”自分を見つめる、見つめ直す”って言いますね。
客観的に自分を見つめるってことなんでしょうか?
ちなみに私は観照という語句を調べていたら、正しくそんな意味のことが書かれていました。
「主観を交えず、対象のありのままの姿を眺めること」
これに照らせば、これは自己観照ということですね。
私は真剣にそういう事を試みたことが無いのですが、そうすることで何か自分のことが分かってくるものなのでしょうか?
クリシュナムルティだったら、お手のものなのかも分かりませんね。
私はどうもそれをやろうとすると、次から次へと客観的にならないような思考が絶え間なく去来して、堂々巡りになってかえって自分が何なのか分からなくなってきそうです。(笑)
何で又この観照という言葉が気になりだしたかというと、先の公共的意味とは全く違う意味で、私の自己満足で勝手に誤用していたからです。(笑)
私のコトバンクに依れば、この観照は自分が自動詞にはなり得ません。つまり観照する、観照しよう、という風には使われないのです。
常に観照されるものなのです。何に?…分かりません。自分を超えた何か…上より来るもの、としか言いようが有りません。
つまり、それは私がいつも触れている、見えざる導き、声なき声、ジンジンしてくる感覚…と共にあるものなのです。
これは、何か自分を超えたあるものを自分でイメージし、観られているようにまたイメージする事とは全く違います。それは自分がイメージする事ではないのです。
この何か大いなるものに観られている、光を照らされている感じ…これはどう言ったらいいのか?
照明…イルミネーション…超越的な光などについては古来から所謂神秘主義哲学では語られてきた概念ですが、これが当てはまるのかどうかは分かりません。
とにかく、自分からそうしようとしてもそのようにはならない…自ずとそうなるのです。
そして照らされた私から何かが…ジンジンと呼び覚まされてきます。
あたかも雨上がりに太陽の光が差し込むと、濡れた大地から水蒸気が立ち上がってくるように…
そして自分というものは、それ自体ではいくら客観的に見つめようとしても、何かの断片、半端なもの…というより、どこまで眺め、捉えようとしても判然としないものだという事が知られてきます。
そしてまた限りある自分が限りある自分を見つめようとすることの無意味さも示され、自分は何かなどはどっちでもよくなって、これなくして、自分は寸時も生きられない、ということに覚めさせられてくるのです。
このお照らしは上よりの召喚と言ったらいいでしょうか。
私がどうしてこうなったかという事は、いつの間にかという事で分かりません。何かのメソッドに従ったわけでもありません。
(メソッドというのは別に有ってもいいのですが、ともすれば方法論に溺れてしまう事にもなり兼ねないものです。)
ただ祈り心地になっていたら、そうなっていたという事です。
祈りというのは下からの召喚でしょう。
やがて祈ろう、という事も無くなって、意識を上なるものに向けるだけでそうなってきます。
この”意識を向ける”という意味不明な言葉も今日限りで卒業になりそうです。
これはどう考えても自分が自動詞にはなり得ませんし…向いちゃう?…もともと上とつながっているからそうなるまでの話です。
国語はそのうち、変わらざるを得なくなるでしょう。これまでは自動詞で扱われる言葉ばかりでした。
今日もまたヘンな記事を書かされております。
客観的に自分を見つめるってことなんでしょうか?
ちなみに私は観照という語句を調べていたら、正しくそんな意味のことが書かれていました。
「主観を交えず、対象のありのままの姿を眺めること」
これに照らせば、これは自己観照ということですね。
私は真剣にそういう事を試みたことが無いのですが、そうすることで何か自分のことが分かってくるものなのでしょうか?
クリシュナムルティだったら、お手のものなのかも分かりませんね。
私はどうもそれをやろうとすると、次から次へと客観的にならないような思考が絶え間なく去来して、堂々巡りになってかえって自分が何なのか分からなくなってきそうです。(笑)
何で又この観照という言葉が気になりだしたかというと、先の公共的意味とは全く違う意味で、私の自己満足で勝手に誤用していたからです。(笑)
私のコトバンクに依れば、この観照は自分が自動詞にはなり得ません。つまり観照する、観照しよう、という風には使われないのです。
常に観照されるものなのです。何に?…分かりません。自分を超えた何か…上より来るもの、としか言いようが有りません。
つまり、それは私がいつも触れている、見えざる導き、声なき声、ジンジンしてくる感覚…と共にあるものなのです。
これは、何か自分を超えたあるものを自分でイメージし、観られているようにまたイメージする事とは全く違います。それは自分がイメージする事ではないのです。
この何か大いなるものに観られている、光を照らされている感じ…これはどう言ったらいいのか?
照明…イルミネーション…超越的な光などについては古来から所謂神秘主義哲学では語られてきた概念ですが、これが当てはまるのかどうかは分かりません。
とにかく、自分からそうしようとしてもそのようにはならない…自ずとそうなるのです。
そして照らされた私から何かが…ジンジンと呼び覚まされてきます。
あたかも雨上がりに太陽の光が差し込むと、濡れた大地から水蒸気が立ち上がってくるように…
そして自分というものは、それ自体ではいくら客観的に見つめようとしても、何かの断片、半端なもの…というより、どこまで眺め、捉えようとしても判然としないものだという事が知られてきます。
そしてまた限りある自分が限りある自分を見つめようとすることの無意味さも示され、自分は何かなどはどっちでもよくなって、これなくして、自分は寸時も生きられない、ということに覚めさせられてくるのです。
このお照らしは上よりの召喚と言ったらいいでしょうか。
私がどうしてこうなったかという事は、いつの間にかという事で分かりません。何かのメソッドに従ったわけでもありません。
(メソッドというのは別に有ってもいいのですが、ともすれば方法論に溺れてしまう事にもなり兼ねないものです。)
ただ祈り心地になっていたら、そうなっていたという事です。
祈りというのは下からの召喚でしょう。
やがて祈ろう、という事も無くなって、意識を上なるものに向けるだけでそうなってきます。
この”意識を向ける”という意味不明な言葉も今日限りで卒業になりそうです。
これはどう考えても自分が自動詞にはなり得ませんし…向いちゃう?…もともと上とつながっているからそうなるまでの話です。
国語はそのうち、変わらざるを得なくなるでしょう。これまでは自動詞で扱われる言葉ばかりでした。
今日もまたヘンな記事を書かされております。