精神的な道を歩んでいる人たち(ことに修行系の人たち)には、根強く思い込まされていることが有ります。
悟りとか魂の目覚めに預かるには、”欲望を捨てなければならない…”、”この世は迷いの世界だから、そうした思いから離れなければならない…”その実体など確かめられそうにない、”前世からのカルマが解消されねばならない…”とか…。
何十年もそんな事言い続けてる人を知っていますが、その人は未だにそうしようとして、そうならない、という事を自証しているのです。(笑)
”そうならないものなんだ!”と気付くことが、皮肉で無しにある種の悟りだと私は思いますが…。
この限界ある、欠陥だらけの自分が悟ったり、覚醒するものだという思いが抜けきれないようです。
まあ、人間はどうしたって自分中心に生きているもので、自分に捉われてしまうものですからね。
そして”もっともっと努力して、何かを習得して、その積み重ねの上に目差すものが開かれていくものだ”とエライ人から奨励され続けてきましたし…
神もそう促すのでしょうか?…”もっと修行に励まなければ罪は許してやらない”とか…
偉そうに言ってますが、私は修行を志すにはあまりにも、そんな気根など無かった者でしたが、ご多聞に漏れずそういう思いに捉われていました。
そういう修行もしてない、出来ない自分にもかかわらず、私の人生にあるピリオドが打たれることになりました。そして知らされました!
”何も分かっちゃいなかった!、何も出来やしなかった!、そもそも生きていたのか、死んでいたのか!”
思いを超えたもの、現臨が切り込んでくる…それは”何もかもが思われた通りのものでは無かった¡”という事が根底から示されるという事です。
これは、そうしよう、そうなろう、ということで無しに、”そうなってしまう”ということなのです!
つまり、あなたに出来る事は何も無い…何かをしなけりゃならない、というものは無いのです。
(もっとも、あなたは何かを始めるかも分かりません。ただあなたはそうせざるを得ないから、そうするまでです。惹きつけてやまないものがそうさせるのです。やはり”ねばならぬもの”は無いのです)
悟りとか覚醒というと、どうしても光明に包まれることと結び付けられますが、私は何度でも言いたい、それは真っ暗闇に包まれることと一つのものなのだ、と…。あたかも巨大な積乱雲の上部と底部で、眩いばかりの白と光を覆い尽くさんばかり黒のコントラストを表しながらも一つのものであるように…この暗闇の中ですべての機能を失い、自らの無知、無能を”悟らされ”ます。あなたの思われた世界はいったん終わったようになるのです。(それで消えるのかどうかは知らないですが…)
私は光明に預かるような事よりも、むしろこの暗黒の福音のことを強調したいのです!
それは我々の自我性というものの何たるかを知らせるものです。それは限界あるものであり、その限界の告知の無い場合、我々の意識は飽くこと、上限を知らない上昇、拡張、増進へと駆り立てられて行きます。全く現代文明というものが映し出している通りです。
ひたすら高い次元、光眩い、思い描いた理想ばかり向けてのあくなき自己拡張の試み…しかし、そうならないのが常の道というもの…その通りには行かない事のほうがむしろ救いとは言えまいか!…悟ろうと試みる事が、その実悟りとは程遠い道を歩まされているのではないでしょうか?
その限界ある自分というものを知らされる事無く、ダイレクトに光と一体にならんとすること、神の如くならんとすること、そこにはあまりにも強い太陽の光に焼き尽くされるような運命が待ち受けているのではないでしょうか?
こうしたことは、媒体となるハタラキ、見えざる導き、というものがおざなりにされることでそうなるのです。
この我らの主の導きによっては、自身の神の如き本来性を知らされることも…有るかも知れません。
それはしかし、自己の限界性、無の事態というものを知らされることと切り離されては無いのです。
無というのは無きことであると同時に、無限にも通じているのです。無即無限。
それは、このプロセスを欠いた神人合一というものとは、天と地程の開きが有ると言っていいでしょう。
巷に溢れる悟りに関したキラキラとした言葉の中にあって、私が自負心を込めて言える事はただ一つ。
”私は悟っちゃいない!” (んなもん、分かり切ってるってか…)
悟りとか魂の目覚めに預かるには、”欲望を捨てなければならない…”、”この世は迷いの世界だから、そうした思いから離れなければならない…”その実体など確かめられそうにない、”前世からのカルマが解消されねばならない…”とか…。
何十年もそんな事言い続けてる人を知っていますが、その人は未だにそうしようとして、そうならない、という事を自証しているのです。(笑)
”そうならないものなんだ!”と気付くことが、皮肉で無しにある種の悟りだと私は思いますが…。
この限界ある、欠陥だらけの自分が悟ったり、覚醒するものだという思いが抜けきれないようです。
まあ、人間はどうしたって自分中心に生きているもので、自分に捉われてしまうものですからね。
そして”もっともっと努力して、何かを習得して、その積み重ねの上に目差すものが開かれていくものだ”とエライ人から奨励され続けてきましたし…
神もそう促すのでしょうか?…”もっと修行に励まなければ罪は許してやらない”とか…
偉そうに言ってますが、私は修行を志すにはあまりにも、そんな気根など無かった者でしたが、ご多聞に漏れずそういう思いに捉われていました。
そういう修行もしてない、出来ない自分にもかかわらず、私の人生にあるピリオドが打たれることになりました。そして知らされました!
”何も分かっちゃいなかった!、何も出来やしなかった!、そもそも生きていたのか、死んでいたのか!”
思いを超えたもの、現臨が切り込んでくる…それは”何もかもが思われた通りのものでは無かった¡”という事が根底から示されるという事です。
これは、そうしよう、そうなろう、ということで無しに、”そうなってしまう”ということなのです!
つまり、あなたに出来る事は何も無い…何かをしなけりゃならない、というものは無いのです。
(もっとも、あなたは何かを始めるかも分かりません。ただあなたはそうせざるを得ないから、そうするまでです。惹きつけてやまないものがそうさせるのです。やはり”ねばならぬもの”は無いのです)
悟りとか覚醒というと、どうしても光明に包まれることと結び付けられますが、私は何度でも言いたい、それは真っ暗闇に包まれることと一つのものなのだ、と…。あたかも巨大な積乱雲の上部と底部で、眩いばかりの白と光を覆い尽くさんばかり黒のコントラストを表しながらも一つのものであるように…この暗闇の中ですべての機能を失い、自らの無知、無能を”悟らされ”ます。あなたの思われた世界はいったん終わったようになるのです。(それで消えるのかどうかは知らないですが…)
私は光明に預かるような事よりも、むしろこの暗黒の福音のことを強調したいのです!
それは我々の自我性というものの何たるかを知らせるものです。それは限界あるものであり、その限界の告知の無い場合、我々の意識は飽くこと、上限を知らない上昇、拡張、増進へと駆り立てられて行きます。全く現代文明というものが映し出している通りです。
ひたすら高い次元、光眩い、思い描いた理想ばかり向けてのあくなき自己拡張の試み…しかし、そうならないのが常の道というもの…その通りには行かない事のほうがむしろ救いとは言えまいか!…悟ろうと試みる事が、その実悟りとは程遠い道を歩まされているのではないでしょうか?
その限界ある自分というものを知らされる事無く、ダイレクトに光と一体にならんとすること、神の如くならんとすること、そこにはあまりにも強い太陽の光に焼き尽くされるような運命が待ち受けているのではないでしょうか?
こうしたことは、媒体となるハタラキ、見えざる導き、というものがおざなりにされることでそうなるのです。
この我らの主の導きによっては、自身の神の如き本来性を知らされることも…有るかも知れません。
それはしかし、自己の限界性、無の事態というものを知らされることと切り離されては無いのです。
無というのは無きことであると同時に、無限にも通じているのです。無即無限。
それは、このプロセスを欠いた神人合一というものとは、天と地程の開きが有ると言っていいでしょう。
巷に溢れる悟りに関したキラキラとした言葉の中にあって、私が自負心を込めて言える事はただ一つ。
”私は悟っちゃいない!” (んなもん、分かり切ってるってか…)