人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

何も無いのでは無い

2016-09-06 15:03:21 | 現臨、ハタラキ
ブッダは救済、苦悩からの解脱と関係の無いことを哲学的に論じたりすることを、何の役にも立たない戯論だ、と言ったそうです。
ブッダ在世時のインドの時代相というものが、どんなものだったか、に思い起こせば如何に今日宗教、スピ界では世迷い事のような言説で溢れかえっているか、思いに過ぎるものが有ります。
”人間が人間として生きる事は勿論、その存在すら認められない世の中…そんなものは本来無いのである…我はこの世に属してはいない…解脱せるものである…”
こういう背景、意味合いを無視した文字通り虚しい空論の数々…
空、無…何も無いことって幸せですか?
幸せというものも無く、それを感じる自分すらも無いんでしたっけ?
じゃ、何もせずに寝てるかしたらいいでしょう。多分他人が余計なことしなければ半年くらいで即身仏になれるでしょう…
”そういう極論を言いたいんじゃないんですよね…”と、非二元教の教師でもそうしたことぐらい弁えているであろう、ぐらいのことは私も弁えているつもりです。ただ…先の戯論、空論ぽくなるか…何より、いささか舌ったらずに感じてしまいますねえ。
私はノンデュアリティそのものを否定している訳では無く、”そんなもの現実世界にゃ、何の役にも立たない…”などと頭から言うつもりも無く、どうにもならない苦悩からの脱却という観点では役に立つものと思っています。実利的な意味(この面では多分何の役にも立ちません)でなくて、要するに楽になりゃいいんです。重くのしかかってる思いが無くなりゃいいんです。
思いが無くなりゃいいんであって、自分そのものが無くなるって…”んなわけないだろ!”
もう、あまり屁理屈めいた話に屁理屈で返したくもないのですが、”全体しかない”とか、”起こることが起こるだけ”という認識は、そういう認識をしている自分が無ければ生まれるはずが無いのです。
これは、あまりに個我に捉われて苦しんで、思考の雁じ搦め状態から解放されると、そういう感じになるって事でしょう?
楽になるのは結構なことですが、どうしたらそうなるんでしょうか? 講演会とかセミナーに足を運ばないとなりませんか?
ノンデュアリティは直接的な道である、という事を謳い文句にしています。修行や信仰も介さない道である、と…
(その割に講演会は盛んです。瞑想もしているし)
私自身も特別なメソッド、方法論というものには重きを置きません。
ただこの世では何も無くて、苦悩から解放されるって事は…私の経験では多分無いです。
ウソみたいですが、風向きが変わったり、夕日を見ていたら何かが変わった、ということはあります。
その場合でも、外気の変化、夕日などが媒体になったりしているのです。
そのようにさせる何かに触れてそうなるのです。その何か、をハタラキと言っています。
”私はいない”そう言わしめているのは?…
神の遊戯? 何も無い、全体しかないのに神は居る?…神が遊戯してるか、どうかなど何故分かるのでしょうか?
そう言ってる人は神様になったつもりなのでしょうか?
人間は何にも無い、永遠の虚無には耐えられないものです。
何かに依拠せずにはいられないのです。私はいない、世界も宇宙も無い…そうなると人間は神の如きものになるしかなさそうです。
間に何にも無いと認識されたら、ダイレクトに神のようになってしまうのでしょうか…(これは人間は本来神の如きものである、という教説で語られることとは違う意味の事を言っています)
私にはその瞬間、人間は人間でなくなると思います。それはもはやこの世のものではないでしょう。イロイロな意味で。
(多分天国にも地獄にも行けなくなるでしょう…それが解脱?…誰も解脱出来ないのに?)
人間はそれ自体で生きている訳じゃなく、そうあらしめるものによって生かされているのではないでしょうか?
それが(名称はなんであれ)ハタラキです。苦悩からの解放も、内なる目覚めもそれ抜きにはあり得ないのです。
何も無いのでは無い…ハタラキが有るのです…。









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