人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

冥界の王

2016-09-21 16:51:35 | ガイダンス
私がこのブログで綴ってきたことというのは、もうほとんどが”見えざる導師”との関連でないものは無い、と言っていいくらいのものです。
ハタラキ、現臨、上よりの恩寵、守護の神霊、全てを見通す目、真我…観方、感じ方によって表現を変えていますが、すべてこの関連で述べているものです。
ブログを書く理由として、このサムシングを何とか言い表したいという気持ちが強くあったのですが、思えば随分と勝手な言葉をデッチあげて様々な角度から表現したものです。(笑)
このことで”縁のある方には何がしかの事が伝わればいいなあ…”といつも思っています。
それというのも、このものを抜きにして自分も人生も無い!…自己、人生そのものと言っても過言では無いからです。
と言っても、私にはこの多岐的な観点、理解に通じたサムシングがそも何であるか、について明言しようとは思っていませんし、自分自身持ち合わせていません。それは心象の奥に生きているのです。固定概念で固めては生きてきません。
このものはあらゆる概念を超えていて、捉える術がないものであり、時にこのもの自ら表に顕れて、こちらが捉えられて、初めてアリやかとなるものだからです。
この意味で、このものは”人生の裏側の主”と言えるでしょうか…
そこは決して表側の明るい日の差さない裏側の世界…すなわち冥界。
実際、彼は明るい表側の主役たち、マインドや意志、諸々の身体的力などが引っ込んでしまった暗闇…黄泉の世界から顕れるのです。
それに先立ち、明るい光によって確かな輪郭を与えられていた時間、空間、形体といったものにモヤモヤと雲、シェキナーが立ち込めてきて、一切の境界を無くしてしまうのです。
その叢雲を断ち切るかのように、闇と光とが分けられる…この光とは明るい表通りの光とは全く違う…内側を貫き、浸透する超自然的光です。
そこでは移ろいゆくものは消え去り、生まれ出てくるものが顕れる…浄化が進行しているかのようです…
そして又、失っていた記憶が蘇る…すべてこの喩えようのない甘美な光と共にある…

見えざる導師…それは雲から出てくる…出雲は黄泉の国とも比されますが、何やら冥界の王、素戔嗚尊を連想します。
それはたまたま、私の産土さんが素戔嗚を祀る氷川神社だったから、そのように映るまでなのでしょう。
こういう事というのは、事実はどうであるかなどもとより確かめられないのだから、(誰かのお告げのようなのを信じるのは勝手ですが…)自分の気持ちの赴くまま、仮にそう感じたならそういうことにしておけばいいのです。
有体に言って、この導き主に関して私が強く感じるのは、み霊の親だという事です。親子ということはつながっている、ということです。
血のつながりというより、霊のつながりみたいなものです。
そういう意味では王とその従者と言った他人行儀臭い関係といったものでは有りません。
(これには人によって観方、感じ方というものがありますが…)
あちこちで言い伝えられる神話というものには、多く人々の内的意識が反映されているのでしょう。
あるいは、実際に日本神話でも、そのように冥界の王として、素戔嗚尊や大国主命が描かれたのかもしれません。
と、なると…素戔嗚で言えばヤマタノオロチというのは…大国主で言えば父神の素戔嗚が与えた数々の試練とは…
これは各人が持ち続けている宿業的なものに関連したことでしょう。表向きはバラバラに分かれていて、裏ではつながっている…考えるだけでややこしいOOのような事とか…
ところで、かの冥界の王ですが、”ずっと冥界に留まっているつもりは無い…”という旨の事を私は受けているのです。
これは、私の意識を貫いて顕わになった、ということでその意向は示されているとも言えるのですが…
冥界の裏側の王は、表側の世界をも統べるおつもりなのでしょうか?…






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする