★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

老いた文明

2024-10-11 23:38:25 | 文学


「私はどうしても貴女と離れることができませんでした。それと同時に私は妻子とはなれることもできませんでした。私は世間なみの紳士としての対面と、夫として父としての義務とをはたしつつ、しかも貴女との愛を永久につづける手段を考えました。それがあの雑司ヶ谷の実験室での生活でした。しかし貴女が妊娠されたことを知ったとき、その露覚をふせぐために更に大胆な第二段の手段に訴えねばなりませんでした。人造人間の実験がそれであります。昨日は貴女に麻酔薬を用いて、老婆に頼んで、愛児を講演会場につれてゆきました。どうにか会場ではごまかすことができましたが、私の良心をごまかすことは遂にできません。世間を欺き、家庭を欺き、学問を冒涜し、最後に、恋人をすら欺かなければならなかった不徳漢にとって、残された道は死あるのみです。子供のことはよろしく御願いします」
 房子は博士の遺書を抱いて産褥の上にいつまでもいつまでも泣きくずれたのであった。


――平林初之輔「人造人間」


あるわるい科学者が、大谷とダルビッシュと山本と王と落合とイチローの細胞を採取して人造人間を作りました。できあがった人造人間は、野球ファンでガンダムファンで大食いで大男で一生楽しく暮らしました。

平林的な想像力はいまや鳥山明や庵野秀明にとどまらず、わたくしなんども起きがけに思いつく程度のものにすぎない。もうわれわれはどうしようもないところにきているのである。ノーベル文学賞は、韓国のハン・ガンであった。いくつか読んだだけだが、このひといつかノーベル賞なんじゃないかと思っていたがやっぱりとったね。わたくしは親父の作品のほうがすきなのであるが。

ノーベル平和賞を日本の被爆者団体が受賞した。遅すぎる。

崩壊の足音は、80年代から十分に聞こえていた。そういう音を少女まんがなんかが聞いていた。「記憶の技法」の吉野朔実、いろいろとすごいわけだが、主人公たちの髪の毛のぼさっとしたかんじがいいとおもう。「恋愛家族」という幕間劇もすごい。わたくしは、この作家の妙に完成度の高いお話のしめ方が不気味であったが、作者も50代で亡くなってしまった。

高校の頃、手のりインコを飼っていたので、ときどきいまでも後ろから羽音がしてわたくしの肩に止まるものがいる。

『群像』の十月号に載ってた、白岩英樹氏の猫随筆がこのよのなかまだ捨てたものではない感じを醸し出していたが、漱石も内田百閒でも誰でも、動物の登場には深い絶望が潜んでいて、――というかそれを引っ張り出すために動物がでてくるのである。われわれは、動物を見るときだけ、自分のひどい顔を見ずに済む。

そういえば、ドラえもんの声優さんも亡くなったそうである。ドラえもんや悟空の聲を高齢女性がやっていたということからして、日本人の求めているのは、おばあちゃんのような友達ではなかろうか。

シュペングラーではないが、文明が老いるというのは本当である。シュペングラーもたぶん予期してたと思うが、老いは死ではなく、死ねなくなっているということなのである。死は生を生むが老いは何を生むのか、われわれの文化はそれをめぐって寝返りを打っている。

音はない

2024-10-10 23:24:21 | 文学


 ヘロインは、ふらふら立つて鎧扉を押しあける。かつと烈日、どつと黄塵。からつ風が、ばたん、と入口のドアを開け放つ。つづいて、ちかくの扉が、ばたんばたん、ばたんばたん、十も二十も、際限なく開閉。私は、ごみつぽい雑巾で顔をさかさに撫でられたやうな思ひがした。みな寝しづまつたころ、三十歳くらゐのヘロインは、ランタアンさげて腐りかけた廊下の板をぱたぱた歩きまはるのであるが、私は、いまに、また、どこか思はざる重い扉が、ばたあん、と一つ、とてつもない大きい音をたてて閉ぢるのではなからうかと、ひやひやしながら、読んでいつた。
 ユリシイズにも、色様々の音が、一杯に盛られてあつた様に覚えてゐる。
 音の効果的な適用は、市井文学、いはば世話物に多い様である。もともと下品なことにちがひない。それ故にこそ、いつそう、恥かしくかなしいものなのであらう。聖書や源氏物語には音はない。全くのサイレントである。


――太宰治「音について」


確かに「聖書」や「源氏物語」には音がないというのはわかる。しかし、音がないことがいいことかどうかはわからない。

フルトヴェングラーの録音聞いていると不思議なのは、――雑に言ってフォルテの種類の多さで、なんで更に次の大きさがあるんだみたいな場面がある。それは人間的でも非人間的でもなく、下品でも上品でもないのだ。彼の音楽は原爆の裏返しのような感じがする。原爆にも音がない。

ネット時代の魔術のなかで

2024-10-09 23:55:46 | 文学


兩側に櫛比して居る見世物小屋は、近づいて行くと更に仰山な、更に殺風景な、奇想的なものでした。極めて荒唐無稽な場面を、けばけばしい繪の具で、忌憚なく描いてある活動寫眞の看板や、建物毎に獨特な、何とも云へない不愉快な色で、強烈に塗りこくられたペンキの匂や、客寄せに使ふ旗、幟、人形、樂隊、假装行列の混亂と放埓や、其れ等を一々詳細に記述したら、恐らく讀者は竦然として眼を掩ふかも知れません。私があれを見た時の感じを、一言にして云へば、其處には妙齢の女の顔が、腫物の爲めに膿たゞれて居るやうな美しさと醜さとの奇抜な融合があるのです。 眞直ぐなもの、眞ん圓なもの、平なもの、凡て正しい形を有する物の世界を、凹面鏡や凸面鏡に映して見るやうな、不規則と滑稽と胸悪さとが織り交つて居るのです。正直をいふと、私は其處を歩いて居るうちに、底知れぬ恐怖と不安とを覺えて、幾度か踵を回さうとしたくらゐでした。

――「魔術師」


谷崎の主人公が不安とともに幻視したものは、いったい群衆の中の何だったのか?ネットはこんな風にみえなくもない。

わたくしもまた、新聞や雑誌はまともなのにネットではそれが誤読や曲解によって崩壊していると思い込んでいたが、最近文芸誌や総合誌をいくつか読んで、――やはりそう事態は単純ではなく、ネットの把握不能な過剰さに比して、雑誌のそれは毒にも薬にもならないかんじにむしろなりつつある気がした。学会誌だって例外ではないかもしれない。ネットは確かに刹那的だが、対抗すべき雑誌は逆に月刊のペースが逆にはやすぎるのだ。思うに、コミュニケーション能力とか言い始めてから、論説みたいにコミュニケーションとはいえないものでもコミュニケーションみたいになってきている、書き手の「意識」においてそうなのである。こんな状況では、読み手を信用していないと、ものすごく質が落ちたことをしてしまう。わたくしにもその自覚がある。社会が信用をうしなうと、こういうことが起きるのであった。こんな状態では、コンスタントにいい仕事をすることはできない。

社会への過剰適応は、もはやひそかに社会問題なのだとおもうが、――よくみられる症状は、上の「意識」の欠落である。一方で発達障害的に括られ、一方でこんな社会で業績を積み重ねる条件と化す。上の困難から導き出される現象である。

『夜明け前』を読んでいると、同じような適応に関する問題を想起させられる。むかし芳賀登が言っていたように、島崎藤村の親父の国学への接近はある程度農政学的な興味からだったとも思われる。私の母方の祖父も、国語の教師であって且つ農業の経営研究所の看板を掲げていた。長野県での白樺派や京都学派の勉強会みたいな観念的な運動は目立つが、他方で農業と結びついた保守的とも見えるいろんなものがあったに違いない。たぶん彼らはそれを十分文字にすることに失敗しているのだとおもう。藤村もたぶん失敗している。こういうことは、たった一代でも継承に失敗するのだ。近代社会の恐ろしさかも知れない。

ルッキズム的愉快な日々

2024-10-08 23:39:15 | 文学


きゅうに寒くなりましたから、頭が働きません。

私は少女のころから古い物が好きで、骨董とまではいかないが家中に古物がひしめいている。その古物の中に古びた私が居坐っているから、わが家はまるでお化け屋敷である。


ここまでくると、高峰秀子様はただの骨董趣味の男――たとえば小林秀雄も凌いでいるといえる。小林の場合はどことなく骨董趣味も転向の一種という気がするが、秀子様は非転向だ。しかもその骨董趣味は水木しげるに通じる道を示している。

そういえば、そもそも名前的に、小林秀雄と高峰秀子、どことなく似ており、秀を軸に非対称なのであった。つまり秀子様の勝ちである。顔も秀子様の勝ちであるがあまりに自明なのでいままで言わなかっただけだ。

マルクスが美人の幼なじみと結婚したのはマルッキズムによる(←黙れ

最近駅で聞いた男子高校生の会話で面白かったのは、――「おれの顔、七十五歳の浜辺美波には勝ってる気がする」「いや負けてるだろ」であった。

今日の授業中の問題発言は次の通りである。

「トランプはまあ近くに居る牛に似ているんだろうな。言語と動物との接地問題だ」

トランプの国会突入問題のときにも論じられてたが、正直なところ、これからの政治家は動物を思わせるかがあれになってくると思う。いまの首相もどことなく歩いている牛を思わせる。小泉以降の首相がみんな人間しか感じないのと対照的である。石破氏はもしかしたら、仙厓義梵の「犬」みたいにかわいく見えてくる資質がある。

教育界は、指導要領に従って資質みたいなものにとらわれている。これだって、単に馬鹿とは言いきれない。子供に犬や猫を見ようとしているかも知れないからだ。みんな新たな「顔」が欲しいのだ。

そういえば、綿矢りさ氏のことは作品以外まったくしらなかったが、京都の生まれで東京の私大、太宰治が好きで小説かけると思った、など『すばる』に載ってた講演録で知った。がっ、まったくイメージ通りである。作品から作者のイメージまでつくられてしまうことは、まさに太宰的でもある。これに対して、おなじ雑誌に載ってた最果タヒ氏の、太宰の「顔」についてのエッセイなぞ、大きく大衆の欲望に逆らうもので、やはりこのひとは古典的な近代文学の末裔なのである。

動物による人間化

2024-10-07 23:28:23 | 文学


昔の人間は常住死と隣り合わせて生きてきたんだ。死と隣合わせていたからこそ、彼らは生を知っていた。生の尊さ、生の烈しさをつまり生そのものの意義を知っていたのだ。だからバカな生き方をあまりしなかった

――梅崎春生「つむじ風」


隣り合わせなのは死だけではない。動物もそうであった。

三島由紀夫がむかし、早稲田の学生に向かって、人間弱者をかわいそうとおもうのはある程度本能だが現代人は人間を超えて犬とか猫をかわいがる方向に行ってしまったみたいなことを言っていた。しかしペットは家畜との生活と一緒で所謂人間的なものへの第一段階としての同化であるきがする。わたくしは、信州教育のアレで、教室に動物がいた時期がある気がするが、あれは情操教育というか人間化教育なのである。

七〇年代、世界的に動物なしの人間化が試みられたが、うまくいかない。「ダーティハリー2」をはじめてみたが、キャラハンという男、野性味と合理性の合体で実に不安定なかんじに仕上がっている。自分の性質はすぐさま周囲もそうだとわかる。そうすると、頼るのは何か、法律か?正義か?という自問自答がはじまる。山羊に聞いてみれば、どちらでもないことはあきらかだ。

最近首相になった石破茂氏はどうであろう?動物的であろうか?人間的であろうか?氏のしゃべり方とかゆっくり迫り来るlogicにたいして「ネットリ」みたいな擬態語を用いる人もいるようだが、案外、それは動物的でも人間的でもなく、フルトヴェングラーのブルックナー、例えば第七番の第二楽章のネットリした感じに近いかもしれない。

binary opposition

2024-10-06 23:18:41 | 文学


今日我国に於て、育英の任に当る教育家は、果して如何なる人間を造らんとしているか。予は教育の目的を五目に分けたけれども、人間を造る大体の方法としては、今いうた三種の内のいずれかを取らねばならぬ。彼らは第一の左甚五郎の如く、ただ唯々諾々として己れを造った人間に弄ばれ、その人の娯楽のために動くような人間を造るのであろうか。あるいは第二の『フランケンスタイン』の如く、ただ理窟ばかりを知った、利己主義の我利我利亡者で、親爺の手にも、先生の手にも合わぬようなものを造り、かえって自分がその者より恨まれる如き人間を養成するのであろうか。はたまた第三のファウストの如く、自分よりも一層優れて、かつ高尚なる人物を造り、世人よりも尊敬を払われ、またこれを造った人自身が敬服するような人間を造るのであろうか。

――新渡戸稲造「教育の目的」


むかしから相変わらずの二項対立が存したことがあきらかであるが、これは文章上のことで、みんないろんな手立てでなんとか子供を教育していた。最近はようやく、いや昔から、基礎的なことを教えないで話し合いばかりさせてだめじゃんみたいな意見がでてきて、常に学校に対してその非難が向けられる。教育思想のせいでもあるが、それだけではない。先生の卵の知力が落ちているので、教育実習においてグループワークとかで時間をとらないと馬脚がものすごく顕れてしまう、そして、そのこと自体を案の定忘れたいから忘れられる――そんな事情もあるのだ。当たり前のことである。

こういう単純な循環的構造を否認すると、目的や手段を洗練させればよいみたいな意見が出てくる。

最近、学者の中に実作者がまじることが多くなってきたが、これだって、文学をつくるものではなく作られたものとして扱いすぎるとどうなるか、想像しないようなタイプが多かったことも関係しているのである。が、もともと創作者側特有の、また固有の創作者の認識の浅さみたいなものもあるに決まっている訳で、だからこそはじめから相対化なんかしなくても作品だけをつぶさに観察する人間が必要だったはずなのである。

二項対立に突入する前に確認すべきことがらが目の前に常にある。

大谷くんがポストシーズンで同点本塁打をうったのでまたメディが大騒ぎしていた。考えてみると、まあ学者なんかいつもポストシーズン、論文ヤベッというかんじで「動転」して「ホーム」で錯「乱」しているから大谷と同じである。これは冗談ではなく、文字によって嵌入されているのがわれわれの現実なのである。こういうことをあまりに無視すると、成功をどのように認識するのかという議論が進まない。

吉村公三郎が岸田國士の哲学は新カント派だったとどこかで言ってた(『岸田國士の世界』)けど、マルクス主義者だってそんなかんじのレッテルでは一方であったわけである。そして、それには彼らの内面と関係があるのだ。

「日本は無条件降伏をした。私はただ、恥ずかしかった。ものも言えないくらいに恥ずかしかった。」(太宰治「苦悩の年鑑」)といった感情についてよく考えてこなかった戦争論はほんとだめだ。手足が吹き飛んだり、いろんな言い訳をすること以外に感情がある。こういうのを無視したから、対決するか逃避するのか同化するのかになってしまう。

エヴァンゲリオンの監督が「宇宙戦艦ヤマト」のリメイクをやるそうである。本歌取りいつまでやるのといえないことはないが、そもそも彼はとても保守的な人である。「宇宙戦艦ヤマト」ってこじれにこじれた好色一代男の後日談だと思うのだが、それは一番エヴァンゲリオンにおいて噴出し、だんだんと押さえられていった。

というより、国策としてほんものの戦艦大和作って人民を乗せて、税収増やすことぐらい考えたほうがよいではなかろうか。首相が軍事オタクのうちに。

二刀流

2024-10-01 21:51:05 | 文学


一九三四年のブルジョア文学の上に現れたさまざまの意味ふかい動揺、不安定な模索およびある推量について理解するために、私たちはまず、去年の終りからひきつづいてその背景となったいわゆる文芸復興の翹望に目を向けなければなるまいと思う。
 知られているとおり、この文芸復興という声は、最初、林房雄などを中心として広い意味でのプロレタリア文学の領域に属する一部の作家たちの間から起った呼び声であった。それらの人たちの云い分を平明に翻訳してみると、これまで誤った指導によって文学的創造活動は窒息させられていた、さあ、今こそ、作家よ、何者をもおそれる必要はない、諸君の好きなように書け、書いて不運な目にあっていた文芸を復興せしめよ、という意味に叫ばれたと考えられる。


――宮本百合子「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」


この二日間あまり眠れなかったので、ブルクハルトでも再読してみたが、よけい眠れなくなった。睡眠も起きていることと一緒で習慣化しないと続かない。ブルクハルトは、例の文芸復興の論文をかいてから、あとは大学教師として綿密な講義を続けて一生を終えた。学問との二刀流みたいなかっこつけなかったのはえらい。デリダやらフーコーやらは講義緑を出版する道に突入しかっこをつけている。

大リーグで最多安打を打って賭博で追放されたピート・ローズが亡くなった。思うに、彼はイチローと一平氏の二刀流だったのである。

我々は覚醒と睡眠の二刀流をすでにやっている。

本質論的な

2024-09-30 22:41:34 | 文学


然し又、自由詩をつくる人々は自由詩だけが本当の詩で、韻のある詩や、十七字、三十一字の詩の形式はニセモノの詩であるやうに考へがちだけれども、人間世界に本当の自由などの在る筈はないので、あらゆる自由を許されてみると、人間本来の不自由さに気づくべきもの、だから自由詩、散文詩が自由のつもりでも、実は自分の発想法とか構成法とか、自由の名に於て、自分流の限定、限界、なれあひ、があることを忘れてはならない。
 だからバラッドやソネットをつくつてみようとか、俳句や短歌もつくつてみたいとか、時には与へられた限定の中で情意をつくす、そのことに不埒のあるべき筈はない。
 十七文字の限定でも、時間空間の限定された舞台を相手の芝居でも、極端に云へば文字にしかよらない散文、小説でも、限定といふことに変りはないかも知れないではないか。


――坂口安吾「第二芸術論について」


むかし、君の論文はいまどき珍しいカテドラル型の論文だと言われたが、たしかにわたくしはそんなつもりがある。ただ目指すは交響曲のような論文である。最近書いたやつはちょっと思弁的になりすぎたかと思ったが違うと私自身は思う。もっと緻密につめられたはずだと思う。論の整斉ではなく交響曲になっているかどうかのほうが重要である。

横道誠氏なんかは、音楽を奏でながら絵を描くかんじで執筆しているらしい。見ることと書くことが近い論者がいる。わたしはそうでもない。

坂口安吾は、散文でも「詩」のつもりだったんだと思う。芥川龍之介なんかはそうでもなく、絵描きである。「沼地」なんか読んでいてどきどきする。

真空地帯

2024-09-29 23:46:38 | 文学


 急に高まつて来た室内のざわめきに、さつきから、睡るでもなく睡らぬでもない状態でうつらうつらとしてゐた鶏三は、眼を開いた。やうやく深まつた秋の陽が、ずつと南空に傾きながら硝子越しに布団を暖めてゐる。空は晴れわたつて、真空のやうに澄みきり、風もないのであらう、この病院の大煙突の煙が、真直ぐな竿になつて立ちのぼつてゐる。鶏三は横はつたまま、さういふ風景を暫く眺めてゐたが、ふとかるい不安が頭をかすめるのを感じた。真空を思はせる澄みきつた空は、どこか、かへつて頼りなかつた。また、真直ぐにのぼつて行く煙は、陽の光りを受けてゐるためか幾分黄色味を帯び、なんとなく、屍を焼く煙を連想させる。彼は、死んでいつた何人かの友人たちを想ひ出し、彼等を焼いた煙がみな黄色く真直ぐに立ちのぼつたのを思ひ描いた。
「疲れてゐる。」
 やがて鶏三は独り呟くと、寝台をぎつときしませて身を起した。頭は妙に冴え切つてゐるのに、体は綿のやうに疲れ切つて、坐つてゐるのも苦痛に感じられた。さういへばこの頭の冴え方も、どこか正常なところを失つてゐるやうに思はれた。…………


――北條民雄「朝」


北条民雄にとってだって、「真空のやうに澄みき」っていたのは空だけではなく、世の中全体もそんなものであったにちがいない。映画「真空地帯」の音楽、しっかりしたつくりだなとおもったら團伊玖磨であった。たぶん、原作の本質を團は捉えていると思うんだが、ほんとはペンデルツキのトーンクラスターのようなものが状況にはあってるようなきがする。

世の中には「真空地帯」というものがたくさんある。学校や大学なんかもそうなりがちなところだ。世の中には面白い公開講座とか学会がたくさんあり、いっぱい勉強したいとますます歳をとって思うようになったが、出勤するとたんにその向上心が吹き飛ぶことがあるのはもう末期症状だなと思う。大学なのか私なのか、どっちもなのかは知らないが末期は末期である。

*記念としての人生

2024-09-28 23:18:19 | 文学


蒲団を引っかぶって固く目を閉じると何も見えぬ。しばらくすると真赤な血のような色の何とも知れぬものが暗黒の中に現れる。なお見ているとこれが次第に大きくなって突然ぐるぐると廻り出す。それはそれは名状し難い速さで廻っているかと思うと急に花火の開いたようにパッと散乱してそのまた一つ一つの片が廻転しながら縦横に飛び違う。血の色はますます濃くなって再び真黒になったと思うとまたパッと明るくなって赤いものが廻りはじめる。こんな事を繰り返しているうちに眠りの神様は御出でになる。きっとこの血のような花火のようなものが眠りの神の先駆のようなものであろう。

 熱帯地方の山川草木禽獣虫魚は皆赤いもののような気がして仕方が無い。これは多くの地図に熱帯を赤く塗ってあるからであろう。

 先生赤い涙があるもんですかと、真面目で聞いたのは僕の友達じゃ。

 赤とは火の色なり、血の色なり、涙の色なり。


――寺田寅彦「赤」


レヴィ・ストロースがだれかと中国の革命を睨みながら「赤はストップなのかススメなのか」みたいなことを、何かの対談を言っていたが、いまは、さしあたり、どうでもよい。このまえFMでやっていた、エルランジェの歌劇「赤い夜明け」はなかなか良い曲であった。解説者は、暴力的な手段で世の中を変えるのは今に至るまで変わってませんねみたいなコメントをしていたが、思うに「赤」はその意味でも止まれなんかの意味ではないであろう。そりゃそうだろう。暴力がこのよからなくなるわけないではないか。

敗戦国の負け犬から言わせれば、――大谷くんを見ていると大艦巨砲主義は必ずしも悪い事じゃないと思わざるを得ないが、大谷君だって暴力をうまく使っているだけなのである。松田華音さんの「展覧会の絵」をCDをきくと、腕の根元から力を鍵盤に対して殴打するロシアのピアノの弾き方を思った。

午前中、水槽の水かえたらとてもメダカが元気になったのであるが、――われわれも基本的にこんな感じだと考えた方が良い。しかしこの環境変更というのも暴力の一種である。

暴力といわずに力と言っても同じことで、我々はバットに衝突にした玉のように永遠に反応しなければ死んでしまうのであろうか?

そういえば、細は大学四年の時友達と一緒にアナウンサーの試験を記念受験したらしいんだが、「県庁の☆」にも素人なのに秘書役で一瞬出てたし、わしと結婚したのも記念の可能性が高いかもしれない。別にふざけているわけではなく、――思うにこれは案外いい作戦かも知れないのである。「活動」は、物理的法則じみている。人生のすべてを「*活」にしてしまうとそれは所詮労働にならざるをえないが、いろいろなことを「*記念」と考えればよいのではないか。お墓なんか死すら記念碑にしているわけで。

そういえばいまでもアンチ巨人というひとたちは存在しているのであろうか?彼らが、「巨人」(物理的に大谷みたいである――)に権威をみて反抗していたときは良かった。いつのまにか、それは反応に過ぎなくなった。ついにもう巨人が優勝しても何も起こらない。巨人よりも巨大なのは大谷君である。アンチ大谷は現れるであろうか。相手はアメリカと一体化している巨人である。なんと彼は犬をてなづけているから、負け犬国としては、どう反応していいかわからんぞ。思うに「負け犬」だって紀念碑だったのである。それがなくなっただけだ。

小泉の後の安倍+αの時代は、普通の対話がなりたたんとか言われていた。安倍首相なんかを代表とする修辞的?な空間でふわふわしながら、――すなわち、自らも安倍的な言辞をしながら、秘かに現実的にどうにかならんか大衆が手探りを続けた時代でもあったと思う。それは国全体の雰囲気で、ある種の紀念碑だけが作動しているような奇妙な空間であった。しかし、今回、議論をストレートにするオタクなおじさんが首相になりそうで、ちょっとまともに話をしようぜみたいになったときに、それに堪えられんので変に空想的に「現実な」方向に走りたがるやつも出てくると思う。

こうみんなが総裁総裁と云うと是公と呼ぶのが急に恐ろしく

2024-09-27 23:08:54 | 文学


小蒸気を出て鉄嶺丸の舷側を上るや否や、商船会社の大河平さんが、どうか総裁とごいっしょのように伺いましたがと云われる。船が動き出すと、事務長の佐治君が総裁と同じ船でおいでになると聞いていましたがと聞かれる。船長さんにサルーンの出口で出逢うと総裁と御同行のはずだと誰か云ってたようでしたがと質問を受ける。こうみんなが総裁総裁と云うと是公と呼ぶのが急に恐ろしくなる。仕方がないから、ええ総裁といっしょのはずでしたが、ええ総裁と同じ船に乗る約束でしたがと、たちまち二十五年来用い慣れた是公を倹約し始めた。

――夏目漱石「満韓ところどころ」


権力が移動するときに生贄が生じるのはもう意識を超えた事態である。これは今回の自民党の総裁選挙のことを言っているのではない。ごく普通の組織でよく起きている事態を指している。むかしは、権力者と幇間がいるのかと思っていた。しかしほんとは、おかしな人と生贄がいるだけだった。そのほかは庶民である。責任は庶民にある。

タカ派の石破氏が総裁になったらしい。やたら論「破」とか津「波」注意とか言っている世の中だからじゃないかなと思う。「マルクスは生きている」を書いたのは彼ではなく、不破の方である。不破哲三はいま何歳だろう?おそらく石破氏の父親の世代である。石破氏はたしか鉄道オタクで、新幹線に乗った思い出なんかを語っていた。キャンディーズのファンでもあったと思う。石破氏は、共通テストを廃止し、戦艦プラモデルの出来で大学に入れるようにするかもしれない、あるいは情報をやめて戦艦にするかも(それはない)。しかし、石破氏のXのプロフィールに「カレー/読書/ラーメン」と書いてあって、なにゆえこの順番なのかと思わざる得ない。この人は優先順位を好きな順番と混同する我々みたいなタイプとみた。

およそ政治に向いてねえんじゃないかと思わざるを得ないが、われわれはこれからこういうタイプを選ばなきゃならんのである。

そういえば、中沢新一氏の『構造の奧』は面白かったが、ほんとは「構造と奧」みたいな気がしないでもない。石破氏みたいなオタク世代にとって、世の中は「構造」で、自分は「奧」なのである。

誰か舊き生涯に安んぜむとするものぞ。おのがじゝ新しきを開かんと思へるぞ、若き人々のつとめなる。生命は力なり。力は聲なり。聲は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生涯なり。

藤村にとって人生百年みたいな時間の引き延ばしは生涯ではなかった。自らの内なる生命から言葉に至る「なり」の無時間の連続性こそが生涯であった。それは、古い構造の中で闘うことによってしかなし得ない。

餘白をめぐるエトセトラ

2024-09-26 23:19:09 | 文学


鬼婆々の話の元は、安達ヶ原の黒塚のあるじが鬼であつて、旅人を取つて喰つたといふのであるが、更に其話の火元は、かの平兼盛の歌の、「みちのくの、安達ヶ原の黒塚に、鬼こもれりといふは誠か」といふ歌だ。而も其の歌は、其の詞書きによると、みちの國名取の郡黒塚といふ所に、源重之の妾が大勢居るといふ噂を聞いて、其の妾を鬼に見立てゝ、からかつたに過ぎないので、安達ヶ原ではなかつたのだ。安達ヶ原は、鬼と言はんが爲の言葉の遊戯に外ならぬ。本當の黒塚は、今の仙臺在秋保温泉のあたりにあつた。大和物語に、「名取の御湯といふことを、常忠の君の女の讀みたると云ふなむ、これ黒塚のあるじなりける」とある。
それが本當の安達ヶ原の鬼の話になり、武藏までも、大和までも、更に豊前までも飛んで行く。恐ろしこ事だ。(喜)


――喜田貞吉「安達ヶ原の鬼婆々(餘白録)」


創造性とか独創性みたいなことを言おうとしたら、差別化ということですねと、人間の腹を切ったりする学部の人に言われたことがある。ここでいう「差別」というのに餘白はない。差別がだめなのは、この餘白のなさによる。ユダヤ人とアーリア人の餘白がないのだ。

考えてみると、ネット世界は常時アンケートみたいなものであるが、ここでも餘白が無限化しているので事実上0になってしまっている。アンケートという意見聴取のやりかたも最近は組織の中で行われても、かなりうまくいかない。あたりまえだが中にはいい意見もある。しかし便所の落書きも多い。おなじような意味で、アンケートに過剰によりかかった研究の意味を再考することは必要だと思うが、――それはともかく、落書き自体が餘白に見えてくる効果があるので、意見聴取自体がそういう餘白を感じるだけのものになってしまうのである。

もう2年前の文章だが、『季報唯物論研究』に載ってた吉永剛志氏の、柄谷行人『ニュー・アソシエーショニスト宣言』の書評を読んだ。そこに書いてあったのは、人しれずデモに皆勤する柄谷の姿で、まさに餘白を埋めるものであった。氏は、運動とは余白を繋ぐのだみたい言い方をしていたが、それはよかった。少数派の連帯というよりよいと思う。「透明になっている人たちを可視化する」というのもあまり好きじゃない。実際は透明でないのだから。マジョリティとやらをあまりに盲目扱いにするのは思い上がりであって、見えているものをちゃんと見ることが大事なのである。

田中東子氏の『オタク文化とフェミニズム』買ってたので、少しこの前読んだが、これはなにか、見えているものをちゃんと見すぎた結果、それが自動化しかかっているような気がした。

なぜそういうことが起こるかというと、オタクやフェミニズムが相手にしているが、群衆で、そのラディカルさを見つめようとしているからだと思う。この前、つい文藝春秋の十月号を買ってしまったのだが、精神的に不安定のときに、こういう雑誌をただめくっていると落ち着いてくることはたしかだ。スマホだと記事の向こう側に記事がある無限性が怖ろしい。雑誌はそれがなくて安心だ。菊池寛はそういう心理も分かっていたような気がする。文藝春秋なんか幕の内弁当だと揶揄されながら保守の本質をわかっていた気がする訳だ。おなじ雑誌でも純文学だけに特化されているそれには別の意味で無限がある。愚にもつかないことが書いていないからだ。

後期の授業で「天声人語」を注釈して徹底批判する体の演習があるんだが、小峰ひずみ氏の『悪口論』が参考になるかも知れない。悪口とは庶民の営みであり、ブーメランが飛びかうそれだけの世界だ。大事なのは悪口ではなく罵倒だ。授業は、天声人語の悪口を言っていいんだという前提から入り、自らの「庶民」の自覚というブーメランで自決しようというわけだ。罵倒はロケットだから大学では扱わない。

『老人ホームで死ぬほどモテたい』論の半期の授業もなんかうまく行く気がしねえな、緊張してきたわ。わたくしは、そもそも餘白が多い定型の世界が苦手なのだ。

通訳にお金を盗まれたので、大谷君は盗塁に執念を燃やしていると同僚に言ったら無視されましたが、――わたくしは、かかる定型に慣れない冗語がすきなのである。これはわたくしがいまだに独身者の性格を引き摺っているからではないかと思うのだ。

二十代の頃、なんとか研究会とか読書会で出会ったひとと付き合ったことがあるが、――未熟な文学青年と文学少女のあれで、頭の悪い紀貫之が頭が悪い紫式部とつきあったらどうなるかというディストピアを生成させることがあるので気を付けた方が良いと思う。ここでわたくしは、バイナリー的世界というか、そういうもんへの恐怖を植え付けられた。

大谷選手の映像見ていると、大リーグの選手ってけっこうみんなちっちゃいし玉もあまりとばせなくてたいしたことないなとガリバー的勘違いを起こしかねない。これも餘白なしの反転であって面白いが明らかに間違っている。いまだに、大谷が憧れを勝手に超えてしまった世界は、向こう側にあるのだ。これは餘白ではなく、まっさらな目標的な世界である。アメリカなんかは表象に過ぎない。

ある数学の研究者の計画書みたら、なんとか予想のある条件下の解決をこの際このメンバーでめざします、みたいなことが書いてあって、たぶんもう少しで解決しそうなのでこういう書き方になってるんだとおもうが、わしもいつも目指してんだけどなと思った。

二方面への抵抗の困難

2024-09-24 23:23:37 | 文学


「玄洋日報社」と筆太に書いた、真黒けな松板の看板を発見した吾輩はガッカリしてしまった。コンナ汚穢い新聞社に俺は這入るのかと思って……。
 古腐ったバラック式二階建に塗った青い安ペンキがボロボロに剥げチョロケている。四つしかない二階の窓硝子が新聞紙の膏薬だらけだ。右手に在る一間幅ぐらいの開けっ放しの入口が発送口だろう。紙屑だの縄切れだのが一パイに散らかっている。


――夢野久作「山羊髭編輯長」


メアリ・ダグラスの「汚穢と禁忌」のはじめに確かかいてあったが、穢れに関する研究テーマがじぶんの夫とか子育てと大いに関係あったと。。当然なことだけど重要である。もともと、出産と子育ては全体的に汚穢の観念に近づけられ避けられていたところが社会ではあった。いろんな差別的な閾をつくってやり過ごしていたわけだ。閾の撤廃を目的とする近代社会が、ついにその差別性に直面している。

政治も特に言説のあり方が基本的にクリーンになっている。例えば、われわれの文化の中に露払い的なものは大きかったと思うのだが、最近はそれも忘れられ、露骨にプロパガンダ的な手法がめだつな。プロパガンダはその目的に対してクリーンなのである。そうでない時代を知るふるい眼にはそれがあまりに露骨すぎるので道化に見えたりすることもあるが、そうではなく力の本体なのである。

スポーツもクリーンになった。例えば、大谷のことだ、力が衰えたら衰えたで、死球記録とか連続三振記録とかでやってくれそうな気がする、とか考えてしまうのが昭和野球脳なのである。落合や野村の家族のスキャンダル、清原の薬や病、これなんかが汚れ=禁忌ではなく、まぜたら面白いみたいな表象となっていたのが昔の「普通」の世界である。

大学の世界もそうである。研究なんかやるやつは「普通の変人」の集まりだった。汚れている奴という意味である。そういえば、研究者が雑用?まみれで息も絶え絶えみたいな当事者報告、いくつか読んだことある(昨今は、「当事者エッセイ調」というやつすら存在するようである――)、たまたまよく知っている人間が書いたものがあった。読んでみると、当事者(本人)的にはそういう考えかもしれんが、そこまで他人に尻ぬぐいさせといてその言いぐさはねえわ等等と思った。家族はさぞかし激怒したのではないか。思うに本人は、「普通の変人」ではなく「社会に圧迫される被害者」だと思っているのである。これが文章のクリーンさを生む。

学者にかぎらず、人間の言い訳能力、合理化の動機のからくりなど、――ほんと素晴らしきかな人間というかんじで、自省の対象にはなるわな、といい子ぶっている場合ではない。むろん、学者のやることは日々増えており、明らかに厭がらせみたいなものもある。しかしだからといって、ウソでまぶした抵抗者面をするのはどうなのであろう。人を道具みたいに扱うやりかたが猖獗を極めると、人間のこういう動きは止まらなくなるのもわかるが、それに対する道徳やら倫理による「抵抗」がますます強調され、それが学問や文学だみたいになることもさけられない。それはそれで言説のロボット化なのである。

大学に限らないが組織全体が信用されなくなると、そこに入って来る人間が、キャリアあっぷとか業績upをきにすること以上に、組織の業務をなにか「政治」や「抑圧」と同一視してしまうような弊害が出てくる。こういう対立は、社会性のなさを正義と過剰に変換してしまうことなど、様々な認識の歪みを伴うものである。それは不可避なのだが、それへの抵抗は、その歪みと信用されない組織への二方面の抵抗とならざるを得ない。

媒介・函数・二人

2024-09-23 23:24:27 | 文学


 犀星君は無論詩人である。生れながら詩を欠いでいるような私の窺い知らない純粋な詩人であるらしい。氏は自分の好みの庭を造るとか、さまざまな陶器を玩賞することに心根を労していたらしい。そういう芸術境地が氏の小説その他の作品に漂っているのである。私の作品にはどこを捜しても、そういう芸術心境が出現していないようである。私の住宅に庭と称せられる物があっても、それは荒れ地に、樹木雑草が出鱈目に植っているだけである。私の文学もその通りであろう。こんなものが芸術かと室生君には感ぜられそうである。庭や陶器など別として、君の小説を観ると、女性に関する関心が丹念に深さを進めていることが、私にも感ぜられるのである。ねばり強い事一通りでなさそうである。私はそれ等の点から新たに犀星君の作品検討を試みようかと、普通一般の宗教形式に由らない追悼の席に坐りながら思いを凝らした。室生君とは軽井沢に於いて親しくしていたのであった。心に隔てを置かず、世間話文壇話をしていたのであったが、陶器や庭園に関する立ち入った話、或いは文学そのものについての立ち入った話は一度もしたことがなかった。淡々とした話で終始していたのだが、それだからお互いに気まずい思いをしなかったのであろう。

――正宗白鳥「弔辞」


最近、いろいろな人がお亡くなりになる。昨日は、フレドリック・ジェイムソンの死去のニュースがきた。90歳。二〇世紀のマルクス主義哲学から構造主義?みたいな新興勢力を横目に事態を収拾しようとしていたようにみえた。柄谷行人の序文なんかも書いていた。むかし、留学生と一緒に飜訳して楽しんだことがある。媒介者として生きようとしていた人であるようにみえた。

人が作品を残すにもいろいろなかたちをとる。――例えば、ブルックナーにたくさんの版があることはとてもおもしろいことで、みんなおれのベートーベンとかおれのマーラーをつくろうとおもわないのに、おれのブルックナーをつくることにためらいがない。彼の音楽は、ポップスに近い何かで、ブルックナー自身、違うおれのブルックナーをその都度作り出している。音が音を呼ぶ現象が個人の中でアイデンティティを更新するレベルで作動することがある。

音や玉は人間よりも激しくうごく。

アメリカから飛んで来たボールが日本に着弾して変容した。大谷君なんかもそれの一変種だ。彼が高校時代につくった曼荼羅チャートは有名だが、高校時代にここまでやれるのが、日本のある種の「優等生」なのである。西洋の?発明した合理化は日本で別の合理化となって花開く。大谷君は、トヨタやアニメと似ているのである。

だから我々は大谷君をみても少し元気はでるかもしれないが、別に変容するわけではない。我々自身は函数に過ぎない。体が少し楽になってきたと思ったが、大谷君のせいではなく、最高気温が三〇度をようやく切ったからだ。

今日は、もと国語の教師で在野の研究者になったある人が亡くなった。退職してから二〇年間研究を志した。多くの大学の研究者だって二〇年間全力でやれたら良くやった部類だ。戦前生まれは、二人分やろうとするひとがおおい。キャリアアップみたいなかんじで生きていないから可能なんだと思う。二人分やることは、自らのうちに二人のブルックナーを響かすことだ。この方は女性であって、これも重要な点であるのは言うまでもない。すなわち、働き盛りの頃二人分やらざるをえない状況になっている人が多い。そして、長生きすると、いままでの自分を捨てて別のものにならなきゃいけないこともある。この意味でも二人分であった。

産褥と怨霊

2024-09-22 23:36:04 | 文学


 婦人問題を論ずる男の方の中に、女の体質を初から弱いものだと見て居る人のあるのは可笑しい。さう云ふ人に問ひたいのは、男の体質はお産ほどの苦痛に堪へられるか。わたしは今度で六度産をして八人の児を挙げ、七人の新しい人間を世界に殖した。男は是丈の苦痛が屡〃せられるか。少くともわたしが一週間以上一睡もしなかつた程度の辛抱が一般の男に出来るでせうか。
 婦人の体質がふくよかに美しく柔かであると云ふ事は出来る。其れを見て弱く脆いと概論するのは軽卒で無いでせうか。更に其概論を土台にして男子に従属すべき者だと断ずるのは、論ずる人の不名誉ではありませんか。

男をば罵る。彼等子を生まず命を賭けず暇あるかな。

 わたしは野蛮の遺風である武士道は嫌ですけれど、命がけで新しい人間の増殖に尽す婦道は永久に光輝があつて、かの七八百年の間武門の暴力の根柢となつて皇室と国民とを苦めた野蛮道などとは反対に、真に人類の幸福は此婦道から生じると思ふのです。是は石婦の空言では無い、わたしの胎を裂いて八人の児を浄めた血で書いて置く。


――與謝野晶子「産褥の記」


大河ドラマで、「紫式部日記」に基づく彰子の出産の場面があった。学生時代、現代語訳に青くなりながら読んだ紫式部日記の彰子出産の場面が映像化されて嬉しかった。わたくしは道長が祈祷の声をかき消すほどに指示を怒鳴り散らしてた場面がみたかったんだが、――あの場面、怨霊と闘う僧達の大仰な祈祷など、はじめてみるけどただ事じゃねえぞ、お米シャワーで着物が台無しヨー、みたいな紫式部の新人君みたいな心理とあいまってドタバタさえ感じられるんだが、ドラマは滑稽にせずにうまくやってた。もう三〇年の前の本文の記憶だから本文をたしかめてみなくちゃならぬ。

われわれはなぜか多くのことに対するやる気を失って、実際体が動かなくなってきつつアルのだが、家族と革命を両立するみたいなこともそうである。左翼は家族を破壊すると思い込んでいる皆さんは、ただちにレーニン全集の家族への手紙の巻ぐらいは読んでから考えて欲しい。レーニンは異常な筆まめな男で、いまだったら、ツイッターなんかにも怖ろしい勢いで論敵を二四時間体制で論破しつづけるやつであろうが、母親なんかにも実にまめに手紙を書いている。家族にもわりと気を遣う。

そういえば、香川県における例のゲーム条例の震源が政治家だったのは広くしられているが、本人の意図はともかく、政治離れはゲームによってかなり進むとみられる。(この前、宮台真司の番組でも言ってた――)政治家達は、ゲームそのものよりもその作用に本能的に抵抗しているのかもしれない。

いまどれくらい興行的なものにヤクザな方々が関わっているか知らない。しかし工業に類する事柄において、最初の渡りをつけたりする役目の性格はあまりかわらない。だから、それをヤクザが出来なくなったら、代わりにその役目が政治家に移動したり企業に移動したりといったことはおこる。マルクスのいう共産主義者とおなじで、ヤクザも普遍的にいつもいるのだ。こういうものが、実際は怨霊だと思うのである。だから、源氏物語の世界もほんものの怨霊を描いてはいないと思う。道長から平清盛に移ったようなものがほんものの怨霊である。