人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

瞑想と自己信頼

2015-09-03 18:02:21 | 祈りと瞑想
”ナントカ瞑想をしてたら心身がおかしくなってしまった云々…”
瞑想愛好家にしたら由々しきことが最近ネットを賑わしていますね。
前にも書きましたが、私は特に愛好家でもないのですが、瞑想と言われるものかどうかはともかく(恒常的になじんだものでハッキリそれを謳っていたのは元波動瞑想だけです)、いくつか心得はあります。先天の坐法(道院)、ラティハン(S会)、沈黙の礼拝(クエーカー)…これらに共通して言えることは、マントラ、ヤントラ…といったテクニック、小道具(耳栓など)はほとんど使わない、余計なものは要らないごくシンプルな、自然に任せるというところに極意が有るものだったと言えます。
その過程の中で、健康被害とか日常生活に支障来たすような事態になったことは一度もありません。
ただし、何らかの好転反応と思しきものは有りました。
それは微熱が何日も続くとか、普段よりキツイ鼻水が出る、といった典型的?なものです。
私は好転反応など有って当たり前だと思っていましたから、”やったあ!”と喜んでいたものです。
この現象は、体のどっかに蓄積された歪みや淀みが解けて行くプロセスだという事が体感的に分かります。
そのことは、その現象が通過したらある種の爽快さが感じられるところからも言えます。
これは不自然な状態から自然な状態へと還元される中での浄化の過程であるのは、もう分かり切ったことです。
そういうことは公的に活躍している医師に相談したって、注射して、薬もらって、”ヘンな事やってないで寝なさい!”でオシマイでしょう。
彼らはそれでメシ食ってる訳ですから…
ついでに言うと、瞑想してるうち、覚醒してしまう事も無いとは言えません。
医者は多分意識障害かなんかだと診断して、注射して寝かして、起きたら”幻想から覚めましたか?”とか言って”ハイ、フタ閉め完了”でオシマイでしょうね。
折角目覚めたのに…人生の裏側のことはカルテには書けないんです…。
このように、裏側に足を突っ込んでしまうことがある、という…これを理解しないで、”オカシクなった”と騒ぐのなら、瞑想なんかに手を付けること自体おかしいことです。
ただし、怪しいシステム、メソッド、誘導術などが介入しているとなれば全然話は別です。公的機関に訴えるのがいいかも知れません。
私がマスター…あなたに秘伝を授けましょう…こうすればあなたも悟れます…怪しいですねえ…
生身の人間というのは覚者様、生神様だろうと、皆媒体に過ぎないのです。
そこにエネルギー伝授らしきことがあっても、あるエネルギーが媒体から媒体に流れるだけであって、それ以上でも以下でも無く、後は自分に元々有ったエネルギー、そして人それぞれの見えざる真のマスターが上手くやってくれるだけです。
…と言い出すものは、悉くがエセだと思って間違いありません。
彼らは過信と言う重病に犯されているのです。
エネルギーがこの””で滞ってしまう、というのが極めて不自然、不健康な事態なのです。(それにしても…出るわ、出るわ、ホンマかいな…要浄化です!)
でも、そもそもは自分自身に向き合い、信頼してたらそういうものには引っかからないものです。
先の好転反応の件でも、全くもって自分自身に起きる事なので、何かを被った訳でも無く、医者の出る幕など無いのです。
この道を歩むという事は全て自分の意志(誰かの洗脳操作でなく)に基づき、自己責任の上でのことなのです。
私は宗教的依存から離れてからこのような自己信頼、自信が生まれました。
当初はヘンな瞑想に関わった訳でも無いのに、本当にオカシクなってしまいました。意識がどっかへ飛んで行くような…そうですね…”いない、いない病”の兆候だったかもしれません。
でもやがて”大丈夫だよ、私はここに居る”という声なき声を感じるようになって、最初に書いた瞑想モドキと関わるようになったのです。
どの道を歩むにせよ自分を信じて行きたいものです…。
コメント
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