クエーカー(フレンド会)は、開かれた精神ということを強調しているためか様々な人が訪れてきます。
原理主義的な熱心なクリスチャン、さほど熱心でもないキリスト教に教養を求めているような人、クリスチャンになりたいと思っているのだけど、今一歩踏み切れないでいるその手前?の人、反戦運動とか社会活動に熱心な人、アンチクリスチャン(居るんです!)、他宗教の人、ニューエイジとか、所謂スピ系に関心のある人…フレンドリーというかフランクリーというか…
こういう性格からか様子見?にくるような人も少なくなく、メンバーの出入りは安定してません。
要するに精神的探究の巡礼者の一夜の寄宿舎のようなところがあるのです。
開かれた精神というのは美徳だと思いますが、それだけだと何かが足りないようです…。
(こうしてさも自分がクエーカーであるかのような書き方をしてますが、厚かましくもずっと未会員にすぎません。ただフレンドリーに感じているので…)
300年以上に渡るクエーカーの歩みにも何度か変遷が有るのですが、大きな転換として挙げられることは、19世紀頃米国で従来の特定の儀式など形式を持たず、沈黙の礼拝を重んじる所謂保守派と福音派(聖書を重んじ、牧師などの聖職者を設け形式にのっとった集会を有するなど、通常のプロテスタントに近い在り方)に分かれたことです。
これにはいくつかの分派が有るのですが、大雑把に捉えるとこの二派と言えるでしょう。
この分類を分かり易く”プログラム(形式)が有る、無い”で区別されてたりしています。
我が国ではこのことと無関係ではないと思われるのですが、第二次大戦時の官憲の政策としてクエーカーが日本基督教団に統合されてしまうという事が起きました。
この経緯から、一口にクエーカーといっても、普通のクリスチャンとあまり考え方が変わらないような人も居る訳です。
この二派の聖書、福音などの理解の違いというのは簡単に言える事ではありませんが、それらをキリスト教の枠を超えた普遍性に置いているかどうか、というところにあるかと思います。
ノン・プログラム派のある人たちはユニヴァーサル(普遍的)・クエーカーなどと呼ばれてたりしますが、ある人から「あなたは他宗教に寛大だし、あまり聖書がかったことも言わないから」とそのようにレッテルを張られてしまいました。
確かに私はそう観られても仕方ないところも有ると思いますが、福音的な事をまるっきり否定している訳でもありません。(もっともコチコチのクリスチャンにしたらちっとも福音的じゃないと言われそうですが…)
従来の普遍性を重んじるクエーカーの人たちは”元々神につながる内なる光を有している”という信条に(悪い言い方ですが)胡坐をかいていて、所謂回心~魂の転換、一種の覚醒体験というプロセスに重きを置かない傾向があると感じられます。
これは”元々神と一つ…悟っている…”と言った安易な光一元的考え方に共通に観られる通弊だと思います。
安易な楽観的な信仰からは、自分の無力さを悟るという契機は中々生まれないでしょう。
クエーカーの初期の中心人物ジョージ・フォックスは、勿論最初から内なる光などの言説を述べ伝えていた訳でなく、その日記においてハッキリと回心の経験について記しています。
だからと言って、福音を信じれば回心に預かれるという訳でもありません。
罪意識ばかりに捉われて逆に悲観的信仰に打ちひしがれてしまう事にもなり兼ねません。
どちらにしても、回心に導く何ものかを抜きにして語られるものではありません。
そもそもクエーカーの分裂という事態が何処から来たのかというと…霊性が後退したからだと思います。
ひたすら沈黙の礼拝を続けて行く在り方も因習化し、他の教派と接触しているうち、その活性化の試みとして福音主義が持ち込まれたようです。
しかし福音というものにしても、キリスト教の枠に閉じこもっているようなものなのでしょうか?
福音は本来からして普遍性へと向けられていたのではないでしょうか?
霊性の枯渇から福音的である事、普遍的である事、どちらかでなければならないとする風潮が生まれたり、主義だとかセクトなどがはびこりはじめます。
直接経験という視点から離れ二義的な事、概念的な事に傾き始めるのです。
私は人からどんなレッテルを張られようと構やしませんが、ただ私自身で在りたいだけです。
だってそれが普遍的人間の在り方ってもんじゃないですか…。
原理主義的な熱心なクリスチャン、さほど熱心でもないキリスト教に教養を求めているような人、クリスチャンになりたいと思っているのだけど、今一歩踏み切れないでいるその手前?の人、反戦運動とか社会活動に熱心な人、アンチクリスチャン(居るんです!)、他宗教の人、ニューエイジとか、所謂スピ系に関心のある人…フレンドリーというかフランクリーというか…
こういう性格からか様子見?にくるような人も少なくなく、メンバーの出入りは安定してません。
要するに精神的探究の巡礼者の一夜の寄宿舎のようなところがあるのです。
開かれた精神というのは美徳だと思いますが、それだけだと何かが足りないようです…。
(こうしてさも自分がクエーカーであるかのような書き方をしてますが、厚かましくもずっと未会員にすぎません。ただフレンドリーに感じているので…)
300年以上に渡るクエーカーの歩みにも何度か変遷が有るのですが、大きな転換として挙げられることは、19世紀頃米国で従来の特定の儀式など形式を持たず、沈黙の礼拝を重んじる所謂保守派と福音派(聖書を重んじ、牧師などの聖職者を設け形式にのっとった集会を有するなど、通常のプロテスタントに近い在り方)に分かれたことです。
これにはいくつかの分派が有るのですが、大雑把に捉えるとこの二派と言えるでしょう。
この分類を分かり易く”プログラム(形式)が有る、無い”で区別されてたりしています。
我が国ではこのことと無関係ではないと思われるのですが、第二次大戦時の官憲の政策としてクエーカーが日本基督教団に統合されてしまうという事が起きました。
この経緯から、一口にクエーカーといっても、普通のクリスチャンとあまり考え方が変わらないような人も居る訳です。
この二派の聖書、福音などの理解の違いというのは簡単に言える事ではありませんが、それらをキリスト教の枠を超えた普遍性に置いているかどうか、というところにあるかと思います。
ノン・プログラム派のある人たちはユニヴァーサル(普遍的)・クエーカーなどと呼ばれてたりしますが、ある人から「あなたは他宗教に寛大だし、あまり聖書がかったことも言わないから」とそのようにレッテルを張られてしまいました。
確かに私はそう観られても仕方ないところも有ると思いますが、福音的な事をまるっきり否定している訳でもありません。(もっともコチコチのクリスチャンにしたらちっとも福音的じゃないと言われそうですが…)
従来の普遍性を重んじるクエーカーの人たちは”元々神につながる内なる光を有している”という信条に(悪い言い方ですが)胡坐をかいていて、所謂回心~魂の転換、一種の覚醒体験というプロセスに重きを置かない傾向があると感じられます。
これは”元々神と一つ…悟っている…”と言った安易な光一元的考え方に共通に観られる通弊だと思います。
安易な楽観的な信仰からは、自分の無力さを悟るという契機は中々生まれないでしょう。
クエーカーの初期の中心人物ジョージ・フォックスは、勿論最初から内なる光などの言説を述べ伝えていた訳でなく、その日記においてハッキリと回心の経験について記しています。
だからと言って、福音を信じれば回心に預かれるという訳でもありません。
罪意識ばかりに捉われて逆に悲観的信仰に打ちひしがれてしまう事にもなり兼ねません。
どちらにしても、回心に導く何ものかを抜きにして語られるものではありません。
そもそもクエーカーの分裂という事態が何処から来たのかというと…霊性が後退したからだと思います。
ひたすら沈黙の礼拝を続けて行く在り方も因習化し、他の教派と接触しているうち、その活性化の試みとして福音主義が持ち込まれたようです。
しかし福音というものにしても、キリスト教の枠に閉じこもっているようなものなのでしょうか?
福音は本来からして普遍性へと向けられていたのではないでしょうか?
霊性の枯渇から福音的である事、普遍的である事、どちらかでなければならないとする風潮が生まれたり、主義だとかセクトなどがはびこりはじめます。
直接経験という視点から離れ二義的な事、概念的な事に傾き始めるのです。
私は人からどんなレッテルを張られようと構やしませんが、ただ私自身で在りたいだけです。
だってそれが普遍的人間の在り方ってもんじゃないですか…。