かまくらに頭をツッコみたがる同級生も全員ではなかった。――それはともかく、この物語の精神は幼児退行とでもいうものであったに違いない。

今日は情動論のトークセッションをオンラインで勉強しに行った。よく言われるように、情動が前個体的なものだとすると、いずれは個体になるのかもしれない。その前に上のように落ち窪んだり牛車に押し込められたり、鼻の穴に建物を建てたりするのであろうか?それとも我々は個体となってからその個体を広げて解体して行くのであろうか?ここに強い感情が伴うことは確かであるが、それが我々にとって欲動なのか情動なのかわからない。学生にパッションを要求する教師が多いし、そのためには自分がパッションを持っていないと感染しないとか言われることもあるが、この現象は情動の範疇なのであろうか?思うに、赤ん坊の泣き声を我々は蝉の鳴き声と一緒にすることができない。たぶん、情動の理論の底にはそんな感覚が横たわっている。

豹一はぱっと赧くなったきりで、物を言おうとすると体が震えた。呆れるほど自信のないおどおどした表情と、若い年で女を知りつくしている凄みをたたえた睫毛の長い眼で、じっと見据えていた。
 その夜、その女といっしょに千日前の寿司捨で寿司を食べ、五十銭で行けと交渉した自動車で女のアパートへ行った。商人コートの男に口説かれていたというただそれだけの理由で、「疳つりの半」へ復讐めいて、その女をものにした。自分から誘惑しておいて、お前はばかな女だと言ってきかせて、女をさげすみ、そして自分をもさげすんだ。女は友子といい、美貌だったが、心にも残らなかった。


織田作之助は表情を行為で解体し「心」ここにあらずの主人公たちをあたかも動物の感覚にまで還元しようとする如くであり、最後の場面の雨は蛙に降っているようなものかもしれない。しかし読者たちはここになんか「心」を感じる。同じイケメソの話でも、谷崎の「美男」と織田作之助の「雨」ではかなり違う。わたくしは後者がすきである。どうも、蛙のそれのように残った「心」に心を感じる昭和文学に惹かれている性もあるが、谷崎の主人公たちはもっとまともかたちで「人間」的に気が狂っているからである。

私は、教育家の口から、児童生徒の個性尊重の話を聞く度に、今日の教育の救はれないものに成つた理由を痛感します。教育と宗教とは、別物でありますけれども、少くとも宗教に似た心に立つた場合に限つて、訓育も智育も理想的に現れるのだと考へます。
この情熱がなくては、教授法も、教育学も、意味が失はれてまゐりませう。生徒、児童の個性を開発するものは、生徒児童の個性ではなくて、教育者の個性でなければなりません。


――折口信夫「新しい国語教育の方角」


思うに、折口は、教師にも児童生徒にも人間を感じていないのである。宗教に似た心によってなされる教育者の個性とは、蛙のような鋭さを持ったものだ。蛙が落ち窪んだところにいるのは自然に冬眠するからにである。これをポストヒューマンみたいに感じるのは我々が人間にまだ未練を持ちすぎて居るどころか、蛙を差別しているからに他ならない。

人間の組織の内部監査とかいわれるたびに、わたくしは、「アナコンダ」における、アナコンダの食道内部からの視点で飲まれた人間の頭がカメラに向かってくるB級映画最高の場面を思い出す。我々はいつもこのような奇妙なことをやっている。アナコンダの腹に入っていないのにどうしてアナコンダの食道が撮れるのであろう?

「私は勉強する学生よりも、学生運動をする学生の方が好きです」なんていってたのは、どこの誰だい? 大河内一男前総長だよ。それならそれで、愛する学生運動家の吊し上げを最後まで食らって死ねばいいじゃないか。それこそが男としての一貫性だ。言行一致だ。

――三島由紀夫「東大を動物園にしろ」


三島も蛙になりたかったくちである。最近、研究者のアスリート化がめちゃくちゃ進んでいるなというのが、日々の印象である。アスリート化は肉体組織の目的化=人間化である。安部公房がオタク化を予言したとすれば、三島由紀夫はアスリート化を予言的に実践して、しかも死んでみせた。かくして、アスリート化した研究者は健康になって永遠に三島に負け続ける。清原氏なんかは野球選手の三島由紀夫みたいなものだ。しかも現代医学で生きのびて、あとどうなるかを実践している模様である。三島を超えるのは清原氏を措いて他はなし。

ぐるっと線でそれを囲めば

2025-03-08 23:36:59 | 思想


たゞスターリンの人となり、スターリンの正体は、知れるものなら知りたいと思ふ。不思議な存在に対する好奇心のせゐか。彼は千八百七十九年に生れた筈である。私と同じ年である筈だ。同じだけの人の世を見て来た筈である。

――正宗白鳥『読書雑記』


トランプが暴れているせいで、露西亜と米国が似た国になったという感慨があちこちから洩れているが、安部公房や三島由紀夫みたいな人たちがむかしそういうこと言ってたのは勿論、多くの人々が結構言っていた訳で、――冷戦というのはそういう似たもの同士が対立したさまを示すことで真の対立を隠蔽しているのというの、(新)左翼の常識だったのではないだろうか。だいたい、第二次世界大戦終わったとき、この二国はグルだった訳で、で、言ってみりゃずっとグルだったわけで、中国(むかしは生意気な大日本帝国)が台頭してくりゃそりゃ元のように組むわなとしかいいようがない。

ロシアは世界に冠たる社会主義革命をまがりなりにもでっちあげた国であり、アメリカも同じような意味で民主主義から始めた国というのをでっち上げた国である。この思想系の国はところどころ、その思想を振り回す場面でその人間性を発揮する。我が国が絵とか文学で発揮するのと対照的である。例えば、むかし「ビバリーヒルズ高校白書」に、主人公の一人である金髪美少年のブランドンが「決まりは破られるためにある。違いますか」とか主張して、飲酒し卒業が危なくなった女友達を卒業させようと、同級生みんなでデモる場面があった。これは、校長や教頭、親の世代の――かつての学生運動を想起させる形で、ノスタルジックにえがかえてもいたわけであるが、しかし、このブランドンのこういう発想て、法や習慣は破られるためにあると言わんばかりのトランプとあまりかわらない。だいたいこの白人のお金持ちの子ども達は、グループ内で相手をとっかえひっかえ交際したり、妙に卒業後に起業とかしたりしている点、やつらは青春の典型ではなく、新たな偉大なアメリカの典型だったのである。ものすごく長いドラマで、その「高校」とか「青春」的な雰囲気を長引かせることで、そのことを隠蔽していた。

彼らは自由や青春を謳歌しながら、典型を押しつけてくるので、その典型を受容することが自由を体現しているような錯覚に陥った我々は、他のものが不自由にみえてしまう。子どものおもちゃのカタログとか観るとわたくしでさえ、男の子はダンプカーとか消防車にか興味がないのかよとか、女の子はキッチンとお洋服かよと思う。これらはおそらく、アメリカの五〇年代だかに輸入された何かである(イメージ)。そういえば、男の子の恐竜趣味がオタクと理系に、女の子の恋愛趣味が文系に強く導かれすぎているのはどうみても遺憾であるからして、――小1の教科書には、ダンプカーの女子が恐竜と子どもを作ってその子どもが医者やりながら恋愛小説を書き、最後兵十にうたれる話を載せるべきだと思うのである。すなわち、我々は、定期的に兵十にうたれる如きアナイアレイションを体験して、ごんのジェンダーなど問題にならない現実を見出すべきであった。我々の現実は、どちらかというと、典型による二分法による破滅の回避ばかりを選択させられてしまう。

夜のNHKのニュースで、Xで私が退職した本当の理由というハッシュタグでさまざまなセクハラの被害者の声が可視化されたと言っていた。ずっと言われてきているが、この論法は危険であり、テレビの制作者がXの声を真実だと思って右往左往しているの単にばからしい。そもそもセクハラが深刻なのは中居の件以前からだし、Xの声というのは「声」じゃなくて出力された「文字」なのだ。言うまでもなく、Xに書かれている文字としてのお気持ち的精度じゃ物事の実態はつかめないのであって、そこをきちんと取材などで問題が何処にあるのか研究するのがメディアの役割だったはずだ。よく言われるようにSNSの何が問題かというと、書き込みが吹き出しの中にある科白になってて、人物の思ったことが書かれているように感じられる。我々の「声」と感じられる本当の姿は、吹き出しの如く括りはないし、それ自体独立もしていない。にもかかわらず、ぐるっとそれを線で囲めば、価値がないものにも価値があるように感じられる効果すらあるわけである。額縁効果である。学校でよく使用されている「ワークシート」の効果もそれで、白いノートよりも格段に何か書いてみようという気になるかわりに、修正もそれ以上の思考の発展ものぞめない。これがノートテイクに取って代わってしまったのが深刻である。学級崩壊や発達障害に対する有効な手段として開発されたことがオルタナティブとしてかんがられてゆくのは理由もあったが、そもそも教育のプロセスが、旧弊として批判される際にものすごく単純化されて理解され、もともとの困難さや難しさが忘却された面がある。

それは教育界だけに限ったことではない。執拗なリアリズムが欠けているところで、旧を乗り越えるみたいなことをすれば、じぶん以外を蔑視してしまうような、頭の悪い研究者みたいに現代社会全体がなってしまうであろう。ある種の蔑視によって論文の大量生産て実際可能なのである。よく読めばリアリズムの深度に問題があるのが明らかなのだが、それが判明するのには時間がかかるので、本人もそれが判明したときには時代が変わったとか言えばいいと思っている。

善悪の判断は二分法のかたちをとり、それでよろしいのだが、だからといって、それを現実の仕組みの説明に使用するから、排除しかやることがなくなるのだ。そういうことが大変幼稚であることを告発するところから近代文学は出発している。むろん、彼らの認識にも二分が入り込み作品も混沌とする――プロレタリア文学なんかはその表れである――わけであるが、混沌すら経験しない連中よりはかなりましである。

反「復讐のリアリズム」

2025-03-07 23:48:49 | 文学


よしと誉めし装束も、すぢかひ、あやしげにし出づれば、いとどかこつけて腹を立ちて、しかけたる衣どもも着で、「こは何わざしたるぞ。いとよく縫ひし人は、いづち往にしぞ」と腹立てば、三の君「男につきて往にしぞ」といらへたまへば、「なにの男につくべきぞ。ただにぞ出でにけむ。ここには、よろしき者ありなむや」と宣へば、三の君「されば、ことなることなき人もなかるべきにこそあめれ、御心を見れば」と言へば、「さ侍り。面白の駒侍るめり。かうめでたき人も参りけりと心にくく思ふ」など、まれまれ来ては、ねたましかけて往ぬれば、いみじうねたみ嘆けど、かひなし。北の方、落窪のなきを、ねたう、いみじう、いかで、くやつのために、まはししきくせんと、惑ひたまふ。われは、さいはひあり、よき婿取る、と言ひしかひなく、面起しに思ひし君は、ただあくがれにあくがる。よきわざとて、いそぎしたるは、世の笑はれぐさなれば、病ひ人になりぬべく嘆く。

思うに、落窪のお姫様にたいする北の方のいじめは、読者にとって常軌を逸したものであったかあやしいのではなかろうか。姫が助けられて馬面の「面白の駒」が四の君と結婚したりするのは確かに復讐劇の筋なんだが、姫がやってたきちんとした縫い物も供給されなくなって歎いて病になりそうになっている北の方をみて、読者はどこか敗者となりつつある彼らにシンパシーを抱きかねない。

どうも、我々の「判官贔屓」というのは、勝者と敗者がひっくりかえることによって導かれていて、単に負け犬がかわいそうとおもうのとは違う。やったことはともかく負けた状態になればかわいそうに思うという、――自分が負けているからなのか、自分のほうにモノが近づいてくると親近感を覚えているのかも知れない。それは一種のメランコリーではないかと思う。だから、読者は現実には「勝」とうとがんばる。そして北の方みたいなことも平気でやっているのである。

これに比べれると、女優としては完全に勝ってしまったにもかかわらず、人生において日本一空虚だと思っていた高峰秀子様の決断は、安易なメランコリーとは無縁であった。貧乏な助監督だか撮影助手だか(ただしけっこうイケメンではある)と結婚した彼女がプロレタリアートの味方であるのは確かである。対して、最近、資本家の「嫁」になってしまう美人女優とかが多すぎる。そういえば、日本人の大リーガーの「嫁」はどうであろうか。それは、大リーガーを英雄ととるか植民地から連行されている闘牛士みたいなものととるかによる。

教育学者の鳥山敏子さんてもう亡くなってたことにさっき気付いた。例えば、吉本隆明なんかは、こういうタイプのひとを普遍的な真理に寄りかかっているとみなして批判しそうである。吉本は、判官贔屓のふりをした強者の支配に敏感だった。しかし、吉本隆明信者のなかに、いろいろ長い間「大衆の原像」みたいなもんを見つめ続けた結果、ものすごい大衆蔑視みたいなところにたどり着いている人が居るのは非常に興味深い。結局、吉本の大衆とは、虐待されている落窪の姫様であって、救われた後にいなくなったようにみえた虐げられた人々をさがし、更には落窪の邸宅に隠している狡賢いやつらをどこかに想定していきり立つしかなくなる。いわゆる陰謀論と吉本的リアリズムは表裏一体であって、現実がみえていない者達を見えなくてもどこかに想定するしかない。そして理念を言いがちな人々をその見えない範疇に代入する。

ほとんどがヤクザの支配みたいな状態でも、ときたま過去に示されていたdecencyが勝手に復活することがある。確かにそれが目に入らないほど心が壊れている人たちがたくさんいるにしても。落窪的なシーソーゲームはそういう復活劇をリアリズムのなかに覆ってしまうところがあると思う。

imagination

2025-03-06 18:27:10 | 文学


商人が栄えるのはただ若者の乱費のためだし、百姓が栄えるのはただ麦が高いためだし、建築家が栄えるのは家が倒れるため、裁判官が栄えるのは世に喧嘩訴訟がたえないためである。聖職者の名誉とお仕事だって、我々の死と不徳から生ずるのだ。「医者は健康がきらいで、その友人が健康であることさえよろこばない。軍人は平和がきらいで、自分の町の平和をさえよろこばない」と古代ギリシアの喜劇作者は言ったが、その他何でもそんなわけである。いや、なお悪いことには、皆さんがそれぞれ心の底をさぐってごらんになるとわかるが、我々の内心の願いは、大部分、他人に損をさせながら生れ且つ育っているのである。
 そう考えているうち、ふとわたしは、自然がこの点においても、その一般的方針にそむいていないことに気がついた。まったく博物学者は、物の出生・成長・繁殖はそれぞれ他の物の変化腐敗であると説いているのである。

まことに物その形と性質とを変えるとき、
前にありしものの死のあらざることなし。(ルクレティウス)


――モンテーニュ「随想録」関根秀雄訳


トランプは商人だが、物をあっちからこっちに動かすときに生じる利益をくすねるようなやつではなく、悪徳とか死とか憎しみとかを消費する聖職者とか教師とかに近い。上のモンテーニュの「一方の得が一方の損になる」という感じである。これは一般には――というか本人にとっては道徳とか倫理とか正義とか呼ばれ得ると考えられるが、モンテーニュが思うように「それが自然じゃないか」という直感に裏打ちされているため、非常にやっかいなことなる。自らの正義を我々は唯単に盲信しているのではない。

これに対して、非自然的なものを構築するという意味で、官僚組織とモダニズム芸術は案外相性がよい。ソ連なんかをみればよい。だから、官僚をつくるための試験を、自然的なものを追求する科学者や医者の卵に受けさせているのはあまりよくないんじゃないか。対して、思うに、文士の場合は案外いいと思うのだ。文士に必要なのは想像力ではあるが、ジャンプ台がいつも必要であって、彼らは、非人間的なものを消費するのである。

最近、世界に冠たる映画「新幹線大爆破」をリメイクするらしいが、ほんと藤岡弘の運転手役の代わりとか居るのか?とおもっていたら、必殺能年玲奈だそうである。がんばって頂きたい。がっ、このリメイクを「シン」なんとかといって溜飲を下げているアーチストたちをみていると、彼らにとっての非人間的なものが作品以外の現実であることがよくわかる。もうはっきり申しあげたほうがよいが、この場合、その現実とは「リニア新幹線大爆破」にほかならぬ。逃避ではなく、現実がタブー化しているから「新幹線大爆破」と言っているにすぎないのである。その保守性を、能年玲奈で埋めている。かんがえてみたら、もとの「新幹線大爆破」の新幹線より、現実の新幹線の顔が次第に不細工になっていくのはなんですかルッキズムへの抵抗ですかああそうですか。

高度成長の香り高い時代は「新幹線大爆破」でもよかったかもしれないが、もはや時代は貧乏な感じなので「新幹線代爆破」といわれてなにもすっきりしないそんなかんじである。爆発的なものはすでに想像力ではない。数ある爆発が起こるマンガでもすべてそうなっている。

在来の審美学なんか、その原子爆弾の微小なる破片によつてもぶち碎かれてゐる筈だ。最初の原爆体験者の日本に於ては、西洋にもまさつた異色ある新文学が起るべき筈だ。

――正宗白鳥『読書雑記』


正宗白鳥はいつも、おおくの人の想像力というものが、その「審美学」にすら達しないかたちで、爆発と自意識の間をふわふわ動いており、たいがい愛玩物を見つけて落ち着いているからくりを軽視している。昨日も書いたが、この愛玩物志向がわりと物に誠実なかたちをとると、変形とか変身への期待というかたちをとる。想像力についてモンテーニュは語る。

それから、寝る時には何ともなかったのに夜中に頭に角がはえたなどいう話は別に事新しくもないけれども、イタリア王キップスの事跡はやはり特筆するに足りるものである。彼は昼間熱心に闘牛を見物し、夜はよもすがら頭の上に角をいただいた夢を見たせいで、とうとう想像の力によってほんとうに額の真中に角をはやしたというのである。強い悲しみはクロイソスの息子に、自然が彼に拒んだ声を与えた。またアンティオコスは、その心にストラトニケの美しさをあまりに深く刻みこんだために熱を出した。プリニウスは、ルキウス・コッシティウスがその結婚の日に女から男に変じたのを、見たと言っている。ポンタノ及びその他の人々も、近世においてイタリアにおこった同様の変身を物語っている。それから、彼およびその母の切なる祈願によって、

イフィスは男となりて娘なりし日の誓いを果したり。(オウィディウス)


こういう真実は、次第にメディアの「映像」のなかに押し込められた。モンテーニュが言っているのは、実際に角が見える事態ではなく、実際に起きるという「カフカ」的な意味であった。現代の口承文芸的なものも、むしろネットのおしゃべりの中に実現したが、その実際におきる「カフカ」的な変身(はっきり申し上げると「差別」である)から逃避している。悪い意味で愛玩物的である。学校においてもSDGs関係の活動が愛玩物的になりがちであり、それらは差別の問題をスルーするための活動になってしまいがちである。SDGsの各問題がつながっているから問題だろうに。

そもそも問題を理解せずに実践するとろくな事にならないということは、実践してから分かることではなく、まずは言葉上で認識すべきである。実際に「起こる」ことは言葉上で起こるからだ。それが分かるために「勉強」しているのに、なんのために「勉強」をやっているかわからないじゃないか。そういえば、よく生徒や学生がその活動に於いて、半端な認識で市民に説教してもっと「意識高い系」に怒られるみたいなことがあるが、そうするともっと意識が低い人に啓蒙すればよいみたいに改心し、みずからもっと低い認識に墜ちてゆく――のは、むかしから飽きるほど繰り返されてきている事態でそういう事はまず体を動かす前に認識すべきなのである。だいたいその「意識高い系」は、問題が愛玩物のように単独で存在しているかのような錯覚に陥って居ることが多く、怒られる側もそうなのだ。そういう「系」の人間は、だいたい他人事をやめよとか自分事みたいな鈎語で他人を自分の問題に引っ張り込もうとするけれども、そこまでみんなバカじゃないのである。モンテーニュのいう想像の力で、現実が言葉のように見えているからだ。一見ジャーゴンにみえるけれどもそうでない場合があるのだ。

事務的な文書ばかりみてると、文学作品に対して、自由な解釈を許していて素晴らしいと言ってしまう人の気持ちも全くわからないではない。事務的なものは、それを作った側の運用上の自由がわりとあるが、与えられた側にあまり自由はない。あたかもコンプライアンスを無視する自由のようなパワーが必要なのである。それは想像力である。モンテーニュは、それを性の世界の妄想みたいなものから導き出そうとしている。コンプラの世界がそれを抑圧するのは当然のことだ。

歴史の終わりと言葉の絶滅

2025-03-05 13:16:31 | 文学


同級生に憎まれながらやがて四年生の冬、京都高等学校の入学試験を受けて、苦もなく合格した。憎まれていただけの自尊心の満足はあった。けれども、高等学校へはいって将来どうしようという目的もなかった。寄宿舎へはいった晩、先輩に連れられて、円山公園へ行った。手拭を腰に下げ、高い歯の下駄をはき、寮歌をうたいながら、浮かぬ顔をしていた。秀才の寄り集りだという怖れで眼をキョロキョロさせ、競争意識をとがらしていたが、間もなくどいつもこいつも低脳だとわかった。中学校と変らぬどころか、安っぽい感激の売出しだ。高等学校へはいっただけでもう何か偉い人間だと思いこんでいるらしいのがばかばかしかった。官立第三高等学校第六十期生などと名刺に印刷している奴を見て、あほらしいより情けなかった。
 入学して一月も経たぬうちに理由もなく応援団の者に撲られた。記念祭の日、赤い褌をしめて裸体で踊っている寄宿生の群れを見て、軽蔑のあまり涙が落ちた。どいつもこいつも無邪気さを装って観衆の拍手を必要としているのだ。けれども、そう思う豹一にももともとそれが必要だったのだ。記念祭の夜応援団の者に撲られたことを機縁として、五月二日、五月三日、五月四日と記念祭あけの三日間、同じ円山公園の桜の木の下で、次々と違った女生徒を接吻してやった。それで心が慰まった。高校生に憧れて簡単にものにされる女たちを内心さげすんでいたが、しかし最後の三日目もやはり自信のなさで体が震えていた。唄ってくれと言われて、紅燃ゆる丘の花と校歌をうたったのだが、ふと母親のことを頭に泛べると涙がこぼれた。学資の工面に追われていた母親のことが今はじめて胸をちくちく刺した。その泪だった。そんな豹一を見て、女は、センチメンタルなのね。肩に手を掛けた。豹一はうっとりともしなかった。間もなく退学届を出した。そして大阪の家へ帰った。


――織田作之助「雨」


フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」を笑う人は多いが、日本近代文学やらも終わったらしいし、批評やら学問やら世界やらの終わりをとてもたくさんの人たちが言っていて、フクヤマ以上に偉そうな態度である。人びとが、まだサリンを撒いた奴が言行一致しているんじゃねえかと思い始めたらどうするのだ。もちろん、上のすべてがまったく終わっていない。終わったのは2月ぐらいだ。もう3月である。

そういえば、教師たちに関しても、いつの時代も「最後の教師」とか同僚たちに言われているひとがいる。そういう事を言う人たちがどういう人かと言えば、勇気がない無責任な者たちというだけだ。いつも一生懸命な奴とそうでない奴が居るだけのような気がする。

いろいろなものが終わりそうだとかいうので、最近の大河ドラマなんかも、物事の始まりを描くことが多い。昨年の源氏物語なんか、平安貴族の時代の終わりを描いているだけ良心的だ。わたくしの幕末のイメージといえば、「夜明け前」とみなもと太郎の幕末マンガでできているような気がするのであるが、そのせいか、私には、幕末から明治というのは狂気とギャグでしか正視に耐えない。大河ドラマとかで扱われるのはそれだけでどことなくいやだ。明治維新のあたりを褒める奴の特徴として、実はこんな真実がありましたみたいな姿勢になるのもいやなのである。対して、戦国時代以前はどことなくおとぎ話にならざるをえないから、想像力でこんなに補ってみました、みたいなのがいいと思う。もう題材は日本武尊とか白村江の戦いでよいのではないか。

大正時代あたりまではかなりのこっている、江戸的な気取りというか嘘らしさを、遅れた下品さとして必死に脱色していった結果が我々な訳でその潔癖さにわたしは共感するところがある。が、その代わりに、漢文古語を主として、語彙の溢れる感覚の鋭さを失った。わたくしはそれらを取り戻せるんじゃないかとも思っているのであるが。むかし、学生時代、近世文学の先生に、近代文学やっているやつは言葉がないところに文学があるみたいな感覚に淫しているオタクだと言われたことがある。それで結構である。そういう言葉の絶滅したところに近代の恐ろしさがあったではないか。透谷の言うAnnihilationが我々の起源である。

ぬいぐるみの項目には特撮のきぐるみが含まれているが、コスプレも着ぐるみの一種だし、かんがえてみたら、われわれもふだん顔だけ出したぬいぐるみや着ぐるみと言ってよいと思われる。いや、我々は、言葉や自分自身の絶滅を、着ぐるみでしのいでいるのである。

サザン音漏れ一安心

2025-03-04 23:04:57 | 文学


微風が北方からやつて來る。南方の海上には、海からいきなり立上つて固まつた感じのする御藏島の青い姿が見える。その島と、僕のゐる三宅島との間の海面には、潮流が皺になつて、波立つて、大きく廣々と流れてゐる。やがて、僕は身體の向きを變へて北方を眺めた。青い。何もかも青い。神津島、式根島、新島が間を置いて列つてゐる。その彼方には伊豆半島あたりなんだらうが、紫紺色に煙つてゐて何も見えない。遠い遠い色だ。その奧から小さい雲がいくつもいくつも産れて來て、あるものはしだいに大きく頭上に近づきながら消え、あるものは北から西へかけての海上にゆるゆると並んで動いてゆく。なんといふ魂をひきこむ奴等だ、あの雲どもは。それを見てゐるうち、僕は突然思ひがけない悲しみの情に捕へられた。僕は思ひ出したのだ、東京に置き去りにして來た筈の僕の生活を、この二年間のさまざまな無意味な苦しみを。それは無意味といふより仕方のないものだ。そして、今だに僕を苦しめてゐる。僕はそれから逃げ出すことはできないやうな氣がする。

――田畑修一郎「南方」


サザンオールスターズが高松のなんとかアリーナにきたらしいんだけど、抽選に漏れた人が洩れる音を聞きにほんとにたくさんのひとがいた。で、CDを聴いた方が良いのではと言ったら細に怒られました。実際は、あまり音漏れはなかった模様である。近所の人たちは一安心かもしれない。

俯瞰とアナコンダ

2025-03-03 23:52:29 | 文学


暮るれば、君おはしたり。「かの四の君のことこそ、しかじか言ひつれ。われと言ひて、人求めてあはせむ」と宣へば、女君「いとけしからず。否と思さば、おいらかにこそしたまはめ。本意なく、いかにいみじと思さむ」と宣ふ。少将「かの北の方に、いかでねたき目見せむと思へばなり」と宣へば、少将「いと心弱くおはしけり。人の憎きふし、思し置くまじかりけり。いと心安し」と宣ひて、立ちたまひぬ。

文学とか思想を学ばないとある種の徹底としての俯瞰性が失われる。エビデンス主義みたいなのは、対処療法的な合理的な単純作業で思考を中断することへの強制である。例えば、ロマンとか啓蒙とか無とかいうのは俯瞰なのであろう。ロマン主義は現代のような時代においては逃避ではなく徹底性である。姫の憎悪を中断し心やすくなる傾向は一種の逃避であるが、現代においては、このような逃避が合理へ流れ、怨みや怒りを合理性の燃料としてしまう。我々はだいたい馬鹿なので、自分の怨恨を合理性と思い込むことさえあって、いわゆる人の言うことを全くきかなくなる。さんざ言われていることであるが、職業意識がその合理性を合理化することもある。大学教員みたいなものを「大衆の反逆」の著者が「大衆」と呼んだ所以である。

マックス・ウェーバーではないが、政治家は政治家として職業化されなければならないのだが、それは一種の理想で、商人だって政治家として生成する。そのときそれなりに簡単に彼は政治家として自己同一化をはたす。マックス・ウェーバーのいう職業倫理は正しいのであろうが退屈なのかもしれない。で、こういう自己同一性の魔改造みたいなことがしばしば起こって、世の中弁証法の季節の到来である。弁証法の顕在化みたいなものは、ある意味トランプみたいなものとしてある。いろいろと魔改造=揚棄すると世界がもともとどうなっていたかという事がよく分かるという。この弁証法はトランプみたいな人物を論理が待望しているところすらあるのではなかろうか。

政治犯、すなわち反逆者や革命家を「階級的仇敵」として徹底的に憎悪し迫害する習慣が日本の「支配階級」には“微弱”であること――むしろ聖書の中の放蕩息子としてその帰宅を歓迎する風習が強いことを、私は次第にさとるようになった。

――林房雄「大東亜戦争肯定論」


トランプは商人だが、林は文学青年である。かれもいちど世の中から放逐されたショックからなのか、自分を魔改造して放蕩息子や支配階級のふりをする形で自分を揚棄した。彼は、戦争を肯定したのではなくて、自分を含めた世界を肯定=揚棄するその身振りこそが重要だったのである。

吾儕は『人』としてこの世に生れて来たものである。ある専門家として生れて来たものではない。文学の道路も先づここから出発せねばならぬ。

――島崎藤村「「新片町より」序」


さすがに藤村は林よりも魔のスケールが違う。常に専門家になりかかると問題を起こして「人」に墜ちた。藤村の道徳くささは、彼が俗物であることを意味するのではなく、その「人」は道徳によって更なる堕落を避けることを知っていたからだと思う。いまや、道徳や宗教が犯罪に加担しないための防御の機能をもっていたことはわかる時代になったが、そういう機能が主なものであるような状況はいつもひどいもので生きた心地がしないものである。

芥川は「もののあはれ」の芸術に関して多大の理解と関心とを持つてゐたから彼が鷗外の文学を学んでゐる間に鷗外の新文学と「もののあはれ」的の文学との融和合流の上に使命を果すところがあつたらうと思ふのに、彼の夭折は遂に鷗外文学の流れに殆ど何物をも加へなかつた。

――佐藤春夫「日本文学の伝統を思ふ」


芥川龍之介にとってみれば、そういう「もののあはれ」では支えきれないものがあるということであった。藤村の方が生きるための堕落をいつ何で支えるか自覚的であったにすぎない。芥川は自己を支える自覚を解体することが癖になっていた。「鼻」や「羅生門」の頃からそうだった。

友よ、自分は君の所謂「動物力」によつて未だに生きてゐる。さうしてその「動物力」の使嗾によつて自分たちの瓦全を何か意味あることのやうに思ひ、且つは君の玉砕を惜み悲しんでゐる。

――佐藤春夫「芥川龍之介を哭す」


この動物への居直りはいつも危険であるが、日本近代文学の出発点から道徳の横にある「禽獣」の観念であって、それこそ道徳的に我々をしばっていた。昭和文学は、いちいちこの状態からの変身を願わなくてはならなかったのである。その自己欺瞞を知っていたのが太宰治である。だから彼は「人間失格」としか言わなかった。

そういえば、このまえ、二十年ぐらい前の映画だったと思うが「アナコンダ」というのを見直した。マニアが好きな大蛇映画である。大蛇に意味なんかあるかという原則とともに、やはり意味の塊である。邪な欲望を抱いた奴は全員死んでいるところからして姦淫すべからずがテーマ(わざわざ「元聖職者、いまアナコンダ生け捕りおじさん」まで出している。彼が大蛇に飲まれるところがクライマックスである――)であるにもかかわらず、勢い余って、子どもをたくさんこさえているアナコンダまで殺しておるから、まさに、少子化のすすめとしかいいようがない映画である。なかに、いけすかないブルジョア気取りの男がでてきて、次第にみんなに溶け込むが、そうなるまえにかれがヴェルディの「ドンカルロ」にでてくる「われらの胸に友情を」を歌ってるのが印象的である。ブルジョア芸術は人間の運命を俯瞰する。だから階級を超える。かれは蛇に殺される運命であったが、階級的和解は果たした。

中国からの逃避

2025-03-02 23:11:38 | 文学


典薬がいらへ「いとわりなき仰せなりや。その胸病みたまひし夜は、いみじう惑ひて、御あたりにも寄せたまはず、あこきも、つと添ひて、『御忌日なり。今宵過ぎして』と、正身も宣ひて、いみじく惑ひたまひしかば、やをらただ寄り臥しにき。のちの夜、責めそさむと思ひて、まうで来てあくるに、内ざしにして、さらにあけぬを、板の上に夜中まで立ち居、ありはべりしほどに、風引きて、腹ごほごほと申ししを、一ニ度は聞過ぐして、なほ執念くあけむとしはべりしほどに、乱れがはしきことの出でまうで来にしかば、物もおぼえで、まづまかり出でて、し包みたりし物を洗ひしほどに、夜は明けにけり。翁の怠りならず」と述べ申して居たるに、腹立ち叱りながら、笑はれぬ。まして、ほの聞く若き人は、死に返り笑ふ。「いでや。よしよし。立ちたまひぬ。いとかひなく、ねたし。異人にこそあづべくかりけれ」と宣ふに、典薬、腹立ちて、「わりなきこと宣ふ。心には、いかでいかでと思へど、老いのつたなかりけることは、あやまちやすくて、ふとひちかけらるるをば、いかがせむ。翁なればこそ、あけむあけむとはせしか」と、腹立ち言ひて、立ちて行けば、いとど人笑ひ死ぬべし。

糞を漏らした老人の話に死ぬほど笑う北の方と女官たちのエピソードは、ここまで行われていたお姫様に対する北の方のいじめをどこかしら緩和する効果すらある。そもそも落窪の姫に対する虐めに対してこの話は真剣に対峙していない。はじめからそれを軽く扱う結構を繰り出している。

こういうありかたが普遍的なやりかたなのかわたくしはわからない。

わたくしの興味があるのは、中国文学や思想を、どれだけ我が国のインテリたちはどれだけ真剣に受け取ったのだろうか、ということだ。ドストエフスキーに出会った文学志望者たちへのトラウマのようなものはなかったのであろうか。

――いずれにせよ、中国に対する恐怖を舐めた態度で朧化するみたいな態度がどこかで身についてしまったきがする。国語の論理的能力みたいな蠅の糞みたいな議論をみてておもうのは、次のようなことである。そもそもおれたちのつこうとるうじゃじゃけた文体は漢文の影響を受けすぎた文体の解体の可能性に賭けられていたところがあるわけで、そんなに論理的になりたいのなら、漢文を勉強したほうがよい。実際、わたくしの知っている漢文学や中国思想の人には独特の論理性があるので、エビデンスがありゃ論理的と感じる程度の人なんか屁と思わないだろう。言文一致的、「思い」中心的な文体を破壊する気のない奴が論理とかいうてもコマルのである。

単純に、女文字というのが、その朧化のあらわれだというような議論があった気がする。マンガの大ヒット作品は手描きという説があるけど、研究室の黒板に手書きで何か書いておくと落ち着く気がわたくしもする。街の落書きも、なんか落ち着くからかもしれない。

世界は、トランプ以前からいつも狂っていたわけであるが、トップにおかしいやつを据えてみると、真実がわかるというのは、ネロの時代からヒトラーの例を挙げるまでもなくそうである。トランプは、本人の認識はともかく、米国の軍事に精神的にも物理的にも依存していた世界の狂気を改めて認識させた。もちろん、トランプがよいというわけではなく、最悪である。トランプが長い人生のおかげでNATOとかCIAの非道を若人たちより覚えてるとか、そういう何かに期待するしかあるまい。トランプもあれである、「アメリカファースト」とか「グレイトアゲイン」じゃなくて、「アメリカが手を引いたら戦争も終わりみたいな世界を終わらせようぜ」とか言っておけば、西洋の超克論者や左派を巻き込んだ味方がもっと増えたのではなかろうか。だいたいアメリカ帝国主義批判――CIAとかNATOだかへの批判とともにあった米国依存への批判て、かつて左派の主張のひとつのポイントだったはずではないか。それがなにか、リベラルみたいなやつらが、民主主義国アメリカにまなべみたいなことを言い出しておかしくなった面がある。ここにもその実中国への恐怖の裏返しがあった気がする。

知り合いのもと全共闘のおじさんがいってたが、――ニクソンが中国に行ってから、中国は日本の左翼を本格的に見捨てた。そこでいろいろ終わったというか、明治以来続いていた左翼的東亜共同体論の夢も本格的に終了したと。しかし、――というか、多くの左翼は中国のこともよく分かってないくせに、もうアラブとかアフリカとかの第三世界にとんでたような気がしないでもない。確かに、マオイズムの帰結(連合赤軍とか)が悲惨なことになって、そことの対立も避けたのだ。アフリカもいまや中国に取られてそうだしどうしようもない。いまこそ日本の特徴であるところの、大国の函数呪術師みたいな類友の国を見つけ、仲良くしておくしかないのではないか。中国はある意味自分の本体であるアジアを見捨てたわけで、もはや華中思想の表れですらないぞ、本体はアメリカだ。

――以上のように、学者と政治家というのは、語り出すと案外同じようなことを妄想していることがあると、私は思い上がって思うのだ。政治家と大学の先生は本人たちが思っているよりも似ているので、学問が政治に攻撃されているみたいなイメージはいつもある程度しかあたっていない。ただ、政治家が文字通りの政治家みたいな奴であった場合、そして学者が学者らしくあった場合である。

死・群衆・大学

2025-03-01 06:04:31 | 思想


で、わたしは本当のところ、こう思うのだ。死のまわりを取り囲んでいる、あの恐ろしい顔つきや道具立てが、死そのものよりも、われわれをこわがらせるのだと。そこでは、生の形式がまったく別のものになってしまっているのだ。母親や妻子たちは泣きさけび、びっくりして、身を固くした人々が弔問におとずれる。青ざめて、泣きはらした顔の召使いたちが、控えている。日のささない部屋には、ローソクがともされて、枕元は、医者や司祭たちに取り囲まれている。 要するに、まわりはすべて、恐怖と戦慄なのである。われわれはもう、屍衣にくるまれて、埋葬されてしまったも同然なのだ。子供というのは、それが友だちであっても、仮面をつけているとこわがるものだけれど、われわれも同じだ。だから、人からも、物からも、仮面を取り去る必要がある。仮面をはいでみれば、その下には、召使いやら女中やらが、少し前に、なんの恐れもなしに通りすぎていったのと、まったく同じ死が見いだされるだけなのだ。人や物がものものしく集うための準備をする暇もない死、これこそが幸福な死ではないか。

――「エセー」第一章第一九章(宮下志朗訳)


「呪怨」は最初の映画の半分ぐらいしか観てないんだが、下の世話が自分で出来ない老人宅にヘルパーが訪ねるところからはじまり、その荒れ果てた家の様子を長々と描いていて、――ホラーの人的本体・白い子どもや黒い女性が出てくる前に恐怖感がすごい。これが「リング」にはない恐ろしさを出していて、観客に、誰の家でもそういう呪われた家に住んでいるかんじを与えていてリアルである。「リング」は死そのものに対する恐怖を描いているのだが、「呪怨」は未来に対する恐怖そのものの予感を描いている。もっとも、モンテーニュのいう、恐ろしさが派手な「仮面」に頼っているのは、これらの映画でも一緒である。そして、この「仮面」は、その形象それ自体がおおげさに変形し暴走することによって「死」を物象化させ、人命の軽視のみならず死への過大な恐れを生み出すのである。モンテーニュは、この長い章で、さまざまに昔から死がホラー化して人間の生を狂わせる様をしめすためにであろう、それに抵抗した良識があったことを細々と例証してゆく。モンテーニュは死のホラーから逃れるためにこれほどの努力をしなければならなかったのであり、どうみても真に死に神にとりつかれていた。

私も思春期に、祖父や祖母が亡くなって、この経験は、これは非常にわたしの進路に影響を与えたと思うのである。死に神にとり憑かれていない文士や学者はわたくしは信用しない。生をコントール出来ると思っているのが死に神にとり憑かれていない者の特徴である。

みんな言ってることだろうが、――不老不死を目指してがんばる話が無惨な結末を迎えることを忘れはてているのはまずいのではないかと思う。今の医学は、治療ではなく、滑稽な不老不死思想と安心安全思想の結合であって、きわめて人文学的な分野になっている。目の前に生死を置いているのだからむしろ文学はそこにあるようなきがしないでもないぐらいであるが、彼らはおそらく、メフィストフェレスに魂を売り渡す前の、ファウストみたいなもので、生をコントロールできると思っている節がある。

コロナでそれを逆にアピールしようとした医学界、ひいては現代社会は、コロナ以上にコントロール不能な戦争や指導者に振り回されている。よのなかうまく出来たものである。

群集は地獄である。〔略〕群集のなかに息づまらない人は、結局常に奴隷である。群集のうちに息づまる人間はやむなくもう一つのもの――孤独の方へ行く。孤独は正に煉獄である。

――佐藤春夫「芸術家の喜び、其他」


思うに、群衆の中の孤独とか言っているうちはまだ平和だったのだ。芥川龍之介が「奉教人の死」でさんざ警告していたというのに、なぜかそのあとの群衆への眼差しは、自分だけはコントロールできているという幻想に向かったような気がする。いまでも、群衆と化した、大学生の学歴への自意識の塊が差別の対象の死を願って生を謳歌しようとしている。

例えば、地方の大学をどうするかみたいな話は定期的に話題になるが、――わたくしの経験から言っても、地方の山の中の小さい大学っていいのである。静かだし、ほんと、勉強も青春もやり直すことができる感じがある。だいたい日本の大学は首都圏のやつは特にでかすぎる。あれでは学生が群衆化しておかしくなるのは当たり前だ。

「チーム**」とかいう科白が平気で吐かれるようになれば、民主主義なんて簡単に死ぬのだ。左翼の組織論に限らず、もっと一般的にも組織のあり方こそが問題だったのに、群衆と化した孤独な人間たちが言う、個人よりもチームでやった方が良いみたいなデマに社会が乗っ取られて、いろいろなものが死んだのだ。

わたくしにとって、山の中での小さい単科大学での学生時代は、音楽と文学に集中できた第二の高校時代という感じであった。マンモス校のそわそわした蒙昧な雰囲気での堕落は、むしろ大学に入る前の予備校と大学院時代に経験したと思う。そういえば、そのまえの高校時代は、荒れがなくなった中学時代というかんじだったようなきがする。幸運にも私は学生時代を引き延ばすことができたが、これはこれで結果的にはよかった気がする。日本の社会は納得できないことが多すぎるので、それを納得するためにものんびり学生時代をながながと過ごしてよかった学生は案外多いのではなかろうか。それを許さない親たちが多いのは、お金の問題もあるが、みずからの苦労からくる嫉妬と怨恨である。

もしかしたらもう研究があるかもしれないが、――わたくしが大学生だった頃、留年して大学七年生、八年生になっているひと、大学の音楽団体にも政治的なセクトにもかなりいたが、こういう人たちが将来どうなったか、そもそも大学時代、どうやって食ってたのか、研究してみる価値はありそうだ。いまもいることはいるが、存在が消されているような雰囲気だけど、むかしは堂々と闊歩してたイメージである。大学が四年間で卒業させろみたいな政策を強制されるようになってから、実質的になにが変わったのか考えてみる必要はある。しかし、これもどうせ、大学生を個人ではなく、学年ごとの群れで考えるような非人間的な発想の帰結に過ぎない。別に個々の人間が変わっているわけではない。彼らが抵抗勢力でも劣っているわけでも優れているわけでもないということである。

自助・勉強・糞尿

2025-02-28 23:22:34 | 文学


リーン・フェミニズムで引き合いに出される、シェリル・サンドバーグの『リーン・イン』というのを少し読んでみたが、なるほどこういうかんじだったのか。。よく知られているように、この書物だけに反論するためにだけに書かれた本がある。わたくしはこの分野には遅れに遅れてしまったためにこれから勉強しようと思っているが、少なくとも言えることは、本人がどういう働き方をしているかみるまでは全て信用できないということだ。サンドバーグは言う「ブレーキにはじめから足を置いて仕事を始めてはいけない」「アクセルを踏み続けろ」と。これが現実の文脈によっていろいろな意味になってしまうことは自明である。しかし、セルフ・ヘルプ(『自助論』)の本というのは、少なからず文脈を踏み破る暴力的な性格に依存しているところがある。だからそれは、ある種現実に目を向ける起爆剤としての意味を持つことがある。明治に流行った自助論だってそういう面があったに違いない。

北村紗衣氏の「【お砂糖とスパイスと爆発的な何か】『LEAN IN』はどこにつながったのか? ギークガールのロールモデルとシリコンバレーの闇」でも触れられていたが、サンドバーグの本にたいする、白人女性の大企業の成功譚にすぎないみたいな批判が、逆に否定的媒介になって、IT業界の人種・性差別問題を摘発する本が陸続としてあらわれることにもなったようだ。

しかし、こういう否定が肯定に、肯定が否定に転化する如き現象そのものはまだ学問の出発点にすぎない。

以前、あるIT系の人間と会ったことがあるのだが、なぜか大学卒に激しく怨みをいだいており、大学に入る奴はすべて母親が「教育ママ」だったのだと断言していたが、なんかしらんが彼のパートナーがまさに至れり尽くせりの教育ママみたいになっており、まさに否定が肯定に転化する法則を証明しているようであった。戦後の所謂「教育ママ」の起源を見た気がするが、――こういう人間たちにあるのはルサンチマンではなく人間への蔑視なのである。しかし、まだ上のITの人はのし上がってきた誇り(――というよりこれもまた蔑視の対義に過ぎないが)があって、まだ感情そのものは認識できるような気がしないではないが、同等に最悪なのは、教★学部の学生とかが、学問にのめり込む同輩を「ガリ勉」とか言って仲間はずれにしている様である。こういうのが現場に出て行っているかと思うとぞっとする。「教師は勉強だけじゃない」とか条件反射してしまう、勉強不足の人に言っておきたいのは、そういう人間は上の「仲間はずれ」を教室でも確実にやっているということである。「勉強できないけど人間性はよい」子を擁護する、みたいな雑な理屈で。そういうのを差別というのだし、その実、子どもの群れに阿っているだけなのである。具体的によくみられるのは、勉強もそこそこできる良心的な生徒や児童に調整役をやらせておいて、自分はでかい声で陽キャ風な先生をやっているやつである。正義の鉄槌を下す教師が駆逐され、そのかわりに暴力はふるわないが差別的な猿が就任したようなものだ。「教師は勉強だけじゃない」というのは、本質的に知的な勉強好きの教師だけが言ってよいせりふで、それ以外は単に自己弁護や差別になってしまうぐらいのことが分からない人間が、自分に似たような人間を集め出してしまったのが教育界の地獄である。ブラックという形容はまだ制度設計に罪を負わせようとしている点で逃避にすぎない。蒙昧な群れにみえるところに良心的な人間が行くはずがないわけだ。

ちょっと極端なみかたであるが、――平等というのは、1点刻みの学科試験でジグザグな横並びにされる感覚で、面接試験で当落みたいなものが身分制の感覚に近い。実際に、スクールカーストなんか、その平等を人間性で破壊するために行われているようなものではないか。人間性への蔑視はみずからの人間性への過剰な信仰からも生じている。

今や今やと、夜更くるまで板の上に居て、冬の夜なれば、身もすくむ心ちす。そのころ、腹そこなひたる上に、衣いと薄し。板の冷え、のぼりて、腹ごほごほと鳴れば、翁、「あなさがな。冷えこそ過ぎにけれ」と言ふに、強ひてごほめきて、ひちひちと聞ゆるは、いかなるにかあらむと疑はし。かい探りて、出でやするとて、尻をかかへて、惑ひ出づる心ちに、鎖をついさして、鍵をば取りて往ぬ。あこき、鍵置かずなりぬるよと、あいなく憎く思へど、あかずなりぬるを、限りなくうれしく、遣戸のもとに寄りて、「ひりかけして往ぬれば、よもまうで来じ。大殿籠りね。曹司に帯刀まうで来たれるを、君の御返りごとも聞えはべらむ」と言ひかけて、下におりぬ。

そういえば、落窪物語は、糞尿を用いた笑いが多いからという理由で作者が男とみなされているとどこかに書いてあった。サンドバーグももう少し子どもの糞尿についての記述を多くすればよかったのであろうか?

地獄的なあまりにも地獄的な

2025-02-27 23:52:36 | 文学


僕たちはサルトルと同じように神を信ずることはできない。 すでに僕たちの前には神は消え去ってしまっている。仏陀を信じてその教えの下に生きるということはできない。とすれば僕たちもサルトルと同じように、孤独と孤独が打ち合うものという風に人間を考えるところでとどまるのか。実際、コンミュニストのなかにも、まだこの人間の孤独から脱けでることが出来ていないひとがたくさんいる。僕自身もこの人間の孤独感にはげしくおそわれて、もはや処理することのできないような苦しい感じを抱かされることがあるが、この間も、二十代のコンミュニストの一人とこの問題について話し合ったとき、彼は、「如何にしようと、人間のエゴイズムはぬぐい去れない、いくらかなりとも残る。」という主張を苦しげにした。 そしてこのエゴイズムは福田恆存氏が肉体的事実と一しゅうするそこのところに根ざしているのである。僕のコミュニスムはこれをこえることのできるものでなければならない。

――野間宏「日本の最も深い場所」


野間は竹内勝太郎の「宗教論」の――、草で手足を縛られ、その草さえ傷つけること能わず死んでしまった僧のエピソードを紹介しつつ、しかし、仏教抜きにこの境地に達するにはコミュニズムしかないと言わんばかりである。この境地は、しかし、日本の「深い場所」、下部で蠢くもののイメージに支えられているようで、まあなんというか、つまりは地獄のイメージであろうか。野間はそれを戦場にで見たのである。だからそれはさしあたり「肉体」の苦痛の問題である。もうすでに精神は死んだ後だ。

藤本たつきの「チェンソーマン」は8・9巻当たりから、地獄の釜が開いたがごとき展開となる。いまの創作者にとっては、まだ地獄と現世は境界線がある。浅野いにおの「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」でも、地獄はまだ戦後の特撮よろしく外部からやってきた何かである。彼らは、外部と内部のレトリックを使って、最終的にはそれを混ぜてしまおうとする。そのときに、抵抗するものがあって、精神的なものであるが、しかしそれは幼児的な精神として純粋である。まだ、作者たちも含めて我々は地獄に墜ちたくはないわけだ。

労働は屡々地獄のイメージを伴う。だから「ワークライフバランス」とかがでてくるわけだが、――そんなに大事なら落合イチロー大谷あたりに言ってきてから主張しろよ、と一瞬思わないではない。が、二四時間野球のことを考えている彼らだって本当は、だからこそバランスもとれてそうである。結局、凡夫の何が足りないといえば、ワークの方である。ただし奴隷労働は除く。結局、アレントはそれを「仕事」と呼んだわけである。それは労働の阿鼻叫喚に比べて静に進行するはずだ。

阿鼻叫喚といえば、我が国においてはなぜか大人ではなく子どもが叫ぶ。ギャン泣きとか言われているほぼ病気にしか見えないものから始まって、学校でのキャキャー声に至るあれである。そういえば、それがあまりに日本語から逸脱しているように見えるからなのか、良心的な先生方は、そのエネルギーを声色を使った朗読で昇華させようというのであろうか?詩は声に出してこそだ、――みたいな主張の人は、いちど教育実習を見学して、どれだけ実際行われている朗読が地獄的に気持ち悪くなっているか確かめてきて欲しい。ちっとは公共性というものを考えてくれとしかいいようがない。下手な声優風の朗読って、作品の意味からも会話文の感情からも逸脱してるのである。つまり人間が地獄に墜ちたときの逸脱なのである。若い頃、多くの人が反発もしたかも知れない、国語教師の厳かすぎる範読って意味があったんだと思わざるをえない。