人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

書くこと

2016-09-14 18:51:39 | 雑感
気が付けば、このブログを初めて二年が経ってしまいました。
文章力の拙さにも関わらず、どうにか続けて来れたのは、もともと書くことが好きだったからだと思います。
私は時折、朝目覚めた時など、ある言葉がひらめく事が有り(多分、寝ている間、ステキな事になっているものと思われます)、それを忘れないうちに雑記帳に走り書きをしたりするのですが、それが記事の材料になったりしているのです。(勿論毎回そうなっている訳じゃないですが、時に書くのを忘れて、二度寝をして起きたら、キレイサッパリ忘れてしまったり、まるで神代文字かお筆先みたいで、判読不明になったりすることも有ります)
この意味では、起きてすぐ書いたらいい、と思われるのですが、現実面で難しいところもあります。
昔から私は、チョイチョイそういう事をして来たので、こうしてすぐさまブログに書ける時代になって実に有難いです。
それは、あくまで断片的な言葉なので、肉付けや接続がうまくいかない場合も多々あるという次第なのです。
詩モドキのような文章も書いていますが、あれがその原文に近いものなのです。
最初は、全てああいうスタイルでいこうかとも思ったりもしました。
もっと言えば、その元は全く脈絡のない短文の羅列です。
これに関して、アフォリズム(格言)と呼ばれる文章のスタイルもあるのですが…
(格言は確言。箴言は神言。
アウレリウス、エピクテートス、ニーチェ…ギリシア人も、ローマ人も、ドイツ人も神になりたがる…究極のアホリズム、ヒットラー語録。
自分だけの、誰も読めない、雑記帳神がかり格言集。)
という訳で、それはまだ日の目を見たことはありません。色々と書きながら模索しているのです。

ともあれ、こうして書くということ、表現することは、ただ頭の中で思い巡らす、というところから、一歩表へ現われ出る、ということです。
これには、”他に伝えたい”、”他に理解を求める”という、出過ぎた意念も無い訳ではありませんが、これは人間というものの存在からして、表に現れるというハタラキを担わされている、という宿命が有るようです。人間とは見えないハタラキの現象化の媒体なのでしょう。
そんなことを朝起きた時の、あの何かのお告げ?にも似た言葉に接した時に特に感じています。
もっとも、それは言葉の形を成してないということもあって、帳面に書きなぐって形にしていることも有るのですが、なにか”形にして書いてくれ”と促されているようです。
そうして書かされていくうち、思わず気付きを与えられることも数知れずあります。
それは、あまり抽象的な事で無しに、具体的にありのままに表現することでそうなります。
具体的という事は、極めて私的という事です。
勿論私的な事と世の中の事とは直接関係ありません。
でも、世の中の個々の人たちは皆それぞれに私的な人生を享受しているのではありませんか?
その泣き、笑いなどの契機というものは、具体性を伴っているものです。
伝わる、共感出来る、ということは具体的ならざるは無い、と言えます。
先の促しも”ありのままを書くように…”と示されているようですが、邪念も多い次第で…
又、誰に伝わり、誰が共感されるのかも知る由も無いですが、これからも人気ランキングとは全く無縁で続けて行きたいと思います。…。
































コメント
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