★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

吉本隆明と牛丸先生

2010-09-17 23:24:20 | 文学
松岡俊吉氏の『吉本隆明論』のなかで「〈疎外と幻想〉覚書」の章はとても重要なのであるが、読んでいてなんだか錯乱してきたので、いつのまにかうとうとしてしまう。

吉本隆明というのは、結局、いろいろな意味でこちらの評論家根性を萎えさせてしまう文章を書く人である。彼について語ろうとすれば、彼のやったことについて自分でやり直さなければ、という気がしてくる。彼の文章を朦朧だとかテニヲハが狂っているといって批判する人を多く見てきたが、だいたい面白くない人が多い。吉本に比べてではなく、たとえば明晰すぎる浅田彰とかに比べて、面白くない人が多いのだ。これは興味深い。

起きてから、読みかけだった、牛丸仁先生の『夢の設計図』(信濃教育会出版部)を読み終える。高野高原(これは開田高原がモデルだね)の小学生たちと先生の話だ。登校拒否や過疎化、外国人の親などのいかにもありがちな話題を扱いながら、それを「問題」としてではなく、すぐどうにかしなければいけない現実としてえがいている。小学校の教員というのはそういう仕事だし、学校の現場というのはそういうものであろう。すぐどうにかしなければならないというのは、どういうことか──、複数の事案を同時に解かなければならないということである。牛丸先生はやはり先生なので、そこに極めて意識的である。登校拒否も過疎化も、問題行動も「解決」されることはない。それができると思っている教員は、とにかく「出来たことにする」傾向があり非常に危険である。村やクラスのなかで、なんとか気になる事柄をもたれ合わせながら少しでもみんなの苦痛を軽減するしかないのであろう。先生があとがきで人物たちのつながりが大事と言っているのは、そういう意味であって、単にコミュニケーションが大事と言っているのではない。

それゆえ、物語は、人物たちの交流だけがきちんと描かれ、生徒たちが自分の学校の将来図をえがいた「夢の設計図」自体を提示することはなかった。物語後半、そのあまりにうまくいってしまう人間関係自体が「夢」なのであり、小説自体が「夢の設計図」をなしているととれなくはない。とまれ、児童たち設計者は卒業してしまうし、彼らがつくった設計図が実現するかどうかはかなりあやしい。読者はそれを文字通り夢見るしかない。そういえば、先生の自伝的な『風景』も「風景」そのものは描かれなかった。先生のかくものは、その意味でかかれたこと以外はかかれていないリアリズムではなく、読者を、かかれてはいないところのより現実的なものや言い難い心象へ導こうとする性格がある。私が先生に小学校6年間習っているせいか、こういう性格は、実に〈教師〉を感じさせるなあ(笑)。単なる知識伝達を否定し、豊かな教師と子どもの関係を重視しようとすれば、多かれ少なかれ、教員は上記のような〈教師〉たらざるをえない。

書く側と読む側、教える側と教えられる側の非対称性はある。それを百も承知の上で、文学も教育もなぜか、その非対称性を乗り越えてしまうことがある。少なくとも、吉本隆明を読むときには、そんないい加減で決死な覚悟が必要である。