「この世には私について知る者は多くあるが、私を知るものは少ない、それは彼らが私と個人的な直接関係が無いからである。
真の平和、それは私が信者の心に臨在する事から生まれてくる」
サンダー・シング「主の御足下にて」
サンダー(スンダル)・シングの名をどのぐらいの人が知っているでしょう。
サリーを身にまとって、見た目はインドの瞑想のグルのようにしか見えません。しかし彼はある意味で最もキリスト者らしいキリスト者でした。
キリスト教に付帯した教義、神学、教会組織…これらから全く自由にごく単純にキリストを直接的に伝えていたのです。
私が初めてキリスト教関係の単行本を求めたのが、そのサンダー・シング全集(基督教文書伝道会刊)なのでした。(世のスタンダードな読書の道とはかなりハミ出してます)
昭和53年初秋のことで、それ以前原始福音の「生命の光」の特集号を読んでいたのですが、その手島郁郎先生、先生を知るキッカケとなった西村忠義さんが深く傾倒していたので、バイトの給料を貰ったら早速高額もものともせず、入手するのが何かの啓示のように感じていたのです。
(一冊千ページ近い大著に挑むというのも初めてでした。確か読了するのに2か月要しました)
その時、すっかり外気が一変して、秋の涼風の心地よさを感じていたのをハッキリ覚えています。
サヅー(親しい呼び名)・サンダー・シングはインドのシーク教のもとに育ったのですが、観念でない、実在の神へのやみがたい霊的な渇きを覚え、ある深夜意を決して、叶わずば、鉄道自殺も辞さない覚悟で祈り求めているうち、それまで他宗教として退けていた、キリスト・イエスに捉えられてしまったのです。当時の私には、彼のように強烈な自覚こそありませんでしたが、観念事では満たされないものを感じ、、現実に生きて触れられるものへの渇望はハッキリありました。
私はサヅーのように、ヴィジョナリーにキリスト・イエスの臨在(冒頭の言葉はその臨在にもたらされた主イエスのメッセージ)に接したことは無いのですが、縁によってはそういう事も有るのでしょう。ただ、どこまでが直接的なもので、どこからが先入主からのイメージかは私にはわかりません。
サヅーは、しばしばキリストの道とヒンズー教、仏教など東洋の諸宗教との比較をしていましたが(多分に西欧人からの問に答えた形で述べたようです)、私には類型的なキリスト教中心主義的な観方以上のものは感じられませんでした。
これは、彼にあってキリストの道に実在の神を見出したということであり、ヒンズー教など他宗教は一面的な、固定的な観方しかなされていないようです。別の縁の道にある人には違う観方が有るのは当然のことでしょう。
大事なことは生けるハタラキが現臨するということです。
そうです!…臨在…現臨…私はこの言葉に接して何度もハートが高鳴るのを覚えます。
その初めは正しく、御茶ノ水当たりの喫茶店で、数時間この本に読みふけっていた、あの時のことです。
そして又…
「祈りは神にあっての呼吸であり、聖霊という空気を呼吸するに等しい」
彼は祈りの重要さについて何度も述べていますが、具体的な祈り方は示される訳ではなく、内的自由さに根差したものである事が伺えますが、それもこの少し前に”祈り心地”というものが私に芽生えていたものなのでした。
祈りとも瞑想ともつかない”モドキ?”のものもこれにより理解を深められたのです。
暑い夏は終わり、涼風が身に染みてくる…その年の秋私の魂はそれまでとは全く別のものに誘われていたのでした…。
前記「全集」は絶版ですが以下のものが出ています
「スンダル・シング著作集」(ミルトス刊)
「聖なる導きインド永遠の書」(徳間書店刊)
「イエス・キリスト封印の聖書」(同)
真の平和、それは私が信者の心に臨在する事から生まれてくる」
サンダー・シング「主の御足下にて」
サンダー(スンダル)・シングの名をどのぐらいの人が知っているでしょう。
サリーを身にまとって、見た目はインドの瞑想のグルのようにしか見えません。しかし彼はある意味で最もキリスト者らしいキリスト者でした。
キリスト教に付帯した教義、神学、教会組織…これらから全く自由にごく単純にキリストを直接的に伝えていたのです。
私が初めてキリスト教関係の単行本を求めたのが、そのサンダー・シング全集(基督教文書伝道会刊)なのでした。(世のスタンダードな読書の道とはかなりハミ出してます)
昭和53年初秋のことで、それ以前原始福音の「生命の光」の特集号を読んでいたのですが、その手島郁郎先生、先生を知るキッカケとなった西村忠義さんが深く傾倒していたので、バイトの給料を貰ったら早速高額もものともせず、入手するのが何かの啓示のように感じていたのです。
(一冊千ページ近い大著に挑むというのも初めてでした。確か読了するのに2か月要しました)
その時、すっかり外気が一変して、秋の涼風の心地よさを感じていたのをハッキリ覚えています。
サヅー(親しい呼び名)・サンダー・シングはインドのシーク教のもとに育ったのですが、観念でない、実在の神へのやみがたい霊的な渇きを覚え、ある深夜意を決して、叶わずば、鉄道自殺も辞さない覚悟で祈り求めているうち、それまで他宗教として退けていた、キリスト・イエスに捉えられてしまったのです。当時の私には、彼のように強烈な自覚こそありませんでしたが、観念事では満たされないものを感じ、、現実に生きて触れられるものへの渇望はハッキリありました。
私はサヅーのように、ヴィジョナリーにキリスト・イエスの臨在(冒頭の言葉はその臨在にもたらされた主イエスのメッセージ)に接したことは無いのですが、縁によってはそういう事も有るのでしょう。ただ、どこまでが直接的なもので、どこからが先入主からのイメージかは私にはわかりません。
サヅーは、しばしばキリストの道とヒンズー教、仏教など東洋の諸宗教との比較をしていましたが(多分に西欧人からの問に答えた形で述べたようです)、私には類型的なキリスト教中心主義的な観方以上のものは感じられませんでした。
これは、彼にあってキリストの道に実在の神を見出したということであり、ヒンズー教など他宗教は一面的な、固定的な観方しかなされていないようです。別の縁の道にある人には違う観方が有るのは当然のことでしょう。
大事なことは生けるハタラキが現臨するということです。
そうです!…臨在…現臨…私はこの言葉に接して何度もハートが高鳴るのを覚えます。
その初めは正しく、御茶ノ水当たりの喫茶店で、数時間この本に読みふけっていた、あの時のことです。
そして又…
「祈りは神にあっての呼吸であり、聖霊という空気を呼吸するに等しい」
彼は祈りの重要さについて何度も述べていますが、具体的な祈り方は示される訳ではなく、内的自由さに根差したものである事が伺えますが、それもこの少し前に”祈り心地”というものが私に芽生えていたものなのでした。
祈りとも瞑想ともつかない”モドキ?”のものもこれにより理解を深められたのです。
暑い夏は終わり、涼風が身に染みてくる…その年の秋私の魂はそれまでとは全く別のものに誘われていたのでした…。
前記「全集」は絶版ですが以下のものが出ています
「スンダル・シング著作集」(ミルトス刊)
「聖なる導きインド永遠の書」(徳間書店刊)
「イエス・キリスト封印の聖書」(同)