人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神そのものを求める

2016-09-08 18:50:41 | 
昭和58年夏、私が初めて目覚めに預かった時のことですが、私はずっとそれは晴天の霹靂のように、突然”そうなってしまった”ことのように感じていました。
実際、その通りで前の日まで何の前触れも無しに、その日の朝、原因不明の高熱に見舞われ、これがその夕刻の”爆発”につながったのでした。
大阪の勤務先事務所にほうほうの体で営業から帰ったのですが、、いつもは外に出たら何処で油を売っているか分からない脱線ぶりを発揮するのですが、この日ばかりは途中何度か休養を余儀なくされていたので、帰社予定時間が大幅に遅れたのでした。
そして待っていたのが「お前、こんな時間まで何処をほっつき歩いていたんや!」という上司のつれない一言…これが、私の心身の異常事態を呼び起こしたのでした。私の全人生を否定されてしまうような、この呪いのマントラ…
本当に真っ暗闇の中で閃光が全身を貫いたかと思った途端、呪縛されてしまったのです!
これが優しく姉ちゃんなんかに「シンドそうですね、ゆっくり応接室で休んでね…」とか言われたら、ああいう事態にはならなかったかも知れないのです。
しかし、何故それが唐突な訪れのように感じていたのでしょうか?
おそらく、その4,5年前、恒常的に意識が”ジンジン”と高揚してくる感覚を覚えていたものが、自然消滅してしまった、と思っていたからだと思います。
実際にそれは自覚意識の上では消え失せてしまっていたのです。”ウンウン”と心身に何かのパワーを吹き込もうと何度かトライしたって、微動だにしやしません(笑)
ただ…あの現臨を目の当たりにしていた時は違っていました…その今、現実、現在においてそれまでの人生の、いやそれを超えたものもあり得たであろう、あらゆるそのいわば神的なものに向けられた意識の有り様というものが一つにつながったのです。
”思い出したーッ!”という強烈な記憶の爆発的噴出と共に…
これは思念を超えた次元での記憶のよみがえり、とでも言うべきものでしょうか?
常に神的なものと共にある、という記憶です。細胞レベルというか、身に覚えるという事とつながりが有るものでしょう。
しか―し、実は…こういう事というのは、このブログを綴ることを通じて気付かされた次第なのです。
で、その後、どうなったかというと、これまた唐突に去って行きました(笑)
信じられないような精神的嵐を体験しましたが、全く台風一過のようでした。
ここで思うことは、”消えてしまった”と感じるのはあくまで表面的な日常意識がそう感じているだけであって、実際は心の根底でずっと生き続けているものだ、という事です。
(それにしても、前後の全く何の変哲もない日常の集積のような日々の中で、本当に唐突に感じられました。あまりにもその日常とギャップが有り過ぎて、混乱しそうになったのと、有頂天になってノボセそうになったので自分で封印してしまったのか、日常に飲み込まれたのか…多分両方でしょう)
そして又、覚醒体験という突出した人生の一エポックのように感じてしまうのも表面的な意識に他なりません。
体験そのものに意識の焦点が集まり過ぎると、それは唐突な訪れとして捉えられ、やはり唐突に去って行ってしまう事でしょう。
肝心な事は、神的なものの導き、そのものと共になければ、そういう事は起き得ない、という事です。
あのジンジンする感覚というものもそうです。それらは神的なものに根差していなければ、この終わりなき日常の中に消えゆくだけです。
しばしば自分が悟った、覚醒したと勘違いする自称覚者が横行するのも、この事から離れてしまうからでしょう。
だから…求めるべきは悟り、覚醒、平和、幸福ですらない…
神そのものでなければなりません。これらすべてのよって来る源です。
抽象的な、信じる対象としての神では無い、あなたに直接生きてハタラク神…我らの主なる神です。





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