★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

プルガサリの運命

2011-07-19 03:04:32 | 映画


院生の時に見た様な気がするが、所々「大魔神」と混同してたので、ちゃんとメモをとりながら観たのはこれが最初……かもしれない。

日本のゴジラスタッフが特撮関係を担当していることは有名な話であるが、北朝鮮の映画である。

高句麗朝末期、叛乱軍を討伐する武器を作るという目的のために鍬を取り上げられたりと、圧政に苦しむ農民。牢屋で飢え死にしそうなおじいさんに、彼の娘たちが粟か高黍だかを投げ込む。おじいさんはそれを食べずプルガサリの人形に捏ねて果てる。おじいさんの魂が宿った人形は、娘の血を吸って動ける様に。それは鉄を食う伝説の怪物であった。巨大化した彼は、蜂起する農民達とともに都に進撃、皇帝と都城を粉砕する。しかし、食う物がなくなったプルガサリのために、娘は鐘の中に潜んで一緒に食われてしまう。ビックリ仰天のプルガサリは自爆。子どもに帰ったプルガサリは自らの魂と命を娘に与える。

監督は後に亡命したので、北朝鮮では公開されていないらしい。普通に革命礼賛の映画に見えるけれども、前にブログにも書いた「ムツェンスク郡のマクベス夫人」と同じで、革命前の酷さを描くことが現体制への批判にそのままなってしまいがちなのは、社会主義国ではよくある話であって、本当はそこが問題なんじゃなかろうか……。農民の道具(鉄)と怨念と血の結合体であるプルガサリはまさに革命の象徴であるわけだが、革命の武器であり英雄であった彼が、革命後は、あがめられつつも鉄を吸収し農民から鍬などを貰い続けなければならない「やっかいもの」になってしまう──すなわち、革命前の役人や皇帝のポジションに置かれてしまうわけだ。これはどうみても革命政権の帰趨への批判ではなかろうか……。この点、よくある日本の特撮映画より遙かに良くできた話である。

「ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団」というタイと円谷プロの合作映画など、伝説の英雄(唯の猿ですハヌマーン)だか民主主義とか家族愛による、異物への集団暴行劇であるに過ぎず、余りに酷すぎる。

革命的独裁か、民主主義的虐めか、いずれも駄目である。

アウフヘーベンされた土

2011-07-19 01:01:34 | 映画


大日本帝国と第三帝国合作、アーノルド・ファンク監督の「新しき土」(1937)である。ドイツで個人主義とやらを学び、許嫁と結婚するのを拒否し養子縁組まで解消しようとする輝雄。彼は、ドイツから金髪美女?同伴で8年ぶりに帰国する。それをみてショックを受ける許嫁光子ちゃん。彼女は、むさい農民出身の輝雄になぜかちゃんと惚れており、ドイツ語を始め日本の芸事、家事など花嫁修業も完璧に身に付けた完璧美少女である(原節子)。「輝雄兄さんが帰ってくる」といって、走り出し、庭園でこける姿も完璧。輝雄は馬鹿なので、箱入り娘は邪魔だとか言っていたのだが、光子ちゃんは完璧なので、ショックのあまり、ちょっと電車に乗って浅間山か焼岳に行って和服で登り切り、投身自殺しようとする。輝雄は、富士山の麓の実家に帰って日本人の土人農民としての本懐に立ち返ったのかしらないが、光子の後を追い、活火山を靴下だけで登り切り足は血まみれ。自殺直前の光子と山頂で抱き合うが、突然、その火山が大爆発w。(円谷英二の特撮に切り替わり、いろいろな日本家屋が全壊w)なぜか、二人は助かりめでたく結ばれましたとさ。そして満州で開拓農民となり子どもをつくって……。

ところで、同伴していたドイツの金髪美女は、輝雄のなんだったのだろう……。いろいろ箴言じみたことを残し、箸の使い方を練習しただけで、帰ってしまった模様。

光子の家の裏に厳島神社があるし、電車で少しの処に浅間山か焼岳がある。そしてそこから、昔の自動車で一日の処に富士山がある。東京で阪神電鉄が……。というめちゃくちゃな設定であり、そのほかにもいろいろと問題はあるが、山や風景の撮影はさすがファンクである。ここにある「崇高さ」の観念の第三帝国とともに葬ってしまったのはまずかったのではなかろうか。あ、違う形でかなり生き残ってるか……

あと、当時のハリウッドスター早川雪州が封建家制度を守る家父長をやっていたのは笑ったな。どっちかというと輝雄だろ、あなたは……。アメリカで金髪美女をはべらせてたのに。

という具合で、めちゃくちゃなのであるが、この滅茶苦茶さ加減はファンクだけの問題ではない。西洋かぶれ(西風)と日本の農民文化(東風)をアウフヘーベンするのが、「新しき土」つまり、満州であるという理屈を素直に展開しているのがこの映画である。これが無理矢理なものではなく、ある種の文化にとっては自然なものであった可能性を排除することは出来ない。日独同盟も無理があったが、それはいろいろな観念的な自然さに支えられていたとさしあたりは考えることも必要である。崇高さもたぶんその観念の一部だ。ファンクと伊丹万作が対立し、伊丹バージョンが存在するこの映画であるが、私は其れを観ていない。しかし、観ていない癖に言うのも何であるが、当時の日本の文学や哲学や政治思想の中には、本質的に、このファンクの映画程度に妙な感じなものが相当混じっていたことは確かなので……、伊丹版も本質的にあまり変わらないのではないかという恐れが私にはある。

輝雄と光子は、敗戦後、日本に帰ることが出来たのであろうか……。