人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

無者キリスト

2015-11-15 13:56:48 | 人生の裏側の図書室
JR西荻窪駅の近くにある精神世界とかエコロジーなどを専門に扱ってる某書店には、キリスト教関係の本はほとんどおいてません。
というかそれらは、このインド系を初めとする精神世界のジャンルからは締め出しを食っているようです。ハッキリ棲み分けが成されているみたいですね。
そういうのは、その店から数十メートル東へ行ったところに有る、キリスト教関係の専門店T堂で求めなさい…といった風です。
もっともキリスト教側のほうでは”異教とごっちゃはイケナイ…”とピューリタンを気取ってるみたいなので、お互い干渉せずという具合なのが現状です…。
こういう訳でここに取り上げる小池辰雄先生の主著「無者キリスト」(河出書房新社刊)などは、その狭間にあって埋もれたままであるのは実に惜しいと常々感じています。
我が国にはこういう東洋的無に根差しながら福音を語る人も居たという事を是非記憶にとどめて欲しいと思います…。
この書物を改めて紐解きますと、現在は死語になってしまった感のある実存という言葉が沢山出て来ます。
これは思い描いたものでない、現実にアリアリと在る…といった消息を言い表そうとしているのでしょう。
そしてイエスは無的実存者である、端的に無者であると言います。自分は何者でもない、何も出来ない…ただ神の聖意にゆだねるのみであると…
無と言っても何にも無いという事ではありません。そこに無限無量なるものが満ちてくる…無無限無量…
この即という文字も先生の世界ではキーワードですね。
先生のこういった仏教的な表現などを使う事に対し、教会筋から”シンクレティズム(宗教混合主義)だ!”という批判もあったそうですが、私はそれまで抱いていた、キリスト教一般に対する頑迷固陋な印象がすっかり突破されたように感じたものでした。
ただ私は残念に感じていることも有ります。それは先生は時折、このイエスの比類なき無者という点を強調するあまり例えば「このイエスにはお釈迦さんでも敵わない…」などと他と比較して述べてしまうところです。
これはコスモポリタン?の私が「それは贔屓の引き倒しじゃないか!」と言いたくなる、ということもあるのですが、それではこの無者という言葉の内実は伝わってこないのではないか?という事なのです。
無者というのは誇るべき、秀でた何ものかなど無いということであり、他と比較など出来ようはずなどないではないですか? 比類なき者のはずです。
この意味では釈迦も老子も無者と言っていいでしょう。
…いやホントはイエスが釈迦がそうなんだ、だから崇め奉ろう…という事で済んでしまうのでしょうか?先生の言葉を借りれば、無なるキリストを信じ仰いでたってしょうがないではありませんか?…だからと言って我々一人一人がそうした境地を目差そうなんて…できっこない、どうやって?やって下さい!としか言いようが有りませんね。
先生を知る前の私はそういう血迷った,できっこないことを考えてたりしました。
もっと信仰を深めなければ…修行しなければ…とか、また何ものかになろうとしていました。
無条件の恩寵というもののことなどまるで知らなかったのです。それはこの物理的次元、時間を突破するように忽然と我々に切り込んでくるものです。
そしてそこで知らされるのは、自分の無知、無力さ…といったものです。
だがそのこと自体が、無限無量、永遠なるものに預かる契機となるのです。そこには”こうなって、しかる後こう展開する”といった、物理的時間的プロセスというものなどありません。同じことの裏表みたいなものです。
おそらくはこれが前述のということなのでしょう。
無即無限無量、無者とは我々の実存そのものと直結している事態なのです。
私はこういう事はずっと後年になって、ようやく頷かれるようになりました。
先生は常々”十字架と聖霊は不可離である”と言ってましたが、私はこの十字架というもの…”贖罪信仰なんて観念的なものが一体何になるだろうか…”と先入観に捉われていたのでした。
だがある日、忽然と”ああ、十字架というのは自己を何ものともしない、と言うところに導くものなのか…”という事がひらめきました。
これは聖書に有るストーリーを信じなければならない、ということではありません。
私は表現は何であれ普遍的に理解されるものと確信しています。
先生がこの書を万人に向けて書かれたのも、そういう思いが込められているのではないでしょうか…。





コメント
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