今日は朝からパニクって大変でした。”んもーっ!なんでこんな目に合わにゃならんのかあ…”
大事なカード・ケースを紛失してしまったのです。
日頃ここで書いているような”自己を引っ込めるんです…”なんて悟り済ましたような有り様など何処へやら…
でもしょうがないです…。だって私は悟った人間とは程遠いんですから…
修行が足りないどころか、修行などしてないし…
幸い、すぐに出て来ましたよ!…こんな時、とんだ災難に合ったというのに、なんだかすごくハッピーな気持ちになるんですよね(笑)
何事も無ければ”ああ、朝からうっとおしい雨だなあ…それにして寒いよお、ブルブル…”で済んじゃうのに…(笑)
人生は山あり谷ありなどと言いますね。
喜びもあれば、苦難もある…当たり前のことですよね。
誰でも苦難はなるべく避けて、人生は楽しく有りたいと思うのが人情でしょう。
でも中には苦難に自ら立ち向かおうという人も居ます。
コチコチのクリスチャンとか、難行苦行に勤しんでいる人、又はM趣味の人とか…
私はそういう人たちの気が知れません。だってこの世にはありとあらゆる苦難に満ち溢れているじゃありませんか?その上、何を背負えっていうんですか!
それは他者の救済のため? カルマの清算のため? 自己完成のため?
それとも女王様のため?…この世に生まれてきたこと自体が、人に強制されなくとも修行を課せられているように感じませんか?
クリスチャンなどは特に神が我々に苦難を与えていると信じています。
これには罪意識、神に許しを求める事と結びついています。難行をする人にしても、そこには”自分はこれだけのことをしないと神は許してくれない”といった思いが伺われます。そして冗談でなくヨーロッパ中世の修行僧の中には鞭打ち行に勤しんでいた者も居たのです。
率直に言って十字架の道は重いです。
苦難というものが、気付き、目覚めの契機になるというのは確かなことかも知れませんが、必ずしもそれが条件になるというものでなく、それによって意識が転換される契機が生まれやすくなるということだと思います。
又私は神がそれを我々に課している様には感じません。
(もっともそれは神に聞かなければ分かりませんが)これは多くは我々の都合じゃないでしょうか…
何にせよこの世に生きるには苦難は付き物です。起きるものは、避けられないものはしょうがない、起きるに任せないと…
非二元論者は言います。”あなたが苦しいのは、あなたという個人が居ると思っているからです…”と。
あなたという個人を消したいと思い、消せるんでしたら、やってみたらいいです。多分その時苦難から解放されるでしょう…
でも私にはどうやったらいいのか(多分何もする必要は無いと思いますが)分かりません。何かのクスリでもあるのか…懸命にそう信じようとしたことならありますが…
現実的には人が生きるって事は、苦難を受け入れなければならないという事です。
それはあなたが、あなたという他に代えがたい存在と自由意志を望んだことと共にもたらされたものです。
私はそうでない自分というものは考えたことも無いし、考えられません。
だから今朝のように、わずか一時間ばかりのスッタモンダのドラマを性懲りも無く繰り返しているんです!
誰の脚本か知りませんが、カード入れが見つかり、ほんの一瞬幻の幸福感に預かることが出来ました。
(自由意志はいくらでも起伏に富んだストーリーを作り出すことが出来るんです。全て白地ばかりなんて耐えられません…)
しかし、何時又思いがけないことが起きるともしれない…生きるとは苦難の連続なんですから…
でも私はこの裏側も知ってますよ…そこには苦しみは有りません。”生かされている”だけだから…
生かされていることを実感した時、無条件に幸福で居られます。
耐えられないような苦難に直面した時、何とかしようとパニクる中にも、それにただ向き合うだけで案外思われたような苦しみでは無かった、と感じる事も有ります。
人間、人生とは随意的なものと付随的なものの組み合わせですね…。
大事なカード・ケースを紛失してしまったのです。
日頃ここで書いているような”自己を引っ込めるんです…”なんて悟り済ましたような有り様など何処へやら…
でもしょうがないです…。だって私は悟った人間とは程遠いんですから…
修行が足りないどころか、修行などしてないし…
幸い、すぐに出て来ましたよ!…こんな時、とんだ災難に合ったというのに、なんだかすごくハッピーな気持ちになるんですよね(笑)
何事も無ければ”ああ、朝からうっとおしい雨だなあ…それにして寒いよお、ブルブル…”で済んじゃうのに…(笑)
人生は山あり谷ありなどと言いますね。
喜びもあれば、苦難もある…当たり前のことですよね。
誰でも苦難はなるべく避けて、人生は楽しく有りたいと思うのが人情でしょう。
でも中には苦難に自ら立ち向かおうという人も居ます。
コチコチのクリスチャンとか、難行苦行に勤しんでいる人、又はM趣味の人とか…
私はそういう人たちの気が知れません。だってこの世にはありとあらゆる苦難に満ち溢れているじゃありませんか?その上、何を背負えっていうんですか!
それは他者の救済のため? カルマの清算のため? 自己完成のため?
それとも女王様のため?…この世に生まれてきたこと自体が、人に強制されなくとも修行を課せられているように感じませんか?
クリスチャンなどは特に神が我々に苦難を与えていると信じています。
これには罪意識、神に許しを求める事と結びついています。難行をする人にしても、そこには”自分はこれだけのことをしないと神は許してくれない”といった思いが伺われます。そして冗談でなくヨーロッパ中世の修行僧の中には鞭打ち行に勤しんでいた者も居たのです。
率直に言って十字架の道は重いです。
苦難というものが、気付き、目覚めの契機になるというのは確かなことかも知れませんが、必ずしもそれが条件になるというものでなく、それによって意識が転換される契機が生まれやすくなるということだと思います。
又私は神がそれを我々に課している様には感じません。
(もっともそれは神に聞かなければ分かりませんが)これは多くは我々の都合じゃないでしょうか…
何にせよこの世に生きるには苦難は付き物です。起きるものは、避けられないものはしょうがない、起きるに任せないと…
非二元論者は言います。”あなたが苦しいのは、あなたという個人が居ると思っているからです…”と。
あなたという個人を消したいと思い、消せるんでしたら、やってみたらいいです。多分その時苦難から解放されるでしょう…
でも私にはどうやったらいいのか(多分何もする必要は無いと思いますが)分かりません。何かのクスリでもあるのか…懸命にそう信じようとしたことならありますが…
現実的には人が生きるって事は、苦難を受け入れなければならないという事です。
それはあなたが、あなたという他に代えがたい存在と自由意志を望んだことと共にもたらされたものです。
私はそうでない自分というものは考えたことも無いし、考えられません。
だから今朝のように、わずか一時間ばかりのスッタモンダのドラマを性懲りも無く繰り返しているんです!
誰の脚本か知りませんが、カード入れが見つかり、ほんの一瞬幻の幸福感に預かることが出来ました。
(自由意志はいくらでも起伏に富んだストーリーを作り出すことが出来るんです。全て白地ばかりなんて耐えられません…)
しかし、何時又思いがけないことが起きるともしれない…生きるとは苦難の連続なんですから…
でも私はこの裏側も知ってますよ…そこには苦しみは有りません。”生かされている”だけだから…
生かされていることを実感した時、無条件に幸福で居られます。
耐えられないような苦難に直面した時、何とかしようとパニクる中にも、それにただ向き合うだけで案外思われたような苦しみでは無かった、と感じる事も有ります。
人間、人生とは随意的なものと付随的なものの組み合わせですね…。