どこそこのパワースポットには神気が宿る、などとよく聞かれます。
まあ、古来から聖地とか言われている場所には、言葉では伝えられないような何かが感じられるようです。
この気というもの、波動とも言われていますね。
これはしばしば霊だとかと結び付けられて、特殊な、霊能的な人にしか感じられないもののように思われているフシが有ります。
私見では、絶対にそういう類のものでは無いですね。
それを感じられない人というのは、おそらく「そんなものは無い!」とか「特殊な人にしか分からないものなんだ」という固定観念が強いんじゃないか、と思われます。
気というものは、もう日常のあらゆるところで、ほとんどの人は何気なしに体感している筈です。
「森林浴は心地良い」とか「何だか薄暗くて気味が悪い」とか…
気には良い気とか悪い気、邪気が有るとか言いますが、気そのものは中立的なもので、それは気の満ちている、乏しくなっている、純度、流通性といった状態を意味してるんじゃないかと思います。
ちなみに我が国では「穢れ」というのは気枯れ、すなわち気が乏しく、弱まった状態を意味するとされています。
又我々自身にも、一人一人固有の気、波動があるらしく、誰それとは気が合うとか、合わないとか普通に言いますよね。
これだけでどんだけ「気」という字を入力したことか…
気というものは又生命と切り離せないもの、というより生命力そのものじゃないでしょうか。
インドではプラーナ、ギリシャからキリスト教の西欧ではプニューマと言われ、いずれも息や霊なるもの(これは心霊的な事とは違います)と関連付けられています。
仏教でいうダンマ~法と訳すと意味があまり伝わりませんが~も形なき命です。
そして瞑想における呼吸法の目指すところは、空気呼吸からこの霊なる生命力の接受にシフトすることにあると言われています。
私はほとんど呼吸法というものをやったことがないので、肺呼吸からその生命力が漲ってくる、という実感は無いのですが、いつの間にか次のような確信が芽生えました。
即ち我々は実は、肺呼吸の他に普段から無意識で、もう一つの知られざる呼吸をやっている…
この生命力を受け(入)、外部へ放出している。
肺呼吸と同じく、それ無しでは生きていけない程我々にとって無くてはならないものである。
それ(知られざる呼吸)は呼吸器官と言うより、全身(全霊?)で行われている。
それは自分の意志、力でコントロールする事は出来ない。
それは我々の意識と密接な関係が有り、意識が向いたところに焦点が行く。
(これは自分の意志で意識を一点に集中するという事とは根本的に違います。意識的になると自然にそうなるという事です。)
これは我々にはまだ解明されていない、言わば呼吸の裏側と言ってもいいでしょう。
イスラム教の祈りの形が有りますね。
アラビアの怪人ザ・シークがやってるような…(分からない人はスルーして下さい)
両手を大きく上げて…広がっていく感じ…
ググッと、上よりの力が加わって…縮まっていく感じ…
私にはあれがこの命のエネルギー交感が行われている様を表しているように思われてなりません。
中国の太極拳にも、身体を生命力の流れに任せている様子が出ている感じです。
いずれも最初にそういう型が有ったんじゃなくて、自然な、というか無為的な身体の動きが最初に有り、徐々に有為的な動作になったのではないでしょうか。
野口整体とかある種の気功法などは、そうした無為的な動きを意識的に取り入れたものと言えるでしょう。
ああいうものも又、超能力的なものと結び付けられがちです。
じゃ、アクビは何で自然と出るのか?不思議じゃないですか?
普段何気なく見過ごしていることの中にも、人生の裏側への出入り口があちこちに有るのです。
誰にも気付くことが出来ます。
意識的になることによって…。
(以前に書いた「意識というもの」の記事も読んでみて下さい)
まあ、古来から聖地とか言われている場所には、言葉では伝えられないような何かが感じられるようです。
この気というもの、波動とも言われていますね。
これはしばしば霊だとかと結び付けられて、特殊な、霊能的な人にしか感じられないもののように思われているフシが有ります。
私見では、絶対にそういう類のものでは無いですね。
それを感じられない人というのは、おそらく「そんなものは無い!」とか「特殊な人にしか分からないものなんだ」という固定観念が強いんじゃないか、と思われます。
気というものは、もう日常のあらゆるところで、ほとんどの人は何気なしに体感している筈です。
「森林浴は心地良い」とか「何だか薄暗くて気味が悪い」とか…
気には良い気とか悪い気、邪気が有るとか言いますが、気そのものは中立的なもので、それは気の満ちている、乏しくなっている、純度、流通性といった状態を意味してるんじゃないかと思います。
ちなみに我が国では「穢れ」というのは気枯れ、すなわち気が乏しく、弱まった状態を意味するとされています。
又我々自身にも、一人一人固有の気、波動があるらしく、誰それとは気が合うとか、合わないとか普通に言いますよね。
これだけでどんだけ「気」という字を入力したことか…
気というものは又生命と切り離せないもの、というより生命力そのものじゃないでしょうか。
インドではプラーナ、ギリシャからキリスト教の西欧ではプニューマと言われ、いずれも息や霊なるもの(これは心霊的な事とは違います)と関連付けられています。
仏教でいうダンマ~法と訳すと意味があまり伝わりませんが~も形なき命です。
そして瞑想における呼吸法の目指すところは、空気呼吸からこの霊なる生命力の接受にシフトすることにあると言われています。
私はほとんど呼吸法というものをやったことがないので、肺呼吸からその生命力が漲ってくる、という実感は無いのですが、いつの間にか次のような確信が芽生えました。
即ち我々は実は、肺呼吸の他に普段から無意識で、もう一つの知られざる呼吸をやっている…
この生命力を受け(入)、外部へ放出している。
肺呼吸と同じく、それ無しでは生きていけない程我々にとって無くてはならないものである。
それ(知られざる呼吸)は呼吸器官と言うより、全身(全霊?)で行われている。
それは自分の意志、力でコントロールする事は出来ない。
それは我々の意識と密接な関係が有り、意識が向いたところに焦点が行く。
(これは自分の意志で意識を一点に集中するという事とは根本的に違います。意識的になると自然にそうなるという事です。)
これは我々にはまだ解明されていない、言わば呼吸の裏側と言ってもいいでしょう。
イスラム教の祈りの形が有りますね。
アラビアの怪人ザ・シークがやってるような…(分からない人はスルーして下さい)
両手を大きく上げて…広がっていく感じ…
ググッと、上よりの力が加わって…縮まっていく感じ…
私にはあれがこの命のエネルギー交感が行われている様を表しているように思われてなりません。
中国の太極拳にも、身体を生命力の流れに任せている様子が出ている感じです。
いずれも最初にそういう型が有ったんじゃなくて、自然な、というか無為的な身体の動きが最初に有り、徐々に有為的な動作になったのではないでしょうか。
野口整体とかある種の気功法などは、そうした無為的な動きを意識的に取り入れたものと言えるでしょう。
ああいうものも又、超能力的なものと結び付けられがちです。
じゃ、アクビは何で自然と出るのか?不思議じゃないですか?
普段何気なく見過ごしていることの中にも、人生の裏側への出入り口があちこちに有るのです。
誰にも気付くことが出来ます。
意識的になることによって…。
(以前に書いた「意識というもの」の記事も読んでみて下さい)