私は度々触れているように、いくつかの宗教的、精神的グループと関わってきました。
その中には皆さんもよく知ってる有名な新宗教の団体もあります。
その教祖さんは何でもイエスや釈尊や老子やら、五大聖者が霊的に合体しているとか…
そこで提唱している祈りをしていれば救われることに決まっているとか…
そういう事を信じ込むことと、自分自身の魂の在り方、生き方とは何の関係も無い…ということは少し学のある方ならお分かりのことと思います。
大きな宗教にはこういったミソもクソもという話は付き物ですね。
ただ私はその教祖さんが常々言っていた「常に神への感謝、祈りで想いを満たしておくことが大事です…宗教の本道は本心を開くことです…」といった言葉には共感するというより、ある種感応するようなところが今もあります。
物を食べたら勝手に消化され、血肉となるように、何かが細胞に浸み込めばいいので、どうでいいことはどうでもいいのです。
教祖さんが言葉の端で言ったような、例えば「コレコレやった人は地獄へ行きます!」というような言葉でも、何でもかんでも教祖様は正しいと信じ込んでいる信者には無上の真理に映るらしいです。
教祖さん自身は「私はクサイ信者はイヤだね!」と言ってましたが…
このようなそのグループ特有の色、そこにしか通用しそうにない言葉、そして何より教祖、先生、教えを取り巻く権威主義…
私は最初に関係していた教団以外、そういうものに感染したことは一度もありません。私の中に芽生えていた免疫がそうした誘惑から防いでいたのかもわかりません。
ある一時期など、見えない導きに後押しされるように関わりを持ちましたが、決してそこに位置づくことはありませんでした。
多くの場合、私は様々なグループを取り巻くこの通気性の稀薄な空間に嫌悪感を抱きました。
ある霊的修練を伝えている団体で、大御所さんのように目されていた人が、周りの人間を煙に巻くような言葉でコントロールしている様を見て、その団体への信頼はいっぺんに飛びました。”魔術なんかに関わってられるか!”と…
こうした息苦しく、魔術的空気は、あるその創始者なり教師なりに共感して集まるどんな団体でも、程度の差はあれ避けられないものです。
とにかくこうしたグループへの関与の変遷は、私にとり幻滅と裏切りの繰り返しだったと言っても過言ではありません。
(ただその事とは別に度々触れている、いくつかの言葉を超えた感応もありましたが…)
そこでは中心に権威があり、それを信奉する者たちはその従属物と言う印象を持ちました。
権威に違うようなことを言おうものなら、時にそれは周囲から自我からの言葉とみなされます。
しかし自分が自分でいられないなら、世界一のエゴイストになっても可なり…です!
大我とか小我といった言葉に従えば、各々の自我は小自我なら、信者をコントロールし、管理しようとしている動きが有るとすれば、それは大自我とでも言うべきでしょうか。
この大自我というものの実体は、おそらくは集まる者たちの意識にあるアートマン的なもの、人それぞれの内なる絶対的なもの、大我の投影でしょう。そしてその団体も有る見えないものの影でしょう。
そしてその眼に見える教会なり、団体は仮現的なもの、中途的なものに過ぎず、分離した形態とならざるを得ません。
それはこの相対的二元的世界の雛形と言ってもいいかと思います。
あらゆる狂信者、宗教的相克が生まれるのもこの屈折した絶対主義からでしょう。
現在ではオウムの事件以来かなりウミが出されたのか、宗教にまつわる歪んだ形はあまり見られなくなったものの、相も変わらずすり替えビジネスも盛んなようです。
教える人と、教わる人、従う人との関係が無くならない限り神の国は開かれないのでしょう…。
その中には皆さんもよく知ってる有名な新宗教の団体もあります。
その教祖さんは何でもイエスや釈尊や老子やら、五大聖者が霊的に合体しているとか…
そこで提唱している祈りをしていれば救われることに決まっているとか…
そういう事を信じ込むことと、自分自身の魂の在り方、生き方とは何の関係も無い…ということは少し学のある方ならお分かりのことと思います。
大きな宗教にはこういったミソもクソもという話は付き物ですね。
ただ私はその教祖さんが常々言っていた「常に神への感謝、祈りで想いを満たしておくことが大事です…宗教の本道は本心を開くことです…」といった言葉には共感するというより、ある種感応するようなところが今もあります。
物を食べたら勝手に消化され、血肉となるように、何かが細胞に浸み込めばいいので、どうでいいことはどうでもいいのです。
教祖さんが言葉の端で言ったような、例えば「コレコレやった人は地獄へ行きます!」というような言葉でも、何でもかんでも教祖様は正しいと信じ込んでいる信者には無上の真理に映るらしいです。
教祖さん自身は「私はクサイ信者はイヤだね!」と言ってましたが…
このようなそのグループ特有の色、そこにしか通用しそうにない言葉、そして何より教祖、先生、教えを取り巻く権威主義…
私は最初に関係していた教団以外、そういうものに感染したことは一度もありません。私の中に芽生えていた免疫がそうした誘惑から防いでいたのかもわかりません。
ある一時期など、見えない導きに後押しされるように関わりを持ちましたが、決してそこに位置づくことはありませんでした。
多くの場合、私は様々なグループを取り巻くこの通気性の稀薄な空間に嫌悪感を抱きました。
ある霊的修練を伝えている団体で、大御所さんのように目されていた人が、周りの人間を煙に巻くような言葉でコントロールしている様を見て、その団体への信頼はいっぺんに飛びました。”魔術なんかに関わってられるか!”と…
こうした息苦しく、魔術的空気は、あるその創始者なり教師なりに共感して集まるどんな団体でも、程度の差はあれ避けられないものです。
とにかくこうしたグループへの関与の変遷は、私にとり幻滅と裏切りの繰り返しだったと言っても過言ではありません。
(ただその事とは別に度々触れている、いくつかの言葉を超えた感応もありましたが…)
そこでは中心に権威があり、それを信奉する者たちはその従属物と言う印象を持ちました。
権威に違うようなことを言おうものなら、時にそれは周囲から自我からの言葉とみなされます。
しかし自分が自分でいられないなら、世界一のエゴイストになっても可なり…です!
大我とか小我といった言葉に従えば、各々の自我は小自我なら、信者をコントロールし、管理しようとしている動きが有るとすれば、それは大自我とでも言うべきでしょうか。
この大自我というものの実体は、おそらくは集まる者たちの意識にあるアートマン的なもの、人それぞれの内なる絶対的なもの、大我の投影でしょう。そしてその団体も有る見えないものの影でしょう。
そしてその眼に見える教会なり、団体は仮現的なもの、中途的なものに過ぎず、分離した形態とならざるを得ません。
それはこの相対的二元的世界の雛形と言ってもいいかと思います。
あらゆる狂信者、宗教的相克が生まれるのもこの屈折した絶対主義からでしょう。
現在ではオウムの事件以来かなりウミが出されたのか、宗教にまつわる歪んだ形はあまり見られなくなったものの、相も変わらずすり替えビジネスも盛んなようです。
教える人と、教わる人、従う人との関係が無くならない限り神の国は開かれないのでしょう…。