人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ゆるい非二元論

2015-09-05 19:50:51 | スピリチュアル?
”私はいない””起こることが起きてるだけ”と紋切り型の偏った言説を繰り返す、最近流行りの精神的思潮を一部では非二元原理主義者と揶揄して表現されていて、私もしばしば言っております。
これはしかし言語矛盾した表現だと思われる人も多いのではないでしょうか?
キリスト教やイスラムなどに原理主義と呼ばれているものがありますが、ある教えを信じ込む宗教にはこうした傾向は付きものでしょう。
この下では、自派の正統性が強調され、排他的となり、相克を生み出すことになります。
そこでは神は実体有るものとして語られるが、その実体、いや正確には実体が有るかのごとく信者の精神世界に君臨しているものは、どこまでも自分以外の誰かがこさえた、偏狭な固定観念でしかありません。
原理主義を支配しているものは、強力なバーチャル・リアリティだという事が出来ます。
そして、非二元論…ホントはOO論という語句さえも、言語矛盾に思えます。
そこから醸し出されてくるものは、人づてに伝わる教説、時に修行のプロセスさえも介在させない、それへの直接的アプローチ…いやそれも超えちゃうような、その…所謂道です。
これはしかし、その発祥元とされるヒンズー的伝統に限らず、あらゆる宗教的、精神的伝統に通底しているものと言えます。
直接経験というものは、そのいずれにも見出されるからです。
そこで直接経験されるものは、言葉で言い表し得ないものです。
強いて言えば、全てであり、一なるものといったものでしょうか…
そこでは言葉の障壁は超えられているので、原理主義などが造り出す排他、相克的観方からも自由です。
つまりは非二元的観方というのは、如何なる異なった道をも抱擁させる…というより元々一なる根源に連なっている…すなわち分離など無い、という気付きに導かれるものでしょう。
こういうものに原理主義などといったものが、はびこる余地などあるでしょうか?
それがこの数多の相対的観方が林立している二元的現実の中で、それ自体アクの強い偏った非二元的言説を展開しだすや、そこにあらたな相克の火種が立ち上ってくるのは火を見るより明らかな事です。
そのことはここ最近のネット上の動きが証明しています。
非二元原理主義如きが出現し出したということは、実は本来の非二元の道にとって最大の裏切りと言えるでしょう。
(弟子丸泰仙師もさぞかしあの世で嘆いておられることでしょう。某フレンチテイストのブログで久しぶりにその名を拝しました。本を一冊持っていたのですが行方不明です)
思うにこの人たちは非二元には似つかわしくなく、自分が表に出過ぎているという気がして仕方ありません。
全てで一なるものはこの二元世界ではいつも隠れていて、ジンワリとゆるーく形あるもの(人や言葉)を通して醸し出されてこそ、我々に相対を超えた、普遍的な何ものかを感知させるものだと思います。
つまり、普遍調和をもたらすものはこの隠れたあるものなのであり、その媒体がそれにとって代わって出しゃばるものじゃない、という事です。
直接性と言う…しかし二元で生きている人間に直接”私はいない”などと断じることは出来ないでしょう。
そこにはその当の生身の人間に”私はいない”と感じさせている重大な何ものかが欠落しているように思えるのです。
この何ものか、バーチャルでない何ものかが抜け落ちると、厚かましい原理主義的言説がはびこるのです。
これが又ビジネスにすり替わるのですか!
この世に二つとないヒマラヤの空気でも売るんですかね…
私には自分の魂を悪魔に売っているようにしか見えません…アーメン…




コメント
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