人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

点と線

2016-09-04 12:54:20 | 雑感
このところ、私の意識に変化が芽生えた頃のことを書いていますが、それは単なる回想ということだけでなく、今現在の意識の有り様からその頃のことが想起されてくるということでもあるのです。
これは、そもそもこのブログで綴って行こうと思っていた主要なテーマの一つなのです。
それは又私はもう結構なトシだという事の現れでもあるのでしょう(笑)
ああ…昔が懐かしい…それがスピ界隈では一体、何が悲しくて”過去は幻想…今ここしかない…”と、これまでの自分、人生を葬りさろうとしているかのように語られるのか? あるスピ界の人というのは余程、自分を否定したがる(それが取りも直さず過去の否定〉のに違和感を覚えずにいられません。
スピ界では”癒し”という事抜きに語れませんが、自らの過去に光が当てられることが、最大の癒しなのではありませんか?
確かに過ぎ去ってしまったものは幻なのかも知れません。
どうしたって、時の移り変わりという厳かな定めには従わざるを得ません。
しかーし…一方どんなに忘れよう、消し去ろうとしたって忘れられない、消えないものだってあります。
この多くを私は”身に覚えている”という表現で言い表しているのです。
身に覚えるものはただ頭の中で回想するわけじゃない、今も昔も身に覚える事でつながっているのです。多分細胞レベルで。…
もう、こうして書いている最中にも”ジンジン”とキテしまうんだからしょうがない…
そして30数年前の事がアリアリと脳裏に浮かび上がるのです。
もう、ハッキリしてます。あの時(38年前)、これが芽生えていたのです!
これが本格的にハッキリとした意識の高揚感、本当に身体的(実際は心身相関的なもの)な暖かい感覚をともなって発現したのは、翌年の春でした(前に書いた、”不思議なZENTAXI”というお話はその時期のことを題材にしているのです)が、私の人生はそれからとんとん拍子に大きな気づきを受け、啓発を受け、ついに悟境に達したかというと…これが全く”そんなわけ無いだろ!”ときてます(笑)…
ずっと先述した感覚で生きている人はきっと天才です。(天才というのは我ならぬ意志に従って生きている人です)
昭和55年夏、その感覚は自然消滅してしまうのですが、それからのことを回想しようとしても、これが…どうもアリアリとはとてもいかず、ボンヤリしててなんか重いです。これはあの身に覚えるものが過去を鮮明に映し出すことの反証でしょう。
(この理由で私が書くものには、年代順というものを無視しているのです)
時系列に従って人生を振り返ってみても、”一体自分は何をして来たんだろう、何を目指してきたんだろう…”と考えると何だか虚しくなってきて、やはり重たいものがもたげてきます。そして時に自分も過去も葬り去りたいというような思いも…
時にはあの高揚感につつまれた幸福な瞬間もありましたが、それは点点としてあるように感じられます。これは表面的な日常意識から観た感じです。
ところが…今同じような状態にあったら、その点のような記憶は線となってつながってしまうのです。
過去も現在も無く…
そういう感じになるのは何も瞑想していたからではありません。
とにかく意識が神的なものに向かわされることでそうなるのです。
私の場合、祈りというものを通じてということではありますが、何も特別のことをしてたという感じではありません。
ここに五井先生などがよく言っていた、何時も神に思いを満たしておくことの大切さを知らされます。
そして、そこから導かれることは、自分も人生も、人類世界、歴史といったものも決して思われたままでは無いということなのです。
重く、冷たい墓石のような人生も歴史もそこに”愛のハタラキ”と切り離されている、という思いがそのような印象を作り出してしまうのです。
愛のハタラキと共にある時、それは幸、不幸といった相対的な感覚を超えて、一貫した線となっているあるものと感じられて来ます。
そして、この意識に根づくものが表に顕れるにつれ人生も、人類世界も歴史もよみがえってくるのでしょう。














コメント
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