”聖書の神と古代ギリシアなどの多神教の神とはどう違うのか…
仏教は神を説かないが、仏さまと神さまとはどう違うのか…”
んなこたあ、神や仏に聞かなければ分かりません!
これが人間社会で、Aという人とBという人はどう違うのか…なんてことはまるっきり問題になりませんね。
顔つきも違う、姿かたちも違う、性格も違う事は分かり切っています。
それが違うという理由で喧嘩したり、まして殺人に発展することなどめったにありません。
利害関係の縺れとか、別の要因が絡みさえしなければ…
”個人というのは幻想であり、分離意識に捉われている…”という事を大真面目に説いているのは非二元的信者ばかりです。
こういう事をごく普通に生きている世界の中で、”信じなさい”とばかりに煽る言説を繰り広げている人がいたら、それこそ浮いてしまって分離して見えます。
言ってることは違いますが、”この世の終わりが来ました。エス様を信じないと裁かれますよ!”と街頭で説教している人と変わりません。
私が本当の意味で、この分離感というものを実感するのは、こうした宗教、スピ界特有の押しつけがましい言説に接した時です。
これらには大体において”この教えによらなければ…”といった手前味噌が付き物です。
普通の人間関係では”オレは偉いんだ、強いんだ”などと触れ回っていたら鼻つまみ者になるだけです。
これが特定の教団、スピ・グループの中では個を超えたような何か…固有の観念に感染されていて刷り込まされていても、それが当たり前のようにしか感じません。
そして自分たちの信じているものが、本当に神のみ心に合致したものかどうかなど、直接アチラに聞いてみた訳でもなく、どっかのエライ人の言葉を鵜呑みにしてるだけで分かりようはずもないのです。
こう考えると、これら特定のアイデンティティのようなものを有した集団は、ことごとく中途半端な分離体に思えてきます。
つまりはそれ自体が全体から分離した集合個体といったところです…。
私が感ずるに、神的なものが我々に働いた時、そこには和合がもたらされるのではないでしょうか…
神は我々を一体にさせる…逆に言うと分離対立があるところ神は生きて働きません。
私は宗教などの偏った教えに接しても、そこに命の息吹も、教えを垂れている人間に神的なものの発露も見出したことなど一度もありません。
”信奉している先生の教えを誤りなく伝える”という弟子の人たち…私は先生の借り物でない、あなた自身の言葉を聞きたい!
エホバとゼウスと天照大神はどう違うのか…それはあなたと私が違うように違うだけではないですか!
神は人が意識したところにおわし、そこから顕現してくる…
神や真理は確たる実在性など疑わしい宗教的な観念共同体によらず、異なった顔した一人一人に還元されてこそ生きたものとなるでしょう。
そしてこうした一人一人が相集うた時、観念共同体とは違ったものになるでしょう。
みんな違っていて、一つになれるのです。
そしてそれはどんなに小さなものだろうと、地上のパラダイスとなり得ます。
宗教~英語で言うレリジョンとは元の原義は”再結合”を意味するそうです。
現実にはこの原義から遠く離れて分離対立を繰り返してきました。
ただこの再結合という言葉は宗教的なものの終末的運命を告知しているではありませんか!
宗教思想の幻想は消えて、地上の神々は再び結び合う…
仏教は神を説かないが、仏さまと神さまとはどう違うのか…”
んなこたあ、神や仏に聞かなければ分かりません!
これが人間社会で、Aという人とBという人はどう違うのか…なんてことはまるっきり問題になりませんね。
顔つきも違う、姿かたちも違う、性格も違う事は分かり切っています。
それが違うという理由で喧嘩したり、まして殺人に発展することなどめったにありません。
利害関係の縺れとか、別の要因が絡みさえしなければ…
”個人というのは幻想であり、分離意識に捉われている…”という事を大真面目に説いているのは非二元的信者ばかりです。
こういう事をごく普通に生きている世界の中で、”信じなさい”とばかりに煽る言説を繰り広げている人がいたら、それこそ浮いてしまって分離して見えます。
言ってることは違いますが、”この世の終わりが来ました。エス様を信じないと裁かれますよ!”と街頭で説教している人と変わりません。
私が本当の意味で、この分離感というものを実感するのは、こうした宗教、スピ界特有の押しつけがましい言説に接した時です。
これらには大体において”この教えによらなければ…”といった手前味噌が付き物です。
普通の人間関係では”オレは偉いんだ、強いんだ”などと触れ回っていたら鼻つまみ者になるだけです。
これが特定の教団、スピ・グループの中では個を超えたような何か…固有の観念に感染されていて刷り込まされていても、それが当たり前のようにしか感じません。
そして自分たちの信じているものが、本当に神のみ心に合致したものかどうかなど、直接アチラに聞いてみた訳でもなく、どっかのエライ人の言葉を鵜呑みにしてるだけで分かりようはずもないのです。
こう考えると、これら特定のアイデンティティのようなものを有した集団は、ことごとく中途半端な分離体に思えてきます。
つまりはそれ自体が全体から分離した集合個体といったところです…。
私が感ずるに、神的なものが我々に働いた時、そこには和合がもたらされるのではないでしょうか…
神は我々を一体にさせる…逆に言うと分離対立があるところ神は生きて働きません。
私は宗教などの偏った教えに接しても、そこに命の息吹も、教えを垂れている人間に神的なものの発露も見出したことなど一度もありません。
”信奉している先生の教えを誤りなく伝える”という弟子の人たち…私は先生の借り物でない、あなた自身の言葉を聞きたい!
エホバとゼウスと天照大神はどう違うのか…それはあなたと私が違うように違うだけではないですか!
神は人が意識したところにおわし、そこから顕現してくる…
神や真理は確たる実在性など疑わしい宗教的な観念共同体によらず、異なった顔した一人一人に還元されてこそ生きたものとなるでしょう。
そしてこうした一人一人が相集うた時、観念共同体とは違ったものになるでしょう。
みんな違っていて、一つになれるのです。
そしてそれはどんなに小さなものだろうと、地上のパラダイスとなり得ます。
宗教~英語で言うレリジョンとは元の原義は”再結合”を意味するそうです。
現実にはこの原義から遠く離れて分離対立を繰り返してきました。
ただこの再結合という言葉は宗教的なものの終末的運命を告知しているではありませんか!
宗教思想の幻想は消えて、地上の神々は再び結び合う…