人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人生は悲しいですか?

2016-09-25 13:47:58 | 雑感
「我に語るなかれ、悲しげな詩篇にて、
人生はただ一つの虚しい夢なりと。
なぜなら眠っている魂は死んでいる、
そして、物事はただ思われている通りではないからだ。」
(H・W・ロングフェロー・人生の詩篇)

一昨年の九月、このブログのオープニングに引用したのは、19世紀の米国の詩人、ロングフェローのこの詩でしたが、実のところ…私はこの詩人の熱心な読者でもなんでもないのでした。
手島郁郎先生の著書「人生の詩篇」(キリスト聖書塾刊)で取り上げてなかったら、全く存在すら知らなかったかも分かりません。
(同書で同じく取り上げられている、英詩人R・ブラウニングは感動して読んだ事が有りますが…)
この詩を取り上げたのは、全くのたまたまと言ってもよく、その時同書を読んでいて、このフレーズが当ブログの基調としてキャッチされたからに他ならないのでした。
ただ、この詩から垣間見えるロングフェローの人生観というものが、私の共感を呼ぶのかと言うと、いささか微妙なものが有ります。
ここで高らかに謳われているのは、積極的、楽観的な人生賛歌なのです。だから何だか意味深げな?冒頭のみを紹介していて、いかにも修造さん好みの「闘争条理の英雄であれ!」「されば、立ち上がって行動しようではないか!」といったテンションが上がった調子で続く後の部分には全く触れていないのです。だって私はちっともアクティブでも楽観的でも無い人間なのですから(笑)
ただ「眠っている魂は…」の部分は、読みようによっては、魂の目覚めについて語っているようにも取れますが、まあ、虚無的な人生観へのプロテストと観た方がよさそうです。
このように深い意味も無く、使わせていただいたこの詩の一節ですが、私は今更ながら驚いています。
当時は、今の悟り系スピ界隈に取り巻いている「私はいない」「この世は幻想」「私がある、人生というものがある、という思いが苦しみをつくりだす」といった、虚無的な人生観についてさして意識してなかったのですが、私は記事を書きながら、この傾向にはどうしても頷けない違和感を覚えるようになっていったのです。そして人生というものをもっともっと掘り下げてみたい、という気持ちに駆られていったのです。
悟り系の人は人生というものが、望まれざるもの、呪われたもの、消されるべきものである、という事を前提にして語り、人々を死神のようにブキミに誘導しているようです。
人生って、そんなに悲しいですか?
生まれてこなかった方がよかったですか?
私は一向にテンションは上がらない、眠りこけているのかもしれない、仕事?やる気無し、金無し、将来の夢…さあ…
だけど…人生、世界、私自身も…否定し去ってしまう道理など微塵も無いです!
そりゃあ、見かけは悲しげだったり、不機嫌だったりするのだろうけど、テンション低いなりに、人生は楽しいですよ。立っても、立ち上がれなくっても…
”行動せよ!”ってか…熱いですねえ…というか正直ウザイわい!…突っ立っているだけで、いや何にもしなくたって幸福でいられることなんざ、行動的人生の伝道師にゃ、分かるまい!
この人生は否定し去るものでも、自己の意志、力などをひたすら肯定するようなものでもないでしょう。私の人生は私が始めた訳じゃないからです。
ただ、自己自身、人生の否定はその依って来る源、大本をも否定してしまう事につながります。
これが本当に悲しむべき事じゃありませんか!
仮に悟り系スピに触れて、何らかの喜び、気付きを得たとしたら、その縁というものは、この世に生を受けたから、という大前提があったからではないですか?
又、それまでの人生が如何に苦しみに満ちたものであったとしても、その経験無くしては喜びも気付きにも巡り合えないのではないですか?
そして…私の人生は、それだけであるなら私の思われた通りでは無い…それは、計り知れない私の全人生のほんの部分的な表れに過ぎないのです。

と…なんだかんだ呟いているうちに、腹が減ったので、外に出てみたらウロコ雲が空一面に…いよいよ秋ですね…。














コメント
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