人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

私の分岐点

2014-12-17 20:17:51 | 回想
人生にはいくつか分岐点が有ります。
お分かりですよね…。
これまた私の無為徒食の青春彷徨時代の昭和53年晩秋のことです。
私はその一年前、それまで入信していた新宗教を辞めて、宗教的な事で迷っていたのですが、白光の五井昌久先生と出会い、初めて神というものに意識的に向かい合うようになったのでした。
つまり神に思いを向けるという事は楽しく、喜ばしいことなんだと自覚するようになったのです。
こうした機縁を与えられたことに対しては今でも感謝の気持ちは忘れていません。
当時市川にあった道場に初めて行ったのは五井先生の誕生会でしたが、初めて先生の姿を拝した時は何故か涙が出てきたのを覚えています。
それからほぼ毎月のようにそこで行われていた統一会に参加したり、毎月月刊誌を読んだりとまあ、先生に傾倒していたものです。
ただそれ以外の宗教的、今日でいう精神世界的なものに対する探究心も猛烈に起こっていたのですが…。
そのいくつかの教説の判断基準というものを五井先生に置いていたりと、何時しか先生を権威にしていたところが有りました。
もうこうなると白光の信者になるのも時間の問題かと思われていたのですが…。
五井先生に対するこの傾倒ぶりが、急速に冷めてしまうという事態が突然起きてしまいました。
このエピソードと言うのが如何にも私らしい?…です。
ある時白光青年部の知人が会の長老格S先生に何やら相談をしていました。
その内容と言うのが彼が当時オカルト雑誌の編集長をしていたT氏と女性霊感者Y氏と組んであるプロジェクトを立ち上げようとしていることの可否、つまりお伺いを立てていたのです。
私は大体どういう答えが返ってくるのかは想像がつきました。
「アンタは折角五井先生とつながったんだから、ヘンなものに迷いなさんな!」…ああ、やっぱり…。
そして私と違って全く性格が素直な彼は、迷う事無くその志を白紙にしました。
私は傍らでその一部始終を聞いていて、何やらとても嫌悪感が湧いてきました。
「何という主体性の無さであろう!自分の生き方なのに他人のツルの一声で決めてしまうのか!占いに翻弄されるのと変わらないじゃないか?」そしてそれは自分自身の依存体質にも重ねられました。
「思えば一年前、私は宗教依存の愚かさを思い知らされた筈ではなかったのか?再び同じ迷路に入り込もうとしてるのか?」
この件がきっかけで私の中に「私自身が本当に腑に落ちるまで納得しなければ、絶対に自分以外の何ものかを鵜呑みにしたり、翻弄されたりしまい!」
という強固な信念が芽生えたのでした。
同時に急速に冷めたのは、スピ系特有の、霊能、心霊的なものに対する短絡的迎合でした。
「所謂霊能者ならいざ知らず、普通の人間にとって霊界、幽界、前世…これらは全て空想的観念でしかない、妄想の温床になるだけではないか?」
こうして私は五井先生と白光からは距離を置くようになりました。
しかし、すぐに試練がやってきました。
その年の暮から明けて54年の初めにかけて、私の知人の友人があの洗脳で有名なT教会に関わろうとしていたのを辞めさせようとしているうち、私も
とばっちりを受けてしまったのです。
「これは五井先生に背を向けた報いだろうか?」と弱気の虫も出たりして、ある晩その洗脳集団への恐怖心から無我夢中で祈っていたら、例の変調に見舞われたのでした。
一体どういう事が自分に起きたのかは分かりませんが、何せ意識が飛びそうになったのです。
それからというもの最初の一月くらいは精神的に不安定な時期が続きましたが、やがて前回書いたような感覚(意識が飛ぶと言うより、内面に浸透していくような)を身に覚え始めたのです。
面白いことに観念的な心霊的情報から距離を取り始めたら、体感的なものが芽生えたのです。
人はどう見るか分かりませんが、私はこれを霊能として捉えたことは有りません。
霊視だとか霊聴などとは無縁だからです。
ただそのような内的感覚が有るというだけです。
で、それはそのまま現在に至ってるかと言ったら…そうは問屋は降ろさないのです。
ああ、人生は直線ばかりじゃないですから…ホントに…。


コメント
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