人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

洗脳と全託

2015-09-26 16:46:42 | 求道、探究
宗教や精神的な道を求めている人というのは、どこかこの世の常識とか現実世界というものに、シックリ来ないものを感じている人が多いのではないかと思います。
そしてその道を歩み、深めていく過程ではそれぞれの宿縁次第によっては、それまで”これが自分だ”と思っていたものの明け渡し、全託というものに導かれることも有ります。
こういうことは、自分の思われた通りの人生や、この現実世界を生きる事になんの疑問も問題も持たない人には、おそらく縁も所縁も無く、又そのようなヘンなことに足を踏み入れてしまうことなど、実にあやういこととして、まず望みもしないだろうと思われます。
そういう人にとっては全託の道は禁断の領域と言えるでしょう。
自分の考え、自分の力だけで上手くやったらいいのです。(もうダメだと思ったら運の尽きです)
まあ、どう生きようと人の勝手、それも人生、これも人生です。ただ後者の場合人生の裏側の扉が実感として、開く機会は無いかも知れません。
もっとも、人がどう思っていようとそれはどの人にもあるのは間違いのないことなのですが…そうでなければ、あなたの心拍は即停止するかも知れない…
私は、この全託ということ、(お手上げ、降参、表現は様々ですが)には、ある種の危うさ、怪しさが付きまとう事もよく分かります。
私などのように”見えざる導師”だの得体の知れないものに、自分を明け渡して大丈夫か?と思われる方もいるかも知れません。
でも、本当に危険、怪しく感じてしまうのは見える導師が介入している場合ではないでしょうか?
ラマナ・マハルシはじめインドの系の導師などはよく”導師は準備の出来た人間に自ずと現れる”と言ってますが、実際のところ果たしてその導師は本物か否かという問題はどうしてもあります。
オウムの事件はなお記憶に新しいですが、今も数多存在する自称覚者、導師の周囲には洗脳というものがどうしても付きまといます。
私は以前、ある人から能力開発セミナーの誘いを受けた事が有ります。
私はこれまで見えざる導師にしか心を許したことが無く、その他の見える人間の誘導には悉く用心深く接し、引っかかることが無い(それ自体が実は見えざる導師の導きなのかも知れません)のですが、一週間ぐらいして、その人に会ったらすっかり人格が変わってしまったのに驚いた事が有ります。
目が何だかトロンとして、ホントに悲しくなりました。
洗脳で絶対的に物を言うのは、言葉です。書かれたものにせよ、語られたものにせよ、何らかの言葉による誘導が有るのは間違いありません。
そしてその言葉に込められた強い観念が、それを受ける側の精神に植えつけられるのです。
これは疑似全託と言ってもいいでしょうか? 
ネット上でも飛び交っている何かを煽るような扇動する言説というのは要注意です。
人は自分の自由意志で勝手に好きなことして生きているのです。
洗脳されないためには、この自由意志、主体性に委ねることが重要です。
もっとも自分だけの考え、力にそれを求めても見つからないかも知れません。
でも誰でも、そのよって来たる出どころは分からなくても、知らず知らずそういうものに依拠し、導かれて生きて来たのではないですか。
私はそういうものを強烈に実感した事が有ります。
逆説的ですが、それは自分を超えたものに捉えられて、自分がそれまで思っていた自由意志、主体性が奪われてしまった時です。
そしてその時、いかに自分が思考によって雁字搦めにされていたかが分かったのです。
真の自由意志、主体性というのは、見たままの、思われたままの自分には根拠は無いでしょう。
全託、降参という事態は部分的な自分の、全体的な自分へ託すということで、自称グルーなどの出る幕は無いのです。
(もっとも、あなたのすぐ近くにどおってことないパイプ役の人は居るかも知れません。
いや、それは一匹の野良猫かも知れない。明け渡しの媒体はどこに潜んでいるか分からないのです。)
何かと介入しようとか、扇動しようとかといったアカの他人の意志で無しに、本当に自分自身から出て、自分とは別人になる訳じゃなく、自分自身に帰る事なのです。
それは他の何物にも依るのでも無く、チッポケな自分と大いなる自分の自由な意志に依るのです…。









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