★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

存在を割る

2024-07-01 23:43:10 | 思想


 それから音楽教育――音楽なんかでも、音楽の専門的な発達のための努力とその音楽を一般的に民衆に分からして行くこと、それから民衆自身が何か自分達の楽しみのために、或は集会の時に、示威行列の時に、自分達の楽隊で演奏するために、音楽の研究会というものは大抵どの倶楽部にもある。そこで主として吹奏楽、それでなければギターやバラライカを主にしたもの、それで一週間に何度と仕事のあとそこへ行って研究する。例えばメーデーの時、革命記念祭のデモンストレーションの時には、各工場は自分の工場の音楽隊を先に立てて行進して来る。
 専門的な音楽の発達のためには、ソヴェトは音楽学校の非常に程度の高いものをもっている。そこでシーズンが来ると、外国から来る人もあって盛んにやっている。それは全然専門的なもので、毎年専門技術家を卒業させて、新しい演奏家、作曲家がどんどん出て来る。


――宮本百合子「ソヴィエト・ロシアの素顔」


ショスタコービチを聴きすぎると、すべてのファゴットはおなら旋律に、ブルックナーにスネアドラムやサイレンを加えたくなる。

ショスタコービチは「3」の作曲家である。我々はいろいろないみで存在が割れていないと言葉は出てこない。すると二つ目の次の三つ目は単なる三つ目ではなく、一つ目の輝きをもつ。ショスタコビチは国家と個人に割れていた。そのなかから「3」としての音楽がそのつど新鮮なかたちででてくる。実際はマンネリがあるにしても、それにしては妙な生まれたてのような感触がある音楽なのである。

我が国ではあまりそこまで二つに割れない。今日の大学院の授業では、「正直、人生論ノートの三木清と近代の終焉の保田與重郎をならべて殴って言うこと聞くのはどちらか」という暴力礼賛の授業をしてしまったが、当然三木清の方が言うこと聞かされたが、もともと古典の言うことを聞いている保田與重郞だってあまりかわらない気もするのである。彼らはなかなか割れない人たちである。

続く学部の授業では、三島由紀夫の「英霊の声」とか「道義的革命」のなんとかいう論文とかと、漫画の「声の形」を比較してクソじみた展開をしようとしたところ、――依り代としてのわたくしが挫折し、同時にチャイムがなって救われた。依り代は果たして主体が割れていると言えるのか。

きのう、「ブラックジャック」の実写ドラマがまたやっていたらしいが、――ブラックジャックも結局、人間を二つに割らないための必殺技の一種のような気がする。ピノコは二つに割れた一つである。でも自らが二つに割れることはない。彼らは依り代になることさえ拒否し、生に執着する。

この前、学生が都知事選候補は全て外★恒一の依り代でみたいなことを言ってきたから、焦って、「違うよ東京大空襲の死者たちが」云々と説明しましたがまったく信じてくれない。いまでも若者達はよりしろが好きだ。「推し」だって依り代の一種ではなかろうか。

「推し」に狂ったオタクを描いたつづ井氏の『腐女子のつづ井さん』というのがある。おもしろいけどまったく共感できない。絵は亡霊の如く、これでは主体は割れない。漫画も主体を割らないための方策ではなかろうか。


最新の画像もっと見る