人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

逆説的非二元論

2015-09-06 19:14:11 | スピリチュアル?
私は、欧米そして日本でも流行の兆しのある非二元論は自殺の増加と関係があるのではないか、と以前から感じています。
今わの際の、のっぴきならない苦難を背負いこんでしまった人たちにとり、私はいない…起こることが起きているだけ…といったメッセージはあるいはこれ以上ない福音となるかも知れません。
私はそのことに対して、そのような導かれ方に対して、如何なる意見もつぶやきも引っ込めざるを得ません。
その方がそれにより、救いを、幸福を見出したのなら、それでいいに決まってます。
しかし、この状況は破滅と隣り合わせですね。
私は昔から時折苦難を背負いこんでしまった際、それは本当の一大事に比べたら坊ちゃんじみたものかもしれませんが、誰に教わった訳でも無く問題はただ起きているだけ、私がその問題を抱えている訳では無い、という感覚に導かれたことが有ります。
これは多分、隠れた魔術師が人生の裏側のある側面を覗かしているのでしょう。
そこでは本当にこの現実世界で生きているものの個人という実体は無くなります。
でも何も無いのではありません。実体無きリアリティというものが有ります。
そうでなければ気絶するか死んでしまうだけでしょう。
非二元論において個人というものが、何か忌まわしき存在、消滅すべき存在として語られる理由も頷けます。
それに引き付けられる人の多くは、自分自身、人生にずっと問題を抱えている人たちなのでしょう。
これはしかし死と隣り合わせではないかと思います。
個人は無いとは、すなわち死ということでしょう…
けれども、そこには現実に生きてる人間に隠れた、真の主体への気づきにも導かれるものです。
この主体の意志をどう受けとめるかで運命は決まる…
私は新非二元論だろうと、非二元原理主義だろうと、それを排除する権利は勿論、その気もありません。
ただ、そのいかにもな、”ここにしか行き着くところが無いんだ…唯一の真理だ…”というその看板倒れの思いきり二元的物言いに思わず、”ちょっと待った!”というものが出るだけです。
その言説で、この忌まわしき自我の始末に明け暮れている傾向、”ええい自我など元々無かったことにしちゃえ…”とばかりに自我、マインドと相対してこれまたシッカリ二元性を浮き彫りにしているのを見るにつけ、”無理してんだなあ”と思わずにいられません。
誰かの教説に一生懸命腑に落ちようと、従おうとするのは宗教信者と同じです。
悟ったフリ、分かっちゃったフリは出来ても、それをアレコレ考えている自分がいる以上私は無くならないのです!
ただ、のっぴきならない事態が起きたら何かが起こるかもわかりません。
逆説的ですが、そこでは極めて二元的なもの、どうにもならずに我々に立ちふさがる現実というものに直面させられるのです。
それは暇人たちの憩いのサロン?ゆるふわお花畑なんかじゃありません!
そこでギブアップして、その現実の開かずの扉が開いて表と裏の劇的対面という、これまた二元的なエポックが起きるのです。
そこで理解しようとかする二元的な無駄な努力なしに、一なるものの理解が生まれるのです。
これは全て隠れた魔術師、見えざるマスターの陰謀です。
彼は非二元だろうと、狂信的原理主義だろうと、あらゆる宗教的、精神的道にも、ありきたりな日常の道にも潜んでいます。
そして裏が表に顕れた時、何時も示されるのはこのパラドックスです。
一元でも二元でも無い…これは多分(二)ンゲンは、ヒト(一)という暗喩なのでしょうか?…







コメント
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